2023年8月27日、スクウェア・エニックスのオンラインRPG『ファイナルファンタジーXIV』(以下、『FFXIV』)が“新生”から10周年を迎えた。それを記念して、本作のプロデューサー兼ディレクターである吉田直樹氏へのロングインタビューを実施。13年前の『旧FFXIV』時代の経緯から、『新生エオルゼア』発売前後のエピソード、各拡張パッケージの開発コンセプト、そしてこの先の『FFXIV』の未来にいたるまで、たっぷりとお話をうかがった。
なお、8月31日発売の週刊ファミ通(2023年9月14日号/No.1813)の誌面や、新生10周年記念動画“ファイナルファンタジーXIVクロニクル”では、すでにインタビューの一部を公開済みだが、ここではそこで収まりきらなかった部分を含めてインタビューの全文を公開する。
※インタビューは2023年5月31日に実施したものです。
吉田直樹(よしだなおき)
スクウェア・エニックス 取締役執行役員 第三開発事業本部長。『ドラゴンクエスト』シリーズ初のアーケードタイトルである『ドラゴンクエスト モンスターバトルロード』シリーズのゲームデザインとディレクションを担当。2010年12月に『ファイナルファンタジーXIV』のプロデューサー兼ディレクターに就任。現在、『ファイナルファンタジーXVI』のプロデューサーも兼任している。文中は吉田。
プレイヤーと開発チームの相互理解を重視した運営
――新生『FFXIV』がサービス開始してから、今年の8月27日でついに10周年を迎えます。まずはいまの率直なお気持ちをお聞かせください。
吉田10周年に向けて結構前から運営チームがいろいろと動いてくれているのですが、現時点(インタビューを実施した5月31日)ではその日を迎えていないので、まだ実感がないというのが正直な感想です(笑)。
――10周年に向けた施策はこれからが本番ですからね。
吉田ちなみにゲーム内イベントの“新生祭”における異邦の詩人のテキストは、自分が必ず書いているのですが、『旧FFXIV』を担当してから10年経ったタイミングのテキストでは、すでに“10年”という単語に触れたことがあります。そのときにも書いたのですが、僕は“10年”という数字は、お祝いという感覚はあるものの、いまは光の戦士の皆さんのおかげで、通過点にさせていただいたなと思っています。
もちろん、MMO(多人数同時参加型オンライン)RPGというジャンルのゲームにおいて、10年間サービスが続いているタイトルは多くありません。それを成し遂げた開発チーム、運営・宣伝スタッフを誇らしく感じていますが、いまの状態であれば“もっと先”まで考えさせてもらえる、と思ったのです。
ですので、「そうか、もう10年か、じゃあもっと長く続けさせてもらえるから、その先をしっかり考えよう!」という気持ちが大きいです。
――10周年に先駆け、2021年の『暁月のフィナーレ』ではそれまで続いた“ハイデリン・ゾディアーク編”の物語がフィナーレを迎えましたが、区切りという意味ではそちらのほうが大きかったですか?
吉田そうですね。『旧FFXIV』から数えると10年以上にわたるお話で、『旧FFXIV』から続く設定や伏線をできる限り回収してプレイヤーの皆さんにお届けしたので、区切りとしてはそちらのほうが大きかったと思います。
――いまはそこから先に向かって踏み出しているところですね。
吉田締め切りに追われていた北米ファンフェスティバルの基調講演の下書きも終わりましたので、いよいよ“つぎに向かって”という感覚が強いですね。
――それでは、ここからは時代ごとにこの10年を振り返ってお話をうかがいます。まず『旧FFXIV』のサービス中に『新生エオルゼア』を発表したことについて、当時はどのようなプレッシャーがありましたか?
