『NG』前日譚小説 “殺人桃” 【第2話】

エクスペリエンスによる“心霊ホラー”シリーズ第2弾『NG』の前日譚小説。その“殺人桃(さつじんとう)”を全5話で紹介する。

 ジャパニーズホラーの静かな恐怖をコンセプトに、エクスペリエンスが贈る“心霊ホラー”シリーズ第2弾『NG』。プレイステーション Vita向けに2018 年9月13日に発売予定の同作の前日譚小説をお届けする。その“殺人桃(さつじんとう)”の2回目。

著者:保坂 歩

2

 爽やかな目覚めだ。
 今朝は夢を見なかったので、体調がいい。
 今日の区議会で発言する予定の内容を頭の中で反芻させながら、智子はベッドから下り、寝室を出る。
 階下のダイニングから、油が焦げる香りが漂ってくる。カチャカチャと手際よく、食器を並べる音。

「パパ、おなかへった」

 甲高い声で朝食をねだる息子を、

「もう少しだから、ママが下りてくるまで待とうね」

 優しく諭す夫の声。
 ジャーナリストとして真実を追及するときの夫は智子に似て苛烈で妥協しない人格だが、家族や身内に向かい合うときはこのように穏やかで、情が深い。
 初対面の印象は『大人』だった。
 旧弊的な価値観に囚われることもなく、自分のライフスタイルを肯定してくれた彼には、智子も心から感謝しているし、受けた精神的な影響も多大だ。
 朝食は交代で、と約束したのにいつも自ら早起きして作ってくれる夫に申し訳なく思いながら、智子はダイニングに入る。

「おはよう」

 声をかけると、夫と息子は表情を輝かせてこちらを向いた。

「おはよう、智子」

「ママ、おはよう!」

 抱きついてくる息子の体温をパジャマ越しに感じ、智子は恵まれた自分の環境を噛み締める。
 夫は柔らかく智子に微笑み、テーブルに並べられた食器に目玉焼きとカリカリのベーコンを盛りつけている。

「いつもありがとう。助かるわ」

「当然のことだよ。さあ、トーストも焼けたし、食べよう」

 夫と通過儀礼のようなやりとりを交わし、息子の頭を撫でながら智子は椅子に座る。目の前に焼き立てのトーストが並ぶ。

 ――幸せ、なんだろう。

 議員の仕事は『大変』の一言では済まされないほどに苦労が多いが、こと家庭では文句を言えば祟られてもおかしくないほどに、満たされている。
 自分が『母』として社会問題に取り組み、高圧的な男性議員達と渡り合えるのも、夫と息子あってのものだろう。
 彼らの存在が、智子が世に放つ言葉に説得力を持たせている。
 有権者の支持が女性だけのものに留まらないのも、メディアに拾われやすい夫の発言の影響が強いはずだ。

「いただきます」

 重なる儀礼の言葉を夫が発し、智子と息子も続く。

 ――完璧だった。

 夫の優しさも、息子の可愛さも、黄身の硬さも、トーストの焼きかげんも。
 
 ――なのに。

 それなのに、智子は夫と育児の方針で揉めることが、多くなってきていた。
 夫の振る舞いに、不満があるわけではない。
 いや、間違いがあるわけではない――と言ったほうが正しいかもしれない。
 事実、夫は仕事にも一生懸命で、育児にも真剣だ。

 ――真剣すぎた。

 専業主婦の人生を選んだ女性でも感じるであろうそれらの負担を、夫は非常なまでに楽しそうに、笑顔でこなす。
 まるでそれが、当然のことであるように。
 ――誰にでもできることであるように。

 智子は、苛烈で真っ直ぐな女性である。
 真実を貫き、社会の変革を本気で望んでいる。
 そこまで強い望みを持つのは、変革の準備すら達成できていないからだ。今の社会では、智子が理想だと信じる人生を生きる人間は存在できないはずなのに、夫はいとも簡単に理想を体現してしまう。
 男性でありながら。
 隣にいる人間がそのように生きることができてしまうのであれば、智子の苛烈さにはなんの意味があるのだろう。
 
 上品な所作で朝食を食べ終えた夫が、食器を洗っている。
 感謝すべきだし、実際に感謝している。
 しているのだが、言い争いは日に日に増えている。
 やれ食育の話だ、やれ読ませるべき絵本の話だ、やれ保育園の質の話だ――。
 後ろ向きな議論ではないと智子は思うし、そもそも話を吹っ掛けているのは智子だ。
 智子は健やかに正しく生きたいと願っているし、夫や息子を幸福な社会に生かしたい。だからこそ身内が相手でも妥協しない。
 そんな智子のテンションに誠実に向かい合ってくるのが夫という男性だ。
 彼だから智子は、共に家庭を営む覚悟ができた――けれども。

