
ジャパニーズホラーの静かな恐怖をコンセプトに、エクスペリエンスが贈る“心霊ホラー”シリーズ第2弾『NG』。プレイステーション Vita向けに9月13日に発売予定の同作の前日譚小説をお届けする。
著者:保坂 歩
“うらしま女 誕生編”【第3話】嵐の前ぶれ ~臨月前~
ポストから郵便物もろもろをを取り出した姫子は、せり上がったお腹を抱えるようにしながら、自宅アパートの階段を、一段一段ゆっくりのぼっていた。
臨月間近になると、足下が見えづらくなるというのは本当で、特に階段は危なかった。
目線を下げると、見えるのは水平線のようなお腹のみだ。
そのため、段差につまづかないよう歩くだけでもかなりの集中力を使う。
おまけに今日は息がつまるような猛暑日だった。
全身を圧されるような暑さの中、ハァハァと二階まで上がりきると、思わずふうーっと声が漏れてしまう。
だが姫子にとって、このふくらみと幸福感は比例していた。
時おり、元気に跳ねすぎては、母を困らせる丸いふくらみ。それは赤ちゃんが順調に育っている証拠だった。
じんわりと湧きあがる奥深い喜びに、姫子は頬を緩ませながら、ゆっくりと部屋まで戻っていく。
そのまま手狭な玄関スペースで郵便物を確認していくと、封書やチラシに混じって、天使のキャラクターが描かれた小さな袋がはさまっていた。
『エンジェル産婦人科医院』の薬袋だ。
それは出退勤時に、安子がポストに入れていってくれるサプリメントの類いだった。
病院で推奨されているサプリを安子が厳選し、数日おきにこうして届けてくれるのだ。
冬に一緒に食事をして以降、二人は幾度となく、マタニティ用品などを買いに出かけ、なにかあればすぐにメールをし合うなど、仲の良い姉妹のようになっていた。
そんなこともあり、初めはサプリ代はいらないと言われていた。が、やはりそれでは申し訳ないため、病院で会った際、きちんと代金を支払うようにしている。
早速、薬袋を開けると数種類のサプリと、いつものように、手帳を破ったメモ書きが入っていた。
――姫子さんへ。
今日は葉酸とカルシウムのサプリね。
あと新しいビタミン剤も。三日ぶん入ってるから。
「新しいビタミン剤?」
姫子は初めて見る錠剤のシートを取り出す。
それはいままで見たことのない色のカプセルだった。
安子がくれたものなので、もちろんおかしなものではないはずだが。念のため、姫子は家庭用医学事典で、同じ色と形の錠剤を探してみる。
該当のカプセルはすぐに見つかった。妊娠後期に摂取をすすめられている、一般的なビタミン剤と同じもののようだ。
安心した姫子は、その場ですぐお礼のメールを打つ。
――安子さんへ。
いつもありがとうございます。
新しいビタミン剤、さっそく飲んでみますね。
そして常飲のサプリと、初めて飲むビタミン剤を、白湯でのどの奥に流しこんだ。
◇◇◇
それから三日後。
台風の接近にともない、家中がカタカタと音を立てる悪天候の日だった。
数日分の食糧は買い込んでいたものの、調味料を補充し忘れていたため、姫子は近くの小売店まで買いだしに出ようと、ドアを開けてみる。
だが。
「きゃっ!」
足下がふらつくほどの強風に煽られ、大慌てでドアノブを引っ張った。姫子は真っ先にお腹に手をあて「ごめんね」と優しく語りかける。
「すごい風でびっくりしたよね?」
こんな日に無理して出かけて、赤ちゃんに何かあっては大変だ。
「お外は危ないから、おうちでお母さんとゆっくりしてようね」
話しかけると、心なしか返事をするようにお腹の中が動く。
「ふふっ。今日も元気だね」
まだ見ぬ赤ちゃんとの会話は、二十八年間の人生で最も幸せを感じる瞬間だった。
これほどまでに自分と密着し、身も心も繋がっている命がここにいる。
この安心感は、自分の子ども以外が与えてくれることは決してない。姫子にとってお腹の子は、生涯をかけて愛し、守り、慈しんでいける絶対的な存在だった。
その後、吹きこんできた風により、神棚から落ちてしまった安産祈願の御札を元に戻していると。
部屋の隅で充電中の携帯がブルッと震えた。
グリーンに発光した液晶を見ると【クラモト ヤスコ】と表示されている。
安子からのメールだ。
――姫子さんへ。
前にあげたビタミン剤、ぜんぶ飲んだ?
