サイゲームスより配信中のiOS、Android、PC(DMM GAMES)対応ゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』で、2021年11月29日に育成ウマ娘ふたりが新たに実装された。本記事では、そのうちのひとり“★3[キセキの白星]オグリキャップ”の能力や、ゲームの元ネタとなった競走馬としてのエピソードを紹介する。

※同時に実装されたビワハヤヒデのエピソードはこちら

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『ウマ娘』のオグリキャップ

公式プロフィール

●声:高柳知葉
●誕生日:3月27日
●身長:167センチ
●体重:微増(食べ過ぎた)
●スリーサイズ:B82、W57、H82

地方から転入してきたマイペース娘。地元で連戦連勝し、期待を背負ってトレセン学園へとやってきた。
地元の期待を一身に背負い、頑張ろうと思っているが、その言動は天然全開でとぼけている。トレセン学園一の健啖家であり、一瞬で米びつも鍋も空にする。

出典:『ウマ娘』公式サイトより引用

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オグリキャップの人となり

 クールな芦毛(灰色の馬のことを指す)のウマ娘。地方(カサマツ)出身で、地元の期待を一身に背負ってトレセン学園にやってきた。コミック『ウマ娘 シンデレラグレイ』の主人公でもある。パッと見はクールで近寄りがたい雰囲気を漂わせているが、じつは純朴で素直、むしろ天然ボケな性格の持ち主でもある。

 アニメでは健啖家=大食いキャラクターとして大いにトレーナーたちを沸かせていた。ほとんどの食事シーンで登場し、チームスピカの面々などがワイワイやっている後ろでとんでもない量の大盛り飯を平らげていた。ちなみに、リアルでもその旺盛な食欲は有名で、目を離すといつの間にか道端の雑草や厩舎の寝ワラを食べてしまうような馬だったらしい。

 トレセン学園では栗東寮に所属し、同室はタマモクロス。テレビアニメSeason1の“ファン大感謝祭”で開催された、“第33回大食いグランプリ(元ネタは1988年の第33回有馬記念)”では、そのタマモクロス、スーパークリークといったライバルたちとドーナツ大食いで死闘をくり広げている。

 そのふたりだけでなく、ライバルが非常に多い。リアルでも同い年だったサクラチヨノオー、メジロアルダン、ヤエノムテキ、バンブーメモリー、スーパークリーク、さらにひとつ上のタマモクロス、イナリワンなどがそれにあたる。なお、ゴールドシチーもタマモクロス世代で、オグリともいっしょに走ったことがある。

 オグリの固有二つ名は“アイドルウマ娘”。『ウマ娘』ではおおよそアイドルらしからぬ言動が目立っているが、ハイセイコー(こちらも地方出身)に続く第2のアイドルホースとして日本中で愛されたことが元ネタとなっている。

 勝負服は、リアルのデザイン(青地・黄菱山形・赤袖)がカラーリングやアクセサリー(カチューシャなど)に反映されている。また、髪色は基本的に銀髪だが、頭頂部が黒髪になっていたり(競走馬の若いころはたてがみが黒髪だった)、前髪の中央に流星の白が入っていたりと、そのあたりの設定にもリアルへのこだわりがみられる。

 キャラクターソング『unbreakable』の楽曲名は4代父の名前が由来。

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[キセキの白星]オグリキャップの能力

 クリスマスオグリキャップの成長率は、スピード+15%、スタミナ+15%。

 固有スキル”聖夜のミラクルラン!”は、「スキルで持久力を3回以上回復すると、レース後半で勝利に向かい、呼吸を整えて力強く踏み込んでいく」という効果だ。

 レアスキルは、内弁慶の上位にあたる”内的体験”と、栄養補給の上位である”食いしん坊”を持つ。

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競走馬のオグリキャップ

オグリキャップの生い立ち

 1985年3月27日、北海道三石郡三石町(現日高郡新ひだか町)の稲葉牧場で生まれる。父はダンシングキャップ(父ネイティヴダンサー)、母はホワイトナルビー(父シルバーシャーク)。

