ジャパニーズホラーの静かな恐怖をコンセプトに、エクスペリエンスが贈る“心霊ホラー”シリーズ第2弾『NG』。プレイステーション Vita向けに9月13日に発売予定の同作の前日譚小説をお届けする。
著者:雨宮 ひとみ
“うらしま女 誕生編”【第1話】胎芽 ~妊娠二ヶ月め~
「――妊娠六週目ですね」
どうされますか? と産婦人科医に訊かれ、清水姫子は両目を見開いていた。私が妊娠? 本当に?
甘い囁きでも受けたかのような衝撃に、どこか一点をぼうっと見つめることしかできない。そんな姫子に、ナースウェアの女性がたずねた。
「大丈夫? 具合悪い? 清水さん?」
問いかけに顔をあげると、姫子のカルテを持ち「清水さん?」と覗きこむ肉付きのよい顔があった。
「先生、訊いてらっしゃるわよ? 出産されますかって。お腹の赤ちゃん」
◇◇◇
診察室を出た姫子はベビーピンクで統一された院内を、まるで夢の中でも行くようにふわふわと歩いていた。
「産みます、赤ちゃん」
と、先生に告げた自分の声が、毛細血管まで送りこまれ、脈々と体内を巡っている気がする。
新しい命がいま自分の中いる。この事実に体の芯が揺さぶられ、震えが止まらない。
そんな異様な昂ぶりに、姫子はむかし家族と行った祭りを思い出した。
両親と二つ上の姉。いまは亡き家族と出かけた最後の場所である。
あれは何ていうお祭りだったかしら?
まだ幼かったためか、祭りの名前が思い出せない。
しかし、おとなしいと言われていた姫子が、じっとしていられず、動き回っては叱られてしまう程、祭りの時間は楽しく、いまの昂ぶりはあの日の高揚にそっくりだった。
ああ私。ようやく、独りじゃなくなるのね。
二十五年前、姫子は一家心中という形で家族を亡くした。
車両ごと真冬の海に入水したのだ。
そこはまるで人間を閉じ込めた水槽だった。
シャボン玉のような空気をゴボゴボ吐き出しながら、水中で身をよじらせ、もがき苦しむ両親と姉。
そんな惨澹たる光景の中、姫子は一人だけ窓の外へ投げ出され、奇跡的に助かった。
その後、遠縁の親戚に引き取られた姫子は、どうすることもできない孤独を感じながら、少女期を過ごし、現在の二十八歳となった。
血の繋がりの濃い縁者が、この世のどこにもいないという不安。
常に足元が掬われているような恐怖。
それは出口のない水の中で、藻くずとなった魂がただゆらめき続けているような、とても心細い感覚だった。
だが、もうそれに怯えなくてよいのだ。
妊娠を知らされたあの瞬間から、姫子の暗がりは、清流に押し流されたかのように払拭された。
この身に宿った命により、死ぬまで続くと思っていた孤独から、ようやく解放されるときがきたのだ。
ふと顔を上げると、階段の踊り場に大きなステンドグラスがあることに気づいた。
天使の姿をした幼子を、慈しむように見つめ、胸に抱く女性。
いわゆる母子像と呼ばれるモチーフだ。
姫子は吸い寄せられるようにトントン……と階段を上がり、やわらかな透過光にそっと手を置いてみる。
そして、思い描いている数カ月先の未来と、着彩ガラスの情景を重ね、思わず涙を零した。
そのとき。
「――いいでしょう? そのステンドグラス」
と、背後から声がかかった。
突然の呼びかけにビクッと振り返ると、階段の下には、つやのある頬をニッと上げた女性が立っていた。
先ほど診察室にいたナースウェアの女性である。
「この建物ね、もともとは教会だったんですって。でね、その母子像が産婦人科にぴったりだから、そのまま残してるのよ」
話好きなのか、人懐っこいのか。女性は屈託のない笑顔を浮かべ、姫子へと近づいてくる。
「ちなみにね、“エンジェル産婦人科医院”っていうのも、そこから名付けたらしいの。院長……、あ、さっきの先生ね。よく言えば素直、悪く言うなら単純っていうのかしら? どうにも思考が真っ直ぐな人でねえ」
どう返していいのかわからない姫子だったが、とりあえず目のフチに残っていた涙を拭い、静かに笑ってみせた。
「あらやだ? あなた泣いてるの?」
女性は丸い体には見合わない機敏な動きで、姫子に駆け寄り、上衣のポケットから白い布を取り出す。
そして素早く姫子に差し出した。
「医療用のガーゼで悪いんだけど」
涙を拭いて、という意味だろう。ありがたく受け取った姫子は、残りの水分を左右交互におさえていく。
見ると、胸元のネームプレートには【助産婦・倉本安子】との印字がされていた。
雰囲気から察するに、年齢は四十過ぎ。この医院に長年勤め、勝手をよく知っているベテラン助産婦といったところだろうか。
「えっと確か、清水姫子さんだったわよね? さっきも先生の前でボーッとしてたけど、何か困ってることでもあるの?」
いえ、と姫子はすぐに首を振る。
もちろん困っていることは山積みだった。
何せシングルマザーになることが確定している身なのだ。これから妊娠、出産、子育てとなれば、仕事もどうしていいのかわからないし、里帰りできる実家も、頼れる身内もいない。
しかしこの涙は決して悲しいものではない。
妊娠の喜びによるものだ。
そう手短かに話すと、安子はまた「あら」と目を瞬かせた。
「じゃあ赤ちゃんが出来ていたことが嬉しすぎて、意識が飛んでたり、ステンドグラスを見て、泣いてたりしたわけ?」
「はい……」
素直にうなずく姫子に、安子はなぁんだと、もともとタレ気味の目じりを下げる。
「そういうことなら良かったわ。妊娠おめでとう、清水さん」
「え」
突然の言葉に姫子は口が半開きになってしまった。
「今度はどうしたの?」
「……あ、いえ、その。おめでとうって言葉、初めて聞いたというか。あ、さっき妊娠を知らされたばかりだし、それは当然なんですけど」
「あー、そうよねえ。最近はあんまり言わないのよ。ほら、妊娠が必ずしも、おめでとうじゃないときもあるでしょう? 中絶を希望する場合もあったりするから」
人それぞれの事情を考慮し、この病院でも安定期を迎えるまでは、その類いの言葉は言わないようにしているとのだった。
「だから先生、あなたにどうされますか? って訊いたのよ。産みますかって」
「そういうことだったんですね」
「ええ。でも、あなたのような人にはやっぱり言うべきよねえ。だって心から、赤ちゃんができるのを望んでたんですもの」
すると安子は、何の前触れもなく姫子の腹部に手を伸ばし、まだ突き出ていないお腹をゆっくりと撫で始めた。
一瞬ドキリとした姫子だが、おそらく職業柄による行動なのだろう。
そう受け取った姫子は、絶えず腹部をふっくらした手を、なんとなく見つめていた。
「きっとこのお腹は、赤ちゃんに選ばれたのねえ」
「選ばれた、ですか?」
「ええ、そう。あなたのように、心から妊娠を喜んでくれるお母さんのところに降りてきたかったんだと思うわ」
そう言うと安子はステンドグラスを目を向け、
「この天使の赤ちゃんみたいに」
と、再び姫子を見遣った。
「はい……、そうだといいんですが」
「そうに決まってるわよ。だからこの子に会える日まで、お母さんはなるべく笑顔で頑張っていかなくちゃね」