岩田聡氏。元任天堂代表取締役社長。
2002年に、山内溥氏から引き継ぐ形で任天堂の社長になった岩田氏は、2015年7月11日に急逝した。
岩田氏の経歴を語るとき、いろいろな側面がありすぎて、どこから触れればいいものか、すこし迷ってしまう。
『ゴルフ』、『バルーンファイト』、『星のカービィ 夢の泉の物語』、『MOTHER2』、『ニンテンドウオールスター! 大乱闘スマッシュブラザーズ』など数々の名作を手掛けた凄腕プログラマーであり、33歳のときにはHAL研究所の所長に就任し借金を抱えた会社を立て直し、任天堂の社長としては“ニンテンドーDS”や“Wii”の世界的大ヒットとなったハードを世に送り出した。
“社長が訊く”ではさまざまなクリエイターに自らインタビューをしたかと思うと、ニンテンドーダイレクトでゲームファンに“直接!”任天堂タイトルの最新情報を届けていた。
このたび、そんな岩田氏の発言をまとめた『岩田さん 岩田聡はこんなことを話していた。』という本がほぼ日刊イトイ新聞から上梓された。
本書は、ほぼ日刊イトイ新聞や任天堂公式サイト“社長が訊く”の記事から、岩田氏の発言やインタビューがまとめられた言行録となっており、読むと、岩田氏の経歴や考えかたが深く理解できると同時に、人柄まで伝わってくるような、あたたかい1冊に仕上がっている。
この本を編集したのは、元週刊ファミ通編集者で現在は“ほぼ日”に在籍する永田泰大氏。永田氏が本書に懸ける思い、岩田氏との出会い、週刊ファミ通時代の思い出などさまざまなことを訊いた。
書籍情報
岩田さん 岩田聡はこんなことを話していた。
- 著者:ほぼ日刊イトイ新聞
- 発行:ほぼ日
- 定価:1836円[税込]
・ほぼ日刊イトイ新聞『岩田さん』紹介ページ(ほぼ日ストアでの購入もこちらから)
・Kindle版『岩田さん』販売ページ
永田泰大氏(ながた やすひろ)
ほぼ日刊イトイ新聞所属。元週刊ファミ通の編集者で、“風のように永田のゲームの話をしよう”(連載途中から“永田泰大のゲームの話をしよう”に改題)という人気コーナーを担当していた。取材に行った世界三大三代川は永田氏の後輩。文中は永田。
冨田裕乃氏(とみた ひろの)
ほぼ日刊イトイ新聞の広報さん。巨人ファン。文中は冨田。
取材はファミ通の思い出話から始まるのだった
永田おお、これは?
――当時ニンテンドウ 64(以下、N64)で開発されていた『MOTHER3』(※)の記事がある、当時の週刊ファミ通を何冊か持ってきました。永田さんが糸井さんと岩田さんに出会ったのは、ファミ通での『MOTHER3』取材だったんですよね。
※『MOTHER3』は当初N64での開発がアナウンスされていたが、紆余曲折あり、一度は開発中止が公式に発表される。その後、対応ハードをゲームボーイアドバンス(GBA)に変更し、2006年に発売された。
永田そうです。懐かしいですね。これ……やっていることはいまと変わらない(笑)。記事のノリをつくるためにちょっと口調は変えたりしてますけど、基本的には変わってないですねぇ。
永田ああ、いろいろ思い出すなぁ。このときの写真、糸井さんが、ずーっとタバコ吸っているから、タバコの映ってない写真がなくてね。タバコ吸っている写真って本当は誌面にあまり出したくなかったんだけど、タバコのない写真が撮れなかったんですよ(笑)。
――本書『岩田さん』は、けっこう長い時間を掛けてつくられていたんですよね。
永田岩田さんのお葬式のときに「出せたらいいね」、と話して。少しずつつくっていたんですけど、集中して作業したのは2年前くらいからです。
岩田さんの話をしよう
――ほぼ日でも、本書を作る経緯など書かれていました。
永田うん、まさにあの通りで。
――制作が止まったというのは、「いまじゃないな」という思いが?