 ――理想の追求に、終わりがない。

 自分の疲労はそれが原因なのかもしれない、と智子はときどき思う。
 家庭の幸せに天井がなく、社会の幸福の天井にはなかなか手が届かない。
 そのギャップが、妥協の苦手な智子には辛かった。
 さっさと折れてしまえれば楽だったが、智子の上昇志向がそれを許してくれなかった。

「ごちそうさまでした!」

 遅れて朝食を食べ終えた息子は、口の周りに固まった黄味をこびりつけたまま椅子から飛び降りようとする。
 慌てた夫が皿洗いを中断し、笑いながら息子の口をティシュペーパーで拭きとる。パパくすぐったい、と嬉しそうにはしゃぐ息子。
 二人の笑顔のまなざしと目が合う。

「ふたりとも、朝から元気ね」

 家を出る時間が迫っている智子は、団欒から一歩距離を置く。
 普通に生きていくのなら、これでも充分だと満足すべきなのだろう。
 これから夫は、いつものように息子に絵本を読ませるのだろう。息子は名前に感情移入できる『桃太郎』がお気に入りのようで、鬼ヶ島で桃太郎が面白いように暴れるシーンが大好きらしい。そして息子が昼寝をしたら、夫は趣味の時代劇を流しながら、記事を書くのだろう。
 智子のバッグには、そんな夫の影響を受けながら育った息子が母の日に描いてくれた、智子の似顔絵が折り畳まれて入っている。

『おかあさん ももたろみたいに かつこいい』

『わるいひとに まけないで』

 覚えたての平仮名で書かれた、息子からのメッセージ。
 夫も息子も、智子の生き方を分かってくれているのだ。
 ありがたいことじゃないか、と自分に言い聞かせる智子に、夫はトドメを刺す。

「智子がこれから、みんなのための戦いに出かけるんだ。僕らが暗かったらいけないだろう?」

 ――なんという、良い夫だろう。

「今日も頑張ってね、ママ!」

 息子が夫の腕の中で、元気に手を振る。

 ――なんて、できた息子だろう。

 社会を逸脱するほどに完成された家庭に見送られ、智子はひとり、議会へ向かう。

 ――ああ、今日も戦わなければいけない。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 痛みを伴う耳鳴りに耐えながら、智子は宵闇の上に立っていた。
 眼下を大量の自動車と人影が高速で通りすぎる。
ざあざあと横殴りに振る豪雨のように、あるいは浮かばれぬ亡者の行進のように。
 それでいて、周囲は異様に静かである。
 自分の足で歩いてきた記憶はなく、そもそも今日の記憶が曖昧だったので、なんとかこれが夢だと認識できた。

 ――いつもの夢だ。

 この夢は、夢だと自覚できる明晰夢なのだった。
 夢だと理解できているのに操れず、現実ではないと理解できているのに、逃げ出せない。
 どこかで見たような光景のようでいて、訪れた覚えがない場所。
 自分の意識とは乖離した、自分の中にしかない領域。
 自分の夢なのに、非道く居心地が悪い、他人の家にいるような気分もいつものことだった。
 常世――死の世界というものが実在するのであれば、このような場所なのかもしれない。
 ならばここに立つ自分は何者なのだろう。智子は自分の存在を疑う。
 試そうかと思ったこともある。
 今なら飛び降りれば死ねるかもしれない。
 思ってはみるものの、実行はできないだろう。

 そしてやはり――智子は握っている。

 細く長い、しかしどっしり確かな重さと現実感を孕む、鋭利な刃を。
 ここしばらく、夫に任せきりで自分ではなかなか握っていない包丁を、薄く伸ばしたような――刀。
 智子はこの刀で、夢の中に現れる『誰か』を殺す。

 相手がまだ幼い小学生女児だったこともある。
 泣き叫ぶ女児の首に刃を当て、一気に引いた。新鮮な血が間欠泉のように吹き出した。

 見覚えのない老婆だったこともある。
 寝ぼけた老婆の腹に刃を当て、するりと押し込んだ。大腸が驚いた蛇のように飛び出した。

 容姿端麗なスーツ姿の美青年だったこともある。
 困惑する青年の背中に刃を当て、背骨に沿って切り裂いた。重要な器官を切断された青年は、血の泡を吐き出しながら蛙のように飛び跳ねた。

