『死印』前日譚小説“花彦くん誕生編” 第5話 制裁(最終回)_01

エクスペリエンスから2017年6日1日発売予定のプレイステーション Vita用ソフト『死印(しいん)』。新機軸のホラーの前日譚を描く小説を、ファミ通ドットコム限定でお届けする(全15回・毎日掲載)。


“花彦くん遭遇編”2 第1話 わすれもの

 街頭の灯りに幾匹かの蛾が吸い寄せられ、つかず離れず、不規則な軌道を描いて舞っていた。街灯の下には電話ボックスがあり、若干緑色がかった蛍光灯の光を周囲に放っている。その淡い光はあたりに拡散し、電話ボックスの前に停まっている赤い車のシルエットをぼんやりと浮かび上がらせた。同時に、規則的な黄色い光の点滅も見える。二車線道路の路肩に停めたその車は、ハザードランプをつけていた。
 電話ボックスの中には、一人の女性が受話器を握りしめていた。白いワイシャツにグレーのパンツスタイル、上には黒のハーフコートを羽織っていた。彼女――五十嵐恵は、焦燥感に苛まれながら、受話器から聞こえてくる言葉に耳を傾けていた。
「そのセリフ、いい加減に聞き飽きたよ」
 耳に押し当てた受話器から、男の不機嫌な声が漏れていた。恵の彼氏である君嶋聡の声である。恵は、自分でも言い飽きていた『今日も仕事が残ってて……』という言葉を聡に言ってしまい、それを皮肉で返されことで、思わず頭に血が上っていた。
「何よ、イヤミ?」
 ――ああ、こんなことを言うつもりじゃないのに!
「それ以外に何があるんだよ。あのな、こっちにも仕事はあるんだぞ? お前のために時間つくるのって結構大変なんだぜ。わからないのかよ?」
「私のためって……誰がいつ頼んだのよ? だいたい私だってアンタに――」
 ――違う、違う! 私は、こんなことを言いたいんじゃない!
「あー、ヒステリーに付き合う気はないね」
 聡の声音が、怒りを滲ませていたものから、途端に素っ気ないものに変わった。続いてブツリという耳障りな音――その後には、ツー、ツーという無機質な電子音だけが、恵の神経を逆撫でするように耳元で鳴り続けた。
「……なんでよ、なんで……」
 恵は受話器を元の位置に戻し、物言わぬ電話機を見つめながら、下唇を噛んだ。そうして電話ボックスの中にいると、彼女の職場である小学校の鬱々とした日々が頭の中にぐるぐると浮かび上がってくる。
 五十嵐恵は小学校の教師だった。大学を卒業してからすぐ、もともと地元だったH市の小学校に就職し、以来五年間教鞭を取っている。別に子供が好きというわけではなかったが、せっかく四年制の大学に受かったのだからと流されるままに教員資格を取り、親の勧めもあって、そのまま小学校への就職を決めたのだ。
 しかし恵は、教師という職業が自分にはあまり向いていないと感じていた。うまく叱ることができないせいで、恵を小馬鹿にしたような態度を取る生徒たち。そんな苦悩にアドバイスもくれず、ただあざ笑うだけの同僚たち。もし教師の中にカーストが存在するなら、恵の立場は間違いなく最下層だった。そして、それを自覚しているにも関わらず、一向に状況を改善できない自分自身が、恵にとっては何よりも腹立たしかった。
「なんで……わかってくれないのかな……」
 恋人への不満が口からこぼれ落ちたのと同時、恵は上着のポケットから、小ぶりの手鏡と一枚の名刺を取り出していた。
 名刺には、『H小学校 教諭 井出達郎』と書かれていた。恵が名刺を裏返すと、そこには電話番号と思しき文字列が書き殴られている。恵は黙ってその番号を見つめ、番号を入力しようと再び受話器を手に取るが――。
「ダメ……ダメよ、もう……」
 やがてため息をつき、受話器を置いた。そして、名刺だけをポケットの中にしまい込んだ。

