生誕25周年を迎えるソニックシリーズのヒミツに迫る
2010年代に入ってからさまざまなゲームタイトルのアニバーサリーイヤーが続いているが、1991年にセガのメガドライブ用ソフトとして発売された『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』にとっても、2016年は発売から25周年となる記念すべき年である。メガドライブという知名度の低いハードで発売されたものの、それまでのゲームにはなかった劇的なスピード感と、クールな主人公のキャラクター造形もあって、北米を中心にビッグヒット。継続的な続編発売や、何度かの新生を経て、ついにはシリーズとして発売されたタイトル数が100近くにまで達することとなった。
そんな“セガの顔”として世界的に知られるソニックはいかにして生まれ、人気を得て、シリーズとなっていったのか。『ソニック』シリーズを作り上げてきた中心人物である中裕司氏、大島直人氏、飯塚隆氏を招いて、ソニック誕生からヒット、その後の変遷について語っていただいた。お互いに20~30代の日々をともに過ごした旧知の間柄ということもあって対談は非常に盛り上がり、ついには3時間オーバーという異例な長さに。いまだから明かせるエピソードも多数あり、その内容は『ソニック』シリーズのみならず、“ソニックチーム半生記”とも言うべき貴重なものとなった。『ソニック』シリーズのファンのみならず、メガドライブ~ドリームキャストの時代をともに駆け抜けた“セガ人”たちにあのときの熱い気持ちを思い出してもらえれば幸いだ。
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※『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』生誕25周年記念特別企画 1990年代のセガPRの立役者である竹崎忠氏が明かすソニックチームとの絆
中 裕司氏(右)
1965年大阪府生まれ。1984年にセガに入社し、プログラマーとしてセガ・マークIII版『ファンタシースター』や『スペースハリアー』などを担当。天才プログラマーとして注目を集める。以降も『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』シリーズや『ファンタシースターオンライン』といったソニックチームのタイトルを多数プロデュース。2006年には独立し、プロペを設立。代表取締役社長として手腕を振るう。
大島直人氏(左)
1964年大阪府生まれ。広告代理店を経て1987年にセガ入社。グラフィックデザイナーとしてソニックのキャラクターデザインを担当。ディレクターとして『ソニック・ザ・ヘッジホッグCD』、『『NiGHTS into dreams...』、『バーニングレンジャー』などに関わる。1999年にセガを退職しアートゥーンの立ち上げメンバーとなり、『ブリンクス・ザ・タイムスイーパー』などを制作する。現在はアーゼスト代表取締役副社長としてニンテンドー3DS版『マリオ&ソニック AT リオオリンピック』の開発も手掛ける。
飯塚 隆氏(中央)
1970年埼玉県生まれ。1992年にセガに入社しメガドライブ版『ソニック・ザ・ヘッジホッグ3』にプランナーとして参加して以降、『ソニックアドベンチャー』でディレクター、『ソニックカラーズ』ではプロデューサーと、ほぼ一貫して『ソニック』シリーズの開発に関わっている。これまで2度のアメリカでの開発を行ってきたが、2016年3月からは3度目の渡米を果たし、『ソニック』シリーズの統括役として活動する。
衝撃の告白! じつはソニックはセガのコーポレートキャラクターではなかった!?
――本日はよろしくお願いします。ソニックチームの3人が顔を揃えるという貴重な機会なので、ソニック誕生秘話を思う存分語っていただければと思います。時系列を追ってお聞きしていこうかと思うのですが、まずソニックはどのように誕生したのでしょうか?
中 裕司氏(以下、中) 先日探しものをしていたら、初代『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』(以下、作品名を指す場合は『ソニック1』)の業者向けパンフレットを見つけたんですよ。『ソニック1』と『ソニック・ザ・ヘッジホッグ2』(以下、『ソニック2』)の音楽をドリームズ・カム・トゥルー中村正人さんが作ってくれたのはご存じでしょうけど、そのコンサートで配ったチラシが、じつはソニックが世に出たいちばん最初のタイミングなんですよ。
大島直人氏(以下、大島) 私、1990年に開催されたドリカムのライブツアー“WONDER 3”のパンフレットは持っていますよ。パンフレットにソニックの広告が掲載されていたし、それにツアーバスにもソニックのイラストが描いてあったんですよ。
中 そうそう! そのときの写真って持っている?
