『死印』前日譚小説“花彦くん遭遇編”【2】 第3話 明滅

エクスペリエンスが贈る新機軸のホラー『死印(しいん)』。前日譚小説“花彦くん遭遇編”その2をお届けする。

エクスペリエンスから2017年6日1日発売予定のプレイステーション Vita用ソフト『死印(しいん)』。新機軸のホラーの前日譚を描く小説を、ファミ通ドットコム限定でお届けする(全15回・毎日掲載)。


“花彦くん遭遇編”【2】 第3話 明滅

 金色に輝く瞳と目が合った瞬間、恵は声にならない悲鳴をあげた。刹那、全身が緊張し麻痺したような感覚に陥る――恵は必死に、強張った身体を動かそうとした。なんとか四つん這いの状態から起き上がろうと、その細腕に力を込めた。
 「痛っ!」
 だがその拍子に、机の下に後頭部を強打する。
 「はっ、はっ」
 恵の呼吸は激しく乱れ、同時に手足が震え始める。
 なにが、なにがそこに――

 「ナァー」
 ――鳴き声?
 恵の耳に、拍子抜けするような動物の鳴き声が届く。その鳴き声は切羽詰まった恵の心情とは正反対で、ひどく緊張感のないものだった。
 「……ね、猫!」
 暗闇に紛れ込んでいたなにかの正体は、一匹の黒猫だった。
 恐怖の正体が判明したことで、恵の強張っていた全身が弛緩していく。それに次いで、机にぶつけた後頭部がじんわりと熱を持ち、ひりつくように痛んだ。その熱を自覚した恵は、片手でそこをさすった。ぶつけた箇所はかすかに腫れてきており、押すようにするとより痛みが増した。
 「アンタねぇ……」
 猫の分際で、よくも――事態を把握した途端、恵の心に、自分を恐怖させた猫への怒りが沸々とわき上がってきた。ほぞを噛むような思いで、小さな黒猫を睨みつける。
 「いい? ここはね、アンタが居る場所じゃないの。ほら、出ていきなさい」
 「ナァ」
 床に置いたままだった懐中電灯を拾い上げ、机の下に我が物顔で居座る猫へと光を向ける。黒猫はむずがるように全身を震わせ、机の下から這い出てくる。そして、名残惜しそうに何度か鳴きながら、ひたひたと出入り口の方へと去っていった。
 恵は黒猫が出て行く間、執拗にその背を光で牽制し続けた。猫は身体に光線が当たるたびに、居心地悪そうに身をよじっていた。そうして嫌がらせをすることで、恵は少しでも怒りとストレスを発散しようと努めた。
 それと同時に、恵の視線は猫の背を捉えて離さなかった。懐中電灯を強く握り締めたまま、どこかすがるような目線を猫が出て行った出入り口に送り続けていた。すでに恵の無意識は、一人きりでいることの心細さに耐えられなくなっていた。
 思考を止めれば執拗に頭をもたげてくる想像から、なんとか目を背けたい一心で、恵は「ここにないってことは……やっぱりクラスの教卓かしら……」と呟いた。次に自分がとるべき行動を声に出して確認すれば、そうした不安な気持ちから逃れられると思ったのだ。そうでもしないと、このまま猫の背を追って逃げ出してしまいそうだった。
 職員室の窓は相変わらず、雨と強風で歪な音を立てている。
 恵は、手早く自分の机を整理し、もう一度職員室中を懐中電灯で確認してから、廊下へと出た。今度ばかりは、鍵をかけ忘れることはなかった。
 「もし、教室になかったら……」
 またも恵の喉が、ごくり、と鳴った。雨に濡れたせいで体温を奪われ、肌寒さすら感じているはずなのに、その手のひらはひどく汗ばんでいた。
 懐中電灯を握り直し、恵は自分の担当クラスのある二階へと急いだ。彼女はそのとき、無意識のうちに、手鏡と小箱の入った上着のポケットを、温もりを求めるようにさすっていた。

