サイゲームスより配信中のiOS、Android、PC(DMM GAMES)対応ゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』で、2022年1月20日に新たな育成ウマ娘“★3[日下開山・花あかり]サクラチヨノオー”が実装された。その能力や、ゲームの元ネタとなった競走馬としてのエピソードを紹介する。

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『ウマ娘』のサクラチヨノオー

公式プロフィール

●声:野口瑠璃子
●誕生日:2月19日
●身長:156センチ
●体重:微減
●スリーサイズ:B80、W55、H83

素直で良い子で普通なウマ娘。
マルゼンスキーに憧れており、彼女に挑戦できる自分になるため、ひたむきに努力を重ねている。
日課は、日々の気づきを格言にして記録すること。
気づきがしたためられた通称・チヨノートには、絶妙に伝わらない例えが書き連ねられている。

出典:『ウマ娘』公式サイトより引用

【ウマ娘】サクラチヨノオーはサクラ軍団の悲願を達成したダービー馬だった。現役時代の活躍やゲームの元ネタを紹介
画像は『ウマ娘』公式サイトより

サクラチヨノオーの人となり

 美浦寮所属。素直でマジメな努力家で、いつも一生懸命走る優等生。コミック『ウマ娘 シンデレラグレイ』ではヤエノムテキとバチバチ火花を散らすシーンも描かれており、じつは気が強い。

 リアルでも同い年であるオグリキャップやヤエノムテキ、メジロアルダンたちとよくいっしょにいるようだ。ちなみにオグリ世代にはほかにスーパークリーク、バンブーメモリーなどがいるが、じつはチヨノオーはオグリキャップやスーパークリークとは一度も対戦することがなかった(ヤエノムテキとは1勝2敗、メジロアルダンとは1勝0敗、バンブーメモリーとは0勝2敗)。

 憧れのウマ娘はマルゼンスキー。じつはリアルでは実の父であり、そこから生まれた設定だと思われる。なお、2021年の日本ダービーを記念してサイゲームスが公開した応援イラストには、マルゼンスキーとともにその姿を見せている(もうひとり描かれているダービー馬スペシャルウィークはマルゼンスキーの孫)。

【ウマ娘】サクラチヨノオーはサクラ軍団の悲願を達成したダービー馬だった。現役時代の活躍やゲームの元ネタを紹介
画像は『ウマ娘』公式Twitterより

 そのマルゼンスキーにはドライブに誘ってもらったことがあるらしいのだが、じつはチヨノオーは乗り物に弱く、ドライブはさんざんだったようだ。

 また、何かと格言っぽい言葉を口にしているが、絶妙に伝わらない。1コママンガの「にんじん食して天命を待つ」など、お嬢さまのメジロアルダンも苦笑するほどのボケっぷりである。

【ウマ娘】サクラチヨノオーはサクラ軍団の悲願を達成したダービー馬だった。現役時代の活躍やゲームの元ネタを紹介

 勝負服時の白いウマミミカバーは、リアルでつけていた白いメンコが元ネタだと思われる。また、その勝負服のカラーリングも、リアルのピンク地に白一本輪という配色が反映されたもの。桜をモチーフにした髪飾りや勝負服の模様は“サクラ”の名前からだろう。

【ウマ娘】サクラチヨノオーはサクラ軍団の悲願を達成したダービー馬だった。現役時代の活躍やゲームの元ネタを紹介

サクラチヨノオーの能力

 サクラチヨノオーの成長率は、スピード+10%、根性+10%、賢さ+10%。モデル馬がマイルと中距離で好成績を残しているため、マイルと中距離の適性がAとなっている。戦法は先行がAだ。

 固有スキル“憧れは桜を越える!”は、「残り300メートルを切って好位置にいるとき、前のウマ娘との距離が近いと強い想いが花開き速度が上がる」という能力。加速スキルと組み合わせるとよさそうだ。

 またレアスキルは、“春一番”と“スピードスター”を持つ。

【ウマ娘】サクラチヨノオーはサクラ軍団の悲願を達成したダービー馬だった。現役時代の活躍やゲームの元ネタを紹介
【ウマ娘】サクラチヨノオーはサクラ軍団の悲願を達成したダービー馬だった。現役時代の活躍やゲームの元ネタを紹介

競走馬のサクラチヨノオー

サクラチヨノオーの生い立ち

 1985年2月19日、北海道静内町(現新ひだか町)の谷岡牧場にて生まれる。父はマルゼンスキー、母はサクラセダン。

 4つ上の全兄はサクラトウコウ。ダービーはケガで断念したものの重賞2勝を挙げた素質馬で、のちに種牡馬になり、1994年の天皇賞(秋)を制したネーハイシーザーを輩出した。『シンデレラグレイ』のチヨノオーの紹介にある“幼いころ練習相手になってくれた兄”は、このサクラトウコウのことだと思われる。