 恵は、聡に余計な心配をかけまいとして教師生活の悩みをひた隠しにし、自分一人でそのストレスに耐えてきた。聡には小さな虚栄心から「仕事は順調」と言ってしまい、日に日に自分を追い込んでしまっていたのだ。
 だがそんなとき、冷たい同僚たちの中で恵の置かれた状況を唯一気にかけ、親身になって相談に乗ってくれる男が現れた。恵の三年先輩にあたる教師、井出達郎である。達郎は妻子ある身であったが、そのせいか聡にはない余裕のようなものが感じられた。恵が彼女自身のことを相談している際に感情が高ぶってヒステリーを起こしても、常に包容力のある態度で彼女に接し、それを受け止めてくれた。聡との関係が順調とは言えない中、達郎の優しさは、恵にとって一時的な避難所のような存在となっていたのだ。
 そうした中、恵は達郎と一度だけ関係をもった。ちょうど聡と言い争いをしたあと、たまたま達郎と飲みに行ってしまった直後――酒に酔った勢いと、その場限りという気楽な思いつきから、自らの寂しさを埋めたいという欲求に負けてしまったのだ。しかしそれ以来、恵は自ら犯してしまった裏切り行為に対する罪悪感と、聡への想いとの間に板挟みとなり、結局はさらなる苦しみを抱えて日々を乗り越えなければならなくなってしまった。
 そういった状況の中、今日は久しぶりに聡と会えると思っていたのだ。だが、仕事はそんな都合を考慮してはくれない。だからこうして電話で誠意を見せたのに……それなのに、なぜ自分だけが一方的に責め立てられなければならないのか。行き場のない想いが胸中に広がり、恵は気持ちを落ち着けるように、ゆっくりと手鏡を開いた。
「聡……」
 それは、シンプルなデザインの手鏡だった。恵は、去年の誕生日に聡から贈られたそれを見つめながら、順調だった頃の自分たちに思いを馳せた。
「どうして、前みたいにうまく……」
 鏡に映った自分に、そう問いかける。鏡の中の顔は、ひどく疲れきっているように見えた。
 しかし鏡面の端には、そんな暗い表情とは対照的に、恵と聡が顔を並べて笑っている写真のシールが貼られていた。数ヶ月前、若者の間で流行しているらしいプリクラという機械で作ったものだ。
 シールはすでに色あせて剥がれかかっていたが、恵は辛いことや悲しいことがあるたびに、このプリクラを眺めて前向きな気持ちを思い出していた。
 ――大丈夫。まだ、戻れる。
 なんとか落ち着きを取り戻した恵は、路肩に停めた車に戻り、車内灯を点けた。明日までに採点しなければならない生徒の答案用紙を確認するためだ。今ここで採点作業をしてしまえば、聡と会う時間が作れるかも――そんな考えを抱き、乱雑な手つきでバッグの中をまさぐった。
 小一時間だけでもいい、これから聡に会えるなら、きっと素直に謝ることだってできる。私には聡しかいないと、少女のように正直な好意を伝えられる。そんな想いが、恵を突き動かしていた。
「……あれ……ちょっと……」
 しかし、恵の思惑とは裏腹に、バッグの中にあるべきはずの答案用紙が見当たらない。
「……なに、してるのよっ!」
 思わずバッグを逆さにひっくり返し、恵は怒りのままに叫んだ。なぜ、ここまで要領が悪いのか。どうしてもっとうまく立ち回れないのか。そんな自分への怒りが、恵の全身を震わせた。
「もう、なんで……」
 怒りのあとに、言い様のない悲しみが押し寄せてきた。涙が滲んでくるのを自覚した恵は、弱くて情けない自分が悔しくなり、振り払うように目元を拭った。そして、手首を返して腕時計を確認する。
 見ると、すでに日付が変わりそうな時刻となっていた。
 このままここで途方に暮れているわけにはいかない。恵は必死に頭を切り換えようと、大きく深呼吸をした。
 採点作業は、絶対に明日までに終わらせなければならない。また期日を先延ばしにするなどという愚を犯せば、同僚たちに何を言われるかわからない。一瞬、達郎のことが頭をよぎるが、あの夜以来、彼とはギクシャクとした関係となってしまっている。駄目だ……これ以上日頃のストレスが増すようなことがあれば、いよいよ耐えられなくなってしまう。
「今から急いで学校に戻れば……」
 幸い、今日は自分が校舎の戸締まりを担当した。学校の鍵は手元にある。今から学校へ向かい、大急ぎで採点を済ましてしまえば、まだ聡と話す時間は作れるはず。恵はそんな算段を、頭の中で早急に組み立てていた。
 ――いや、そもそも仕事など放りだして、今からすぐにでも聡に逢いに行ってしまおうか? そうすれば、もっと時間ができる。それとも……。
 それすら放棄して、ただただ家で眠りにつくのはどうか?
「……そんなの、ダメよ」
 恵は、最後に浮かんだ選択肢を、かぶりを振って打ち消した。すべてを放棄して逃げ出すなんて真似は、大人として考えられない行動だった。
 叱咤するように自分にそう言い聞かせ、恵はエンジンキーを回し、車を発進させた。