永田わざと止めたわけではなくて、焦らずじっくりつくっていた、という感じです。結果的に、出版が今年になって、ちょうどよかったんじゃないかなとも感じています。去年とか、おととしとかだと、もっと“追悼”みたいな雰囲気になったと思う。
――なるほど。本書は、過去のいろいろな過去の記事から、岩田さんの発言を改めて1冊の“発言録”という形にしたという形ですよね。
永田そうですね。メインは、ほぼ日刊イトイ新聞に掲載された岩田さんのコンテンツから。
あと、任天堂のページにある“社長が訊く”からも、ことばを集めました。“社長が訊く”は、コンテンツの開始当初はぼくが構成と編集を担当していたんですが、軌道に乗ってからはほかの方が編集しているんですね。
で、ことばを集めるときは、自分が担当した回からだけ、ピックアップするようにしました。
ほかの人の編集した箇所も、使うことを希望すれば許可はおりたと思うんですけど、やはり自分が現場にいないものは、責任が取れないような気がしたので。
――永田さんにとっての岩田さんというのはどのような方でしたか? 糸井さんを通じて岩田さんを見ていたという気もするんですけど。
永田ぼくが岩田さんに会うときは、たいてい糸井さんも一緒にいるので、そのふたりの話を末席で聞いている、という感じでした。だから、ものすごく恵まれた話ですけど、3人でいた、という印象かなぁ。
岩田さんの印象は、初めて会ったときからまったく変わりません。たぶん、岩田さんを知ってる人はみんなそう言うんじゃないかなぁ。
――週刊ファミ通編集長の林が岩田さんに何度か取材をしていて、当時の岩田さんは任天堂の取締役経営企画室長でしたが、「岩田さんのインタビューを文字起こしすると、手を加える必要のない、編集をする必要がないくらい、整ったしゃべりかたをされる人だ」と話していたことがあるんです。
永田とくに、任天堂の取締役になったときの岩田さんというのは、会社を代表している立場だから、記事に書かれることをつねに想定してしゃべっていたと思うんです。
だから、雑誌や新聞、メディアに、自分の発言のどこをどう切り取られてもいいようにしゃべる、ということをいつも意識されていたんじゃないでしょうか。それで結果的に、文字起こしがそのまま記事になるような整った発言になってしまう。そういうクセがついている、というか。
その息苦しさをどうにかしたくて、また、言いたいことがそのままお客さんに伝わるようにということで始めたのが、“社長が訊く”だったりニンテンドーダイレクトだったりするんじゃないでしょうか。岩田さんは、どうしゃべったら世の中にどう受け止められるかということを、人一倍考えていた人でした。
それは、自分のプライドとかセルフイメージとか、そういうことではまったくなくて、自分が組織を代表しているから、「私がこうしゃべったらこの組織やこのプロジェクトがこう受け取られる」っていう責任感の中で、どう取られてもいいようにしゃべっている人だった。文字起こしがそのまま掲載できるほど、岩田さんが理路整然としゃべることの土台には、そういうポリシーがあったんだろうと思います。
――メディアを通じて、自分が渡したい情報を多くのファンに届ける。そのために言葉を最適化して、どうしゃべるのがふさわしいかを自分で考えていた。
永田と、思いますね。でも、それは取材のテープが回っているときの話で。たとえば糸井とのびのび話しているようなときは、そのまま文字にして掲載できないようなふつうのおしゃべりもありましたよ(笑)。ただ、そういうときでさえ、「こんなことはふつうは言えませんけどね」みたいなひと言は必ず修正として添えてしまうような礼儀正しさがある方でした。
――糸井さんとお話されているときはもっとフランクで。本の中にありましたが、朝来てから夜まで9時間くらいずっといっしょにいらっしゃることもあったというのは、相当ですよね。
永田それは逆に言うと、つねに任天堂の社長でいた、ということだったんでしょうね。岩田さんと糸井さんがふたりで話すときは友だちのようだった、というのはそういうことでしょうね。特別な時間だったんだろうと思います。
――永田さんが初めて岩田さんにお会いしたときというのは?
