ジャパニーズホラーの静かな恐怖をコンセプトに、エクスペリエンスが贈る“心霊ホラー”シリーズ第2弾『NG』。プレイステーション Vita向けに9月13日に発売予定の同作の前日譚小説をお届けする。
著者:雨宮 ひとみ
“うらしま女 誕生編”【第2章】計画のはじまり ~妊娠四ヶ月め~
妊娠が判ってから二ヶ月程が過ぎ、少しだけお腹が目立ち始めた頃。
「あら姫子さん」と呼ぶいつも通りの明るい声に、姫子は長い髪を揺らし「安子さん」と振り返る。
定期検診や妊婦セミナーで、頻繁に顔を合わせていた二人は、いつの間にか互いを、下の名前で呼び合うようになっていた。
「今日、診察まで結構お待たせしちゃったでしょう?」
「あ、えっと」
本音を飲み込むクセがある姫子は、すぐさま「いえ」と首を振る。
本当は一時間以上待たされたのだが、自己主張が良しとされない環境で育ったためか、大概のことにはすぐに首を振ってしまう。
何でも控えめにやり過ごす。
もはや姫子のクセのようなものだった。
それを悟ったのか安子はくすりと笑い、いつもと同じく、迷いない足取りで近づいてきた。
「姫子さん、あなたやっぱりお人好しねえ。でも、こっちまで苦情が届いてたのよ。臨月近くの妊婦を待たすなんて、どういうことなのって」
圧倒的にスタッフの人数が足りてないのよねえ、と安子は眉間のしわを「川」の字に寄せ集めた。
分娩室の方向から進んできたことから、おそらく今しがたまで、お産の介助をしていたのだろう。
それを示すかのように、安子の手には【殺菌消毒行き】と書かれたステンレス製の容器があった。
つい先ほどまで、分娩で使用していた器具が入っているのだろうか?
フタはされているものの、どこか生々しく見えるそれを、姫子はなんとなく目で追ってしまう。
すると安子がなにか閃いたように、太い眉を「あ!」とひき上げた。
「そうだわ。ねえ姫子さん。何か食べていかない?」
「え。お昼、ですか?」
「そう。わたし、今日はこれで退勤でね。ここからちょっと行ったところに、妊婦におすすめの店があるの。もちろん車で乗せてくから」
◇◇◇
『エンジェル産婦人科医院』から程近い飲食店は、確かにお腹の大きい人や、ぺたんこ靴の人が多く見受けられた。
聞けば、地元の情報誌に「三十品目を無理なく美味しく食べられる店」と投稿されて以来、妊婦間に口コミで広がり、一躍人気店となったレストランとのことだった。
安子は姫子を気遣うように椅子を引き、ブランケットを持ってきてくれた。
そしてブランケットをかけている間に今度はメニュー表の向きを直し、見やすいようにテーブル中央に差し出してくれる。
まさにいたせりつくせり、といった言葉がぴったりの気配りに、姫子は恐縮してしまうも、「妊婦のケアは助産婦の仕事のうち」と、安子は当たり前のように笑い、おすすめの料理を指さした。
「十四週目だし、やっぱり葉酸を多く含むものがいいわよねえ」
葉酸は妊婦が摂取を推奨されている栄養素だ。
「ほら。葉酸が不足すると、赤ちゃんが無脳症になっちゃったりするから」
「はい……。先生が仰ってましたね」
「そうそう。母子手帳にも同じようなことが書いてあったでしょ? もちろんあなたのことだから、サプリとかで補ってるとは思うけど。でもやっぱり、美味しく食べられるに越したことはないから」
そう言うと安子は「枝豆のスープでいい?」「モロヘイヤ、大丈夫よね?」と一品一品、姫子の了承を得ながら、テキパキとオーダーしていった。
料理が運ばれてきてからも、食べやすいように小皿にとりわけてくれ、栄養が効率よく摂取できる食べ方などを説明してくれている。
他の妊婦よりつわりがひどく、貧血気味の姫子に、ベテラン助産婦からの個人指導は大変ありがたいものだった。
だがその後も、並々ならぬ親切は続き、安子の正面には冷めたメインディッシュが残ったままだ。
さすがに申し訳なくなってきた姫子は「すみません」と首を垂らした。
「え?」
何が? といった目で安子は姫子を見遣る。
