『鬼滅の刃 ヒノカミ血風譚』が2021年10月14日(木)に、プレイステーション5、プレイステーション4、Xbox Series X|S、Xbox One、PC(Steam)といった各プラットフォームにて発売となる。
レビュー記事を書くために、筆者は開発段階のものを発売直前のタイミングでプレイさせていただいた。まずは恐れ多くも、プレイ前にはこう思っていたことを素直に伝えたい。
「いわゆる“キャラゲー”とか“原作を忠実に再現”的なゲームだろうなぁ」
本作はアニメ『鬼滅の刃』をモチーフにしたアクションアドベンチャー&対戦アクションゲームだ。
筆者は『鬼滅の刃』の物語の流れを完結まで把握しており、アニメは映画『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』も含めて何度も鑑賞済み。つまり、ストーリーは完全に頭の中に入っている。
“原作(IP)もの”と呼ばれるゲームにとって、「劇中のシーンを再現!」といったノリは非常に大切だ。一方で、話の展開を知っている以上、感動の余地がないことも珍しくない。そう高を括り、どちらかというとアクションゲームとしてのおもしろさに期待していた。
テストプレイを進めていく筆者の心境を、主人公・竈門炭治郎の作中での表情をお借りして表現すると、このようになる。
そして、最終的にはこうなった。
ゲームプレイ終了後、涙があふれた。腰の力が抜けて椅子からうまく立ち上がれない。心が平衡感覚を失っている。横で見ていた担当編集者は「おれも鬼殺隊に入ります」と言い出した。気をたしかに持て。
この体験をもたらしてくれたソロプレイモード“ヒノカミ血風譚”のプレイレビューを通じて、本作の魅力をお伝えできればと思う。なお、ゲームの基本的なシステム等については、下記の記事を参照してほしい。
『鬼滅の刃 ヒノカミ血風譚』(PS4)の購入はこちら (Amazon.co.jp) 『鬼滅の刃 ヒノカミ血風譚』(PS5)の購入はこちら (Amazon.co.jp)「俺は勝てるのか!?」ゲーム的にも没入感がハンパない
本作のメインとなるゲームモードはふたつ。ソロプレイモード“ヒノカミ血風譚”と、計18人のキャラクターを使用して対COM戦、ならびにオンラインやオフラインの対プレイヤー戦が楽しめるバーサスモード“対戦”だ。
今回、筆者はおもにソロプレイモード“ヒノカミ血風譚”をプレイした。『鬼滅の刃』アニメ版で描かれた“竈門炭治郎 立志編”から“無限列車編”までの物語を、主人公・竈門炭治郎の視点から追体験できる。
炭治郎は鬼に変えられてしまった妹の禰豆子を人間に戻すため、鬼狩りの組織“鬼殺隊”に入隊。鬼の始祖・鬼舞辻無惨の滅殺を目指して任務に奔走する――というのが物語の大筋だ。
この説明だけだと、アニメの名シーンを見せられるだけのように感じるかもしれないが、そうではない。しっかりとゲームの特性を活かして構築している点を、まずは大きな魅力として伝えたい。
ゲームライターの身としては“ゲームとしておもしろいかどうか”が感想の第一となる。そこで、ジャンルを問わず重要なのが、“テンポのよさ”と“盛り上げかた”だ。
とくに重要なのが“テンポのよさ”。アニメ原作系のゲームでは、原作のストーリーを追うために長いムービーが再生されることがある。こういった部分を冗長に感じる人は少なくないだろう。早くゲームをしたいのに、自分で操作できない時間が長いとやきもきしてしまうからだ。
だが、本作は冗長さを感じなかった。メインストーリーで追うのは“竈門炭治郎 立志編”~“無限列車編”から抽出された物語の“軸”。『鬼滅の刃 ヒノカミ血風譚』には物語に厚みを持たせる情報が散りばめられているのだが、それをサイドストーリーに振り分けて、メイン部分をテンポアップさせているのだと思う。
もう1点は“盛り上げかた”。たとえテンポがよくても、淡々としていたらプレイヤーはゲームに没入しようがない。原作ありのタイトルでこれをやられると、筆者は「それならアニメをもう一度観るわ」などと思ってしまう。
盛り上げかたもまた、本作は秀逸だった。ソロプレイモード“ヒノカミ血風譚”は以下のように章立てされている。
- 第一章 最終選別
- 第二章 沼の鬼
- 第三章 浅草死闘
- 第四章 鼓の響
- 第五章 ヒノカミ
- 第六章 柱合会議
- 第七章 蝶屋敷の日々
- 第八章 無限列車