永田(『MOTHER3』の記事を指さして)まさにこの取材のときです。
――N64版『MOTHER3』開発中のインタビューで初めてお会いしたわけですね。
永田うん、でもほぼ日でも書いているんだけど、正直に言うと、このとき取材に行った僕は、糸井さんに取材することで頭がいっぱいだったから、岩田さんの存在はそこまで気にしていなかったんですよね。服もカジュアルで、チェックのシャツとか着てるし、社長になってからの“スーツの岩田さん”って印象とはまったく違ってましたから。
――永田さんが、「岩田さんはすごい人だ」と思い始めたタイミングってあります?
永田そもそもぼくがファミコンのころの知識がなくて、恥ずかしながら『バルーンファイト』と『ゴルフ』をつくったすごいプログラマーだ、ということは知らなかったんです。で、この『MOTHER3』インタビューのシリーズを通じて、あ、この人は実力のあるすごい人なんだっていうのがわかっていった感じでした。
――このインタビューは、記事の中でも書かれていますが、けっこうまわりの反響もあったようで、「あの記事は“作ってる”んじゃないか」と言われたこともあったとか?
永田もちろん多少いじったりはしているけど。基本的には、糸井さんがデタラメ言っているというのは、本当にいまも変わらない(笑)。「一応、『MOTHER3』にも敵はいるんですよね?」って訊くと、「キミは、敵が誰なのか聞きたいのかい?」って返されたり。
冨田すごく言いそうです。
永田そう言われると、俺も「本当は聞きたくないけど、仕事だから聞くんですよ」って言う。
冨田言いそう!(笑)
永田そうすると糸井さんが、そのころ『パラサイト・イヴ』って小説が流行ってたから「じゃあ敵は“パラサイト”」って言うの。どう考えても嘘を言うの。でも「つくってる俺が言ってるからそれが答えなんだから、お前はそれを書かなきゃいけないだろ?」みたいなことを言う。
――それが記事に載る。
永田うん。しょうがないから「それも含めて全部書く!」みたいな勢いで。たまに岩田さんも糸井さんの冗談に乗って「そうです、敵はパラサイトです」みたいなことを言ったりするから(笑)。
――冗談か本当かわからなくなる!(笑)
永田そんな感じでしたね、この取材は。たぶん、この当時、おふたりはまとめてゲームメディアの取材を受けてると思うんです。岩田さんと糸井さんのスケジュールを抑えて、1日を“ゲームメディアに取材される日”として設定する、みたいな感じで。だから、基本、ふたりともちょっと飽きてるんですよ、ふつうの取材に。糸井さんはとくに(笑)。
だから、取材に来た人が、「敵はいるんでしょうか?」というあんまりヒネリのない質問をして、「いるともいないとも言えない」って糸井さんが答えると、「そうですか、いるとも言えない……と。つぎの質問です」みたいな(笑)。つまり延々と同じようなやり取りがくり返されていたであろう取材の中で、僕がおかしなコンセプトを抱えて取材に行くから、ふたりとも「ああ、あいつが来た」みたいな感じで、取材の合間の休憩のように、メチャクチャな雑談をするっていう。だとするとペーペーの僕はさらに悪ノリしないと自分がいる意味がないから、もう、息を止めてちょっと変なことを言う、みたいな感じで。
冨田糸井さんがやたらダジャレを言うところとか、ぜんぜん変わらないですね(笑)。
永田もう、まんま、いまといっしょでしょ。
――じつはこのインタビュー記事は、ドキュメンタリーだったんですね。
永田ぜんぜんドキュメンタリーなんですよ、これ(笑)。
――記事には、糸井さんが「じつはこのワニは……立つんです!」と言うと「それは、資料に書いてある」と永田さんが返していたり。
永田そうそう、それもその場で言ったのを憶えてます(笑)。
これは想像だけど、この取材の場では、広報さんから「いまの期間はこの資料で記事をつくってください」っていう、情報公開をコントロールする資料が渡されていて、糸井さんはそれに合わせてしゃべらないといけないんですよね。
けど、糸井さんがその広報資料を見るのは初めてに近いから、資料を見ながら「へぇー」とかって言ってる。それをどこまで書けばいいんだって言う話で、糸井さんが資料を見ながら「ワニは立つんだよ」みたいなことを棒読みで言うから、「それは書いてあるじゃないですか、もっと資料に書いてないことを言ってください」みたいな話をしている。