 また、ひとつ下の半弟には、GI朝日杯3歳ステークス(現朝日杯フューチュリティステークス)を制したサクラホクトオーがいる。

 チヨノオーの名前の由来は、オーナーの冠名“サクラ”+当時圧倒的な強さを誇った大横綱“千代の富士”から。なお、弟のホクトオーも横綱“北勝海(現八角理事長)”が由来である(ともに九重部屋所属だった)。

 チヨノオーの配合は、兄のサクラトウコウが1983年の函館3歳ステークスを勝ったのを見て「成功したから同じ配合にしてみよう」ということで決められた(じつは2歳上の兄も同じ配合)。しかし全兄弟とはいっても2頭の体型は少し違い、チヨノオーは切れ味で勝負していた兄と比べると、長い距離に向いていると見られていたようだ。チヨノオーは関係者の評価も上々で、生後数日で馬主、調教師、主戦騎手まですべて決まっていた。

 馬体重は460キロ台とやや小柄だったが、かわいらしい顔立ちをしていて人気があった。『ウマ娘』のチヨノオーのビジュアルが、かわいい系なのはそのせいかも? レースでは先行抜け出しの正統派スタイルから「優等生みたい」と呼ばれていたが、気性はけっこう荒く、また周囲を気にするところがあったため、朝日杯3歳ステークスから矯正馬具をつけている。重馬場も苦手だったようだ。

【ウマ娘】サクラチヨノオーはサクラ軍団の悲願を達成したダービー馬だった。現役時代の活躍やゲームの元ネタを紹介

サクラチヨノオーの血統

【ウマ娘】サクラチヨノオーはサクラ軍団の悲願を達成したダービー馬だった。現役時代の活躍やゲームの元ネタを紹介

 父マルゼンスキーに関しては、もはや言うことはないだろう。8戦8勝、“スーパーカー”と呼ばれるほどのとんでもない能力を誇り、わずかなあいだに日本競馬を席巻した元祖“黒船”である。

 出られるレースがなかったために短いところばかり走っていたが、能力的には長い距離も走れたと言われる。マルゼンスキーはスタミナが豊富なニジンスキーの血を持っており、実際に子もだいたいクラシックディスタンス(2000~2400メートル)まではこなしていた。さらに母の父としては、3200メートルの天皇賞(春)を勝ったスペシャルウィークを出している。

 また、マルゼンスキーの産駒には早熟傾向もあまりなかったので、サクラチヨノオーもケガなく走っていれば、歳を重ねてからも活躍できていた可能性は高い。

 母サクラセダンは現役時代26戦6勝。重賞になる前の中山牝馬ステークスに勝った、谷岡牧場のエース繁殖牝馬だった。

 サクラセダンの父セダンはイタリア生まれで、イタリアダービーなどを制した名馬。種牡馬になってから日本に輸入され、1971年のダービー馬コーネルランサーなどを輩出した。
 
 一方、サクラセダンの母スワンズウッドグローヴはイギリスから輸入された繁殖牝馬で、なぜか牝馬ばかり生んだが、そのほとんどが“サクラ”の活躍馬を出した谷岡牧場のレジェンドである。

【ウマ娘】サクラチヨノオーはサクラ軍団の悲願を達成したダービー馬だった。現役時代の活躍やゲームの元ネタを紹介

サクラチヨノオーの現役時代(馬齢表記は現在のものに統一)

 生まれた直後から将来を嘱望されていたチヨノオーは、1986年、1歳の年末には早くもトレセンに入厩することになる。所属は美浦の境勝太郎厩舎。境師はサクラ軍団を支えた名伯楽で、後にサクラバクシンオーなども手掛けている。そして、主戦はこれまた、サクラと言えばの小島太騎手だった。

2歳(ジュニア級:1987年)

 8月8日、函館競馬場芝1000メートルの新馬戦でデビュー。血統のよさや、調教での走りの順調さからなんと単勝1.0倍という圧倒的1番人気に推される。不良馬場ではあったものの、能力の違いを見せ付けて2番手からサッと抜け出し楽勝。あまりにもラクな展開に、幼いチヨノオーはキョロキョロしたりフラフラしたりしていた。

【ウマ娘】サクラチヨノオーはサクラ軍団の悲願を達成したダービー馬だった。現役時代の活躍やゲームの元ネタを紹介

 その後は美浦に帰還し、短期休養を挟んで10月の中山芝1600メートル戦の芙蓉特別(現在の芙蓉ステークス)に出走。同じように先行して直線で抜け出し、2勝目を挙げる。

 3戦目は東京競馬場のいちょう特別(現在のサウジアラビアロイヤルカップ)。不良馬場に手こずったのと、今後を考えて後方に控える競馬を覚えさせようとしたら前に出られなくなり、2着に敗れる。意外に不器用なところがあったようだ。