「その。何から何まで、安子さんに頼りきってしまって」
すると安子はいつもと同じく、ニッと頬骨に丸いつやを作った。
「また姫子さんは。さっき言ったばかりでしょ? 助産婦が妊婦の体を心配するのは当然のこと。それにほら? あなたあんまり顔色良くないし。もともと貧血気味でしょ?」
「はい……」
「あとね、ちょっと心配なことがあったのよ。だから、ランチのついでに訊いてみたかったの」
それは姫子のカルテに記載された個人情報についてだった。
「ねえ姫子さん、あなた旦那さんは?」
スプーンを口元に運ぼうとしていた姫子の手が止まる。
「配偶者の欄、何も書かれてなかったわよね?」
パートナーがいる気配もないし、と安子は小首を傾げた。
「あとご両親は? 緊急時に知らせる身内とかは?」
矢継ぎ早に飛んでくる質問に、姫子は押し黙ってしまった。
「ごめんなさいね。妊婦のプライベートは詮索しないのがルールなんだけど。あまりにも空欄多いと、万が一のとき病院側も対処できないから」
現場を任されてる助産婦としては、やっぱり知っておきたいと、安子は話す。
確かにお産はいつ何が起こるかわからない。
想定外の緊急事態により、本人の意思を確認できない場合もある。
そんなとき判断をゆだねられるのは、基本的に夫か身内、または個人情報欄に書かれた人物だけなのだ。
「すみません……、そうですよね」
同意した姫子は、まずは配偶者の欄について答えることにした。
「旦那さんもパートナーもいません……」
「じゃあお腹の子の父親は? 前につきあってた人とか?」
姫子は、緊迫する体に酸素をとり込むように、深く息を吸いこむ。
そして、ここからはなるべく人には言わないで欲しい、と告げた後、重いくちびるをこじ開けた。
「この子の父親は、勤め先に営業で来ていた人なんです……。奥さんもいらっしゃいます」
安子の黒目がわずかに揺らぐ。
「それってつまり、不倫ってこと?」
少しの間の後、姫子は首をタテに振る。その様子に、安子は神妙な面持ちで頷いた。
「そうだったの。でも、子供ができたことは知らせてるんでしょ?」
「いえ……」
「え? まさか、その不倫相手……」
逃げたの? といった言葉が飛び出してきそうな口元に、姫子はすぐさま声をかぶせた。
「あの、そういうのではなくて。その人は……。二ヶ月前、事故で亡くなってしまったんです」
彼が亡くなったのは妊娠がわかる直前だった。
姫子より五つ年上のその人は、取引先の営業職で、手土産を持ってはちょくちょく顔をのぞかせるフットワークの軽い人物だった。
関係を持ったのは半年ほど前。初めから奥さんがいるのは知っていた。
その日は特に飲んでいたわけでもなく、むしろ理性的な思考が働いていたと思う。
だが、とある理由により、姫子はその人と寝ることにした。
それからたまに食事をしては、ラブホテルで事を済ませ、そそくさと帰路につく。休日を拘束することも、電話をかけることもない。
不倫と呼ぶには、随分とさっぱりしている間柄だった。だが、家庭を持つ男にはちょうど良いだろうし、姫子もそのくらいの繋がり方で不満はなかった。
その後、彼の訃報が勤務先に届いたのだ。
不慮の事故による死亡とのことだった。交通事故なのか、他の要因による事故だったのか、詳しいところまではわからない。
ただ、亡くなったという事実だけが知らされ、後任の人が挨拶にやってきた。
姫子が知りうるのはそこまでだ。
それからすぐ、妊娠を隠すように退職したため、詳細を知る機会がなかったのだ。
もちろんまだお腹が大きくなる頃ではない。
だが古い体質の企業のため、未婚のままの妊娠を受け入れてもらえる空気はなく、また「死屍に鞭打つ」ではないが、亡くなってしまった彼と、そして本当に悲しむべき奥さんに、不要な苦しみを持ちかけることは、どうあってもしたくなかったのだ。
話を聞いた安子は、まるで自分が傷ついたように眉を下げ、深いため息を漏らした。