大島 写真はないんですけど、デザインは私がしたから(元絵は)持ってます。そもそも私、トラックを見ていないんですよ……。
中 ええ~、いっしょに見たじゃん! 覚えてない?(笑) 牧野(幸文氏。初期ソニックのサウンドを担当し、後にウェーブマスター代表として『ルーマニア』シリーズなどのプロデュースを手掛ける)と大島と俺と、たしか安原(弘和氏。ゲームデザイン担当)がいてさ。どうせならそのデザイン画を、記事に載せようよ! 俺もなんかもってこなくちゃって、そのときのスタッフジャンパーは持ってきたんですよ。
――ソニックがゲームとして初登場したのはいつになるのでしょうか?
中 たしか、1990年の東京おもちゃショーが最初です。あのときのROMって持っている?
大島 さすがに持ってない(笑)。
中 じつはゲームキューブ用の『ソニック メガコレクション』に収録したくてすごく探したんですが、見つからなかったんです。大島と「ハッタリかまそうぜ!」と異様にこだわって背景を7重スクロールさせたんですよ。内容としてはソニックが少し起伏のあるステージを猛スピードで走ることしかできていなかったんですけど、任天堂さんに対抗心を燃やして「メガドライブならこんなこともできるんだぞ!」って。
大島 でもPRの予算がなかったから、飾り付けのポップも私がカッティングシートと手描きで作ったものだったり。
――メガドライブの背景面は2面しかないのに、7重スクロールというのは、たしかにハッタリが効いていますね。
大島 ファミ通さんといえば、セガのゲームでキチンとページを取って紹介してくれたのが、おそらく『ソニック1』が最初なんですよ。それまでは『Beep! メガドライブ』(日本ソフトバンク刊)や『メガドライブFAN』(徳間書店刊)といったセガ専門誌には掲載されていたんですけど、ファミ通さんにはセガのタイトルが掲載されていなくて。
中 だって“ファミコン通信”ですから(笑)。
大島 私は元々広告屋だったので、当時家庭用ゲームのパブリシティ担当になったばかりの竹崎(忠氏。セガ家庭用ゲームの名物広報マンとして活躍。現在はトムス・エンタテインメント取締役)さんといっしょに編集部にカートリッジ持参でお邪魔して「掲載してください!」とお願いにあがったら、「セガさんは初めて来られましたね」と言われてズッコケて。それまでは単に誰もファミ通さんに行っていなかっただけだったんです(笑)。
――そんなやりとりがあったとは(笑)。そうなると竹崎さんにもお話を伺ってみたいですね。ところで、ソニックはセガのコーポレートキャラクターとして誕生した経緯が……。
中 (遮って)そもそもソニックって、コーポレートキャラクターとして認知されたことはないんですよ。
――ええーっ、本当ですか!?
中 社内でコーポレートキャラクターを募集するタイミングと重なっていたので誤解されがちですが、それ以前の1990年ごろから『ソニック』は作り始めているんです。それと同時期に、セガは東京証券取引所に一部指定(二部上場は1988年)を受けていて、社歌を作るなど会社らしく成長していくタイミングだった。その一環としてコーポレートキャラクターを作ろうという話が持ち上がったんです。社内公募で200程度のキャラクターが集まった中、ソニックは最終候補の8案にまで残ったんですよ。僕らは大喜びしたんですが、けっきょくはどれがコーポレートキャラクターになるかは決まらずに流れたんですよ。
大島 私、そのプレゼンを当時の社長にしましたよ。私は中途採用だったので同期社員がいなかったこともあって、トイ事業部などいろんな部署の人に頼んでぬいぐるみやステーショナリーグッズなどを作ってもらったうえで、ゲームが動いている形で挑んだんです。
中 思い出した。それでも公式なアナウンスはなかったと思うよ。大川(功氏。CSKグループ創業者で1980年代よりセガの会長を努め、2000年からは社長も兼任)さんが社長の時代には一度名刺にソニックが印刷されていましたけどね。
飯塚 隆氏(以下、飯塚) 20周年のときにも名刺をソニック柄にしたことがあります。あとは名刺に貼る用のシールを作ったりもしましたよね。でも公式にコーポレートキャラクターになった事実はない(笑)。
中 社歌の“若い力”なんかは会議の決議を経て決まっているんですが、コーポレートキャラクターを決める会議はその後行われていないと思います。
飯塚 だから、というわけではないのですが、今回私がアメリカへ渡り、現地で直接キャラクターIPのハンドリングをすることになりました。
ソニック誕生までの紆余曲折。エッグマンも主人公候補だった!