「え?」
ビタミン剤は三日分だったため、今しがたちょうどシートが空になったところではあった。
急にどうしたんだろう? と思いながら、全て飲み終えていることを返信すると、間を置かず再び液晶が光った。
――よかったわ。
それじゃあ、またあとで。
「また……?」
確か今日は宿直のため、一晩中院内にいる日と言っていた気がする。
あとで、とは? と姫子は首をひねる。もしかしたら台風の影響で早めに上がることになり、追加のビタミン剤を持っていく、との意味なのかもしれない。
姫子はすぐその旨を打ってみる。
だが、安子からの返信はなかった。しばらく経っても携帯は静かなままだ。
そういえば最近、出産間際に駆け込んでくる「駆け込み妊婦」というものが多いと話していた。
母子手帳すら持ってないため、病院側として予期せぬ時間がかかってしまい、対応に困っているという。そんな事情もあり、いまは返信どころではないのだろう。
姫子は携帯と睨めっこはやめ、夕飯の支度をしようと立ちあがった。
だがそのとき。
ズキリ、と激しい痛みが下腹部に走った。
「……うっ」
いままでに感じたことのない疼きが、ズキンズキンと押し寄せてくる。
「これってまさか……」
まだ臨月ではない。だが予定日より早く陣痛がくることは、さほどめずらしいことではなかった。
姫子は大きく息を吸いこみ、下腹部への痛みを逃がすよう、出来るだけゆっくり吐き出す。
安子が教えてくれた呼吸法だった。
そして、赤ちゃんを励ますように、大丈夫、大丈夫とお腹を擦りながら、部屋の隅にある充電器まで、横這いでずるずる進んでいった。
こんなときのため、緊急で来てくれるタクシー会社は、妊娠がわかった日からアドレス帳に登録済みだ。
だがこの数ヶ月間。
姫子には、呪文のように言われ続けている言葉があった。
耳に残っている安子の声だ。
いいわね? 絶対よ? 安子は会うたび同じフレーズを繰り返していた。
メールの返信がなかったことは気がかりだ。
だが姫子はタクシー会社ではなく、まず初めに、姉のように慕っている安子に電話をかけたかった。
そしてもしも出なかった際には、すぐにタクシーを呼ぼうとも考えていた。何よりも大事なのはお腹の子の命だからだ。
だが。
一コールも鳴らないうちに「どうしたの?」と、安子の声が響いた。
「あっ……安子さん」
これほど早く出るとは思っていなかったため、姫子は焦りながら、陣痛らしき痛みがあることを話す。
『あら、そう。思ったより早かったのね』
早かったとは、臨月前に来た陣痛を指しているのだと思った。しかし。
『計算違いだわ。夜中に来ると思ってたのに』
「……え?」
「まあいいわ。いま家よね? すぐそっち行くから、そのまま待っててちょうだい」
◇◇◇
外は嵐だというのに、時計が進む音ばかりが大きく聞こえる。
安子と話してから五時間以上が経過していた。
羊水の中がぐるぐる回り、下腹部を鷲掴みにされているような痛みが、等間隔でやってくる。
意識が朦朧とする中、姫子は必死で携帯を握り、何度目かの電話を安子にかけていた。
だが、コール後すぐ留守番電話に回されてしまう。
そして直後、何故かメールが届くのだ。
――本格的な陣痛はまだだから。
いまはじっとしてて。まずは深呼吸よ。
――前に教えたヨガのポーズあるでしょ?
股関節をやわらかくしとくと、お産が早く終わりやすいから。
ヨガ、やっておいてね。
――いい? ぜんぶ赤ちゃんのためよ!
だから、がんばってちょうだい!
最初は運転中のため通話ができないのだと思っていた。しかし、メールを打てるのはおかしい。
台風の影響で、交通網が麻痺しているのかもしれない。
だがそれでも、病院から姫子のアパートまで、回り道をしても一時間はかからない距離だ。
先ほど「計算違いだわ」とこぼした安子の言葉も気になる。
どうして? 何があったの安子さん?