 誕生時、右前脚が外向していたため、自力で立ち上がることがなかなかできなかった(自力で立ち上がれない仔馬は死んでしまう)。牧場スタッフが抱えて初乳を飲ませて事なきを得るのだが、その後も母ホワイトナルビーが授乳を嫌がるというトラブルが……。そんな中、健やかに成長してほしいという願いも込めて“ハツラツ”という幼名がつけられた。

 ハツラツことオグリは、道端の雑草などをバクバク食べるなどして勝手に大きくなっていく。気性はとてもおとなしく、手が掛からない馬だったようだ。また、馬は集団で行動したがる生き物ではあるが、オグリはひとりでいることが多かった。放っておくと何か食べ出してしまうところも含め、とにかくマイペースな馬だったようだ。

 それだけよく食べるオグリだったが、体重が増えすぎることはあまりなく(デビュー時からは成長分で徐々に増えていっていたが)、長期休養明けでも理想体重はキープできていた。どこかで調整していたのだろうが、何ともうらやましい話である。

 なお、脚の外向は牧場でていねいに削蹄を行い調整していった結果、自然と治っていったのだが、蹴り脚のパワーが尋常でなかったため、今度は蹄鉄がすぐすり減って使い物にならなくなるという事態に悩まされることになる。彼の蹄は、蹄鉄を何度も打ち替えたため穴だらけになっていたという。

 脚の外向を克服したり、母乳をあげたがらない母馬のもとでも健やかに育ったりというエピソードが示しているように、強靱な精神力の持ち主であった。それだけでなく柔軟性にもすぐれていて、尻尾のブラッシングを受けているときに、後ろを向いて噛みつこうとしたことも。

 笠松時代ではダート短距離で活躍し、中央では芝1600メートル~2500メートルと長めの距離でも勝利を収めているが、中央の瀬戸口勉調教師や岡部騎手、河内騎手らは本質的にはマイラーととらえていたようだ。

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オグリキャップの血統

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 父ダンシングキャップはアメリカ生まれ。イングランド、フランスで走り20戦5勝、重賞未勝利と競走馬としては大成しなかった。引退後は種牡馬となり、日本に輸出される。産駒はダート、短距離向きの馬が多く、とくに地方競馬で活躍した。

 ダンシングキャップの父ネイティヴダンサーはアメリカで22戦21勝と大活躍した元祖“芦毛の怪物”。あまりの強さに“グレイゴースト”、“グレイファントム”などと呼ばれていた。種牡馬としてレイズアネイティヴを輩出し、また娘のナタルマは大種牡馬ノーザンダンサーを産んでいる。レイズアネイティヴは大種牡馬ミスタープロスペクターの父なので、ネイティヴダンサーは、20世紀を代表する種牡馬2頭の誕生に関わっていることになる。まさに競馬史に残る超名馬である。

 一方、母ホワイトナルビーは、気性面に難はあったが高い能力を見せる馬だった。しかしケガのため4歳(現表記)で引退し繁殖牝馬となる。オグリキャップのほか、桜花賞馬オグリローマン(ヒシアマゾンと同期)など15頭もの産駒を輩出、地方中央合わせて133勝もの勝ち星を挙げる。基本的に地方競馬で走っていたため産駒の適性に不明な部分は多いが、オグリキャップやオグリローマンなど中央で走った仔の戦績から推測すると、産駒はマイルに強い適性を示していた。

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オグリキャップの現役生活(表記は現在のものに統一)

「神はいる。そう思った。」(2011年JRACM(有馬記念)より)

2歳(ジュニア級:1987年)

