『死印』前日譚小説“花彦くん遭遇編”【2】 第5話 赤い幕引き

エクスペリエンスが贈る新機軸のホラー『死印(しいん)』。前日譚小説“花彦くん遭遇編”その2をお届けする。
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エクスペリエンスから2017年6日1日発売予定のプレイステーション Vita用ソフト『死印(しいん)』。新機軸のホラーの前日譚を描く小説を、ファミ通ドットコム限定でお届けする(全15回・毎日掲載)。



“花彦くん遭遇編”【2】 第5話 赤い幕引き

 「あ、あかい、の……? なに、なんなのよそれ!」
 恵は、枯れ果てた声で必死に叫んだ。あり得ない方向に首の歪んだ花彦くんが、暗闇すべてを従えるように、じわりじわりと迫ってきている。
 「なんなの……アンタ、いったいなんなのっ!」
 気がつけばからからに乾ききっていた喉で、恵はなおも叫び続けていた。現実では考えられない目の前の状況に、駄々をこねるようにただ叫び続けることしかできなかった。

 ――赤い、の……

 あ か い の

 「な、なに……?」
 恵の叫びの残響が消えた瞬間、花彦くんからにじみ出る黒々とした気配が、さらに色濃いものへと変わる。それを恵は頭ではなく、本能で感じ取った。
 「や、やめて……やめて、ねぇ!」
 恵は、かすれた声で懇願した。
 もうこんなところには来ません、見栄を張るのもやめます、いい女ぶって他の男と寝るのももうやめます、本当です、分相応に目立たず生きていきます、ようやく自分が本当にダメな女だってわかりましたから――お願い、お願いです。今日だけは家に帰してください――そんな情けない心情が、彼女の胸中を駆け巡った。
 だが――

 ああああああ……アアアアアアアアアアァァァァッ――!

 目前にまで迫っていた花彦くんの全身が、一度ぶるりと不規則に震える。するとその直後、怒鳴り声とも泣き声ともつかない叫び声が、あたりに響き渡った。
 「いやぁ! やめてぇぇ!」
 花彦くんは、言語の体を成さない叫びをあげながら恵に迫った。恵は両手で耳を塞いだが、花彦くんの発する咆吼のような声には、それも無意味だった。
 「あぁ、あぁぁ……」
 恵は、怨念たちの呪詛を耳の穴から無理矢理流し込まれているような感覚を覚えた。そのあとすぐに、激しい吐き気が彼女を襲う。恵は耳から手を離して口元を押さえるようにしながら、壁伝いに身をよじった。そうしてなんとか立ち上がり、この場から離れようとあがく。恵の生き物としての本能が、考えるよりも先に身体を突き動かしていた。
 しかし、怒りをたぎらせた花彦くんが、そんな恵をみすみす見逃してくれるはずもなかった。