 毎回脈絡がなかったし、吐き気が込みあげた。これが自分の人生が反映された夢なのであれば、どうして見ず知らずの人間達を殺さなければいけないのだろう。
 さらに智子の気分を害したのは、匂いだった。
 夢とは思えないほどに、その光景には香りが溢れていた。
 女児からは、洗いたてのシャツの匂いがした。
 老婆の腹からは、彼女の夕飯だったのだろうネギ入りの納豆の匂いがした。
 青年のスーツには、強いメンソールのタバコの匂いが染みついていた。
 それらの匂いが血の匂いと混じり、生々しい異臭のシンフォニーを奏でる。
 嗅覚は人間の本能や記憶に最も強く結びついているという話を聞いたことがあるが、夢の中で強烈な匂いを嗅ぐことで、智子は自分の体に殺人体験が刻まれていくように感じた。

 歩道橋に立ち、真っ暗な通路の奧を見つめながら、智子は『相手』が現れるのを持つ。この場を去りたくとも、智子の体が動かない。
 相手を殺すことに繋がる動作以外の行動は、この『夢』が許してくれないのだ。
 げんなりしながら息を吐くと、その先からゆらりとやってくる人影が見えた。夢の内の月に照らされ、影が輪郭を帯びる。
 ヒタヒタと裸足で影は歩いてくる。
 匂いが漂ってきた。

 ――知っている匂いだわ。

 嗅覚が記憶を刺激する。遠い過去の記憶などではない。
 それは、智子の家の匂い。
 正確に言うと、リビングの匂いだった。レモングラスのフレーバーを好む夫が、自分で買ってきた芳香剤を置いたのだ。
 甘酸っぱい匂いが、日本刀を持った智子に近づいてくる。
 
 ――今まで知らない匂いしか殺してこなかったのに、どうして。

 どうしてここで、知っている匂いが。
 智子の動揺が伝わり、震える刀身に相手の姿が映った。
 歩いてくるのは、夫だった。
 仕事も順調で、家事もこなして、息子を愛し、智子を愛してくれる夫が、能面のように固まったまっ青な笑顔で、こちらを見ている。
 ゾッと背中に怖気が走った。
 あまりにも生気のない夫の姿を見て、智子は彼がもう死んでいると思った。

 ――死んだ夫が、私を殺しにきた。

 常識的な思考回路とは思えない。異常な夢だからそう考えてしまったのか、あるいは思考の下地が自分の中にあったのか。
 智子は前者だと信じたかったが、誰に問うこともできない。
 夫はすでに、あと2メートルほどのところまで迫っている。家の匂いに混じって、夫の体臭も感じる。もう何年も嗅ぐうち、そこにあるのが当たり前になった匂いだった。
 本来は智子に落ち着きを与えるはずの体臭が、今は状況の異様さを引き立てる。
なにがそんなに楽しいのか、夫の唇はさらに歪み、半月型の機械的な笑みを強調する。まばたきもせずに、アスファルトの地面をヒタヒタ踏み締めやってくる。足音の数と、距離感が一致しない。これが夢だからか、智子の感覚がおかしくなっているのか。
 底知れぬ闇を湛えた夫の瞳が、智子の心を飲みこもうと向かってくる。
 
 ――連れていかれる。

 本能的な恐怖に悲鳴をあげそうになるより先に、智子の腕が反応した。
 震える手が、指が、刀身が、スッと朧月を指した。

 ――やめて。動かないで。

 この人は違うの。
 そう自分の腕に向かって訴えるが、智子の懇願は届かない。無言の刀の重みが、智子の筋肉にのしかかってきた。
 1メートル。
 夫の鼻息が前髪をくすぐり、智子の荒い呼吸とぶつかって生温い臭気を生み出す。
 愛する夫と向かい合っているだけなのに、すっぱい吐き気が込みあげる。
 腕の筋肉に一際強い緊張が走る。
 水気のある夫の足音が、ヒタリ。

 ――お願い、止めて。

 ヒタリ、ヒタリ。

 ――許して。彼がいるから、私は強く生きられたの。

 ヒタ、ヒタリ、ヒタリヒタリ。

 ――彼は違うの。男性でも、彼だけは。

 ヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタヒタ。
 
 ――彼は生きていてもいいの!

 ヒタ。

 慟哭の叫びも虚しく、刀身が振り下ろされる。
 智子は笑顔のままの夫を肩口から縦に引き裂き、社会から失われてはならないはずの血液を浴びながら、目覚めを待った。
 
 覚醒していく意識の中で誰かがこの夢を壊してくれることを願うが、その願いを叶えてくれそうな夫を殺してしまったのも、また智子だった。

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