2013年から2015年末にかけてのインディーシーンに密着
アン・フェレロ監督によるドキュメンタリー映画「Branching Paths」(ブランチング・パス)の評をお届けする。7月29日よりPlayismとSteamで配信中。価格は980円で、全83分。なお8月5日まで10%オフの882円で販売される。
この映画は、日本のインディーゲームシーンを開発者側の視点から追ったドキュメンタリー作品だ。登場するのは、さまざまな立場のインディーゲーム開発者たちと、パブリッシャーやメディア、開発ツールのメーカーなど、彼らを取り巻く周辺産業の関係者。2013年から2015年にかけて、それまであったものと交じり合いながら、「インディーゲーム」という概念をどう捉え、シーンを形成していったかが描かれている。
一定しないそれぞれの「インディーゲーム」観にこそ意味がある
さて、簡単なようでなかなか難しいのがその根本の部分、「そもそもインディーゲームとは何なのか?」という問題だ。というのは、この言葉/概念は欧米のすでに成立したシーンから輸入されたものだからだ。実際、映画の前半のそれなりの部分がこの点に割かれていて、ある人が自分なりの解釈を示したかと思えば、また別の人が同人ゲームとの対比で違いや同一性を語るといった具合に、その時点でのそれぞれの「インディーゲーム」像が浮かび上がっていく。
面白いのが、ほとんどの人が妙に歯切れが悪く、またそれぞれが語るイメージも一致しないこと。「作りたいものを作るのがインディーなんじゃないか」という精神論に近い解釈がされた数分後、インディーゲームとの対比として生活から一旦切り離された趣味性の追求が同人の本質として挙がり、かと思えば今度はさらに逆に、同人として生計を立てる人の存在が示されたり、結局どちらも似たようなものなんじゃないかなんて人も出てくるのだから、それぞれの界隈が持つ微妙なニュアンスを把握している人でなければきっと混乱するはずだ。
それは当然のことだ。これは混乱の中でそれぞれが自分に照らし合わせたり自分の活動のありようを再認識しながら、新しい概念と向き合っていく話でもあるのだから。その中で、この映画が扱っている2013年夏ごろからの流れの直前の出来事として欠かすことはできないのが、その年の春に第1回が行われ、今年も京都で開催されたインディーゲームイベント“BitSummit”(ビットサミット)だ。
このイベントが、主に海外の言葉であった「インディーゲーム」を意図的かつ積極的に日本の個人開発者や小規模チームによるゲームに適用し、「日本のインディーゲームを海外に発信する」というテーマのもとに新しい流れを生み出そうとしたのは、非常に刺激的な出来事だった。このことが、東京ゲームショウのインディーゲームコーナーや、ビットサミット以外のインディーゲームイベントの設立に影響しているだろうことに異論を唱える人はあまりいないだろう。この映画はそんな、「ビットサミット以降」に起きた、インディーゲームという概念の受容の過程を描いてもいるのだ。
それもこれもインディーだ
ここらで答え合わせをすると、「作りたいものを作る」というのが全てではないが、それはインディーゲームのありかたとして正しい。海外のインディーゲーム開発者たちを描いたドキュメンタリー「Game Loading: Rise of the Indies」でも、まさに同様のことを有名インディーたちがモチベーションに挙げている。もちろん売れて生計が立てばそれに越したことはないし、そのための努力を彼らは惜しまないが、作中の言葉を借りればぶっちゃけ、「次のゲームを作るまでの家賃が払えればいい」のだ。
そしてインディーゲームは、そんな精神論が定義の代わりになりえるぐらい、実際は広汎なものだ。「多くても5人以下ぐらいの少数精鋭の天才がSteamとかの海外マーケットで売っている、何かアーティステイックで独創的なゲーム」みたいなありがちなイメージだけがインディーなわけではない。