 オグリキャップは1987年の5月19日に地方競馬でデビューし、彼が3歳1ヵ月となるまでの8ヵ月で、12戦10勝という成績を挙げた。

 中央競馬は農林水産省が管轄する特殊法人日本中央競馬会(JRA)が主催するレースであるのに対し、地方競馬は地方自治体が主催するもの。基本的には競馬場単位で運営されている。なお、“地方”とまとめて表現され、統括団体としてNAR(地方競馬全国協会)があるが、それぞれの横の繋がりはあまりなく、運営は独自に行われている。また、地方のコースは一部を除いてダートとなっている。

 21世紀に入って、数多くの地方競馬が経営難から廃止に追い込まれているが、オグリらが活躍していた昭和期は非常に景気がよく、中央へのライバル意識も高かった。ここ数年、インターネット投票の普及もあって売上も回復傾向にあり、再び地方復権の兆しも見えてきている。

 オグリは1987年、岐阜県にある笠松競馬場(最寄り駅は名鉄笠松駅。名鉄で名古屋駅から約25分、岐阜駅から約4分)の鷲見昌勇厩舎に入厩する。

 能力試験で抜群のタイムを記録し注目を集めていたものの、デビュー戦では出遅れたうえに道中不利を受け、マーチトウショウ(『ウマ娘 シンデレラグレイ』に登場するフジマサマーチのモデルと言われている)の2着に敗れてしまう。

 なお、地方時代はこのマーチトウショウと12レース中8レースも直接対決をくり広げており、2度の敗戦はいずれも彼に喫しているなどオグリにとって最大のライバルだった。そしてマーチトウショウもオグリの1年後に中央に移籍しているが、残念ながら結果は残せなかった。

 地方での6戦目からは後に中央競馬で活躍することになる安藤勝己騎手(ダイワスカーレットなどに騎乗)が主戦となり、7戦すべてで勝利に導いている。

 笠松で突出した強さを見せていたオグリには、購入希望が後を絶たなかったという。競走馬はデビュー後も売買が可能で、地方ではとくに多かったのだ。当時中京競馬場の芝コースで開催された中京盃(当時は中京競馬場でも地方競馬が行われていた)で勝利した後は、オファーが殺到することに。

 馬主の小栗氏は中央競馬での馬主資格を有していないこともあったが、あくまで笠松競馬での活躍にこだわり、それらをすべて断っていた。悲願である東海ダービーの制覇をオグリで成し遂げたいという希望もあったようだ。しかし、才能ある馬の名誉のためにも中央競馬で走らせるべきと説得され、オグリを手放すことを決意する。

 ちなみに、名古屋競馬場で行われている東海ダービーは、地方競馬の東海地区における日本ダービー的な位置付けのレース。それだけに、笠松や名古屋を主戦場とする小栗氏にとっては何としても勝ちたいレースだったのだ。なお、1996年~2004年には“名古屋優駿”というレース名で中央・地方交流競走として開催され、2000年にはアグネスデジタルが参戦し優勝している。

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3歳(クラシック級:1988年)

 1月10日、笠松競馬場で行われたゴールドジュニアでマーチトウショウを下し8連勝を飾ったオグリは、中央競馬へと移籍する。新たな所属先は栗東の瀬戸口勉厩舎。瀬戸口師は元騎手であり、1963年にはミスマサコで桜花賞に勝利している。調教師としても、オグリキャップ、オグリローマン兄妹のほかネオユニヴァース、メイショウサムソンという2頭のクラシック2冠馬を育てるなど864勝を挙げた名伯楽だ。

 初戦は阪神芝1600メートルのGIII、ペガサスステークス(その後1992年に廃止され、現在のアーリントンカップに機能を引き継いでいる)。名手・河内洋騎手(武豊騎手の兄弟子にあたり、後にアグネスタキオン、メジロブライトらの主戦も務めている)を背に圧勝し、地方出身だからとその実力を疑問視していたファンや関係者の度肝を抜いた。

