さまざまな立場の人たちにより作り上げられるゲームソフトにおいて、記者がひときわシンパシーを感じるのはシナリオライターかもしれない。それは、同じ文章を生業とする立場ゆえなのかもしれないが、何よりもシナリオはストーリーの基本なのではないかとも思いはある。そんな“ゲームシナリオ”という領域において、興味深い会社がある。“シナリオ制作会社”のエッジワークスだ。
ゲームソフトを中心に、年間100本以上の実績を誇るというエッジワークス。ゲーム業界を見回してみれば、ローカライズの会社やデバッグの会社、音楽の会社などがあるわけだから、それはシナリオ制作会社があっても何の不思議はないが、“シナリオ”と“会社”という取り合わせはちょっぴり意外。さらには、すでに創業15年を数えるというから、相当風格が漂う感じだ。というわけで、エッジワークスのことが気になった記者は、好奇心に突き動かされるままに、東京・調布にある同社のオフィスまで赴いた次第。取材に応じてくれたのは、株式会社エッジワークス 代表取締役の山野辺一記氏だ。
エッジワークス 代表取締役 山野辺一記氏
[チャプター01]いかにして山野辺氏はゲームのシナリオを手掛けるにいたったか?
――エッジワークスさんのことを知ろうと思ったら、まずは山野辺さんの人となりから始めるのがいいように思うのですが、どのような経緯でシナリオ制作に関わるようになったのですか?
山野辺 私はもともとアニメーションの脚本家で、サンライズさんの『魔神英雄伝ワタル』(1988年)で脚本家デビューをしてから、ずっとアニメーションの仕事をしていました。しばらくするとプレイステーションやセガサターン が発売されて、ゲームシナリオのお話も来るようになったんですね。「若手だからゲームのこともよくわかるだろう」という発想もあったようです。それがちょうど20年くらい前で、バンプレストさん(当時)の『スーパーヒーロー作戦』(1999年)なんかは、私が書かせていただきました。
――そもそも、なぜシナリオライターを目指されたのですか?
山野辺 これは、私たちの年代の脚本家さんだったら、ある程度共通しているかもしれないのですが、菊地秀行さんや平野靖士さんに憧れて……というのはあるかもしれません。あと、私の場合は1985年に放送された『超獣機神ダンクーガ』という作品がありまして、あのタイトルのシリーズ構成は藤川桂介さんだったのですが、それを見て「アニメーションには脚本家という仕事があるんだ」ということを知って、なりたくなったというのはあります。当時15歳だったので、「なりたい」と思っても、その方法はわからなかったんですけどね(笑)。それで、その後東京の大学に来て、そこからアニメーション会社に入社したんです。そこでぴえろさんで制作進行をやらせていただきました。
――あら!
山野辺 私が入ったころは、『幽☆遊☆白書』や『とっても!ラッキーマン』の時期ですね。その時期に、井内秀治監督と知り合って、『魔神英雄伝ワタル』でシナリオライターとしてデビューさせていただいたんです。いわば私は井内秀治監督の弟子のようなものですね。
――制作進行からシナリオライターへの転身だったのですね。
山野辺 井内監督に熱意が通じたようです。井内監督には、シナリオの作法を教えていただきました。井内秀治さんからは、“シナリオでは、登場人物が使う小道具の表現が肝”ということを教えられました。その要素は、いまでも作成時、念頭に置いています。
その後、ひとりで生きていくようにということで、『快傑蒸気探偵団』や『蒼穹のファフナー』、『おねがいマイメロディ』といった作品に携わらせていただきました。そしていまに至る……という感じですね。
――アニメ作品で、ひときわ手応えを感じたものは何ですか?
山野辺 シナリオライターの勉強をしていたときに先輩から、「本当のデビュー作は数年後に来るよ」というひと言をいただいたのですが、いまになってみるとまさに身にしみる言葉でして、いちばん勉強になったのは、『おねがいマイメロディ』(2005年)ですね。 当時、「子ども向けの作品もきちんとできるんだね」と先輩から言われたのがすごくうれしかったです。
――アニメとゲームとでは作法が違うと思うのですが、いきなりゲームのシナリオを書くことになって、戸惑いとかはなかったのですか?
山野辺 ありました。あったのですが、当時はゲームシナリオの作りかたがものすごく曖昧な時期でもあったんですね。それで、逆にプロットやチャートを自分で切って、作業ボリュームもこちらで提案して……と、ゲームシナリオにあった作りかたを私のほうでゲーム会社に提示して、作業を進めていったんです。
――ああ、つまり先人として、道なき道を切り開かなければならなかったという状況だったのですね?