それで生計を立てていようが、本業と別の趣味としてやっていようが、同人ゲームはまったくもってインディーである。メインの言語や地域やセールスの大きさはもちろんインディーかどうかに関係ない。フリーゲームも、ゲームの仕組みを利用したワンオフのインタラクティブアートもインディーだ。アメリカで行われるアート系インディーのイベントIndieCadeには、ビデオゲームとして売りようがないゲームが山程存在する。
パブリッシャーがついたりプラットフォーマーから開発費が補助されたからってインディーじゃなくなるわけではない。クリエイティブ面のコントロールを維持できていれば、それはインディーだ。なんだったらちょっと小さなスタジオで会社員として作っているのもインディーになりうる。クラウドファンディングで巨額の資金を集められる、コンソール(家庭用ゲーム機)業界からやってきた大物だって、インディーと見なせる。
ただし、該当する人がそう主張するかは別の話で、開発者がPRなりマーケティング、あるいはコミュニティとして力を発揮するためにそれが役に立つなら利用するだろうし、その必要がなければそうすることもない。ただ、あれもこれもインディーとして解釈可能なことだけが事実としてある。なんせ厳密に線を引けるのは、「資本的に独立している(インディペンデントな)開発者および集団によるゲーム」というぐらいの部分しかないのだ。
ちなみにインディーに「独創的な」といったイメージがあるのは、インディペンデントという言葉が内包する、資本だけじゃない「意志の独立」と関係している。「作りたいものを作る」とは、まさにこのことだ。音楽ジャンルで言う「インディー・ロック」が「オルタナティブ・ロック」と密接に関係しているように、インディーゲームは往々にして大手のゲームにはないオルタナティブ(別の選択肢)な楽しみを提供する(その最大のものは『マインクラフト』で、その大手メーカーのゲームを超えたヒットが与えた影響は、後述する「Minecraft: The Story of Mojang」でも触れられている)。
で、実はこんな話をするのはこれが初めてではない。ビットサミットの第1回と第2回の前に記者が主催のジェームズ・ミルキーに行ったインタビューでも、双方でいろんなインディーのありようを示したし、フリーランスや起業に関する事情が欧米と異なるが故の「日本的なインディーの形」を広義のインディーとして扱った(どれだけ伝わったかはともかく、これはインディーの定義を狭くしないために意図的に行った。ちなみに初回のも、2回目のもファミ通.comで読むことができる)。
正解のない生き方の物語
インディーの定義の話で脱線が続いたので、話を映画に戻そう。この映画に出てくるゲーム開発者は誰も彼もが一種のインディーということがわかると、今度はゲームを超えた新たな普遍的なテーマが浮かび上がってくる。
この映画では、本業にするか、趣味の範囲にするか、無料にするか、犬のご飯代ぐらいは稼ぐか、起業して会社として勝負するか、インディー的なスタジオに入るか、チームでやるか、ひとりでやるか、作りたいものを追求するか、ファンのニーズをどれだけ取り込むか……職業としての選択・創作の自由・収入といった事情のバランスが異なるさまざまな人達が、「インディーゲーム」というキーワードのもとに自分の選択を語る。それはつまり、日本でゲームという表現方法を選んだ一種のアーティストの生き方の話だ。
だからこそ、海外経験者として「インディー」をそのまま理解する『Downwell』のもっぴんが、「いい作品を作れさえすれば、それは絶対評価されると思っていて」、「(それで)生活するのは可能だろうなとは思っています」と理想論を語る場面で映画が始まり、彼のゲームがリリースされて「日本でインディーゲームを広めていきたいので、当分は日本で活動していきたいですね」と語るところで終わるのは当然のことだ。
既存のどこのコミュニティからでもない、最初からインディーを目指した新世代である彼こそ、さまざまなありようが存在するインディーという「ブランチング・パス」(枝分かれした道)の新たな枝なのだから(映画には『Downwell』リリース前にも関わらず、すでに彼に影響されてゲーム開発を始めた人まで登場する)。個人的に優れたドキュメンタリーとは、そこで扱っているニッチなテーマを超えた普遍的なものを提示できる作品だと思う。その意味で本作は一級のドキュメンタリーだ。