''ジャパニーズホラーの静かな恐怖をコンセプトに、エクスペリエンスが贈る“心霊ホラー”シリーズ第2弾『NG』。プレイステーション Vita向けに2018年9月13日に発売予定の同作の前日譚小説をお届けする。今回より、新エピソードの“殺人桃(さつじんとう)”。
著者:保坂 歩
1
――とある殺人者の話である。
ぬるりと生暖かい湿気を孕んだ風が、月夜のビル街を通り抜けた。
梅雨明けのじめじめとした猛暑日、ここは東京都神座区の一画。
来るべき震災被害に備え、首都機能移転計画の一貫として『西東京副都心』と銘打たれたこの区域は商業施設の建設が集中し、高度経済成長に伴い超高層ビルが乱立するビジネス街となった。
ムーンタワーはその神座区の中心街、神座駅のすぐ近くにそびえる一際巨大なビジネスビルである。
与党の大物政治家、石丸昇が会長を務めた住井建設によって建設されたこのビルは彼の政治力を喧伝するための看板として夜の神座を見下ろし、都心の更なる発展を掌中に掴もうとしていた。
だがここ数日のムーンタワーにはまるで人の気配がなく、ビル内にオフィスを持つ企業も休業状態だった。
「フロア全体がお通夜のようだった」
と、当時OLとして働いていたA子は友人に語っている。
A子はしかし、喪中のムーンタワーから人がいなくなった理由にも心当たりがあった。
――あそこには、鬼が潜んでいる。
人殺しの鬼だ。
人々は里に降りて子を食らう鬼を恐れる昔話の登場人物のように、それを恐れたのだ。
A子は実際に知っている。
そして、見たことがある。
この日、A子は深夜のオフィスフロアで残業していた。上司はまだ入社して間もないA子に面倒な書類整理を任せ、さっさと妻子の待つ自宅に帰ってしまった。
ぼやこうにも他に仕事を見つける自信もなく、淡々と仕事をこなし、日付も変わろうとしたころにようやくひと段落ついた。
さて帰ろうとオフィスを出て廊下を歩いていると、カタカタとキーボードを叩く音が聞こえてくる。
他部署のオフィスからだ。
もう誰も残っていないと思っていた。
A子は「自分以外にも仕事熱心な者がいるものだな」と感心しながら通りすぎようとしたが、さらに音が重なって聞こえてきた。
キーボードを叩く空疎な音の上に、ペタペタと、水気のある足音。
ソックスも履かずに裸足で歩かないと、このような足音はならない。夜中とはいえ仮にもオフィスで裸足になって歩く社員がいるものだろうか。
疲労から来る幻聴かとも思ったが、足音は移動しており、遠ざかったり近づいたりを繰り返す。少なくとも気のせいではない。
――オフィスの中にいる?
訝しんだA子は他部署のオフィスを覗き込んでみた。
若い社員らしき男性が、こちらに背中を向けてデスクに向かい、懸命にキーを叩いている。納期が迫っているのだろうか、鬼気迫って余裕のない様子だった。
A子がぎょっとしたのは、男性の背後に意識を向けたときだ。
女が立っていた。
多分、女だ。俯いており、顔はよく見えない。
スタイルはほっそりとして引き締まっており、スーツとスカートに身を包んでいる。美しい大人の女性だ。
だがその佇まいが異様だった。
女は片方の手に長い刀を持っていた。時代劇などでよく見る日本刀が、節電のために抑えられた照明を妖しく照り返している。
よく見れば、高級そうな調度のスーツはところどころほつれてボロボロだった。
夜のオフィスではあり得ない扮装だ。
さらにA子がゾッとしたのは、俯いていたA子が顔を上げたときだ。
――見られてはいけない。
A子は本能的な畏怖に脅え、咄嗟に近くのデスクに隠れた。
女の顔は歪つで、巨大すぎた。いや、巨大なのではない。
――女の頭部は、三つあった。
それぞれが別の形の――別の目を持ち、別の口を持つ、別の生き物の顔。
ひとつの顔は発情した猿が喚くかのように猛々しく、
ひとつの顔は空腹の犬が吠えているかのように荒々しく、
ひとつの顔は子を失い絶望した親鳥が呻くかのように痩せ細っていた。
まるで御伽話の『桃太郎』で桃太郎が連れていたお供の動物が混ざり合ったかのような、名状しがたき異様な風貌。
三つの顔に穿たれた三つの暗い眼窩が、静かに男性を見つめている。
よく見ると猿の口は、さらにもう一つ、長い黒髪の女の首を咥えていた。
女はこちらに気づかない。A子の姿など全く視界に入っておらず、ただ目の前の男性に意識を注いでいる。
室温は急激に低下している。冷凍庫の中にいるような冷気が足下から昇ってきた。
ここは私の知るムーンタワーではない、とA子は思った。
――これは夢だ。
自分は過労が呼びよせた悪夢の中にいる。何年経っても慣れないこの仕事のストレスが、見てはならない幻を見せているに違いない。
ゆらゆらと暗いオフィスの闇に溶けこみながら、女は男性の背中に近づいていく。
取り返しのつかないことが起こると予感できても、A子は男性に声をかけることができない。
煌々と輝く月に照らされた女の影が男性の影に重なろうとしたそのとき、ついに女は持っていた刀を振りかぶった。
一閃。
月夜を赤い境界が分断する。
キーを叩く音が止み、オフィスには静寂が戻ってきた。
――なにが起きたの?