 しかし、オグリはもともと中央で走らせる予定がなかったためにクラシック登録がなされておらず、皐月賞、日本ダービー、菊花賞の3冠レースには出走することができなかった。このことが議論を巻き起こすことになる。

 議論のきっかけとなったのは毎日杯だ。重馬場での開催となったこのレースは、後方から追い込むスタイルだったオグリにとっては不利とされる条件だったが、こちらも難なくこなして勝利を収めた。このレースで4着に入ったヤエノムテキが次戦の皐月賞を制したため、JRAに対してオグリの日本ダービー、菊花賞への出走を可能にしてほしいという声が挙がったのだ。

 有名タレントの大橋巨泉氏などの発言もあり、大きな論争に発展するが特例は認められず、けっきょくオグリにクラシック制覇への道が開かれることはなかった。ただし、4年後の1992年にクラシックの追加登録制度が導入され、テイエムオペラオーらがこの制度を利用して3冠レースへの出走を果たしている。

 さて、オグリの勢いは止まらず、5月にGIII京都4歳特別を勝利。6月にはGIIニュージーランドトロフィー4歳ステークス(賞金が足りない馬や、外国産馬で出走権がなく日本ダービーに出走できなかった馬が多数参戦することから“残念ダービー”と呼ばれていた)をレースレコードで勝利。7月には当時2000メートルのGII競走だった高松宮杯で、年上の古馬を蹴散らして勝利。これらのレースを経て競馬ファンに実力が認められたオグリは、当面の目標を10月の天皇賞(秋)に設定する。

 前哨戦となる毎日王冠では、シリウスシンボリを破り当時のタイ記録である重賞6連勝を達成。上昇気流のまま、ついに初のGIを迎えることとなった。ライバルと見られていたのは、前年から7連勝中だった同じ芦毛のタマモクロス。しかしこの対決は、最後の直線で先に抜け出したタマモクロスがしのぎきって勝利し、先輩の貫禄を見せる結果となった。

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 雪辱を誓う陣営は、タマモクロスが出走を決めていたジャパンカップに急遽参戦。しかし、このレースで勝利したのはタマモクロスでもオグリキャップでもなく、伏兵の外国馬ペイザバトラーだった。タマモクロスは2着。オグリキャップは前走での反省から先行策に出るも掛かってしまい、3着に敗れた。

 なお、このレースにはウイニングチケットやエアグルーヴの父である凱旋門賞馬トニービンも出走し、5着となっている。

 そして有馬記念。ジャパンカップ後に引退が発表されたタマモクロスに、一矢報いる最後のチャンスである。オーナーのたっての希望もあり、「一度だけ」の約束で岡部幸雄騎手が騎乗することとなった。岡部騎手はタマモクロスよりも前でレースを進め、先に抜け出すと最強のライバルの追撃を2分の1馬身しのぎきる。天皇賞(秋)の立場が入れ替わったような展開となり、オグリはついに初のGIタイトルを獲得した。

1988年 有馬記念(GⅠ) | オグリキャップ | JRA公式

 地方から出てきて苦労を重ねた末のシンデレラストーリー。そんなオグリに国民も熱狂。“第2次競馬ブーム”と呼ばれるムーブメントが巻き起こることとなる。

 なお、この年のクラシック3冠は皐月賞をヤエノムテキ、日本ダービーをサクラチヨノオー、そして菊花賞はスーパークリークが制している。スーパークリークはオグリが勝った有馬記念でも3着に入線しているが、斜行でメジロデュレン(メジロマックイーンの半兄)の進路を妨害したとして失格に……。前述したように、これがテレビアニメSeason1で描かれた“第33回大食いグランプリ”の元ネタとなった。

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4歳(シニア級:1989年)

 この年のオグリは、再び馬主が交代するというアクシデントに加え、冬から春にかけてケガが重なったこともあり、1989年の前半戦を全休する。温泉療養でリフレッシュし、帰厩後はプール調教でトレーニングを積んで9月のオールカマー(当時はGIII)で復帰すると、有馬記念まで約3ヵ月間に怒濤の重賞6戦出走を行うこととなる。