「そう……。まだ若いのに。気の毒だったわね」
それは姫子に対してであり、亡くなった不倫相手に向けての言葉だろう。そんな安子に姫子は頭を下げる。そして流れを切り替えるように「でも」と続けた。
「彼に妊娠を告げることことは、どのみちなかったんです」
「どういうこと?」
「もともと家庭を壊す気もなかったし、彼を独占したい気持ちもなかった。もちろん、亡くなってしまったことは悲しいですし、喪失感みたいなものもあります。けど……」
「けど?」
その先は、といった表情で安子は、やや前のめりに顔を覗きこんできた。
「……あの、変な言い方になっちゃうんですけど。不倫とわかっていながら、あの人とそうなったのは……。彼と寝れば、赤ちゃんができるような気がしたからなんです」
「え?」
「……すみません。おかしいですよねそんなの。普通に話しただけで、子供ができるかどうかなんて、わかるわけないんですけど。でも会うたびにそう感じたんです。この人なら私に、子供を授けてくれるんじゃないかって」
だから既婚者と知っていながらも関係を持った。ときには、危険日を安全日と偽って伝えたこともある。
「それでも奥さんがいる人なので、そういうところはちゃんとしてましたけど。でも、赤ちゃんは来てくれたんです……。私の……お腹の中に」
それは黒髪の如何にも大人しそうな女性が、昼時の明るいレストランで話している内容とは思えない、せきららで大胆な告白だった。
◇◇◇
緩いカーブに合わせ、安子はスローモーションのようにハンドルを切っていく。
その隣、助手席の姫子は、自宅アパートまでの道のりを案内していた。
「悪いわねえ。この車、ナビ入れてなくて」
「いえ。あ、えっと。この先を右に曲がって、S丘町のほうにお願いします」
「S丘町? って確かバスの終点よね? 駅からだいぶ離れたとこに住んでるのね」
「はい……。節約のため就職してからずっと。通勤のときはいつも自転車で三十分かけて、駅まで行ってました」
雨の日はレインコートを着て、と、つけ加える姫子に安子はクスクスと笑いだす。
「見かけによらずタフねえ。でもさすがにもう乗ってないわよね?」
「妊娠がわかってからは一度も。定期健診のときもバスかタクシーにしてます」
「そうよねえ。ステンドグラスの母子像を見て、泣くほどのあなただもの」
「安子さん。そのことはもう……」
一緒に体が喜ぶようなランチを食べ、胸にしまっていた一件を話したためか、慎重な姫子にしては、ずいぶんと安子に心を開いていた。
「なんだか恥ずかしいので……」
「はいはい、わかったわ。でも姫子さん。これから大丈夫なの? 出産費用そのものは補助制度があるから何とかなるけど」
仕事も辞めてしまって、生活費はどうするのという意味だろう。
「さっき聞きそびれちゃったけど。ご両親は? 身内からの援助とかあるの?」
姫子は運転中の安子が横目で見えるようにと、わざと大きめにふるふると首を振った。
「しばらくは貯金でやっていこうと思っています……。そのあとは赤ちゃん最優先で、何か仕事をしていけたらと……」
それから姫子は、親族に頼れる人がいないこと。
二十五年前に家族を失っていること。
いままで誰にも話さなかったそれらの話を、自身でも驚くくらい、落ち着いたトーンで言葉に出していた。
入水による一家心中だったことも含めてだ。
それほど安子は、今の姫子にとって話しやすく、一緒にいて心地良い存在となっていた。
「成人まで面倒をみてくれた親戚はいます。けど自分は、うちに残っていた資産目当てに引き取られたことを、子どもの頃から知っていたので……。あの家は早々に出ました。いまではきっと私がいなくなって、厄介払いできたと思ってるはずです……」
安子はハンドルを握り、前を見据えたまま、姫子から零れ出てくる糸のような声を、じっと聞いていた。
「自分で言うと悲しくなりますけど……。父と母、あと大好きだった姉の遺影を見ながら、毎日のように考えてたんです。こういうのを天涯孤独というんだろうなって」