吉田これまでに何度かご質問いただいたのですが、当時プレッシャーはそこまで感じていませんでした。それはなぜかというと、実際に自分で『旧FFXIV』を遊んだ後に、志を同じに集まってくれたメンバーの力量を見て「これより悪くなることはないな」と感じたためです。
また当時の僕の年齢も37歳でしたので、「よし、ここがキャリアの1回目の集大成!」という気持ちも強かったと思います。“プレイヤーの皆さんに、少しでもよりよいゲーム体験をお届けする”という道しかなかったので、後ろ向きな気持ちはなく、それが結果的にプレッシャーを感じさせなかったのかもしれません。
もちろん、周囲の人間にも本当に恵まれていたと思います。その後『FFXVI』でも組んでいる高井(新生当時のアシスタントディレクターである高井浩氏。※)や皆川(新生当時のリードUIアーティストである皆川裕史氏)がいて、僕からするとふたりとも大先輩でした。多数の信頼できるメンバーがいて、そういった方たちが集まって、なんとしてもこの状況を変えよう、と同じ方向を向いて尽力してくれたことは、いまもなお僕の大きな財産のひとつです。
※:高井氏の“高”の字は、正しくははしごだかです。
――運営体制を一新される際に、すべてのスタッフを集めてミーティングを行ったとのことですが、そのときの心境はいかがでしたか?
吉田先ほど「プレッシャーは感じなかった」と言いましたが、いま振り返ると、この「全スタッフミーティング」のときがいちばん辛かったかもしれません(苦笑)。開発/運営スタッフが300人ぐらいいたのですが、僕はスクウェア・エニックスに入社してからドラゴンクエスト関連の開発に関わっていたこともあり、同じ社内でもそのほとんどが僕のことを知らない状態でした。
当時の『旧FFXIV』スタッフもすごく疲弊しており、自分たちが作ったものをなんとかリリースしたものの、大きな酷評を受けて、精神的にもかなり辛かったと思います。その集団を前にして、「これだけの人が関わるものの舵を切らなきゃいけないのか」と、規模の大きさ、多くの人の人生に直結するであろう事業になっていることなど、責任の重さを改めて感じました。
ですが、その場で「思い切ってやり直しましょう」という話をしたときに、スタッフの中に「うおー!」と興奮している者(サウンドディレクターである祖堅正慶氏)がいたんです。プロレスの試合で見る、“観客が興奮して手すりから身を乗り出す”ような感じで。「ああいうふうに“やってやるぜ”という人もいるんだ」と、その光景はすごくよく覚えていますね。
――新体制の発表後しばらくして、いまなお続く“プロデューサーレターLIVE”の配信が始まりましたが、開始された経緯を教えてください。
吉田じつは『FFXIV』に携わる前までのディレクターとしての自分は、“メディアさんの取材は基本的に断る”、“取材はプロデューサーが受ければいい”というポリシーでした。その結果、『旧FFXIV』の体制変更を発表したときに「吉田って誰?」という反応を多くいただきました。
開発チームと同様に、遊んでくださるお客様にとっても、そんな顔も知らない人間が「作り直す」とお話しても、なかなか信頼関係は結べないのではないかと考えました。ですから「何を考えて、どういうことを目指しているのか」という部分をみずから伝えるため、まずはテキストベースの“プロデューサーレター”をスタートさせました。
――確かに最初はテキストで情報を伝える形でしたね。そこからライブ配信をしようと思ったきっかけは何だったのでしょうか?
吉田当時、『FFXIV』を“新生”させる計画が会社から承認されて、その情報を発表するタイミングを考えました。発表の前後でライブ配信を行い、“新生”発表前配信で温めを、メディアさんからの“新生”発表で驚きを、“新生”発表後配信でそのフォローを、こうすることで連続性のある“いまだからこそできるライブ感”を演出できるのではないか、と考えたのです。こうして生まれたのが“プロデューサーレターLIVE”というアイデアでした。
ライブ配信では、SNSで寄せられる質問に対して、台本なしでリアルタイムに答えていくことにしました。そうすることで“新生”計画が現実のものであり、計画は徹底して行われており、実際の開発が進んでいるという証明をしたかったのです。
だから最初は、あくまで“『新生エオルゼア』を発表するためのもの”だったのです。ライブ配信で我々が本気で作り直そうとしていることを理解してもらえれば、『旧FFXIV』を遊んでいる方々の「だんだんおもしろくなってきている」という現実感とともに、「この人たちならやってくれるかも」と、僕たちといっしょにお客様自身も、新しい『FFXIV』を作ってくださるのではないか、と思ったのです。
――プレイヤーとのコミュニケーションを重視するスタンスは、ほかのオンラインゲームの運営からの影響があったのでしょうか?