――取材現場で糸井さん自身が初めて知るようなこともあるわけですね。
永田もとのデータはもちろん知ってると思うんですけど、今回の取材ではこれをこんなふうに出しますっていうのはその場で知ったりするんじゃないかな。「こういう路線かよ~」って、いう発言ををそのまま書いた覚えがある。
――(笑)。そうなると、現場では岩田さんが「いや糸井さん、以前ご覧になったときから開発が進んでブラッシュアップしてまして」とか言ってサポートをしたり……。
永田そうそう。岩田さんがそういうことを言ってくれる。「糸井さんが見ていないっていう印象が誌面に出てはいけない」ということを岩田さんはその場で判断するので。「糸井さんが見たあとにちょっと変わっているんですよ」っていう、誰にとっても助かるひと言をすかさず出してくれる人。やっぱり当時からずっと変わっていないんですよ(笑)。
冨田岩田さんのお人柄はそのときもそうだったんですね。
――岩田さんと糸井さんの関係性はずっと変わらず。
永田それはもう、ずっと変わっていないですね。
冨田当時の岩田さんは、前に出る人じゃなくて、糸井さんに引っ張られて出させられてる人だったんですか?
永田ふつうの雑誌だと“糸井重里が『MOTHER3』を語る”っていうインタビューになって、岩田さんは誌面には出ないと思うけど、この取材は、現場をまるごとおもしろがるようにつくったから、もう遠慮なく出しちゃったというか。
だいたいどの取材にも、メインでしゃべる人のほかに補佐する現場寄りの人っていたりするから。岩田さんも基本的には補佐する役でいたんじゃないかな。
冨田たしかに、糸井さんの取材は補佐する方がいたほうが……数字とかうろ覚えだったりしますから(笑)。
永田固有名詞がまったく出てこなかったりね(笑)。
冨田この写真は、すごくふたりの関係をあらわしていますね。
永田ああ、この写真は憶えてる。ポジを見ながら「やった!」と思ったよ。こっちの、お互いに指を指してるのは、「ポーズを取ってください」って言った気がするけど(笑)。
「ときどき寝てる」とか平気で書いてる(笑)。本当に寝てるんだよ、取材現場で。だらだら話してるときにそういうモードに入るときあるじゃない、糸井さんって(笑)。
――『MOTHER3』のあとも、おふたりの関係性はこのままだったんですね。『岩田さん』の中に、ほぼ日の事務所に岩田さんがたびたびいらしては、お話されていたということも書かれています。
永田はい、けっこういらっしゃってました。
冨田そうですね。
永田岩田さんが京都から東京に出張で来たり、海外に行ったりするときなんかに、寄れる時間があると、こういう感じでガラガラを引いて、事務所に寄ってくださいましたね。
冨田なんかかわいいんです。
永田ぜひこのキャリーケースを描いてもらいたかったので。
――この絵もドキュメンタリーだったんですね。
永田そう(笑)。このイラストは、糸井さんが、岩田さんの奥様にキャリーケースの写真を送ってもらってつくったんです。
――では、ほぼ日の皆さんの中で、岩田さんはこのイラストのイメージ?
永田“スーツでゴロゴロ”だよね。
冨田そうそう、ゴロゴロって来て、「こんにちはー」って言って糸井の部屋に入っていくんです。ときどき、糸井が「みんなでいっしょに話を聞こう」って感じで誘ってくれたので、おにぎりなどをいっしょに食べながら話を聞くと、すごくおもしろかったのを覚えています。
永田ご飯を食べながら聞いた話を、ほぼ日に掲載させてもらったりしました。
冨田たぶん糸井と約束していた日に早く来ることができたので、参加してくださったんだと思うんですけど、会社の歓送迎会に突然来てくださったこともありました。ひと言話してくださったのをうちのスタッフがたまたまムービーで撮っていたんです。
先日、みんなで見返したら「君たちはいま、すごい幸せな場所にいるんだよ。わかっているとは思うけど、外の僕から見て改めて言うね」というようなことをおっしゃってくださってました。
――ほぼ日の皆さんにとって、岩田さんは近い存在だったんですね。
永田とくに古くからいる人にとってはそうですね。いちばん最初は配線とかもしてくれたそうです。
――配線!?
