年男クリエイターが語り合う特別企画。今回は田畑端氏と稲葉敦志氏にご登場いただきました。

あのころといま。変わったことも、変わらないことも。

 2019年に年男となる亥年のクリエイターをお招きしてお話を伺う特別企画。今回は、同じ1971年生まれの田畑端氏と稲葉敦志氏のおふたりに、ゲーム業界に入った切っ掛けから今後の話まで、じっくり語り合っていただいた。

 なお、年男対談企画の第1弾(新川洋司氏×直良有祐氏×岸田メル氏)の内容は、以下の記事にまとめられている。

稲葉 敦志氏(いなば あつし)

 石川県出身。1992年にアイレムに入社後、SNKを経て、1998年にカプコンへ。カプコン時代からプロデューサーとして活躍。『逆転裁判』シリーズ、『鉄騎』、『ビューティフルジョー』、『大神』などを手がける。現在はプラチナゲームズの取締役兼チーフクリエイティブオフィサーとして、『ベヨネッタ3』をはじめ、同社のすべてのゲームを統括する。

田畑 端氏(たばた はじめ)

 岩手県出身。1994年にテクモ(現コーエーテクモゲームス)に入社。『モンスターファーム2』、『ギャロップレーサー』などを手がけた後、2002年にスクウェア(現スクウェア・エニックス)へ。『ファイナルファンタジー 零式』、『ファイナルファンタジーXV』などのディレクターを歴任。2018年にスクウェア・エニックスを退職して独立し、JP GAMESを設立。

 じつはこの対談、当初は彼らと同じく1971年生まれで、“飲み仲間”でもあるもうひとりのクリエイターを加えた“鼎談”になる予定だった。その人物とは、コーエーテクモゲームスの代表取締役社長、鯉沼久史氏。

 しかし残念ながら、取材当日、鯉沼氏がインフルエンザに罹患してしまい、やむを得ず欠席。急遽、対談として決行することになった次第だ。そんな経緯があったということも踏まえてご覧いただきたい。

 なお記事末では、鯉沼氏からいただいたコメントも掲載しているので、ぜひ最後までチェックしてほしい。

亥年仲間のKT社長・鯉沼氏。社長室には○○が!?

――おふたりと鯉沼さんは“飲み仲間”だということですが、皆さんが知り合うきっかけは何だったのですか?
稲葉決して表舞台に姿を現さないフィクサー的な人物がいまして(笑)。その彼が、ゲーム業界で働く同い歳のグループを作りたがっていたんです。

田畑初めて集まったのは、『ファイナルファンタジーXV』が発売された直後くらいだったかな。

稲葉最初のメンバーは、その人物と、自分たちふたり、それから『FIFA』シリーズのエグゼクティブプロデューサーをしている牧田さん(※牧田和也氏)の4人でした。鯉沼さんが加わったのは、その後ですね。

――おふたりは、それまで接点はなかったのですか?
田畑もちろん、稲葉さんのことは知っていましたが、直接の接点はなく、“バイオレンスな人“だと思っていました(笑)。

稲葉それ、みんなが言うんですよ(苦笑)。で、会って話してみたら「意外と常識人でビックリしました」みたいな(笑)。

――(笑)。稲葉さんはこうおっしゃっていますが、実際に合ってお話しをして、印象は変わりましたか?
田畑稲葉さんは、見た目はいかついですが、やさしいんですよ。仕事の話をすると、この“飲み仲間”の中でも、いちばん一生懸命に考えてくれるんです。常識の中から答えを安易に出さずに、ストイックに自分の気が済むところまで掘り下げるタイプ。
 だから、すごく勉強になるんです。会社の政治的な話にはまったく興味がなくて、「おもしろいことをしたい」と、つねに考えているんですね。そんな稲葉さんと話すうちに、「俺も、独立したいな……」と、刺激を受けた部分はあります。

稲葉田畑さんは、底が見えない人です。会うたびに、この人の底がどこにあるのか。まだまだおもしろそうなものがありそうだと感じさせてくれる。

田畑なんかその言いかただと、ヤバそうな人みたいだね(笑)。

稲葉いやいや(笑)。僕を含めまわりの人は、その底知れなさに惹き込まれるんですよ。人を陰と陽に分けるなら、田畑さんは間違いなく“陽”ですね。ポジティブなんです。

田畑子どものころは、クラスの女の子は全員自分のことが好きだと思っていたからね(笑)。

稲葉ほら、めちゃくちゃポジティブ!!(笑)。

――では、今回残念ながらインフルエンザで欠席された、鯉沼さんの印象はいかがでしたか?
田畑虚勢を張らない、等身大な人ですね。

稲葉うん。でもそんな鯉沼さんが、唯一「俺が、俺が」となるのが、「俺はすごく体が弱い」って言うときですかね……今日もこんなタイミングでインフルエンザになっちゃうし(笑)。嘘か本当か、社長就任の条件が“社長室にベッドを置くこと”だったと聞きました。「寝てもいいから、会社には来てくれ」と、襟川会長(※株式会社コーエーテクモホールディングス 代表取締役会長、襟川恵子氏)に言われたそうですよ(笑)。もちろん鯉沼さんは、社長として、しっかりしすぎなくらいしっかりと仕事をしている人なのですが。