吉田そうですね。大きく影響を受けていると思います。もともとオンラインゲームの運営というものを初めて強く意識したのは、『ウルティマ オンライン』(※)をプレイしているときでした。『ウルティマ オンライン』はとにかく自由度の高いゲームで、だからこそプレイヤーはたびたび仕様の隙をつくわけです。
※:1997年にサービスが開始された、MMORPGの草分け的なタイトル。運営はエレクトロニック・アーツ。
――開発が想定していないであろうことが発見されると、話題になっていましたよね。
吉田そんな仕様の隙に対し、プレイヤーは「いまがよければいいから、どんどんその仕様の隙をついてしまえ!」というスタンスですが、運営側の視点では「ゲームバランスが壊れるから修正せざるを得ない」となることが多い。ですから両者に溝が生まれてしまうわけです。もし当時、プレイヤーと運営とのあいだで意見のやり取りがもっと深く行われていたら、お互いの反応も違ったかもしれません。
その思いが顕著になったのが『ダークエイジオブキャメロット』(※)をプレイしていたときでした。このゲームの運営では、PRマネージャーのような立場の人が毎週金曜日に「プレイヤーの皆さんの質問を開発チームに聞いてきました!」という企画を始めたのです。これによって、“開発チームの考えていること”、“現状に対してどう思っているか”をプレイヤーが知ることができました。
もちろん、毎回そうではなく、「なんてズレた質問してくるんだよ!(笑)」みたいなことも多かったのですが、開発側と遊び手側のコミュニケーションがあり、実際僕はそこで知った情報をゲーム内のコミュニティに伝えることができました。そうするとゲーム体験に納得感が生まれやすくなり、「これはいい施策だなあ」と思っていたのです。
その体験を知っていたので、MMORPGを運営するうえで、よりよい運営を目指していくのなら「プレイヤーの皆さんと開発・運営チームの相互理解は絶対に必要だ」と思っていたのです。これは、『FFXIV』を立て直すというシチュエーションだけに関わらず、もし自分がゼロからMMORPGを開発するとなっても、変わらなかったと思います。
※:2001年にサービスを開始した、Mythic Entertainment社開発のMMORPG。
もっとも困難だったオリジナルエンジンへの変更
――そして2012年末に『新生エオルゼア』のアルファテストが実施されましたが、当時の反響はいかがでしたか?
吉田プレイヤーの皆さんにアルファテストにご参加いただく前に、スクウェア・エニックス社内で希望者を募って社内アルファテストを実施していました。そのテストでは、グリダニアしか行けない状態での負荷テストと、メインクエストの導線に迷いやわかりづらさがないか、をおもにテストしたものです。テストに参加してくれたスタッフたちからはポジティブなフィードバックも多数もらえ、手応えを感じていました。
そこからプレイヤーの皆さんに向けたアルファテストを実施した結果、それまでは「本当に快適になるの? 本当におもしろくなりそうなの?」と半信半疑だった人も多かった中、参加された方々に「すごくいいね」と言っていただけましたので、まずはホッとしたという気持ちが印象に残っています。
――ちなみに『旧FFXIV』から『新生エオルゼア』への作り直しの過程で、いちばん苦労したところはどこですか?
吉田いろいろありましたが……『新生エオルゼア』リリース前の最大の障壁はユーザーインターフェース(UI)ですね。当時、ベース開発に使用していたミドルウェアだと、メモリ消費がとにかく大きく、パフォーマンスも出づらい、という状況でした……。
とくにプレイステーション3での展開を考えたときに「これではきびしい」と。その問題を解決するために、ベータテストのフェーズ2から3までの2ヵ月間で、それまでに開発してきた多数の新生用UIを、改めて新生『FFXIV』用に制作したUIのオリジナルエンジンに載せ替えるということを行ったのですが……地獄のようなスケジュールで、とにかく辛かったです。
――そのときにオリジナルのエンジンに載せ替えたことが、その後の拡張性につながっているのでしょうか?