永田糸井が「インターネットの会社を始めるぞ」って言い出したころ、麻布の一軒屋で。もう、本当に、コンピュータのケーブルの配線とかを(笑)。
冨田机の下に潜ってやってくださっていたと聞いています。
永田メモリの増設とかもやってくれたらしいです。
冨田“電脳部長”と呼ばれていました。
永田だから、ある人に言わせると、岩田さんは“パソコンをバンと開ける人”みたいな。「そんな乱暴に開けていいんだ?」っていうのが岩田さんの印象。
――岩田さんの印象が“パソコンを乱暴に開ける人”だというのは、世界中でひとりだけじゃないですかね(笑)。
永田岩田さんも電脳部長という肩書は気に入っていたみたいで。うちであいさつするときは「電脳部長の岩田です」って言ってました(笑)。
『MOTHER』と岩田さん
――『MOTHER3』の発売中止もほぼ日のコンテンツとしてお話されてましたね。
(『MOTHER3』の開発が中止になったことについての糸井重里・岩田聡・宮本茂の座談会)
永田そうですね。このときはぼくはまだファミ通にいたので、この対談をまとめたのは僕じゃないんですけど。『3』中止のときはファミ通.comでみんなの感想を延々とまとめるという記事を急いでつくりましたね。エディ是枝が編集長をやっていて、「『MOTHER3』が中止になったから、何かやらせてくれ」って言って
――あの記事、いまもまだ見られるのかな……検索してみます。あ、出てきました。
(『MOTHER3』の話をしよう)※PCでのみ閲覧可能です。
永田ああ、そうそう、とにかくたくさんメールを載せたんだ。延々メールが来るんだよ。何通載せたんだかわからない。
――改めて見るとほぼ日っぽいですね、これ。
永田やっていることは変わらない、いまと(笑)。ああ、話してたら、だんだん思い出してきた。この記事をつくるまえに糸井さんに電話をかけたんですよ。『MOTHER3』が中止になって、ファミ通でこういう「悲しい」みたいな意見を募集をするのは、糸井さんにとって迷惑ですかっていうのを聞いたんです。
つまり、ファンは混乱して気持ちを表現する場を求めているんだけど、糸井さんが嫌だったらやんないほうがいいと思って。そしたら糸井さん、「ぼくの口からはなんとも言えないんだ」って言ったんだよな。「俺の口からはやるともやらないともなんとも言えないんだよね」っていう感じの話をした。直接会話をしたのを覚えているから、どういう風に連絡取ったんだろう……。うーん、でも、たしか、そういうことをしましたね。
――『MOTHER3』はその後、GBA用ソフトとして出ることになります。
永田そうですね。その前に『MOTHER1+2』がGBAで出るんです。その準備をしているころに、ぼくはほぼ日で仕事をするようになるんですけど、すごく憶えているのは、ある日ぼくがほぼ日に行くと社内で糸井さんたちが打ち合わせをしているんですね。
どうやらそれが『MOTHER1+2』のテレビCMで、ぼくめちゃくちゃ驚くんだけど、当時のほぼ日には、じつはコアなゲームファンがいないんですよ。だから、ぼくひとり「うわぁ!」ってなってるんだけど、みんな、わりとふつうで(笑)。しかも、そのCMの最後のところで、どせいさん文字で「まざー3もげーむぼーいあどばんすでつくってるです」って出る。
もう、ほんとに、ひっくり返るかと思ったんだけど……みんな、ふつう(笑)。
――温度差(笑)。
冨田私、永田さんに言われて『MOTHER3』を買って、糸井さんにソフトにサインしてもらったんですけど、それまでRPGはひとつも遊んだことがなかったんです(笑)。
で、『MOTHER』シリーズがすごいゲームだったんだなってわかったのは、けっこうあとになってからでした。
永田そんな感じだったんですよ、当時は。いまはもう社員も増えましたし、ゲームファンもたくさんいますけど。
――永田さんは、ほぼ日に入って、その後、『MOTHER3』を岩田さんといっしょにつくることに?