怒られることを覚悟で白状すると、第三章あたりまでの感想は「うん、原作ものだなぁ」だった。3Dアクションゲームとしての手触りは良好。グラフィックも美しい。よくできているが、物足りなさを感じていたこともまた事実。
第四章では鬼殺隊における炭治郎と同期の剣士・善逸と伊之助が合流。体からいくつもの鼓を生やした“響凱”と戦うことになる。
物語が賑やかさを増すポイントで、ゲームとしてもこのあたり(第四章~第五章)がターニングポイントのように感じた。
第四章までは没入のための下準備だった
そして突入する第五章。第四章までは没入のための下準備であり、ゲームに親しむためのチュートリアル(のようなもの)に過ぎなかったのだとを思い知ることになる。
“第五章 ヒノカミ”の舞台は那田蜘蛛山。ここでは十二鬼月(鬼の中でも上位12体の実力者)下弦の伍・累と、その“家族”との対決が待ち受けている。
ここで戦うことになったボスのうち、とくに善逸と蜘蛛の鬼(兄)の戦いと、炭治郎と累との戦いには衝撃を受けた。
強い。いままで戦ってきたどの鬼とも比べものにならない。そのときの焦りはまるで主人公・炭治郎が味わった恐怖や絶望とシンクロしているようだった。
これまでのボスはその場をあまり動かなかった。対して、蜘蛛の鬼(兄)と累は素早く移動しつつ遠距離技でしっかりとこちらを牽制し、技の終わり際にステップ移動やジャンプなどの回避行動を挟む。
つまり、攻撃後の隙をしっかりとフォローする動きでこちらを翻弄してくるのだ。これまでのプレイスタイルは通用せず、初見時はまるで人間が操作しているかのように感じた。
筆者の胸中には「負けるわけにはいかない!」という思いが生まれていた。那田蜘蛛山の探索で見た光景や随所のムービーが、累を許せない気持ちに拍車をかける。プレイヤー=炭治郎はこの負けられない戦いにおいて、冷静に累の動きを見極めなくてはならない。
第四章までのボスは、隙を見せたときに追尾ダッシュで突っ込んでひたすら攻撃するだけで勝てた。しかし、累戦では簡単に迎撃されてしまう。
追尾ダッシュはステップやガードで中断できる。冷静に状況判断できるようになってきたところで、勝利の道しるべが見えてくた。
ピンチに陥りながらも活路を見出し、「俺は勝てる!」と炭治郎と同じ心境になれるのはおもしろい。
前述した“第四章と第五章はターニングポイント”という感想は累戦で抱いたものだ。ギミックを回避するアクションゲームとして戦っていたボスに人間的な動きが加わり、“対戦格闘ゲーム”としての魅力が花開いた。
累の動きに対応できるほど自在に動けるようになると、本作のおもしろさを一段階深く味わえる。自分が強くなったと実感できることで、炭治郎とのシンクロが起きる。
そうして「俺は十二鬼月にも勝てる!」という気持ちになったところから、物語は濃密さを増していく。いや、プレイヤー側に濃密な物語を受け入れる準備が整ったということなのかもしれない。
強さが増す鬼を越えて強くなる実感を、物語とゲーム性の両面から演出する本作。この後の展開は「没入感が強い」という言葉だけで表現仕切れるものではないとだけお伝えしておこう。
蝶屋敷で癒されすぎた、その後に……
そうして大きな盛り上がりを越えた後に控えているのが、“第六章 柱合会議”と“第七章 蝶屋敷の日々”だ。
第六章は、那田蜘蛛山での戦いを終えた炭治郎が“お館様”や“柱”といった重要人物たちと出会い、物語のスケールがさらに大きくなっていく場面を描く。
続いての第七章は、炭治郎たちが戦いで負った傷を癒しつつ、さらなる成長を遂げる過程が描かれる。いわゆる“日常パート”だ。原作もののゲームにおいて冗長に感じかねない部分でもある(もちろん、穏やかなシーンが好きな人が多いことも十分承知しています)。
だが、本作ではここもひと味違う。まず、療養の場である“蝶屋敷”の中を自由に歩き回れるのが楽しい。ついゲーム進行を忘れてはしゃいでしまった。
蝶屋敷で療養を終えた炭治郎たちは“機能回復訓練”を受けることになる。これは戦闘ではなくミニゲーム形式だ。
訓練のパートナーは同期の剣士・栗花落カナヲ。カナヲとの訓練パートはクリア条件こそ易しいものの、筆者としては累戦よりも難しく感じた。これもまた炭治郎視点の再現か。
第七章全体を通してプレイヤーの心も癒され、その後で迎えるのが“第八章 無限列車”だ。鬼殺隊の中核をなす炎柱・煉獄杏寿郎とともに任務にあたる、とにかく衝撃的なパートである。
