『実況パワフルプロ野球』シリーズ歴代クリエイター座談会! 『パワプロ』職人たちの開発秘話が満載【完全版】

2014年で20周年を迎えるKONAMIの人気野球ゲーム『実況パワフルプロ野球』シリーズ。その歴代クリエイターによる座談会の模様をお届け。

●『パワプロ』の20年を支えた『パワプロ』職人たち

 2014年で20周年を迎えるKONAMIの人気野球ゲーム『実況パワフルプロ野球』(『パワプロ』)シリーズ。週刊ファミ通2014年11月6日号(2014年10月23日発売)では、同シリーズ20年の歴史を支えた『パワプロ』職人たち7名の方々に、『パワプロ』シリーズの過去作から最新作について、そして気になる開発時の裏話などさまざまな話をうかがった。今回は、誌面に掲載しきれなかったお話も含めた完全版として座談会の模様をお届けする。


●座談会参加クリエイター

パワプロ/全員
パワプロ/谷渕さん パワプロ/豊原さん パワプロ/西川さん

谷渕 弘氏(たにぶちひろし)
『パワプロ2』から制作に関わり、過去作でディレクター、プロデューサーを務めた。現在はベースボールコンテンツプロダクションの各タイトルに関わる。

豊原浩司氏(とよはらこうじ)
『パワプロ』1作目から参画。おもに野球部分を担当。『パワプロ』や『プロ野球スピリッツ』シリーズの制作全般に関わっている。

西川直樹氏(にしかわなおき)
『パワプロ』は初代から『5』まで制作に携わり、その後『パワポケ』シリーズを『14』まで担当。『パワプロ13』でイベントの監修を行った。

パワプロ/池本さん パワプロ/成田さん パワプロ/森さん パワプロ/長澤さん

池本健二 (いけもとけんじ) 氏
サクセスの制作に深く関わっており、栄冠ナインを生み出した中心人物。『パワプロ2014』の栄冠ナインも企画・調整を担当した。

成田藤智(なりたふじとも)氏
『パワプロ6』から参加。選手データ、野球、実況、采配、ペナント、マイライフらを担当。現在は『プロスピ』シリーズの制作や選手データ作成を担当。

森博信(もりひろのぶ) 氏
家庭用ハードやスマートフォンで、さまざまなタイトルを制作した。『パワプロ2013』に続き、『2014』でもプロデューサーを務める。

長澤祐介(ながさわゆうすけ)氏
『パワポタ4』の制作に携わったあと、『パワプロ2010』からサクセスを担当した。『パワプロ2014』ではディレクターを務めている。

●知られざる『パワプロ』誕生の背景とは?

――『パワプロ』シリーズ20周年、おめでとうございます。今日は歴代の『パワプロ』開発者の方に集まっていただきまして、歴史を振り返っていきたいと思います。まずは、そもそも『パワプロ』はどのように誕生したのですか?

西川直樹氏(以下、西川) 1993年の正月明けに、いきなり「野球ゲームを作れ」と言われまして。当時はJリーグの開幕前だったので、最初は不満タラタラでしたね。

――世間的にはサッカー一色なのに、「なんで野球なんだ?」というところから始まったんですね。

西川 サッカーゲームのチームも立ち上がっていたのですが、野球ゲームも……という判断だったんでしょうね。『生中継68』(※)をベースに、ホーム側からの視点から見たものにしてほしいという上からの指示もありましたね。

※『生中継68』:豊原浩司氏らが制作し、1991年に発売されたPC(X68000)用のリアル系野球ゲーム。テレビ中継を意識した視点、ピッチングやバッティングのシステムなど、のちに発売される『実況パワフルプロ野球’94』のもととなっている。