――改めてソニックが誕生するまでのお話をお伺いします。先ほどのお話だと、ソニックはゲームありきで誕生したとのことですが。
中 ソニックがハリネズミになるまでって、紆余曲折を経ているんですよ。キャラクターとしてキチンと動き出したのは、耳で物を持って投げるアクションを備えたウサギになってから。でもライバル視をしていた『スーパーマリオブラザーズ』とは違って、スピードの速いゲームを作ろうとして試行錯誤していました。
大島 まだキャリア3年目くらいのペーペーな自分でしたが、ナンバーワンプログラマーと呼ばれていた中さんと仕事をしたいと、いっしょになってキャラクターを作り始めたんです。完成形がどういうゲームになるかのイメージが浮かばないなかで、前述のウサギをデザインしたところ中さんは「俺はもっと、ボールみたいになって転がっていくのが作りたい」といったんです。
飯塚 (ボソリと)『パンダコパンダ』ですよね。
大島 そうそう。イメージソースは『パンダコパンダ』(1972年公開の劇場用アニメ。監督は高畑勲氏、脚本は宮崎駿氏で、『となりのトトロ』の原型とも評される)だって。
中 ゲームの企画を考えるたびにパンダを主人公にしたくて、『パンダコパンダ』の話をしていたんですよ。僕も大島も宮崎駿さんの作品が大好きなんでね。
大島 で、それまで考えていたキャラクターがボールになることを想定していなかったので、「さて、どうしよう」とまた悩んで、最終的にたどり着いたのが、ハリネズミとアルマジロなんです。
中 でんぐり返しで転がって敵を倒すというのは僕が高校生のときから温めていた秘蔵のアイデアで、本音では使いたくなかったんです。でも、ウサギが物を投げるゲームだと、物を投げるたびにいちいちストップするのがイヤだよね、という壁にぶち当たったときにしぶしぶと披露をして。
(一同笑)
中 でも、大島は理屈っぽいから「丸まって敵を倒すとかおかしいじゃないですか!」って反対してね(笑)。だったらハリネズミやアルマジロといった、背中の硬い動物にしようとなって企画が転がっていったんです。デザインの中には後のドクターエッグマンとなるキャラクターもいたんですけど、それも主人公候補のひとりでしたから。
大島 個人的なイチオシはエッグマンで、デザイン段階ではもっと体が丸かったんです。ソニックの体の色を青にしたのは、セガのイメージカラーにあわせてですね。
中 名前を決めるときもひと悶着あって、光速は英語で“ライトスピード”……しっくり来ないなと。話し合いが深夜までもつれ込んだときに、誰ともなしに口にした「音速は“ソニック”って言うよ」というのを聞いて「それだ!」って。アルマジロじゃなくてハリネズミになった理由は、トゲがあるほうがスタイリッシュでカッコよかったからだったよね。
大島 そうですね。それで、クラシックソニックのイラストができあがる前段階では少しデザインにツメの甘い部分があったんですが、アミューズメント部署のデザイナー牧野(卓氏。『戦国大戦』などのカードイラストを手掛ける)さんにお願いしてフィギュアを作ってもらったんですよ。あの当時の型が残っていたら、また作って欲しいなあ。
中 『超人ロック』の髪の毛みたく、ソニックの頭部がどんな形なのかを把握できていなかったんですけど、牧野さんが立体にしてくれたことで大島がさらに理解して、ソニックのデザインがさらにリファインされていって完成に至ったんです。一度立体物を作るという流れは、まるでピクサー映画の制作過程みたいでしたね。
大島 当時ハリウッドで流行のやりかたを、ちょっと真似をしたところはあるかも(笑)。
飯塚 立体物といえば、25周年記念でクラシックソニックのフィギュアをプライズ景品として制作中です。6月25日に開催されるバースデーイベントには間に合うと思います。