吉田そうですね。“動作が軽くてたくさんのウィンドウを並列に処理できる”ところに重きを置きつつ、さらに今後拡張することを見据えてすごくシンプルに作ってもらいました。ただ時間がなかったこともあり、ネームプレートやチャットまわりは苦戦の連続でした。
とくに家庭用ゲーム機であるコンソール版とPC版の同時開発では、入力まわりの要素がすごく複雑なのです。PCの場合は文字変換ソフトウェアもプレイヤーによってこだわりが違ってくるので、さまざまな人に向けた要素をしらみつぶしに作るというような開発を、相当な期間続けていたと思います。あまり思い出したくないです(苦笑)。
想定以上のプレイヤーがあふれた『新生エオルゼア』の正式サービス
――そして2013年8月27日、ついに『新生エオルゼア』の正式サービスが開始されます。そこにいたるまでにはサーバーやネットワークといった環境作りも苦労されたと思いますが、意識されたポイントなどをお聞かせください。
吉田『旧FFXIV』を根本的に作り直さないとダメだ、と判断した最大のポイントは、サーバーエンジニアリングの部分でした。各種ゲームコンテンツはそのコンテンツ独自のプログラムの集合体なので、改めてゲームをデザインし直せば、ある程度どんなものでも実装することができます。しかし、“サーバーで処理するものが大部分”というオンラインゲームにおいては、サーバーのエンジニアリングが今後作ろうとしているものの土台となり、制約にもなるため、すごく重要になるのです。
現在は、概念的に特定エリアを管理するゾーンサーバーがあり、それを複数つないでワールドを管理し、さらにワールドをまたいでプレイヤー情報をやり取りするフロンティアサーバーがあり、論理データセンターがあり、物理データセンターに集積する、といったように、細かなレイヤー構造になっています。
これがもし、情報を集約するサーバーが存在せずに1ワールド、1サーバーごとの管理になると、それぞれをつなげることができません。情報がワールドを越えられなければ、ワールド間をまたいでのマッチングができません。コンテンツファインダーの実装は必須でしたので、これを考えたときに『旧FFXIV』のサーバー設計のままではダメだなと判断して、作り直すことを決断しました。
――まずは土台となる部分をしっかり作り直そうと。
吉田ですから新生するにあたって、グラフィックスとサーバーの設計が最初のタスクでした。僕がゲームデザインの基礎を作って、それに見合ったグラフィックスとサーバーを設計してもらう。そこから「将来的にワールドをまたいで、こことここをつなげる可能性がある」といったことをディスカッションしながら詰めていき、設計を徹底してからサーバーコードをコーディングしていったという感じですね。
――そういった苦労もあったからか、サービス開始時は大きな障害もなく比較的スムーズなローンチという印象でした。
吉田ええ!? そんなことはないですよ……うーん……僕自身は安定していなかったと思っています。というのも、『新生エオルゼア』を発表し、“プロデューサーレターLIVE”を続けてきて、アルファテスト、ベータテストと実施していく中で、もう少し緩やかに人が増えていくと思っていたのですが、想定以上にプレイヤーの方が増え、用意していたサーバーでは足りなかったのです。
もともと「一度失った信頼はそう簡単に取り戻せるものじゃない」と感じていたからこそ、2回目となる『FFXIV』のスタートではネガティブな印象にならないように、会社から「こんなに用意して大丈夫?」と心配されるぐらいのサーバーを用意していました。ただ、それでも足りない状態でした……。
――たしかに当時、一時的に『新生エオルゼア』が出荷停止されるほどでした。
吉田コンテンツファインダーやサーバーこそ想定していた負荷状況下では正常に動いていましたが、想定以上の人数をさばかなくてはいけなくなり、サーバーに性能以上の負荷がかかり、それによって顕在化した問題もありました。「コンテンツワールドサーバーが~」といった障害報告のテキストも何通も書いた覚えがあります。ただ、ローンチした瞬間にログインでエラーを吐いたり、セーブデータが巻き戻ったりといったことがなかったのは幸いでした。
日本発のオンラインゲーム、かつ一度ローンチに失敗したオンラインゲームとして、ひとまず同時接続者数40万人くらいまで収容し、なんとかゲーム全体のダウンが頻発しなかった、という点においては、よかったのかな、というくらいの気持ちです。「パッケージを買ってきたのに遊べない!」というお声もたくさんいただきましたし、スムーズなローンチとは口が裂けても言えないかなと思います……。
――それだけ基盤となるサーバーは重要ということですね。
吉田たとえるならサーバー群は我々の住む惑星そのもので、直接姿や形は見えないものの、世界の住み心地に影響する大事な部分です。だからこそ、安定性と安全性を第一に考えています。あとは、問題が発生したときに切り分けがしやすいように、メンテナンスのしやすさなども考慮しています。加えて、いずれ論理サーバーを越えるということも、長期的計画で実現できるように、と設計時にはリクエストしています。