とはいえ、すでに何度も映画で観てきた身。そこまで心揺さぶられるものではないだろうと思っていた。思っていたのだが。
良質な映画を見終わると、誰かと猛烈に語り合いたくなるものだ。その感覚が襲い掛かってきた。
知っている物語のはずなのに、心が震える。涙腺を直接殴られる。まるで、名作に出会った我々が「記憶を消して最初から観たい」と一度は夢見る状況が再現されたかのようだ。同じ物語のはずだ。それなのに、ここまで記憶と感情を上書きされるものなのか。
第五章でぶち上がった気持ちを、いったん第六・七章でクールダウンさせ、さらにそれを超える盛り上がりをぶつけてくるという展開。ゲームの演出として見ても、この緩急には脱帽するしかない。
ゲームで描かれた『鬼滅の刃』について、語り合いたい
読者の皆さんにはゲーム本編で楽しんでほしいので多くは語らないものの、筆者が心揺さぶられた部分について、少しだけ話をさせてほしい。レビュー記事においてこの部分は蛇足であることはわかっている。だが、『鬼滅の刃 ヒノカミ血風譚』には人を饒舌にさせる力がある。
ひとつは第八章 無限列車での一幕。炭治郎が夢の中に捕らわれ、惨殺されたはずの家族との幸せな日々を過ごしていたが夢だと気づき、振り切るために走り出すシーンだ。
物語を伝えるだけならムービーだけでもいいと思う。とはいえ、ここでは炭治郎=プレイヤーだ。自分自身の手でコントローラーの左スティックを前に倒し、前へ前へと進まなくてはならない。
走り続けるうちに、後ろから家族の悲痛な声が聞こえてくる。そこで左スティックを後ろに倒して戻ろうとしても、それは許されない。
なぜこの部分が筆者の心に突き刺さったのか。それは“ゲームならでは”の表現方法であるからだと思う。
アニメやコミックでは、主人公たちに感情移入こそできるが、結局は客観的に見ることしかできない。極論を言えば、主人公たちの行動には読者(視聴者)は介在しない。
だが、主人公を操作してボタンを押すことで行動を決定するゲームという場においては、プレイヤーの意思は主人公の行動に重なっていく。ここから生じる没入感と一体感たるや、どれほどのものか。
この後に迎えた、夢を操る怨敵・魘夢とのバトルでその感情はさらに高まる。炭治郎は戦闘中にも何度も夢に捕らわれて、亡き家族の悲痛な声を聞くことになる。
炭治郎と一体化したプレイヤーにとって、これがどれほどの怒りにつながるかは容易に想像できるだろう。魘夢は『鬼滅の刃』作中でも屈指の外道キャラクター。ゲームという手法でそれを完璧に再現していると思う。
ソロプレイモード“ヒノカミ血風譚”では、最後の最後まで“ゲームならでは”の表現で『鬼滅の刃』が展開する。原作を知っている筆者の心がここまで打ちのめされたのも、ゲームという表現でこれまでにない物語を再認識できたからだろう。
そのうえで、適切な編集によってゲームとしてのテンポのよさを保ちながら、キャラゲーにありがちな「余計なことをするな!」とファンの怒りを買う編集要素はほとんど感じられなかった。『鬼滅の刃』のゲーム化というよりは、再演、再構築、リブートといった言葉に近い。だが、そんな言葉に収まらないくらいに揺さぶられるものがある。何なんだ、このゲームは。
冒頭で、隣りで見ていた編集者が「おれも鬼殺隊に入ります」と言い出したと書いたが、じつはこちらもそれと同じくらいに情緒がやばい。ライターなのにうまく言葉にできないのが、本当にくやしい。
正直、プレイ前は「煉獄さんにまた会えるなぁ」、「あの好きなシーンがまた観られるなぁ」くらいの軽い気持ちでいた。そんな過去の自分をぶん殴ってやりたい。
涙を浮かべつつ本作のプレイを終えた後、筆者と編集者は「本作について、ほかのみんなとも語り合いたい」と意見が一致した。『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』鑑賞後とまったく同じ心境。あの体験と同レベルの感覚だ。
本記事を一読してくれた皆さんにも、本作を最後までプレイしていただき、いっしょに語り合いたいと心から願う。
『鬼滅の刃 ヒノカミ血風譚』(PS4)の購入はこちら (Amazon.co.jp) 『鬼滅の刃 ヒノカミ血風譚』(PS5)の購入はこちら (Amazon.co.jp)※「禰」は「ネ」+「爾」が正しい表記となります。
※「鬼舞辻無惨」の「辻」はしんにょうの点が1つの字が正式表記になります。
※「煉獄杏寿郎」の”れん”は「火」に「東」が正しい表記となります。