 鞍上として、昨年の京都4歳特別以来のタッグ結成となる南井克己騎手を迎えたオグリは、オールカマーを楽勝すると、毎日王冠ではこの年の天皇賞(春)と宝塚記念を制したイナリワンを死闘の末に下し、威風堂々と天皇賞(秋)へ。

 後に“平成三強”と呼ばれるスーパークリーク、イナリワンと初の揃い踏みとなった天皇賞(秋)は、仕掛けどころでヤエノムテキに進路を塞がれ、外に持ち出して追い込むもスーパークリークにはわずかにおよばず2着(イナリワンは6着)。レース後、スーパークリークと鞍上の武豊騎手をにらみつけたまま動かなかったのは、南井騎手ではなくオグリキャップ自身だった(むしろ南井騎手はオグリに「行くぞ」とうながしていた)。

 敗戦を受けたオグリ陣営は、なんとマイルチャンピオンシップからジャパンカップというローテーションを組む。条件戦ならともかく、心身ともに負担の激しいGIレースで連闘というのは過去にあまり例がなく、ファンを騒然とさせていた。

 この2戦の詳細については以下の記事をご覧いただきたい。

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 2週連続で、競馬史に残る名勝負と言っていい死闘をくり広げたオグリだが、その代償は小さくなかった。有馬記念では精彩を欠き、イナリワンやスーパークリークから離された5着に沈むのだった。

 なお“平成三強”が揃い踏みして直接対決をしたのは、意外にもこの年の天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念の3レースしかない。それぞれ最先着はスーパークリーク(1着)、オグリキャップ(2着)、イナリワン(1着)となっている。

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5歳(シニア級:1990年)

 年末には引退も噂されていたオグリだったが、9月のアメリカ遠征(アーリントンミリオン)を目標に現役続行が表明される。

 しかし再び温泉療養を行ったものの回復は思わしくなく、始動は5月の安田記念までずれ込んでしまう。鞍上は、スーパークリークやバンブーメモリーに騎乗して何度もオグリと激闘をくり広げてきた武豊騎手。テレビ『笑っていいとも!』でオグリについて「何を考えているかわからないから嫌い」と冗談を言っていた武騎手だが、レースでは完璧な騎乗を見せる。2番手から抜け出し、ヤエノムテキに2馬身差をつけコースレコードで快勝。このレースで、当時の通算獲得賞金額1位を更新する。

1990年 安田記念(GⅠ) | オグリキャップ | JRA公式

 武騎手が相棒、いや“愛”棒のスーパークリークに騎乗するため、新たに岡潤一郎騎手とのタッグで迎えた宝塚記念では、先行策からいい位置につけるも、最後に伸びを欠いて2着に敗れる。

 その後、前脚、後脚と続けてケガを発症してアメリカ遠征は白紙となり、みたび温泉療養で回復を図ることに。各ウマ娘のエンディングでの温泉イベントはトレーナーたちをも癒やしてくれているが、オグリは現役時代だけで3回も温泉に行っているのだ!

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 さらに、オグリは平成のアイドルホースとして、競馬を知らない人々からも愛されていたのだが、それが仇となる。さまざまなグッズが作られ(中には無許可のものも……)、クルマの後部座席にオグリぬいぐるみを置くのが流行していたほど。『ウマ娘』のオグリにぬいぐるみ絡みのイベントが用意されていたり、SSRサポートカードのイラストでオグリが自身のぬいぐるみを持っているのは、それらのエピソードからなのだろう。

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 そんな人気者のオグリの姿を人々に届けるべく、テレビの取材が連日、終日彼を追い回していた。文字通り“24時間密着”で心安まるヒマもなく、オグリはだんだん元気をなくしていく。その衰弱ぶりは、何よりも好きだったご飯を食べなくなってしまっていたほどだったという。