 そして、チヨノオーは12月の朝日杯3歳ステークス(表記は当時のもの)に歩を進める。当時の朝日杯3歳ステークスは中山で開催される牡牝混合戦で、関東の2歳チャンピオン決定戦とみなされていた。

 しかし、この年は関東が大雪に見舞われてしまい、当初12月6日に開催されるはずだったレースが、何度も延期されけっきょく2週後の12月20日にようやく行われる。この延期と有力馬の故障もあって、なんとたった6頭でのレースになってしまうのだった。

 このレースから、周囲の雑音をカットして走りに集中させるためにメンコ(耳カバー)を装着することになる。1番人気に支持されたチヨノオーは、2コーナーから3番人気ツジノショウグンとランデブーを開始。最後の直線になっても2頭は競り合ったままだったが、最後の最後でクビ差退けて勝利を収めた。

1987年 朝日杯3歳ステークス(GⅠ) | サクラチヨノオー | JRA公式

 なお、朝日杯3歳ステークスは、『ウマ娘』に登場するキャラクターではマルゼンスキー、アイネスフウジン、ミホノブルボン、ナリタブライアン、フジキセキ、グラスワンダーらも勝利している出世レースでもある。ちなみに、1950年に開催された第2回では、伝説の名馬トキノミノルも勝利している。

※2022年1月20日追記:マルゼンスキーを追加。

【ウマ娘】サクラチヨノオーはサクラ軍団の悲願を達成したダービー馬だった。現役時代の活躍やゲームの元ネタを紹介

3歳(クラシック級:1988年)

 年明け初戦は2月の共同通信杯(トキノミノル記念)。相手も弱いということで軽めの調教で出走したチヨノオーだったが、まったく体が動かずに4着に敗れてしまう。

 すると陣営は皐月賞ではなく弥生賞へ出走させることを決める。この年の弥生賞は中山ではなく東京競馬場での開催。そしてここには、阪神3歳ステークスに勝利した関西の2歳チャンピオンで、前年度の最優秀3歳牡馬(現2歳)に輝いたサッカーボーイもいた。

 ちなみに、サッカーボーイは尾花栗毛の美しい馬体をした馬で、後にマイルチャンピオンシップも制している。また、『ウマ娘』ファンのあいだでは、『シンデレラグレイ』のディクタストライカのモデルとも。サッカーボーイの父“ディクタス”と、サッカーの“ストライカー”を合わせた命名だろう。

 さらにちなむと、サッカーボーイは父ディクタス譲りの気性の荒さでも有名だった。3歳下の全妹ゴールデンサッシュもそれは同様で、種付け時に種牡馬に噛みつこうとしたというエピソードがあるくらいなのだが、そんなゴールデンサッシュとこれまた気性難で知られるサンデーサイレンスとのあいだに生まれたのが、ゴールドシップの父であるステイゴールドだった。ゴールドシップが現役時代に見せた数々の奇行の遠因は、もしかするとサッカーボーイ一族の血にあるのかもしれない。

 さて、少し話がそれてしまったが、この弥生賞には、そんなサッカーボーイが1番人気として参戦してきた。関東チャンピオンのチヨノオーにとっては、プライドを賭けた負けられない戦いだった。

 しかしレースは意外な展開に。どの馬も逃げたがらず、一瞬お見合い状態になってしまったのである。そこでしかたなくチヨノオーが逃げることに。しかたなくなので積極的には前に行かず、必然的にスローペースになったのだが、追込馬のサッカーボーイにとってはこれが災いした。ほかの馬が壁となって大外を回らされ、気付けばチヨノオーとはかなりの差に。スローペースだったので逃げたチヨノオーは余力たっぷりで、2着トウショウマリオに2馬身の差をつけ楽勝。皐月賞の優先出走権を手に入れた。

【ウマ娘】サクラチヨノオーはサクラ軍団の悲願を達成したダービー馬だった。現役時代の活躍やゲームの元ネタを紹介

 皐月賞は弥生賞と同様に東京競馬場で行われたが、最有力と見られていたサッカーボーイや、共同通信杯でチヨノオーを下したミュゲロワイヤルらが故障のため、相次いで回避を表明。どの馬が勝ってもおかしくない戦国レースになったと見られていた。朝日杯、弥生賞とふたつの重賞を制しているチヨノオー陣営にとって、本命と見られないのは不満の残る評価だが、そのふたつのレースはいずれも内容がよくなく、フロック(まぐれ)と見られていたのだった。