もどかしいような、疑わしいような……。処理できない感情がこみあげ、姫子は逃げこむようにクッションへ顔をうずめる。
しかし、そうしていても埒が明かない。お腹の子に危険が及ぶことだけは、どうあっても避けたかった。
切り替えた姫子は、安子を待つことをやめ、登録していたタクシー会社に電話をしてみる。
だが、すぐには向かえないという。悪天候のため、すべての車両が送迎に出てしまっているというのだ。
気がつくとカーペットには、コップを倒したような染みができていた。
破水による染みだ。
それは不安をあおるようにジワジワ広がりはじめ、カーペットの色を変えていた。
破水したからといって、すぐに赤ちゃんが降りてくるわけではない。それは姫子もわかっていた。が、そのときが迫っていることは間違いなく、予想したくない未来に、目が虚ろになってくる。
しかし、ここで落胆している場合ではない。
自分の判断に、我が子の命がかかっているかもしれないのだ。
「……っ」
くっ、と痛みをこらえ、チェストの取っ手を頼りに、よろよろ立ちあがった。
そのまま上に置いてあった母子手帳に保険証、そして安産祈願の御守りなどを、バッグに詰め、勢いのまま肩に担ぐ。そして、
「歩いて行けないことはないわ……」
と、玄関まで小刻みに進んでいった。
通勤していた頃は、雨でも雪でも最寄りの駅まで自力で向かっていた。
それに身重の身といえど、毎日買い物に出かけ、普通に家事もこなしているのだ。
「そうよ……。動けないわけじゃないんだもの……」
ドアを開けると幸いなことに、先ほどより雨風がゆるやかになっている。
いましかない、と姫子はすぐレインコートを羽織る。そして雨粒が跳ねる廊下を、確かめるように、ゆっくり進んでいった。
◇◇◇
針のような雨が絶え間なく顔に差し込んでいた。
水しぶきが煙り、数メートル先は真っ白だ。
道路は浅い川のようになっており、排水溝は流れきらない雨水で溢れかえっている。
先ほどの静穏はおそらく台風の中心部が、たまたま上空を過ぎていったときなのだろう。
姫子の脳裏にわずかな後悔がよぎる。
しかし思考を振り払うよう、すぐさま首を振った。心が折れてしまっては、進めるものも進めなくなるというものだ。
せめてもの雨避けにと、レインコートに入りきらないお腹をバッグで守りながら、水路のような道をじゃぶじゃぶ進んでいく。
すると後ろから来た車が、猛スピードで姫子たちを追い越していった。
バシャン! と背中を打ち叩くような水が押し寄せ、そのまま倒れ込みそうになる。だが運良く標識のポールをつかめたため、転倒はなんとか免れた。
「……うっ、ぐ」
しかし泥水が口に入ってしまった。姫子はポールを支えに腰を折り、しばらくの間、ケホケホと噎せ返る。
同時にぬかるみに足を取られ、重い泥が足枷のようにまとわりついていた。
睫毛からは雨がしたたり、皮肉にもきれいな夢の世界のように、視界をぼやけてさせている。
こんな暴風域の中を進むのは、この身でなくても厳しく、ある意味、愚かなことだった。
しかしどのような道だろうと、もう歩き続けるしかない。自然の流れであるお産を止めることは出来ないのだ。
だが、強風にあおられようとも、姫子は押し返すように歩き続ける。
下腹部の痛みは我が子への想いが勝っているのか、いつしか感じなくなっていた。
赤ちゃんへの強い想い。もはや執念にも似た何か。
それらが、立ちはだかる邪魔を無いものとし、憑りつかれたように姫子の足を、前へ前へと進ませていた。
そのおかげもあって、姫子は思ったよりも早く病院の入り口に立っていた。
診察時間は過ぎているため、いつもは開いているガラスの戸は施錠されている。
ゼェゼェ……、と水から這い上がった直後のような息で、べちゃりと入り口に貼りつき、出せるだけの力でガラス戸を叩いた。
「開けて! お願い!」
ガン! ガン! と嵐の音にかき消されないように、両手で何度も叩き続ける。
「早く! 誰か、誰かっ‼ 赤ちゃんが危ないんです‼」
やがて非常口の灯りのみだった夜間の病棟に、一筋の光が射しこんだ。
廊下のいちばん奥にあたるドアが開き、天井の蛍光灯がバチバチと点いていく。
「あ……。あぁ……」
ようやく気がついてくれた、とホッとした姫子は、両手をガラスに滑らせ、床にへたりこむ。そして再度、助けを乞うような視線を、廊下の奥へ投げた。
すると、そこにナースウェアと思しきシルエットの人物がいた。
顔はまだ見えない。だが、体型と小走りのような歩調から、すぐに誰だかわかった。
安子だ。
両肩で風を切るようにしながら、ズンズンこちらに向かってくる。その表情は目を尖らせ、歯ぎしりをしているように見える。
鬼のような形相。
もしくは怒りに満ちた般若。
瞬間的にそう思ってしまった姫子は、尻餅をつくようにガラス戸から離れる。
しかし近くまで来た安子は、いつものスマイルだった。すぐに鍵を開け、ずぶ濡れの姫子を中に引っ張りこむ。
「ああ、こんなになって。家で待ってて言ったのに」
「……、安子さん」
なぜ迎えに来てくれなかったのか?
