中村彰憲のゲーム産業研究ノート グローバル編

立命館大学映像学部 中村彰憲教授による、その見識と取材などを元に、海外ゲーム情報を中心としたブログ連載!

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【ブログ】往年の「スーパーマリオ」メディアミックス回顧録:マリオコミック作家、本山一城氏自らが語るコミックボンボン版マンガシリーズ制作秘話

2023-06-21 15:00:00

 2023年5月31日の当ブログで映画『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』のヒットに関連して、「スーパーマリオ」ユニバースのメディアミックス展開について分析をしたが、今回はその番外編と呼べるものだ。

 ブログでは初期のメディアミックス展開においてコミカライズが重要な役割を果たしたことについてお伝えしたが、実はその取材の過程で、当時のコミカライズによるメディアミックスに大きな役割を果たした漫画家、本山一城氏本人と知り合う機会を経た。そこで、インタビューをお願いしたところ快く応じてくれたのだ。今回は、その本山氏視点による当時のコミカライズ作品制作秘話をお届けすることにしたいと思う。

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▲本山氏はオンラインでお話を聞かせてくれた

マリオコミックのフロンティアとして10年の長期連載

 5月のブログでは、「スーパーマリオ」コミカライズ作品の漫画家代表格として、小学館「コロコロコミック」に『スーパーマリオくん』の長期連載が現在も進行中の沢田ユキオ氏についてメインで言及したが、その沢田氏と「スーパーマリオ」コミック作家として双璧をなすのが、本山氏だ。

 前回のメディアミックスの記事でも少し触れたが、沢田氏は、講談社の月刊コミック誌「コミックボンボン」1988年12月号誌上でコミック『スーパーマリオブラザーズ3』を発表した漫画家で、以降「コミックボンボン」本誌および関連誌で『スーパーマリオブラザーズ3』から始まるコミック「スーパーマリオシリーズ」を10年にわたり連載していた。“攻略まんが”と銘打って、常にその時々にリリースされるスーパーマリオ新作と連動してコミックのタイトルも変更し、最初の作品『スーパーマリオブラザーズ3』を皮切りに、『スーパーマリオランド』、『ドクターマリオ』、『スーパーマリオカート』と続き、最終的には1998年9月号の『スーパーマリオ64』まで連載は続いた。先の沢田氏の『スーパーマリオくん』が連載を開始したのが「別冊コロコロコミック」1990年11月号であり、まさにふたりは90年代の大半を、スーパーマリオをテーマにした漫画作品を通じて、しのぎを削っていたわけだ。

 そんな本山氏が、当時を振り返りながら語ってくれた。

少年誌青春ラブコメ開拓の連載デビューからマリオ連載決定まで

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▲徳間書店「わんぱっくコミック」で展開されていたスーパーマリオコミックのひとつ。こうしたムーブメントが「コミックボンボン」編集部を動かした



 本山氏は、もともと劇画思考の漫画家だった。最初にアシスタントとして修業を積んだのは『JIN(仁)』で知られる村上もとか氏のもとだ。その後、当時、少年誌ではほとんどなかったラブコメに着目し、青春ラブコメ学園コメディの読み切り作品を「少年マガジン」で発表した後、同じくラブコメディの『どっきり!!エンジェル』を「週刊少年マガジン」で連載開始する。読者には好評で人気ランキングでは上位だったものの、当時硬派だった編集部と意見が合わず、作品は短命で終わったという。

 『どっきり!!エンジェル』の連載終了後も、本山氏は複数の出版社を巡りながらいくつかの作品を執筆していたが、そんな中で出会ったのが漫画家、小説家などのマネジメントを行うダイナミック・グループ傘下の編集プロダクション、不知火プロであった。同社は、当時正社員の編集者が3人しか割り当てられていなかった「コミックボンボン」での漫画編集業務を一部請け負っており、当時企画が進んでいた風薫氏原作による学園コメディ『ジュン』の作画家として本山氏に白羽の矢を立てた。そして1984年から始まった『ジュン』の短期連載を経て、その不知火プロから提案を受けたのが『スーパーマリオブラザーズ3』のコミカライズだったのだと言う。

 企画にあたっては、当時活発だった漫画家同士の交流から、徳間書店の「わんぱっくコミック」で連載されていたスーパーマリオのコミックが大きな反響を呼んでいたという情報を得ており、そのことを編集部に伝えたことが後押しとなり、連載が決定した。

自腹でゲームを購入し、漫画のマリオ世界を築き上げる

 こうしてスタートした連載だが、“攻略まんが”として制作を進めるにあたっては、当時、講談社でゲームの攻略本を出版していた流れに乗って、その編集部にゲームプレイビデオを提供してもらい、そこで得た情報を元に物語や世界観を作っていったという。

「それも全部公開というわけではないのです。何月まではここまでというゲームメーカー(任天堂)からの指導があり、ストーリーもそれに合わせて作ったのです」と、本山氏は当時を振り返る。

 ただ、さすがにそれらのビデオでも最終ステージなどは入っていなかった。そこで実際にプレイしてみたものの、最終ステージなどの超難度の高いアクションは、さすがにクリアできないときもあったという。

「仕方がないので、接点があった読者ファンに実際にプレイしてもらい、それを観察してストーリーを考えました」(本山氏)。

 しかも、ゲームはしばらく本山氏自身が購入していたという。

「最終的には編集部側から資料として提供してくれるようになりましたけれどね」(同氏)