 自分が一日の大半を過ごす教室にたどり着いても、恵の全身の緊張が和らぐことはなかった。
 特に鍵などはかかっていない教室の扉を開け、職員室のときと同じように、室内中に光線を走らせて状況を確認する。
 室内には、当然ながら誰もいなかった。
 そのまま恵は、入り口から窓際の教卓を見やった。机の上には、日頃使っている筆記用具やリングファイル、身だしなみ用の卓上鏡と――そして彼女の目的である答案用紙が置かれていた。
 「あった!」
 恵は、机の上に積まれた答案用紙に懐中電灯の光を向けたまま、大股で教卓に近づいた。ようやくたどり着いた目的のものに、躊躇なく手を伸ばす。
 「もう、こいつのせいで……最悪だったわよ!」
 胸中に安堵が広がったのも束の間、続けておとずれたのは、もどかしさと激しい怒りだった。こんな紙束のせいで、散々な目に遭った。どうしてこんな思いをしてまで、私があんなふざけた子供連中の相手をしなければならないのか。そう思いながら恵は、手に持っていた答案用紙の束を、散乱するのも気にとめず、机に一度叩きつけた。
 すでに恵の心には、教師としての体面を取り繕う余裕すらなかった。さっさとこの場をあとにして、悟の胸に顔を埋めて眠りたい――そんな投げやりなまでの感情が、恵の心を支配していた。
 そう考えたとき、ふと恵は教卓の鏡に視線を移した。
 これから恋人に会うのだ。雨に濡れ、後頭部をぶつけ、髪は乱れて化粧も落ちてしまっているはず。このままではいけない。最低限の身だしなみくらいは――そんな意識が、恵の視線を鏡へと誘う。
 「……ひどい有様ね」
 机に置いた懐中電灯の光によって微かに照らし出された顔の輪郭は、数時間前に手鏡で確認した自分よりも、さらにひどくやつれていた。
 髪は水分で所々がはねたりねじれたりしており、見られたものではなかった。そのうえ、顔に施したメイクは、雨に濡れた状態で何度も目元を拭ったりしたせいか、濃紺のアイラインが溶けだしてしまっており、顔全体に黒々としたシミや跡を幾重にも作り出していた。
 目も当てられない自分自身を見て、恵はほとんど反射的に、両手を顔と髪へと伸ばしていた。これは、ほとんど女としての習性みたいなものだった。種としての習性なのだから、これから校舎から出る際にまた雨に濡れてしまうことなどは、一切関係がなかった。
 教師である前に、自分は一人の女だ。常に最低限の美しさは保っていたい――そんな感情に突き動かされた恵は、手櫛でヘアスタイルを整え、指先で頬や額を丹念にこすり、黒くくすんだ部分を揉み消していった。
 「これで少しは……」
 恵は、もう一度、教卓の鏡で顔を確認しようとした。そうして、鏡面へと視線を戻そうとする。だがその瞬間、パッ、パッと、懐中電灯が突如として明滅し始めた。
 「ちょ、ちょっと……なによ……やめてよね……」
 思わず心臓を押さえ、恵は半歩後ずさった。明滅を繰り返した懐中電灯は、間もなくして光を失ってしまった。
 数回乱暴に叩いてから、電池が入っている部分の蓋を外す。どうせ接触不良かなにかだろうと、恵は暗闇の中で電池を外し、そして強く押し込むように入れ直した。
 「ほら、ついた」
 電池を入れ直した懐中電灯は、再び弱々しく光を放ち始めた。微かな光が戻った室内で、恵は何気なくもう一度だけ鏡を覗き込んだ。
 そこには、身だしなみを整えた自分と――

 自分以外のなにかが、映り込んでいた。
 
 「ひっ!」
 その姿を認めた瞬間、恵の全身は金縛りにあったように硬直した。
 次いで、奇妙な声が響いた。

 ――僕、きれい?

 恵は混乱をきたす前の意識で、確かにそんな声を聞いた。

“花彦くん遭遇編”【2】第4話に続く(3月5日更新)

★バックナンバー★

“花彦くん遭遇編”【1】
第1話 底なしの最悪
第2話 ナニカの気配
第3話 ニアミス
第4話 赤いのちょうだい?
第5話 赤い真実

“花彦くん遭遇編”【2】
第1話 わすれもの
第2話 暗闇に浮かぶ瞳
第4話 なくしもの
第5話 赤い幕引き

“花彦くん誕生編”
第1話 鳥籠
第2話 オワリ、そして……
第3話 赤いハジマリ
第4話 這い寄る気配
第5話 制裁