息を飲み、A子は男性の首筋を見た。赤い筋が真横に走っている。その顔が、不意にこちらを向いた。
――違った。
振り向いたのではなかった。男性の首は筋に沿ってスライドし、A子のほうにごろりと落下してきたのだ。
首が床に触れる瞬間、A子は男性と目が合った。その瞳にはまだ知性が残っていて、自分を見下ろす別企業の女を怪訝そうに見返している。
刹那の中で男性は死を自覚し、絶望の表情を浮かべ――懇願するようにA子を見た。
張りつめたA子の意識はそこでぷつんと切れ、深い闇に沈んだ。
A子が目撃した女は、それから幾度もムーンタワーに現れ、男ばかりを殺した。
殺人は常に女が手にする日本刀で行われ、その傷痕はあまりにも鋭利で美しく、潔いほど一瞬で行われた。
A子をはじめとした目撃者達は、女が刀を振りかぶる姿が恐ろしいと同時に勇ましく、美しくもあったと証言した。
やがて女の忌まわしき勇姿は『桃太郎』になぞらえられ、こう呼ばれることになる。
『殺人桃<さつじんとう>』、と。
◆ ◆ ◆
軽い手応えだった。
夢にたゆたいながら、三つの頭に宿るひとつの意識で思う。
しょせん男などこんなものだ。
これで何人目だったかと数えるのも虚しいが、その身に宿った怒りは手を止められない。
女性の気配も感じたが、深追いはしなかった。
――男性は憎い。
ここで働く、生身の男が憎い。
しかし女に罪は無い。
たとえこの身が常夜のモノで、男女の区別に意味などなくとも、女は守るべき対象だった。
男性だけを手にかけながら、彼女は――殺人桃は、朧気に自分の過去を思い出す。
霧がかかったように記憶がぼやけているが、断片的に覚えている。
自分の名前は、岡山智子。
職業は神座区議会議員。
家族は夫と、幼い息子がひとり。
よく夢を見ていたような気がするが、望んで夢を見たことは一度もなかった。
何故なら、それは人殺しの夢だからだ。
――人に殺される夢、ではない。
智子はいつも、殺す側だった。
夢の中では、殺せば殺すほど周りの誰かが賞賛する声が聞こえてくる。その声が夫だったこともあるし、息子だったこともある。
あるときは自分の秘書の声で、またあるときは自分の支持者の声だった。
つまり人を殺せば――愛すべき世界が智子を承認してくれる。
智子が鉄槌を下せば、社会は智子に「よく頑張った」と言う。
その異様な状況が、智子の寝起きを最悪のものとした。
まるで何者かが智子を『人を殺せる人格を持つ人間』になるよう、誘導しているように思えた。
だから智子は、夢を自分の意識から切り離そうと心がけた。この夢を自分の中に眠る衝動や本質だと勘違いしてしまったら、それこそおかしくなってしまう。
――私が悪夢を見ているのではなく、悪夢が私を見ているのだ。
そう思えばなんとか気を病まずに済んだが、夢を見た日の仕事は、気が進まなかった。
議会の場に立つ男達が相手であれば寝不足も演技で誤魔化せるが、ごく身近な身内であれば智子の演技も見抜かれる。
その日も、智子の顔色の悪さを察した秘書が、心配そうに顔を覗き込んできた。
智子ともさほど年齢の離れていない彼女は、とても優秀で頼りになる家族のような存在なのだが、少々他人との距離を詰めすぎる傾向にあった。
今も移動中の車内で後部座席に彼女と一緒に座っているが、顔が近すぎて、鼻息が前髪にかかる。
「先生、先生。お疲れなんじゃないですか。先日も石丸議員と激しくやりあっておられたでしょう?」
「そうだけど……貴方も少し落ち着きなさい」
そう智子が告げると、ようやく彼女は自分と智子の距離に気づいて座り直した。
苦笑している運転手も、このようなやりとりが智子の日ごろの緊張を解していることを察している。