ゲーム発売と連動し、ときにはオリジナル要素も

 漫画制作では、まず、漫画家・作画家が“ネーム”と呼ばれるラフな下書き原稿でコマ割りや構図、人物の表情などを描き、確認する作業を行うが、本山氏の「スーパーマリオシリーズ」では、編集部による通常のネーム確認の後、ラフな複数線を消してクリーンナップしたネームを任天堂側にファックス送付しチェックを受けたと言う。

「漫画の人たちではないから通常のネームだと線がごちゃごちゃして理解することができないでしょう」と本山氏は、監修の任天堂向けに手間をかけてネームを清書した理由を語った。

 当時、任天堂からの大きな修正依頼はほとんどなかったという。10年ほどにおよぶ連載期間の中で、唯一、監修が入ったのがドンキーコングの頭のねじれ毛で、これについては何度も修正がかかったという。

 一方、講談社側の編集方針には、いくつかの制約があった。ひとつはキノコ型の爆発描写。当時のアニメなどでは、流行っていた表現だったが、核爆発を想起させることからNGだったのだという。これに加え、同じく当時のギャグ漫画でおなじみだった口から泡をふくシーンもチェックが入った。こちらは特定の病気を揶揄する表現になりえるということで不可だった。

 さらに、指の描写はたとえ動物タイプのキャラクターでも5本指を描くという不文律が存在したが、これには本山氏、密かな抵抗をしたという。

「『スーパーマリオ64』でクッパははっきりと4本指で描かれていたのです。だからこっそりと変えました!」と本山氏。

 この他、当初のデザインから、連載が進む中でデザインを変えていったあるエピソードを教えてくれた。それがルイージだった。ルイージはマリオの兄弟という設定であったことや、ゲーム上での両キャラクターのデザインが類似していたことから、『スーパーマリオワールド』の連載初期まではルイージとマリオの帽子がMとLとなっている以外は、そっくりに描いていたのだという。それに対し、とあるファンイベントであるファンが、(マリオと比べて)ルイージは痩せているのだと教えてくれた。それをきっかけに、漫画版のルイージも同様の設定を加えていったとのことだ。

 なお、物語については当初かなり寛容に判断してもらっていたようだ。ゲーム発売日に近い連載では、ゲームステージをクリアするストーリーをフィーチャーさせるというお決まりごとはあったが、販売後も継続的に連載を続けていくためには、より多様な物語を展開する必要があったため、そこについては柔軟に対応してもらったようだ。本山氏が、刑事モノやウルトラマンのパロディをアイデアとして提案し、承認してもらったという思い出も語ってくれた。

 連載中盤以降は、その寛容な方針も徐々に厳しくなり、漫画オリジナルのキャラクターを出さないようにという指示が入るようになっていったという。『スーパーマリオブラザーズ』の本編としての新作が発売されない端境期には、『スーパーマリオワールド ヨッシーのたまご』、『スーパーマリオ ヨッシーのロードハンティング』といった任天堂のマリオ関連ゲームタイトルに連動させる形で対応し、マリオやルイージが別の任天堂ゲームの世界に入り込むという体裁で連載を継続していった。『スーパードンキーコング』が発売されたタイミングでも『スーパードンキーコング withマリオ』として、マリオを主要キャラクターとして据えた。

 このようにして『スーパーマリオ64』(1996年6月23日発売)まではシリーズ本編連動ストーリーとして、『マリオカート64』(1996年12月14日発売)、『ヨッシーストーリー』(1997年12月21日発売)まではマリオを主要キャラクターに据えた関連ゲームタイトルに連動させる方法で連載をつないできたが、1998年10月、『マリオパーティ』発売前(1998年12月8日)に連載は終了となった。

 10年近くの連載では、「コミックボンボン」本誌のみならず、増刊号でも掲載され、さらには4コマのショートギャグ漫画も執筆してきた。その結果、執筆量は月間で80ページに及び、週刊誌なみになっていた。単行本は、たびたび重版となり(増刷され、発行部数が増えること)、漫画としての夢を享受した長期連載ではあったと本山氏。ただ、90年代終盤になって「コミックボンボン」自体が読者ターゲットの年齢をあげるという方針転換を検討していた流れもあり、長期連載が終了することになったとのことだ。

「(振り返ると)やはりマリオゲームの新作が出たばかりの時期とそうでない時期では単行本の売り上げも全然違いました」と本山氏はしみじみと語ってくれた。

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▲本山氏による『スーパーマリオワールド』『スーパーマリオUSA』『スーパーマリオ64』の単行本(筆者、中村所蔵)

今、マリオを描けるなら「オールカラーで」

 最後に、本山氏に現在記録的なヒットを続ける劇場用CGアニメ『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』(6月19日には国内興行収入が120億円を突破したとの発表があった)について聞くと、本山氏は「『スーパーマリオ64』のゲーム世界そのままだった」と率直な感想を語ってくれた。ただ、本山氏がマリオコミックの連載をしていたまっただなかに、ハリウッドで制作・公開された実写版マリオ(スーパーマリオ 魔界帝国の女神)についても、新しい要素がふんだんに盛り込まれていて好きだったと語ってくれた。

 御年67歳になったという本山氏は、現在も漫画家として精力的に活動中だ。先祖が黒田官兵衛や竹中半蔵とも関係があり、歴史愛好家としても知られる本山氏の最新作は、『新家康の甲冑師岩井与左衛門』というオールカラーの歴史教養マンガ。今、改めてマリオ世界のマンガを描くとしたらとの質問には、「オールカラーをやってみたい」と嬉しそうに語った。