――当時のサーバー設計段階で、すでにワールド間テレポやデータセンタートラベルの構想もあったのですね。
吉田当時は実際に実現できるかわかりませんでしたが、そのように拡張できるように構築してもらいました。言っておかないと、それが絶対に不可能な構造になってしまう、という可能性もあったからです。
その後のデータセンタートラベルに関しては、パッチによるアップデートや拡張パッケージを制作する傍ら、実作業で2年ぐらいの作業期間がかかりました。コスト的にもサーバーエンジニアたちに付きっ切りで作業してもらうわけにはいかなかったので、パッチ作業の合間に進めてもらって……。
物理データセンター越えの機能もほとんど用意できていますが、実装するにはまだ準備が足りないかなと思っています。
――実装することで何が起こるかも想定して、まだその段階ではないと。
吉田物理データセンター越えに関する反応としては、国民性が出てくると思っています。日本では「日本人だけで集まりたい」という感覚が強いと思いますが、欧米ではロールプレイが大好きな人が多くて、「日本のすごいハウジングを見に行きたい」という人も少なくありません。
地域によって歓迎されたり、逆に嫌がられたりと、実装することで新たな課題が出てくると思うので、実装はもう少し待とうと思っています。その前に特定の論理データセンターへの人の集中、という問題が日本では発生していますし、こちらの解決や解消が当面の目標になっています。
――懸念はありつつも、世界中のプレイヤーがひとつになって楽しめる可能性があるのは、すごく興味深いですね。
吉田物理データセンターの垣根を越えて世界をひとつにし、ありとあらゆるプラットフォームで遊べるようにして、ひとりでも多くのゲーマーに『FFXIV』を遊んでもらいたいというのが僕の夢ではあります。
ただ、プレイヤーの皆さんがそれぞれに持つ、理想の遊びかた、快適性などを無視して追いかけるものではないため、こういった部分は慎重に進めるべきと考えています。現在運営されているMMORPGでもそこまでやれているタイトルはないので、しっかりとプレイヤーの皆さんと対話し、快適性を作り、皆さんがそのつぎの段階を望まれたとき、少しずつ達成されていくかもしれない。まだまだ遥か遠くにあるけれど、いつか叶えたいと思っている、そんな目標です。
開発当初から見据えていた未来とは
――開発初期の段階で将来を見据えた設計を行っていたとのことですが、『新生エオルゼア』の正式サービス開始時には、どこまで先の計画が決まっていたのですか?
吉田最初の拡張パッケージの舞台をイシュガルドにしようというところまでは決まっていました。当時は、「拡張パッケージをしっかりと出す」、「大規模なファンフェスティバルを開催する」というふたつの目標がありました。
人気が継続されなければ拡張パッケージは作れませんし、成功できていなければリアルで人が集まるファンフェスティバルを開催できません。だから、成功しているMMORPGのわかりやすいバロメーターとして、このふたつを目標に掲げていました。
祖堅や前廣(新生当時のメインシナリオライターである前廣和豊氏)たちからは「“新生が山場だ!”と言っていたのに、ゴールが変わっているじゃないか」と言われましたが……(苦笑)。僕の中ではマストでしたので、ごめんね、と(笑)。
――計画という意味ではこの10年間、メジャーパッチは約3ヵ月半(現在は4ヵ月~4ヵ月半)に1回という頻度で公開されていますが、この期間は何を根拠に決められたのでしょうか?
吉田もちろん、大型アップデートのサイクルは早ければ早いほどよいのですが、「やり応えのあるコンテンツがしっかりと用意されている」、「2~3時間ぶんのストーリーが提供される」、「細かなアップデート項目が多数ある」というのがメジャーアップデートの必須要件と考えました。
コンテンツ量を稼ぐためにアップデートが半年になるのでは遅すぎ、逆に2ヵ月以内では用意できるコンテンツ量が減ってしまう。アップデート目前の1ヵ月はつぎのアップデート情報のPRなどで熱量の低下を抑える、これらを勘案して、おおむね3ヵ月~3ヵ月半ぐらいという目標を定めました。
それをもとに、“3ヵ月半という期間であればパッチごとにどのぐらいのボリュームのコンテンツが作れるか”を議論していきました。さらに、4言語への翻訳が必要になるので、これも考慮して、すべての工数を見積もって「3ヵ月半でなんとかなりそう」という感触だったので、“3ヵ月半に1回のメジャーアップデート”というのが基本サイクルになったわけです。
最近では各コンテンツのボリュームが上がり、コンテンツ幅も広がったため、確実なデバッグや検証を考えると、4ヵ月必要になる、という状況になっていますが、ベースの考えかたは同じです。
――『FFXIV』では2パッチごとにアイテムレベルの更新があり、新たなアラガントームストーンが追加されていますが、こちらも吉田さんが最初に設定を考えられたのでしょうか?