岡山智子は、議員としても女性としても『強すぎる』ことで有名だった。そのせいか、つねに敵は多い。
大学時代から気が強く、コニュニティでも中心的存在だった智子は、狭い範囲に約束された将来に満足せず、より多くの人前に立てるテレビリポーターの職を目指し見事キー局に就職した。
その後、瑞々しく力強いと評価されたリポートでお茶の間の人気を独占し、職場で出会った男性ジャーナリストと結婚。
25歳で第一子を出産し、リポーターを引退するもその後わずか二年で政治家に転進。
なによりも子どもたちが安心して暮らせる社会の実現を目指し、1980年から再燃した交通戦争に対処。若者の事故を防ぐために道路の再整備を訴え、増加の傾向にあった光化学スモッグへの対策を公約として掲げ、自分と同じ子育て世代の主婦達に支持されつつ与党から擁立されて立候補。
27歳で神座区の区議会議員として当選し、リポーター時代以上に世間の注目を浴びることとなる。
智子は同じ時代を生きる女性たちにとって、まさに英雄だったのだ。
しかし英雄とは古来から鬼子、つまり鬼の子から生まれるのも世の常である。『キャリアウーマン』などという小洒落た新語は未だ社会には馴染まず、特に政治の世界では忌避の対象だった。年端もいかない息子を持つ母が街を、国を動かすことを面白く思わない者達は少なくない。事実、智子をこきおろす政治評論家は一人や二人ではなく、一部メディアもそれを面白がるかのように煽った。
特に石丸昇は智子を、蛇蝎の如く忌み嫌った。石丸は多くのゼネコン企業を治める大物政治家で、智子の敵の中でも最大級の大物である。神座を拠点に経済を支配せんとする彼にとって、小さなことでも妥協せず女だてらにどこまでも立ち向かう智子は障害でしかなかった。
そもそも智子の時代、女性議員の数は男性議員に比べ、圧倒的に少ない。
しかし女性たちが直面する社会問題の数は多く、智子は一切手を抜かなかった。その事実もまた石丸を苛立たせたようで、彼は公然と智子を批判し、彼の賛同者もしばしば智子をなじった。
それでも智子の活動を応援し続けたのが抑圧された世の女達――静かな多数派だった。
秘書の彼女もその一人だ。
彼女も優秀なキャリアを積みながら智子の政治思想に賛同し、溢れんばかりの熱意で智子を手伝うことを望み事務所のドアを叩いてきた。
「先生はおひとりにすると、すぐに無茶をされますから」
まるで保護者のような言い種に、智子は苦笑する。あるいはこれから娘が生まれて順当に育てば、このような強気な女性に育つのかと夢想する。
――私もかつては、母親にそう言って、家事を奪ったんだっけ。
典型的な日本男子である智子の父親は、決して台所に入らなかった。それは父の悪意や横暴ではなく、当時は破る必要のない伝統だったことも今は分かる。母は未だカクシャクとして元気に過ごしており、過去を呪う素振りもない。不幸な家庭だったわけではないだろう。
だが、時代は変わった。
職は増え、国は大きくなりすぎた。今の日本には、働き手が足りない。子どもを守るための手も足りない。その結果、インフラを整えるパワーが不足する。
変化する時代に対応したいならば、まずは伝統を変えなければいけない。
女は前に出て。
男は少し、下がらなければいけない。
それを実現するためにも、
「誰かが無茶をする必要があるのよ」
智子は断言する。
――もっと強くならなければいけない。
智子は、夢のせいで寝不足がちな自分に向けて、心の中で喝を入れる。
今在る子ども達のためにも、これから生まれてくる子ども達のためにも、彼らの母親のためにも、議員としての力をつけなければ。
――そのためには、鬼と呼ばれることにも耐えよう。
人を食えなければ、凍てつく荒野のような、あの夢に食われるだろうから。