『死印』前日譚小説“花彦くん誕生編” 第5話 制裁(最終回)

エクスペリエンスが贈る新機軸のホラー『死印(しいん)』。同作の前日譚小説をお届けする。ついに最終回。
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エクスペリエンスから2017年6日1日発売予定のプレイステーション Vita用ソフト『死印(しいん)』。新機軸のホラーの前日譚を描く小説を、ファミ通ドットコム限定でお届けする(全15回・毎日掲載)。



“花彦くん誕生編” 第5話 制裁

 鏡の中から実体化した少年は、うつろな目で坂井を凝視していた。
 坂井は、その視線から逃れるようにみっともなく床を這いずって後ずさった。そのまま背後の壁に背中が当たった彼は、急いで立ち上がろうと躍起になったが、足が思ったように動かず、もつれて何度も転んでしまった。それでもなんとかその場から逃れようと、壁や床に全身を打ちつけながら体を起こし、少年に背を向けて走り出す。
 恐怖で麻痺してしまったのか、坂井は体の痛みなどまったく感じなかった。彼が感じていたのは――殺される、今すぐに逃げないと間違いなく死ぬ――ということだけだった。
 しかしいくら走っても、喉元に鋭利な刃物を突きつけられているような感覚は消えない。それどころか、やがて背中越しに伝わってくる不気味な気配が変質した。嫌な感覚は変わらない。それでも何かが変化したのだ。追ってくるのを諦めてくれたのか……そうであってほしいと思った坂井は、逃げる速度を少し緩めて、恐る恐る後ろを振り返った。その瞬間、何かトゲのような鋭いものが飛んできて、首の頸動脈のすぐそばをかすめた。

 驚いた坂井は、そのトゲがどこから飛んできたのかを見て愕然とした。それは少年の顔に生えている、奇怪な植物から発射されたように思えたのだ。視界の悪さと恐慌状態のせいで気づけなかったが、少年の顔面には奇妙な植物が寄生しているようだった。少年はその植物に生えているトゲを、坂井の首を狙って放ってきたのだ。
 坂井は自分の首筋に手をあてた。指先を見ると、わずかに血がついている。どうやら、首の皮一枚が切れているようだ。間一髪、首筋をかする程度で済んだが、まともに当たればとても無事ではすまないだろう。
 「く、くそ……化け物が……!」
 坂井は脇目もふらずに全力で廊下を駆けだした。死にたくない、死にたくない、死にたくない! 坂井は、頭の中で念仏のように同じ言葉を繰り返した。他のことなんかどうでもいいと思った。彼は肩で息をするようになり、疲労で棒のようになった足を鞭打ちながら、少年の手が届かない場所を目指した。
 そうして廊下の突きあたりを右に曲がったとき――。

 「――赤いの、ちょうだい?」

 坂井のすぐ目の前に、少年が立っていた。ずっと後ろにいたはずなのに、瞬間移動でもしたかのように――。
 坂井は慌てて体を反転させ、そこから逃げるために駆け出した。しかし、またしても目前に少年が現れた。坂井は、どこにも逃げ場なんてないことを悟った。どこへ逃げようとも、学校の中であれば少年に先回りされてしまう。
 完全に退路を断たれた状況に、坂井は青ざめていた。手の平どころか全身から汗が溢れだし、やがて心の奥底の方に張られていた糸がぶつっと切れるような感覚を覚えた。
 「赤いの――」
 「そんなの知るか!」
 死の宣告のように思えるその言葉をはねのけ、我を忘れて坂井は叫んだ。同時に、再び少年に背を向けて走り出す。追いかけてこようが殺意のこもったトゲが飛んでこようが、死にたくない一心で必死に駆けた。