吉田それについては『ワールド オブ ウォークラフト』(以下、『WoW』。※)からの学びが非常に大きいです。「『FFXIV』を新生させる」と考え、世界に通じる『FF』のMMORPGを作ろうと思ったときに、絶対王者である『WoW』は避けることはできないと思っていました。
ただ当然ですが、まったく同じものを作っても『WoW』には追いつけません。我々は『FF』なので、『FFXI』で培ったストーリードリブンのよさを継承し、それをさらに進めていくことを絶対的な軸にしようと決めていました。ですから最初の計画時の新生『FFXIV』は、『WoW』のインスタンス性と、第1世代のMMORPGのハードコアな部分のハイブリッドのようなデザインだったのです。
※:アメリカのゲーム会社Blizzard Entertainmentが開発したMMORPG。
――そこからだんだんといまの形に固まっていったのですね。
吉田権代(新生時のバトルディレクターである権代光俊氏)が『旧FFXIV』でUIを担当していたので、バトルチームに移ってもらい、バトルや根本となるシステムの見直しをしてもらいました。そこに現在のアシスタントディレクターの横澤(剛志氏)、バトルディレクターの佐藤(圭氏)が加わって、詳細を詰めていきました。
まず権代が理想として作りたいシステムを設計。佐藤はあらゆるオンラインゲームをプレイしていたので「これぐらいの数値がいいんじゃないか」という感覚に優れています。横澤はもともとプログラマーで、いまなおバトル計算式をひとりで作っているくらいなのです。
この3人を中心に、「パッチの頻度が3ヵ月半に1回なら、アイテム各部位の達成感が感じられる数値はこれぐらい」、「1週間で稼げるアラガントームストーンの数値はこれぐらい」といったことをディスカッションして、いまの形に落ち着いたという感じですね。ゲーマーとしての経験と、開発者としての論理的計算を掛け合わせた、というイメージです。
―― “大迷宮バハムート”から始まった、レイドコンテンツについてもうかがいます。レイドはこの10年間でストーリー、設定、ギミックなど進化をし続けて、いまだに多くのプレイヤーを熱狂させているコンテンツです。その原点のコンセプトはどのようなものだったのでしょうか?
吉田『FFXIV』ではコンテンツごとに難易度を設定するという考えかたで、「そのコンテンツシリーズでどんな人たちに遊んでもらうか」、「どういう遊びかたをしてもらうか」などを想定しています。
その中で、「8人で部活のようにクリアーに向かって努力をし続ける」という難易度のコンテンツを作りたかったのが、レイドの最初のコンセプトです。本来であれば、あらゆるコンテンツにイージー、ノーマル、ハードといったような難易度をつけたかったところですが……。
――なかでも最初のレイドとなる“大迷宮バハムート”はストーリーやイベントシーンにとくに力を入れていた印象です。
吉田『新生エオルゼア』から始めてくださったプレイヤーの方も多かったので、『旧FFXIV』から『新生エオルゼア』にいたった理由をメインストーリーで語るわけにはいきませんでした。だから第七霊災後に世界が再生した理由や、『旧FFXIV』に登場した敵や登場人物たちがどうなったのかを、サイドコンテンツで描くことにしたのです。そうすれば、遊びとしても、ストーリーとしてもバリエーションを増やせるだろうと。
とくに“大迷宮バハムート”はレイドの第1弾であり、さらに“時代の終焉”トレーラーの続きを描く内容のため、破格のコストをかけています。
――たしかに、イベントシーンのクオリティーは圧巻でした。
吉田ちなみに当初は道中もかなり作り込む前提で設計されていたのですが、「全滅をくり返してコンテンツ時間切れとなり、リトライをするたびに前提ダンジョンをクリアーしないとダメ」というのは、いくら何でも辛いということで、ばっさりとカットしていきました。そうやっていくうちに「これのどこが“大迷宮”なんだ」となりまして……(苦笑)。
そこからレイドのシリーズを積み重ねていくにつれ、皆さんからいただいたフィードバックも参考にしつつ、前提ダンジョンは雰囲気重視、という流れになりました。