すると安子はブレーキを踏み、ゆっくりと車を路肩に停止させた。
そして間を置かず姫子の肩に手を添え、小さな子をなぐさめるように優しくさすり始めた。
「いろいろ大変だったのねえ。こんなに細い体で、精一杯耐えて」
「――……」
「じゃあわたしのことを、みんなの代わりだと思えばいいんじゃない?」
「え……」
「亡くなったお母さんとか、お姉さんとか」
不意の言葉に、姫子の目がパッと見開く。
「母と姉……」
「ええ。まあ性別的に、お父さんと旦那は想像するのが難しいかもしれないけど。でも、こうやって車を出すことはできるわけだし。近い役割は担えると思うのよ」
「安子さん……」
「おまけに助産婦だもの。いざというときには身内以上に、ママたちから頼られてきた存在なのよ?」
いままで千人以上のお産に立ち会ってきている。
そう安子は自慢げな笑みを浮かべると、ダッシュボード下の収納ボックスを開き、中からクリアケースを引っ張り出した。
厚みのあるそれには、出産に関する書物が多く入っており、助産婦という仕事への熱心さを窺わせるものだった。
「えーと、アレは……どこいったかしら? あー、あった」
見つけ出したのはペン付きの手帳だ。
安子は白紙と思われるページにペンを走らせ、少し乱暴に破りとった後「はいこれ」と姫子に差し出した。
「殴り書きで申し訳ないけど」
それは安子の携帯番号だった。
「何かあったら、いつでも連絡してちょうだい」
「えっ、でも」
「いいのいいの。あ、いちおう病院側には内緒ね? 大勢いる妊婦さんの中で、一人だけををえこひいきしてるみたいになっちゃうから」
そう言いながら姫子の手をほどき、グーの状態で、しっかりとメモを握らせた。
「赤ちゃんに関する心配事とか。あとマタニティ用品の買いだしとか。いつでも電話して。ほら、お腹もそろそろ本格的に目立ってくる頃だし。赤ちゃんが苦しくないように、ゆったりめのワンピース買っておかないと」
思いがけない数々の申し出に、姫子の目が思わず潤みはじめる。そんな様子に、安子はすかさず「また姫子さんは」と頬を緩ませた。
「すみません。安子さんと話してると、なんだか気が緩んでしまうみたいで」
「あらそうなの?」
嬉しいわ、と安子は再びダッシュボード下の収納ボックスに手を伸ばす。
そして中にあったハンドタオルを取り出し、いつかのように姫子の目にあてがおうとした。
だがそのとき。
――?
姫子の意識が何かに止まった。
収納ボックスの奥に、何やら光る四角いものが見えたのだ。
それは数時間前、『エンジェル産婦人科』内で目にしたものだった。
分娩室方向から進んできた安子が、手にしていたステンレス製の容器だ。
【殺菌消毒行き】と書かれたラベルも貼られていたようにも思う。
けどすぐさま、目元をハンドタオルを覆われたため、それは一瞬にして見えなくなってしまった。
また直後、バタン!
となぜか勢いよく、ボックスが閉められたことにより、やはりそれを確かめることはできなくなった。
わざわざ開けて、中を確認するのも憚られる。
見間違えだったのかもしれない。
分娩に使った器具を持ち帰るわけないし。そうしたところで一体何に使うというのか?
思い直した姫子は、一瞬見えたかもしれないそれを、すぐさま思考から追い出した。
そして運転席の安子は。
「これからはもう一人で抱え込まずにね」
と言いながら、ホクホクした顔つきでエンジンキーをひねる。
「あなたに元気な子が生まれてくる日まで、わたしも助産婦として……、ううん、あと数ヶ月、姫子さんの家族として。できる限りのことをするから。ね?」
姫子はせり上がってくるような嬉しさに、シートベルトが許す限り、深く頭を下げた。
「本当にいろいろありがとうございます、安子さん」
「いいのよ全然」
ニィッ。
安子は、姫子からは見えない角度で顔中に笑いジワを作る。そして加速する興奮と同じように、強くアクセルを踏み込んだ。
「可愛い可愛い、赤ちゃんのためですもの」