 そして復帰戦の天皇賞(秋)は、現役で初めて掲示板を外す6着。そんな悪い流れは1ヵ月後のジャパンカップでも続き、なんと11着と惨敗してしまう。この2戦は大ベテランの増沢末夫騎手(岡部騎手に抜かれるまで通算最多勝利記録を保持していた)が騎乗していて、報道ではオグリとの相性の悪さも指摘されていたが、もはや誰が乗っても同じだと思えるほどオグリの状態は悪化していた。

 心ない自称競馬ファンから、JRAへ馬主にあてた脅迫状が届くなど不穏な空気が漂う中、ついに有馬記念で引退することが発表される。有馬記念の鞍上は、安田記念以来となる武豊騎手。極端なスローペースで各馬が折り合いに苦しむ中、オグリは中団から最後の直線入口で先頭に立ち、メジロライアンら後続の追撃を抑えきって劇的な勝利を挙げた。約18万人の観衆から地鳴りのように湧き上がる“オグリ”コールの中、高々と“左手”を上げる武騎手の姿は、『ウマ娘』でのレースの勝利ポーズにも反映されている。

【ウマ娘】奇跡を起こしたオグリキャップ。その強さの源泉は豪華なライバルや温泉だった!? 現役時代の逸話やゲームの元ネタを紹介
メインストーリー第1章の冒頭は、この有馬記念が元ネタ。

 なお、『ウマ娘』でシニア級の有馬記念をオグリで大差をつけずに1着になると、「オグリ1着! オグリ1着!」、「スーパーウマ娘、オグリキャップです!」という特殊実況が流れるが、これはフジテレビの大川和彦アナウンサーによる「オグリ1着! オグリ1着!」、「スーパーホースです、オグリキャップです!」という実況が元ネタとなっている。

※以下の動画はフジテレビ版ではないため、実況の内容が異なります。

1990年 有馬記念(GⅠ) | オグリキャップ | JRA公式

 このレースはそれまで一度も人気を譲ることのなかった同い年のメジロアルダンなどよりも低い、単勝4番人気(5.5倍)に留まっており「オグリは終わった」という空気がどことなく漂っていた。そんな中、タイムこそ条件戦よりも遅い平凡なものに終わったが、あまりのスローペースにも動じることなくキッチリと勝ちきったオグリ。たしかにピークは過ぎていたかもしれないが、スーパーホースのプライドがほとばしる見事な勝利だった。

 こうしてオグリは32戦22勝(地方12戦10勝)、GI4勝含む重賞12勝、総獲得賞金約9億円と、“平成の怪物”にふさわしい戦績を残して引退した。

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オグリキャップの引退後

 1991年1月、なんと京都競馬場、笠松競馬場、東京競馬場の3回にわたって引退式が行われた。笠松競馬場には、当時の笠松町の人口を上回るファンが駆け付け、入場できなかった人も含めると約4万人ほどいたという。

 引退後は優駿スタリオンステーションで種牡馬に。当初はオグリ見たさで数千人のファンが押し寄せていたという。

 しかし初年度以降は産駒の成績は振るわず、病気もあって交配頭数も激減し2007年には引退することになる。2010年に複雑骨折から予後不良となり安楽死処分に。25歳没。

 なお、1992年には笠松競馬場で“オグリキャップ記念”が創設された。1995年~2004年までは中央・地方交流競走として開催されていた。

著者近況:ギャルソン屋城

 リアル競馬&競馬ゲームファンでもある、週刊ファミ通『ウマ娘』担当ライター。誕生日:9月5日、身長:168センチ、体重:微減(見た目は変化なし)。

 累計課金額7840円。真の微課金ユーザーとは俺のこと。でもチーム競技場でCLASS5に降格し、その後昇格に失敗してしまったのはナイショだ。

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