――たしかに、現在のレイドでは道中の部分は採用されていませんね。
吉田レイドのギミック自体も、当時は無茶な作りかたをしていました。“大迷宮バハムート:邂逅編1”の、スライムをプレイヤーの動作で引っ張り続けるといった挙動も、いま振り返るとすごく無茶をしているなと感じますね。
生涯忘れられないファンフェスティバルの体験
――先ほど、当初からファンフェスティバルの開催を目標にしていたと語られていましたが、その前段階として日本各地で開催されていた“地方F.A.T.E.”も印象的でした。あれはどのような目的で開催していたのでしょうか。
吉田いちばんは「プレイヤーの方々に感謝を伝えたい」という思いがあるからです。じつは、10周年というタイミングでもあるので、なんとか再開しようという話も出ているのですが、どうしてもスケジュールが取れなくて……。
――いまの吉田さんのご多忙ぶりだときびしそうですよね……。
吉田実現は難しいかもしれませんが、やりたいという思いはあります。来場者が200人くらいであれば、1日かければいらっしゃった方全員とお話できますし。
――“地方F.A.T.E.”では会場からの“プロデューサーレターLIVE”の配信だけでなく、吉田さんたちが長時間かけて直にプレイヤーの方々とお話しされていたことが印象深いです。
吉田僕はゲームを作っている立場ではありますが、ゲームを遊ぶプレイヤーでもあります。僕は僕のプレイスタイルで遊ぶので、異なるプレイスタイルで遊ぶ方々の意見やフィーリング、感想を聞くことは、すごく気づきがあります。また、ネットでは声の大きい方々のコメントが目立ちますが、声を上げない方も大勢いらっしゃいます。
ゲームを発展させ、いろいろな方々に遊んでもらうためには、どちらの意見も大切です。とくに“地方F.A.T.E.”の来場者は、わざわざ会場まで足を運んでくださる熱心なプレイヤーの皆さんですので、そういった方々との話は大きな参考になりますし、たくさんの刺激もいただけるのです。
――その後2014年10月に、当初からの目標であるファンフェスティバルがアメリカで初めて開催されました。最初のファンフェスでいちばん思い出に残っていることはなんでしょうか?
吉田北米のファンフェスティバルでは、来場登録に使う機械の一部が故障して、前日入りしてきてくださっていた大勢の北米のファンの皆さんの長蛇の待機列ができていました。その際に当時の北米のPRディレクターから、「吉田さんが出て謝罪してくれれば収まると思うので、なんとかお願いします」と言われて、お詫びのために待機列へ向かったのですが、そのときの盛り上がりがすごくて……。
――実際にその場にいましたが、ファンの盛り上がりはすごかったですね。
吉田あれは生涯忘れられない光景でした。「You are my hero!」と言いに来てくれた十代の男の子や、モンクのコスプレで指輪を掲げて「Merry Me」と叫ぶ男性とか。改めて「ゲーマーはいいな」と感じ、ファンフェスティバルを開催できて本当によかったなと感じました。熱意のある方々に支えられたからこそ“新生”ができたのだと感じられる瞬間でした。
ちなみに当時、人前に出ることを拒んでいた権代もあの場にいたのですが、プレイヤーの皆さんの熱気に触れ、ファンフェス後はほかの開発メンバーに「(ファンフェスに)出られるんだったら出たほうがいい」と言ってくれるようになったくらいでした。それくらい、僕たちはつねに世界中の光の戦士の皆さんに支えていただいている、という実感を得られたのです。
――価値観を揺さぶられるぐらいの体験だったのですね。
吉田翌日の基調講演も、ステージに上がった瞬間に割れんばかりの歓声をいただいて、すごく感動しました。ただ、あまりの衝撃で足が震えるぐらい緊張してしまって、90分の予定が60分で講演を終えてしまって、講演後にすぐネットの反応をチェックしたのですが、ファンの方々から「おいおい、90分じゃないのか!短い!」と書かれていて……。そういった経験もあって、それ以降のステージイベントではタイムキープを意識するようになりました(笑)。