――そこから『パワプロ』の制作が始動したんですね。

西川 そうです。最初、僕らは“てけてけプロ野球”と言っていました(笑)。

――なんと! てけてけプロ野球(笑)。

西川 重りを引っ張ってカタカタと動くオモチャがあるじゃないですか? パワプロ君のデザインはそれをイメージしたものでした。そのデザインで盛り上がって、「よし、『てけてけプロ野球』にしよう」と、当時のリーダーが報告にいったら、暗い顔をして帰ってきたんですよ。「メッチャ怒られた」と(笑)。

――あっさり却下でしたか(笑)。

西川 その後、当時の野球ゲームにはなかったアイデアをたくさん詰め込んで、ギリギリまで作り込みました。そして「やっと完成した!」と喜んでいたら、その日の晩にものすごいバグが出て、大騒ぎになったという記憶があります。

――まさか、その日の晩とはすごいタイミングですね……。

西川 また、もうひとつの思い出話なのですが、スーパーファミコンは、“バンクシステム”という仕組みの仕様上、データを入れられる容量が決まっているんですよ。実況などのサンプリングの音声データは使える容量が決まっていて、ひとつの領域に詰められるだけ詰めないといけなかったんです。

――当時のメディアはいまと違ってROMでしたからね。しかも、まだ高価な時代でした。

西川 ひとつずつボイス音声で費やすデータ量を調べて、その数値をひたすら紙に書き出して計算機で足し算をしていたんですよ。ROMに隙間なく収められるようにするためです。うまく行かなかったらデータを並べ替えたりして、手作業で試行錯誤していました。つぎの年からはプログラマーが見るに見かねて、自動で並び替えてくれるプログラムを作ってくれましたが(笑)。

――当時は豊富なボイス音声が収録されていたことが画期的でしたが、そんな苦労があったのですね。ちなみに、最初の『パワプロ』は何人くらいで開発されていたのですか?

豊原浩司氏(以下、豊原) プログラマー3人に、デザイナーがふたり。計5人です。

西川 この5人が横一列にならんで作業していました。オフィスの端で(笑)。でも、その後ろにいろんなゲームの試遊スペースがあったんですよ。確か『2』の制作時に、『ときめきメモリアル』(以下、『ときメモ』)を遊んでいたら、谷渕君と豊原さんがうしろからじっと見ていて、恥ずかしい思いをしました(笑)。

豊原 これはもう、『3』の話に移っていくね。このことが『3』から搭載されたサクセス開発の秘話につながるんです。


●サクセスのヒントは『ときめきメモリアル』だった

――サクセスが搭載されたのは『3』からでしたね。

池本健二氏(以下、池本) 『2』の開発時に、チームで『ときメモ』が流行していたんです。

西川 『ときメモ』はよくできていましたよ。

谷渕弘氏(以下、谷渕) うん。それで、「これや!」と(笑)。

西川 「じゃあ、ウチも3年間で選手を作るモードを作ろうか」と冗談で言っていたんですが、よく考えたら「できるやん」って(笑)。

豊原 四季が変わるとBGMが変わる仕様も、そのまんま持ってきてね。

――そうなんですね。『ときメモ』チームの了承は取ったのですか?

谷渕・西川 いいえ(笑)。

――そんな!(笑)。『3』でのサクセスはどのような体制で開発されたのでしょうか?

豊原 僕が野球部分を作る手を止めて、サクセスを作りました。

――最初のサクセスは豊原さんが?

豊原 僕が練習と定期イベントをだいたい作って、西川君がランダムイベントを作る感じで進めていました。

池本 『2』の制作時には、もうすでにサクセスの原案はできていたのですか? 

谷渕 次回作の制作が始まるのはだいたいゴールデンウィーク明けからだったから、それまでは企画を進めていたはず。

池本 阪神大震災でたいへんだったころが、ちょうど『3』の企画時期だった。その前年の年末までは『2』のバグチェックをしていた覚えがありますから。

西川 谷渕君とパワーを数値で見せるか、アルファベットに置き換えるかで激論を交わしたのがちょうどそのころだったかな。「データはしっかり見せなあかん」、「いやいや、ロマンがあるからええんや!」と、帰り道にそれでずっとケンカしながら。

――『パワプロ』は、サクセス以外にも、新しいモードがどんどん追加されていきましたが、それはどういった理由からですか?