 頭蓋骨から伸びた植物の蔦が、不気味なその輪郭をうごめいたあと、ぶくり、ぶくりと泡立つように何かの液体を噴出しながら、即座に薔薇のような花を芽吹かせた。そして彼は自らの頭からそれを引き抜き、痛みなど感じていないと思われる無表情のまま、恵に向かって投げつけてきた。
 鋭く尖った花の棘が、恵の肩に突き刺さる。
 「いたっ、いや、やだぁ!」
 刺さった瞬間の痛みだけでなく、投げつけられた薔薇のような花が実体を持っていたことに、恵は絶望した。自分の見間違いや錯覚ではなく、この現実離れした存在は確かに目の前にいる――そんな事実が、痛みを伴って恵へと叩きつけられた。
 だが、痛みという現実的な感覚によって、恵の思考は一瞬だけ落ち着きを取り戻した。そのおかげで、先ほどまでの恐怖で混沌としていた精神状態から脱することに成功する。ようやくうまく力が入るようになった足腰を立たせ、急いで出口へと走った。
 一歩一歩足を出すたびに、痛みで肩がうずく。しかし立ち止まるわけにはいかなかった。
 振り向くことなく、恵は懸命に足を動かした。
 視線を巡らせて自分のいる位置を確認し、入ってきた通用口までの最短ルートを頭に思い描く。そして、一心不乱に走り続ける。
 「あ!」
 しかし、廊下の曲がり角を全速力で駆け抜けた瞬間、ガシャンという物音と共に、何かに足を取られて無様に転倒してしまった。肩をかばったせいで片手でしか受け身がとれず、肘を強打してしまう。
 物音のした方に目を凝らしてみると、掃除で使うブリキ製のバケツが転がっていた。
 「なんで……こんなところに!」
 恵は倒れたまま足を伸ばし、転がっていたバケツを蹴りつけた。バケツは再び耳障りな衝突音を立てて転がったあと、くるくるとその場で回転し、やがて止まった。
 「なんだっていうのよ……どいつも、こいつも!」
 恵はけつまずかされたバケツが、まるで生徒たちからの嫌がらせのように感じられた。逃げるな、大人なら立ち向かってみろよ――生徒たちが、せせら笑いながらそんな風に言っている気さえした。
 「人の気も……知らないで!」
 立ち上がり、バケツをもう一度だけ蹴飛ばしてから、恵は走り出した。なぜか背後からバケツの衝突音がしなかったが、そんなことを気にしている状況でもなかった。
 追ってきている――その確信が恵の足を速めた。しかし、足を踏み出すたびに肩と肘が痛み、息も上がって全身が異様に気だるくなってきた。
 「いつもいつも邪魔ばかりして……ガキども!」
 バケツにつまづいていなければ、もうとっくに通用口にたどり着いていたはずなのに。ふざけたガキ連中の答案用紙なんて、気にしなければよかった。いや、そもそもなんでガキの相手をする仕事に就いてしまったのか。そうだ、なにもかも生徒たちのせいだ。私の人生がうまくいかないのも、こんなところにいるのも、あの化け物も――。
 全部、ガキどもが悪いんだ。
 恵は、担当クラスの生徒たちを一人一人思い浮かべ、彼らのその顔を踏みにじっていく想像をしながら進んでいった。やがて、気が遠くなるような歩みを経たあと、ようやく通用口を示す非常灯が目に入った。その光は、恵にとって救いの光にも思えた。
 汗で額に前髪が張り付くことも、寒さと恐怖で流れ出た鼻水も、口から涎が垂れることすらもいとわず、恵は最後の力を振り絞って廊下を駆けた。
 通用口にたどり着いた恵は、全体重をかけて扉を押し開けようとした。しかし力んだ拍子に上着がめくれ上がり、ポケットにしまい込んでいた聡のプレゼントが床に落ちる。
 「あっ!」
 刹那、恵はそれに手を伸ばした。そのまま考える暇もなく、両手でその小箱を開く。
 「え……」
 全身から力が抜け、恵は床にべちゃりと両膝をついた。
 恵は、息を飲む。
 小箱の中には、闇の中でも一際輝く、小粒だが美しい宝石が入っていた。宝石は一目でダイヤモンドだとわかる鮮やかな光を放ち、銀色に輝くスリムなデザインの指輪にはめ込まれていた。恵は、瞬時に聡の意図したことを感じ取り、思わず口元を押さえた。
 「……これって……はは、は」
 恵の目の端から、一筋の涙がこぼれたのと同時だった――彼女の視界を、闇が埋め尽くしていく。
 「あ」
 拍子抜けした声を、恵はこぼした。
 座り込んだ彼女の顔を――うつろな目をした少年が覗き込んでいた。深く暗い洞のようなその瞳が、恵の目をまっすぐに見つめていた。
 そして、彼の口が、ゆっくりと短い言葉をつづった。


 ――赤いの、ちょうだい。


 恵の耳に、最後の言葉が届いた。
 真っ暗な廊下の隅で、ダイヤモンドの指輪だけが、空しく輝き続けていた。


次回に続く(3月8日更新)

[2017年3月6日午後6時30分]次回更新は3月8日とさせていただきます。


★バックナンバー★

“花彦くん遭遇編”【1】
第1話 底なしの最悪
第2話 ナニカの気配
第3話 ニアミス
第4話 赤いのちょうだい?
第5話 赤い真実

“花彦くん遭遇編”【2】
第1話 わすれもの
第2話 暗闇に浮かぶ瞳
第3話 明滅
第4話 なくしもの

“花彦くん誕生編”
第1話 鳥籠
第2話 オワリ、そして……
第3話 赤いハジマリ
第4話 這い寄る気配
第5話 制裁