永田岩田さんはそのころはもう現場にべったりいるような人ではないので、ときどきいらっしゃるという感じでした。
あのゲームをGBAで出しましょうってセッティングしたのは、宮本さん(宮本茂氏)と岩田さんで、ブラウニーブラウン(当時)さんを紹介して、そこにつくってもらおうって提案したのも岩田さんだったと思います。だから、最初の顔合わせみたいなときに岩田さんがいたというのを憶えてます。
当時、ぼくは糸井の同行者として出席していただけで、開発側に入るようなことではなかったんです。でも、当然、開発は長引きますし、ずっとその場にいると、意見を聞かれるようになり、なんとなくいろいろ手伝うようになった、というような感じです。
――表立って名前は出ていませんでしたが、ゲーム内のテキストとかもいろいろ見られていたんですよね。
永田最終的には、それがいちばん大きな役割でした。といっても、ぼくがテキストを書いたわけではまったくなくて、糸井が『MOTHER3』のすべてのテキストを入れ直していくとき、そこに同席して“反応する”という役でした。
糸井は、ぜんぶのセリフを口で言うんですね。「いいしらせと わるいしらせがある」とか「てんてんてん、まる、改行」とか。で、それを聞く、“最初のお客さん”の役が、僕と戸田昭吾さん (『MOTHER2』、『MOTHER3』のシナリオのアシスタントを担当)だったんです。
だから、糸井さんがゆっくりしゃべるのを聞いて、笑ったり、感動したり、「よくわからないです」とか言ったり、「は?」ってなったり(笑)。最終的にみんなが納得すると、それを任天堂のスタッフがコンピュータに打ち込んでいくという流れでした。それを、どうだろう、半年以上やったんじゃないかなぁ。
冨田そういうやり取りがゲームのどこかに入ってませんでしたっけ?
永田ああ、あるある。メインのシナリオとはまったく関係ないどこかの部屋をノックすると、向こうでなんだかセリフをつくってるらしき3人組の声がする、っていうやつ(笑)。
――それにしても、ご自身がまさか、自分が記事を作っていた『MOTHER3』の開発に関わることになるとは、当時は想像もされていませんでしたよね。
永田そうですねー。ファミ通でN64版の『MOTHER3』を取材しているときは、そんなことになるとは思いもしなかった。
――最近は『スマブラ』の『MOTHER』の監修も永田さんがされていらっしゃると聞きました。
永田はい、してますけど、そんなにすごいことはしてません。桜井さん(桜井政博氏)たちのチームがすばらしいので、基本的にはお任せしています。ぼくは監修の窓口とか雑務を担当している、という感じです。
“ゲームの話をしよう”を見る
――ちょっと話が逸れましたが、1999年には、永田さんの連載記事“ゲームの話をしよう”で、初代『スマブラ』(N64『ニンテンドウオールスター! 大乱闘スマッシュブラザーズ』)の話をしに岩田さんと桜井政博さんが登場されています。
永田はい。ほぼ日に掲載した「岩田さんの本をつくる」という記事にも書きましたけど、発売当初過小評価されていた『スマブラ』に関してつくり手として伝えたいことがあるということで、岩田さんのほうからあのページに出たいと連絡してくださったんです。あの連載では、いろんなクリエイターの方に取材しましたけど、自分から「出たい」と言ってくださったのは、岩田さんだけだったと思います。
――そうなんですか、それは意外です。
永田いや、それはそんなに不思議なことじゃなくて。いまでこそ、ゲーム好きの方が「あのコーナーはよかった、すごかった」みたいなことを言ってくれるんですけど、あれって言ってみれば白黒1ページのちいさな連載コーナーだから。だから、岩田さんが「取材してくれませんか」って言ってくださったのは、びっくりしたし、うれしかったですね。
岩田さんが「あのコーナーに出させてくれませんか」みたいなことを言ってくれたっていうのは「ここでなら言いたいことを言える」と思ったんだろうし、そこで『スマブラ』のおもしろさを通じさせるって意味も考えてのことだと思います。