電話は取れない状況だったのか? どうしてメールだけ頻繁に送ってきたのか?
いましがたの険しい表情。
そして、目の前にある全開の笑顔。
混乱してきた姫子は、それらすべてを口に出したくなった。だが。
「お腹の子が心配だったのはわかるけど、あなたに何かあったらどうするの? 台風の中、歩いてくるなんて、無茶もいいとこよ」
と両手をぎゅっと握られ、姫子は言葉をのみ込む。
いつもの姉のような安子だ。
「ごめんなさいね」
「――……」
「今日も駆け込み妊婦が来ちゃってねえ」
休む間もなくバタバタしていたことを、安子は身振り手振りをつけ説明している。
しかし、姫子はその奥を見ていた。
上着のポケットから、携帯のストラップがはみ出しているのだ。
また、上唇には生クリームがついており、つい先ほどまで甘いものを食べていたことがわかる。
業務が一段落した後に、休憩していたとも考えられる。
だがやはりその間に、着信履歴は確認できたはずだし、何らかの連絡も入れられたのではないか。
わざとなのか? 意図的に放置していたのか?
もしかしたら、ビタミン剤と言って渡されたあのカプセルは……。
考えたくもない疑惑が、もくもく湧きあがってくる。
同時に和らいでいた痛みが、ぶり返すように差しこみ、くうっと姫子は身を屈めた。
「……っ、う」
「ああ、子宮口が開いてきてるのね。動かなくていいわ」
そのまま座ってて、と安子は大急ぎで廊下を走っていく。
慌てさせてしまって申し訳ない。
以前の姫子なら、素直にそう思っただろう。
だが今は激しく形相を変え、ストレッチャーを押してくる安子を見ながら「演技かもしれない」との悲しい疑惑が先行していた。
◇◇◇
心臓が爆発するのではないか。
そう思うってしまうほどの動悸と、信じがたい激痛の後、分娩室に元気な産声が響いた。
「おめでとう。ああ。しっかりした男の子だ」
「ハァ、ハァ……ハァ」
赤ちゃんを取り上げた医師は、顔中に玉汗を浮かべた姫子に微笑みかける。
「予定日より早いし、どうなることかと思ったけど。坊や、問題ないからね。いやホント、急な陣痛だったのに。頑張ったね、お母さん」
医師はすぐに手袋を外し、パーテーションの裏にある処置台で、赤ちゃんを拭いている安子に声をかける。
「それじゃ倉本さん。あとはよろしく頼んだよ」
「ええ、先生。帰宅が大変なときに、引き止めちゃってすみません」
「構わないよ。ちゃんと帰れさえすれば問題ないから」
「先生、絶対に夜勤はされませんもんね」
「そうそう。老体にはきついからね。じゃ、お母さん。あとは助産婦さんのいうこと、よく聞いてね」
医師はふわっと手を振ると、そそくさと白衣を脱ぎ、分娩室を出ていってしまった。
あまりの素早い退室に、姫子は少し不安になる。
だが、赤ちゃんの元気な声は止まることなく聞こえており、今はとにかく無事出産できたことに胸を撫でおろしていた。
安子への疑念も、壮絶な痛みと微量の麻酔により、ぼんやりと頭の隅に追いやられている。
ちらりと顔を動かすと、パーテーションの向こうで元気に動く可愛い足が見えた。
「動いて……る……」
「あはは。そりゃあそうよ」
安子はガーゼを動かし、腕を蹴りあげてくる小さな足を、懸命に拭いてくれているようだった。
「ああ、それにしても本当に可愛いわねえ。こんなに可愛い子、いままで見たことないってくらいだわ」
「――……」
やはり思い違いかもしれない。いや、そうであってほしい。そのほうがこの大事な瞬間を、もっと幸せな記憶にできる。
そう願いながら、我が子が隣りに寝かされる瞬間を、姫子はひらすらじっと待っていた。
だが、赤ちゃんはなかなか横に来てくれない。
泣き声もだんだん小さくなってきているように感じた。
「あ、あの……」
心配になった姫子は痛みをこらえ、ギシリと上半身を起こす。だが。
「静かにしてちょうだい!」
との一喝に動きを止めた。
「心拍数を確認してるの! 後ろでギシギシいわれたら、聴診器の音、聞こえなくなるでしょ‼」
ハッと姫子は思いとどまり、ごめんなさい……と再び天井を見つめる。
しかし安子の手にあったのは聴診器ではない。
不穏な液体が注入された禍々しい注射器だった。