田畑鯉沼さんは、いい意味で細かいんです。話を聞いていると、社長になったいまも、プロデューサーとして開発現場の隅々にまで目を届かせているのがわかるんです。それでいて、経営者としてやらなければいけないことを「絶対完璧にこなすぞ」と、思って働いている人ですね。

――今回、鯉沼さんがインフルエンザで欠席されたのは残念ですが、またぜひ、お三方で語り合う機会を設けさせてください。
稲葉ぜひ!

田畑そのときは、社長室のベッドをバックに(笑)。

ゲームとの出会い

――おふたりがゲームを好きになったきっかけは何だったのでしょうか?
稲葉僕は、小さなゲームコーナーみたいなところにあった『スペースインベーダー』です。小学校低学年のころだったので、100円がものすごい大金で。いまの10000円を使うくらいの気持ちで遊んでいた記憶があります。

田畑しかも、『インベーダー』って開始早々すぐに死ぬからね、あっという間に(笑)。だからその後、ファミコンが発売されたときの「ゲームセンターのゲームが家でずっと遊べるんだ」という衝撃は、すごかったですよ。

稲葉じつは、僕はファミコンを遊んだのは遅かったんですよ。当時はずっとゲームセンターで遊んでいて、その後“マイコン”と呼ばれていた、パソコンに飛びついたんです。
 町にある電気屋に行って、雑誌に載っていたプログラムを、展示されているパソコンに2時間ぐらいかけて打ち込んで遊びました。でもお店でセーブなんてできないから……。

田畑一期一会のゲーム体験だ!(笑)。

稲葉そう(笑)。でもパソコンゲームは、自分でプログラムをいじれるので、“ここを触ったらどう変わるか?”と、いろいろ試しながら遊べたんですよ。そうするうちに「自分でゲームを作ったらおもしろいな」と思って、小学6年生のときに、将来ゲームクリエイターになることを決めました。ゲームクリエイターという言葉自体も、まだなかった時代でしたが。

田畑ものすごく早いね。

稲葉それで、親に「ゲームクリエイターになったら母親にはダイヤの指輪、父親にはクルマとマンションを買うから」と言って、パソコンを買ってもらいました。そこからひたすらプログラミングに没頭した……わけではなく、『ザ・ブラックオニキス』(※1)などのパソコンゲームにハマりましたが(笑)。

※1 『ザ・ブラックオニキス』……1984年、BPSから発売されたPCゲーム。日本のRPG黎明期に人気を博した『ウィザードリィ』タイプの3DダンジョンRPG。

『ザ・ブラックオニキス』

――当時のパソコンって高額でしたよね。
稲葉PC-8801とモニター、データレコーダーの値段はいまでも覚えていますが、合計したら軽自動車を買えるくらいの額でしたね。あそこでパソコンを買ってもらっていなかったら、ぜんぜん違う人生を送っていたと思うので、両親には本当に感謝しています。まだ、父親にマンションを買ってあげられてはいませんが(笑)。

田畑ゲーム業界で働いている僕ら世代の人たちって、当時パソコンを買ってもらった人が多いですよね。ただ、僕自身はパソコンを持っていなくて……、ものすごく『ザナドゥ』(※2)をプレイしたかったのですが、遊べずじまいで、この歳になってしまいました。

※2『ザナドゥ』……1985年、日本ファルコムから発売。サイドビューとトップビューを切り替えながら進む冒険、美しいグラフィックなどがパソコンユーザーを魅了し、40万本を売り上げたアクションRPG。

『ザナドゥ』
(C)Nihon Falcom Corp.All rights reserved.

稲葉パソコンは買ってもらいましたが、ゲームを買うお金はないので、よくワゴンセールで1本500円くらいのゲームを購入していましたよ。これが、本当に驚くほどつまらないクソゲーばかりで(笑)。ここでゲームを見る目を養えたのかな、と。

――稲葉さんがパソコンにハマっていたとき、田畑さんはどんなゲームを遊んでいましたか?
田畑友だちの家で、ファミコンの『マッピー』や『ロードランナー』などで遊んでいたんですけど、当初はそれほどゲームにハマらなかったんですよね。

稲葉あれ、そうなんだ。

田畑でも、『スーパーマリオブラザーズ』は遊んでいて世界を感じたんです。あとは、ゲームセンターで見た『魔界村』に衝撃を受けました。「なにこれ怖っ! でも先が見たい!」と(笑)。そのころから、僕が好きになるのはハイエンドなゲームグラフィックでしたね。