 学校への道すがら、恵は聡との関係を修復するために何を話すべきか、思考を巡らせていた。車のヘッドライトだけが、道路のアスファルトをぼんやりと照らし出している。
「まずは、謝るべきよね……やっぱり」
 恵は、はやる気持ちを抑えて少しだけ速度を上げた。グッとアクセルを踏む右足に力を込めたとき――ふと、あることを思い出した。
「そう、いえば……」
 恵が思い出したのは、ここ最近小学生たちの間で広まっている『深夜の学校に現れる子供の霊』の噂だった。恵自身、子供たちの会話になどほとんど興味は持たないのだが、その話だけはなんとなく耳に残っていた。
 真夜中の学校に子供の霊が現れ、質問をしてくる。その質問に間違った答えを返してしまうと、呪い殺されてしまうというものだった。
 そして、その霊の名前は――
「花彦くん……」
 その霊につけられた名前が、無意識に自分の口から漏れた瞬間、ハンドルへと伸びる恵の腕の先から徐々に、じくじくと鳥肌が立っていった。すでに車のヘッドライトは、見慣れた学校周辺の景色を照らし出している。
「……子供じゃ、あるまいし」
 一言こぼしてから、恵は再びアクセルを踏み込む。自分はもう子供ではない、いい大人だ。子供の噂話に怖じ気づいているようでは、いつまでたっても同僚の教師たちを見返すことなどできやしない。ましてや、聡にだって笑われてしまう。
「急がないと……」
 降って湧いた感情を押し込めるように、恵はアクセルを踏んで、車を交差点に進入させた。
 その時――一瞬、子供のような姿がライトに浮かび上がった。恵は反射的にブレーキを強く踏んだ。
「ひっ!」
 あたりに不快なタイヤの摩擦音が響き渡る。
 恵の運転する車は停止できず、子供のような影へと突っ込んでいった。

“花彦くん遭遇編”2第2話に続く(3月3日更新)

★バックナンバー★

“花彦くん遭遇編”【1】
第1話 底なしの最悪
第2話 ナニカの気配
第3話 ニアミス
第4話 赤いのちょうだい?
第5話 赤い真実

“花彦くん遭遇編”【2】
第2話 暗闇に浮かぶ瞳
第3話 明滅
第4話 なくしもの
第5話 赤い幕引き

“花彦くん誕生編”
第1話 鳥籠
第2話 オワリ、そして……
第3話 赤いハジマリ
第4話 這い寄る気配
第5話 制裁