極端にいえば、大きなキャンペーンとか広告だってつくれると思うんですけど、たぶん岩田さんは効果と速度と合理的な判断で、あの連載で「『スマブラ』の中に自分たちが込めたものを伝える」ということを選んだ。そのあたりのジャッジはすごいなぁと思います。
――そもそも、そのきっかけっていうのは、週刊ファミ通の1コーナーで『スマブラ』を紹介する記事を永田さんが書かれたことですかね。
永田当時のファミ通では速報とクロスレビューとインプレッションでしか、新しいソフトをとらえられなかったんだけど、“紹介記事とクロレビのあいだ”のような意味合いで応援するコーナーを作ろうっていうことで、巻末に新しいコーナーができたんです。その“今週の1本”ってコーナーで『スマブラ』を僕が書いた。それを「やっと話の通じる記事が出た」みたいな感じで岩田さんが読んでくれたんだと思います。
永田『スマブラ』が発売当時、いわば“キワモノ”的な目で見られていたのを覚えている人が、もうずいぶん少なくなってるから、『スマブラ』を応援するっていうこと自体が不思議に思えるだろうけど。最初は「マリオとピカチュウが殴り合うなんて!?」って声も多かったですから。いまや遠い昔のことだけど(笑)。
『岩田さん』に込めたもの
――今回、本を編集するにあたって、「これはやんなきゃいけない」とか、これはやらないとか、永田さんの中で決めたことはありましたか?
永田やっぱり、ぼくらの知っている“岩田さん”をそのまま表現することだと思います。新聞のインタビューとかに出てくる“岩田社長”、“岩田氏”というものに、ふだん会ってるぼくらは違和感があったから。
写真も病気の後のやせた、ちょっとキリッとした岩田さんよりは、ずっとニコニコ笑っている岩田さんが、ぼくらにとっての岩田さんだったから“自分たちの知っている岩田さんをできるだけそのまま書こうと。煽ったりもせず、うん、そのまま出すように”ってことでしょうか。
気を遣うこともあって、「ぼくらが岩田さんの本を出す資格があるのか」っていう大前提の問題についてはすごく真剣に考えました。言ってみれば、ぼくらは本を“勝手に出している”ともいえる。その自覚をなくしちゃいけないと思っていました。「岩田さんなら許してくれるよ」とは思うものの、それはぼくらの希望的な解釈なので。だから、最低限、スタートの前に岩田さんのご家族の方と任天堂の人たちに話をして、許可をもらうというよりは、希望をうかがって。まずはそこにいちばん配慮しながら。
その上で自分たちが知っている岩田さんを、これから岩田さんを知る人とか、いま岩田さんのことを知りたい、懐かしく思っている人に、まとめて、いいかたまりとして出す、みたいなことを考えました。
――読んでいくと、岩田さんの考えが物事につながるというか。ここでこう言っていたことが、そのあとこうなっているんだなって、読みながらわかることが多いですよね。
永田岩田さんは一貫しているからね、どの瞬間にも。
――本当にぶれない人なんだなと、改めて思いました。
永田本にするとおもしろいなと思うのは、ゲームを深くは知らないけどなんとなく岩田さんを知っているという人の手にも届くんですよね、本って。そこで初めて知ってもらうことって思ったよりも大きい。
たとえば岩田さんが任天堂の社長になる前、33歳くらいでソフトハウスの社長になって会社の15億円の借金を返した人なんだっていうことは、ふつうの人はそこまで知らないから。WEB上の記事を読めばどこかでわかるけど、ゲームファンじゃない人はやっぱりそこまで追わないから。
――天才プログラマーとしての岩田さん、HAL研究所長の岩田さん、そして任天堂の社長としての岩田さん……と立場が変わっていったわけですが、世の中的には、任天堂の経営者のイメージが強くなっていきますからね。