稲葉当時からそこはブレていないんだ。

田畑作る側になっても、格好いい、キレイな世界がいいな、という意識はありますね。

稲葉確かに、当時の『魔界村』はハイエンド感があったなぁ。

田畑頭抜けていたよね。ステージが連続しながら変化していくのも絶妙で。僕自身はゲームがうまくなかったので、上手な友だちのプレイを見て楽しんでいました。稲葉さんがゲームを“作る”から入っているのに対し、僕は“見る”から入っている(笑)。
 その後、中学時代に『信長の野望』や『三國志』などのシミュレーションゲームに出会ったことで、その世界自体を終わりなく楽しめるゲームがあると知った。そこからゲームに対する考えが変わっていったように思います。

ふたりの就職活動に異常あり!?

――おふたりはどのような経緯でゲーム業界へ入ったのでしょうか?
稲葉僕はプログラムの勉強をするため、中学卒業後に、高専(高等専門学校)に進学しました。開設されたばかりの電子情報工学科でプログラムをひたすら学んでいましたね。
 ただバンド活動も始めて、17歳のときに「アメリカでプロドラマーを目指す」と、一瞬ゲームクリエイターへの道を外れたこともありましたが(笑)。

田畑(笑)。でもゲームクリエイターになりたい、というのは基本的に一貫していたんだ。

稲葉でも就職のとき、問題が発生したんです。通っていた高専は、ソニーや東芝などの大手企業にも就職できるパイプを持っていて就職率も高かったんですが、困ったことに、そこにゲームメーカーは含まれていなかったんです。パイプのない就職先に行くことは、学校的にあり得ないことで、「俺、ゲームメーカーに行きたいんだ」とは言えない状況でした。
 そこでいろいろ考えたところ、学校が持つパイプのひとつに、ディスプレイメーカーのナナオ(※現EIZO)という、アイレムの親会社にあたるメーカーがあって。アイレムに行きたいことは隠して入社試験を受けました。
 そして、最終面接ではじめて「アイレムに入りたい」と言ったら……役員の方々に「ゲームみたいなことをやるヤツはろくなもんじゃねぇ」と怒られました(苦笑)。けっきょくは、その場で急遽アイレムの人との面接が行われて、めでたくアイレムに入社できたのですが。

田畑時代的に、ゲームが下に見られる風潮はあったよね。表舞台ではない、日陰者的な。

稲葉うん。いまはちゃんとした産業になったよね。一流大学から新卒で入ってくるし。

田畑だから逆にいまだと、僕なんか絶対ゲーム業界に入れないですよ(笑)。

稲葉田畑さんは、いつごろからゲームクリエイターを目指したんですか? 大学に入学するときとか?

田畑進学時にはまったく考えていなかったです。地方出身者なので、大学受験のときは、ひたすら「東京に行きたい」という思いが強かったですね。就職活動のときも、『会社四季報』なんてすごく分厚くて読むのが嫌だったので、とりあえず自分の部屋にある、自分の好きな物に関わる会社を受けることにしたんです。インスタントラーメンの会社、映画配給会社、製菓メーカー、あとは……ゲーム会社、みたいな(笑)。
 そして、いちばん最初に内定が出たのがテクモだったんです。いまでも覚えていますが、テクモの最終面接は、創業者の柿原社長(※柿原彬人氏)から問題を出されるんです。僕は「需要が供給を上回るとどうなる?」と聞かれました。僕は価格が上がると答えて、「違う!欠品するんだ!」と一喝されました。そして社長の肩を揉まされました。……なんで内定したんだろう(笑)。

稲葉当時はテクモ以外の、ほかのゲーム会社も受けたんですか?

田畑カプコンにも履歴書を出しました。ただ、「あ、この会社は大阪だ」と途中で気づいて、面接には行きませんでした(笑)。製菓メーカーのブルボンもかなり好きだったんですが、会社が新潟だったので諦めました。
 ちなみに僕、コンピューターの知識がないのに、テクモは開発志望で受けたんです。当時の僕は、モニターのほうの電源を入れて「あれ、このパソコン動かないぞ。おかしいな?」みたいなレベルだったのに(笑)。

稲葉ええっ!?(笑) よくその知識でプログラマーになれましたね。それはそれですごい。

田畑僕はプランナーでした。ただ当時のテクモでは、開発志望の人が入社後にプログラム研修を受けるんです。途中に何度かテストがあって、プログラムの理解度や技術が低かったりすると、開発からは足切りされてほかの部署に配属されていくんですよ。
 研修は3ヵ月くらい続いたのですが、最後のころは、僕は下から3番目でした。あと1回テストがあったら落ちていましたね(笑)。