 一心不乱に逃げていると、途中で誰かとぶつかり転びそうになった。坂井は怒気を込めて「邪魔をするな!」と思わず叫ぶ。しかし、目前に意外な人物――副校長が立っているのを見て、一瞬あっけにとられてしまった。どうやら、坂井の叫び声を聞いてやってきたらしい。副校長は、坂井のいつもと豹変した様子を怪訝に思ったのか、何かを窺うような目つきをしている。
 「あの……どうされたんですか? そろそろ会議を……」
 坂井は副校長の呑気な口調に怒りを感じ、「邪魔だ! どけ!」と乱暴に言い放った。今の坂井には本性を隠す余裕などなく、自分の命以外にはまったく関心がなかった。
 坂井がその場でもたついていると、後方から凍えた空気が這いよってきた。それとともに、得体のしれない霊気のような気配があたりに充満し始める。副校長もその気配を察知したのか、途端に表情が戸惑いで曇っていった。
 「くそ、どこまでも付きまといやがって!」再び絶望的な状況に追い込まれた坂井は、思わず口調を荒げた。
 「これは……一体……あの……校長?」副校長は、周囲に立ち込めつつある霊気を理解できず、動揺している。
 坂井は副校長の左腕を無理矢理つかみ、強引に引っ張った。わずかに驚きの声をあげ、副校長は床に転がってしまう。
 「お前、ここにいろ!」
 坂井はそう言うと、いきなり倒されてことで慌てふためいている副校長を置き去りにして、その場から駆け出した。副校長をここに残せば、自分が逃げるための時間を少しでも稼いでくれるかもしれないと思ったからだ。使えないやつがいくら死のうがかまわない。要は、自分さえ生き残ればいいのだ。
 しかし、少し走り出してから後ろを確認した坂井は愕然とした。霊気は、走る坂井に追いすがるように移動していた。さらに副校長の「どうしたんですか? 校長?」という声まで聞こえてきた。少年は、置き去りにした副校長を一顧だにしていないらしい。そのとき、ぞっとするような予感が坂井の脳裏をつらぬいた。奴の標的は、あくまでも自分だけなのだ。

 「ふざけるな! どうしてだ……なぜ私だけを追いかけてくる……!」
 少年は、坂井だけを執拗に狙っている。自分を殺すまでは誰も殺さないという魂胆なのか、自分だけに明確な殺意を抱いているのか……どちらにしても、坂井には逃げるという選択肢しかない――そう思うと、もう前だけを見て逃げ続けることしか考えられなかった。とはいえ、坂井の体力も限界寸前だった。追い付かれれば死という極限状態は、それから逃げ続ける坂井の体力と気持ちを、これ以上ないほど摩耗させていた。激しく鼓動を繰り返す心臓もすでに痛みを訴えていて、立っているのがやっとの状態である。
 坂井が疲労困憊し始めたのを見計らったように、少年は頭からトゲを放ち始めた。坂井は全力を振り絞ってそのトゲを避けた。しかし。かろうじて致命傷になるような攻撃は避けられたものの、いくつものトゲが彼の体のあちこちをかすめ、全身が血まみれとなってしまった。坂井の意識は徐々に朦朧とし始め、流血のせいからか全身が小刻みに震えだす。同時に、体が芯から凍えてきた。次第に視界もぼやけていく。みっともなく足を引きずりながら、遅々とした動きで少し進むのも精一杯となった。
 それでも坂井は足を止めなかった。何もせず無様に殺されることに比べれば、今の醜態をさらしてでも逃げる――その気持ちだけが坂井を突き動かしていた。
 「私は殺されんぞ……! お前ごときに、殺されてやるものか……! 私の命を見つめさせてやるものか!」
 息も絶え絶えといった様子だったが、坂井はどうにか職員用の非常口までたどり着いた。簡素な鉄の扉は閉じているが、鍵は開いているはずだ。そこで初めて、坂井は死の気配や身の毛がよだつ怖気の一切から、自分が解放されつつあることを感じた。アレは近くにいない……この扉から外に脱出すれば……助かる!
 坂井は、流血して震えが治まらない手を扉のノブに向けて伸ばした。あと少しで、ノブに手が届く……。

 ――その瞬間だった。
 突然に足元を何かに絡めとられ、およそ抵抗しようのない力で体が後ろへ引っ張られた。その結果、伸ばした手は無情にも空を切った。坂井は無抵抗のまま床を何度もバウンドし、扉とは反対方向に引きずられていった。
 全身を襲う激痛に苦悶の表情を浮かべながら、坂井はゆっくりと目を開けた。足元に目を向けると、無数の植物のツタが絡みついている。足を切り落とさない限り、身動きがとれない状況である。そして足元から視線を上に向けていったその先に――。

 「――じゃあ、約束の赤いのちょうだい?」

 低く響くような声がした。そこに少年が立っている。坂井の心臓は一瞬で縮み上がった。恐怖の絶頂に達した坂井の全身に、痙攣したかのような震えが襲った。それはどう足掻いても止まらない。本能が、これが最期だと告げていた。

 「――ねえ……ぼく、きれい……?」


誕生編終わり


★バックナンバー★

“花彦くん遭遇編”【1】
第1話 底なしの最悪
第2話 ナニカの気配
第3話 ニアミス
第4話 赤いのちょうだい?
第5話 赤い真実

“花彦くん遭遇編”【2】
第1話 わすれもの
第2話 暗闇に浮かぶ瞳
第3話 明滅
第4話 なくしもの
第5話 赤い幕引き

“花彦くん誕生編”
第1話 鳥籠
第2話 オワリ、そして……
第3話 赤いハジマリ
第4話 這い寄る気配