 そんな中、レースは平均ペースで進む。このペースで得をするのは先行馬のチヨノオーだ。そして最後の直線に入り、逃げ馬を捉えて先頭に立つチヨノオー。いつもの勝ちパターンに入ったかと思われたが、先頭に立ってからのもうひと伸びがなく、後方から追い込んできたヤエノムテキとディクターランドにかわされ、3着に終わってしまう。チヨノオーに先着した2頭は、いずれも毎日杯でオグリキャップに惨敗した馬たち。このため、チヨノオーへの評価は3着に入っても上がることはなく、むしろダービーに向けてさまざまな不安材料が囁かれることに。

 迎えた日本ダービー。陣営には、何としてもダービーに勝ちたい理由があった。チヨノオーの兄サクラトウコウは直前に故障して出走さえできなかった。そして前年に皐月賞、菊花賞を制した僚馬サクラスターオーが、この日の直前、長き闘病の末に亡くなった。さらにチヨノオーの父マルゼンスキーは持込馬ゆえにダービーには出走さえ許されなかった。彼らの無念を晴らすためにも、陣営は何としても勝ちたかったのだ。

 1番人気はサッカーボーイで、2番人気はヤエノムテキ。チヨノオーは3番人気に落ち着いた。しかしサッカーボーイは前哨戦のNHK杯でも4着に敗れており、決して本調子ではなさそうである。むしろ、NHK杯でサッカーボーイに先着したメジロアルダンやコクサイトリプルのほうが脅威に思えたと、後に小島騎手は語っている。

 果たして、レースはその通りになった。チヨノオーは先行策から最後の直線に入ったところで先頭に躍り出る。しかし、内からメジロアルダン、外からコクサイトリプルとヤエノムテキが追い上げてきて、メジロアルダンにはかわされてしまう。ここで皐月賞の経験が活きたのか、小島騎手は慌てずに坂を上りきったところまで待って再び加速の指示を出したのだ。反応したチヨノオーはゴール直前でメジロアルダンを差し返し、悲願の優勝を成し遂げるのだった。しかも当時のレコードタイムで……。

1988年 日本ダービー(GⅠ) | サクラチヨノオー | JRA公式

 このレースにいたるまで「優等生的なものを打ち破るだけの力がない」と言われ続けてきたチヨノオーだったが、とてつもない“ド根性”で見事打ち破ってみせた。

 ところが、あまりに激しすぎたレースの反動か、右前脚に屈腱炎を発症してしまう。サラブレッドにとって“不治の病”とも恐れられる重症である。療養のため、チヨノオーはじつに約1年もの離脱を余儀なくされるのだった。

【ウマ娘】サクラチヨノオーはサクラ軍団の悲願を達成したダービー馬だった。現役時代の活躍やゲームの元ネタを紹介

4歳(シニア級:1989年)

 ダービーから1年、ようやくチヨノオーはターフに帰ってきた。350日ぶりの復帰戦となった安田記念では3番人気に支持される。しかし久々がたたってか、何も出来ずに16着に敗れてしまう。優勝したのは同期のバンブーメモリー。3歳時は裏街道を歩んだ遅咲きのスプリンターにとって、初の栄誉となった。

 チヨノオーはその後、宝塚記念へと向かうが、残念なことにレース中に故障を発生してしまう。何とか完走は果たしたものの、屈腱炎が再発していることが明らかになり、引退が決まった。命に関わるほどの重症でなかったことだけが救いである。

 通算10戦5勝、重賞3勝(うちGI2勝)、獲得賞金は約2億890万円。ケガのため活躍期間こそ短かったが、個性派の強豪が集ったオグリキャップ世代のダービー馬という栄光はまったく色褪せない。血統的に早熟馬でもなさそうだし、もしケガがなかったらオグリキャップやスーパークリークらとどんな戦いをくり広げたのだろうか……と詮なきことを考えてしまうほど、魅力的な競走馬だった。

 なお、この時期はオグリフィーバーに端を発する第二次競馬ブームのまっただ中。競走馬グッズも売れ行きがよかったようで、チヨノオーの引退後にはクレーンゲームのプライズなどでぬいぐるみも作られた。

【ウマ娘】サクラチヨノオーはサクラ軍団の悲願を達成したダービー馬だった。現役時代の活躍やゲームの元ネタを紹介
担当編集者の私物。じつに30年近く前のもの。

サクラチヨノオーの引退後

 宝塚記念の後、1989年6月25日に札幌競馬場にて引退式が行われ、翌年より種牡馬入り。初年度産駒のサクラスーパーオーが皐月賞で2着に入り、その後も重賞勝ち馬を2頭出している。2002年をもって種牡馬を引退、新和牧場で功労馬として余生を過ごすことになる。

 エサをくれる人以外にはキツいところもあったようだが穏やかな老後を送り、2012年に老衰のため死去。27歳での大往生だった。

著者近況:ギャルソン屋城

 リアル競馬&競馬ゲームファンでもある、週刊ファミ通『ウマ娘』担当ライター。誕生日:9月5日、身長:168センチ、体重:ベストより重め

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