山野辺 はい。ここでひとつ活きてきたのが、ぴえろ時代に制作進行をやっていたことでして、作業ボリュームの確定というのは、制作進行のときに培ったノウハウだと思います。
――制作進行がゲームのシナリオ作りに役立ったというのは、なにか運命のようだ。
山野辺 たしかに、そうだと思います(笑)。
――ちなみに、アニメとゲームのシナリオの違いで、具体的にどのへんで苦労されたのですか?
山野辺 一般的にわかりやすい両者のシナリオの違いは、アニメーションだと決まった尺があります。10分なら10分で終わるし、30分なら30分で終わる。一方、ゲームのほうは基本的にいつ終わっても大丈夫なシナリオで、なおかつストーリーを進めるテンポがユーザーさんに委ねられている。そういった意味で、シナリオライターとして必要な作業が、作業ボリュームの確定だと言えます。あと、アニメーションは途中でチャンネルを変えるとかは別にして、基本ずっと見続ける媒体ですが、ゲームのほうは嫌だったら途中で止めることができる。つまり、あまり前振りを必要とせずに、その場その場で引きのある演出を求められやすい媒体だというイメージがあります。
――飽きさせないというか、引きをつねに作っておかなければいけないということですね。
山野辺 まあ、極端な話だと、引きだけでいい場合もあります。まあ、映像の脚本家さんは映像のシナリオのほうが難しいと言う人もいますし、ゲームのシナリオライターさんはゲームのほうが難しいと言う人もいます。 私の立場でお話しさせていただきますと、双方で違いがありますので、その違いが分かっている分だけ、そのメリットを活かすしかないかなと思っています。
――初期のころは作業ボリュームをご自身で決めるとのことでしたが、ボリュームはシナリオライターが任意に決めてよかったのですか? メーカーさんからの指定はなかった?
山野辺 ありましたよ。「10章分作ってほしい」みたいな大雑把なオーダーはありました。ただ、1章分のボリュームは書いてみないとわからない……みたいな時代でしたので、実際にシナリオに着手する前に、「これくらいは必要」という“箱書き(※)”をするんです。箱の設計図をまず書いてみて、「これでどうですか?」とクライアントさんに確認する。クライアントさんはそこで始めて自分たちの作業ボリュームがわかるという。そういう時代でした。
※箱書き……大まかな場面(箱)を想定して、ひとつのストーリーを構想する手法。
――シナリオライターがゲームのボリュームを決めていたという側面があるんですね。
山野辺 当時はそうでした。そもそも私がゲームのシナリオを書く前は、最初にシナリオを全部書いてみて、そこからゲームのボリュームが決まっていったという時代でした。ただ、それだと作業的にはものすごく危険で、シナリオが上がってみなければ全体像がつかめない。どんなお話か分からないというのはプロジェクトとして危険だったので、まずはプロットや箱書きを作って、クライアントさんにシナリオの総ボリュームを把握してもらうという作業をしていました。
――ちなみに、山野辺さんのゲームのデビュー作は?
山野辺 思い入れの深いタイトルで言いますと、『スーパーヒーロー作戦 ダイダルの野望』(2000年)かなあ。クライアントさんと私がやりたいことをギュギュっと詰め込んで、「やりきった!」という作品でしたね。実際のところ、有名IP関連のタイトルは、なかなか若手には仕事が回ってこないんですよ。その点で、『スーパーヒーロー作戦 ダイダルの野望』は、通常チャンスが巡ってこないくらいのビッグIPをいただけて、クライアントさんにも満足していただけて、なおかつ私の作家性も出せた作品なので、いろいろな意味でものすごくいい体験ができました。
――率直にうかがってしまいますが、山野辺さんとしては、アニメとゲームとでは、どちらのほうが能力を発揮しやすかったのですか?
山野辺 時代と言いますか……ゲームシナリオが性に合っていたというのはあったと思います。年齢的に、ゲーム業界にマラソンで言うところの“第一集団に入れた”というのが、やはりありがたかったです。アニメーションには大御所がたくさんいらっしゃいましたから。私が仕事を始めたとき、ゲーム業界は黎明期で、必要としてくれていたお仕事がたくさんあったということは、やはり運がよかったと思います。