谷渕 新しいことがしたかった、というのがありましたね。『2』でペナントができて、球場の大きさも調整されました。豊原さんが「小さい。二塁打が出にくい」なんて言いながら調整していたんです。つまり、『2』である程度、野球部分をスタンダードなものにすることができたんです。それで、じゃあつぎは新しいことをしようと。その結果、サクセスが生まれました。サクセスも当初は、いまのマイライフみたいに一生やりたいと思っていたのですが、できるわけがない。だから、3年間。「『ときメモ』も3年間だから、3年間でいいか」と(笑)。

西川 すべては『ときメモ』なんです。

谷渕 それもあるのですが、当時、“3年で一軍に上がれなかったらクビ”という某球団の話を耳にして3年にしたんです。

西川 でも、それは後づけなんですよね。

谷渕 やっぱり『ときメモ』です(笑)。

西川 おもしろいことはガンガン入れたいという意欲があったんだと思いますよ。

豊原 やはり『2』で野球とペナントの基本部分ができたのが大きいです。振り返ってみると、現在のペナントの原型がすでにこのときにできていたのかなと思います。

谷渕 でも、彼女がいる野球ゲームというのは、作っている側もおもしろかったですね。「何じゃこれ?」といいながらも。

西川 僕は、豊原さんが作ったイベントの「野球をしていたあなたが好きだったの。さよなら」というのが好きでした(笑)。このバッドエンドがもう最高で。

池本 ありましたね。バッドエンドでプロ野球選手になれないときに、彼女に切られるやつですね(笑)。サクセスは十何年間続いていますが、『3』や『4』のころのイベントのセンスがいちばん好きです。自分がシナリオを書くときでも、これらのネタが大きな壁として立ちはだかっているんです。

西川 ちょっとダークな感じはあるよね。

豊原 そのころはプロ野球を題材にしたシビアな表現を忘れないようにチェックしていたからなあ。その名残りがいまでもパラメーターの動きにある気がします(笑)。

西川 ここは受け継いでもらわないと(笑)。

――(笑)。やはり、サクセスは作っている側も手応えはあったのですね。

西川 自分たちが楽しんでましたからね。

豊原 おもしろかったですよ。

西川 ひたすら選手を作って、ひたすらペナントで戦わせていましたし。とにかく、自分たちの作ったゲームで遊んでましたよね。対戦表が書き込みで真っ黒になるくらい。

――ちなみに当時は、チーム内でどういう遊びかたをしていたのですか?

豊原 出社してまず1試合、お昼を食べた後に1試合して、また夕方に1試合……仕事は夜中に(笑)。だから新人だった谷渕君は僕のことを“まったく仕事をしていない人”と思っていたんじゃないかな(笑)。

谷渕 休憩時間に仕事をしている人だと思ってました(笑)。

――なるほど(笑)。森さんと長澤さんは、まだ入社されていませんよね。おふたりが『パワプロ』に興味を持たれたのはいつごろでしたか?

 大学時代に『2』や『3』を研究室で、それこそずっと遊んでいました。友だち数人でペナントを進めていましたね。

長澤祐介氏(以下、長澤) 僕は小学生でした。『パワプロ』を持っている友だちのところに集まって対戦するのは、小学生にとって“通過儀礼”と言ってもいいくらいみんな遊んでいました。スーパーファミコンのころですから初代から『3』までの体験ですね。

――『パワプロ』は1作目から流行りましたよね。どこがよかったのでしょう?

谷渕 野球部分も、斬新といえば斬新でしたからね。しゃべりますし。

豊原 さきほども話に出たように、最初はROMの容量関係で実況かウグイス嬢のどちらかしか入らないと言われていました。結局、容量を増やしてもらって、どちらも入れることができたのでよかったです。