永田ネットを検索すると、「私は名刺では経営者ですが、頭のなかではゲーム開発。しかし、こころのなかでは、私はゲーマーです」って、あのフレーズがいちばんに出てくる。一応本にも載せたけど、あれがいちばん岩田さんという人を表しているかというと、いちばんではない気がするんです。
ああいうところにたどり着いたけど、僕たちが感じている岩田さんっていうのは、もっとあったかい、やわらかい、ニコニコした人なので。そっちがちゃんと伝わったうえで、あの言葉に行くようになっていればいいなぁと思いました。
――だんだん時間が経って、そういう、ゲーマーにとってはニンテンドーダイレクトなどでよく知っていたはずの岩田さんのイメージが変わっていっちゃうかもしれないところを、この本がそれをまた思い出させてくれるのかな、と思います。
永田そうなるといいですね。「『MOTHER2』をいちからつくり直すなら半年で作れます」とか、「プログラマーはノーと言ってはいけない」とか、発言とかエピソードが伝説みたいに妙に独り歩きするのもちょっと……と思っていたので。
――『MOTHER』は今年30周年で、間もなく『2』も25周年になります。
永田7月27日ですね、30周年。この本も増刷が決まりまして。2刷りの奥付上の日付は2019年7月27日にしました。一応『MOTHER』の発売日に。
――岩田さんと糸井さんとのつながりを生んで、永田さんが取材をして、お三方の関係は『MOTHER』なんだなと、はたから見ていて思うんですけど、ご本人としてもそうですか?
永田それは、もう、そうですね。それがなければほぼ日に僕はいないでしょうし。まぁ、どんなことも、「それがなければいまはない」ということだとは思うんですが、それにしても、不思議なめぐり合わせだなと思っています。
ファミ通で『MOTHER』の記事を作っているときにこうなるとは思わなかった。あと、まぁ、悲しくなるからあえて軽く言うけど、岩田さんが亡くなるとは思わないよ。自分がここにいてこんな本をつくる以上に、そっちのほうがわけがわからない。
――あまりにも突然でした。
永田うん、そこはもう、言わない……。
――『岩田さん』ができあがってみて、まわりの反応はいかがですか?
永田いちばん思ったのは、岩田さんの話をみんながしたがっているんだ、ということ。忘れたくない人が山ほどいるし、お世話になったと感じている人とか、「ありがとう」と思っている人がこんなにいるんだなというのをすごく痛感しました。
それは世代を超えることだし、国境も。ツイッターで第1報をお伝えしたので、それにリプライが来るんだけど、海外からもたくさん来て。「何語!?」っていうのがいっぱい。英語やフランス語はもちろん、スペイン語、ロシア語、あ、これはドイツ語か、みたいな感じであちこちから「ありがとう」って声が聞こえる。
やっぱり岩田さんはすごいな、尊敬されてるんだなって。こんなふうに世界中の人に待たれているんだとしたら、作ってよかったなぁってすごく思います。
これをきっかけに、いろんな場所で、岩田さんの話ができたらいいですよね。ひとりで岩田さんにありがとうって思うだけじゃなくて、集まって話したり。
ゲームって、もともとそういうものですし。遊ぶときはひとりなんだけど、集まると同じ話ができる。本の中でも書いているけど、岩田さんもそういう、“笑顔が増えること”っていうのを最優先していた人なので、そんなふうになったらいちばんいいんじゃないかなぁと思います。
――もともとある発言をまとめて、読み返して「そうだよね、なるほどね」ってみんなで話ができたり、岩田さんを思い出して笑顔になる。それも岩田さんならではのことですし、やっぱり、『岩田さん』は、岩田さんらしい本だと思います。
永田はい(笑)。
(2019年7月、ほぼ日事務所にて)
[2019年8月9日16時55分修正]
記事初出時、一部人名について誤りがあったため、該当の文章を修正いたしました。読者並びに関係者の皆様にご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします。