デジキューブが手がけたのは“ゲームのキュレーター”
おなじみの黒川文雄氏による“黒川塾 (三十五) ”が、東京・デジタルハリウッド大学大学院にて、2016年5月31日に開催された。今回のテーマは“ゲームビジネス潮流観測~藍綬褒章受章記念ナイト”。スクウェア・エニックス 元代表取締役社長の和田洋一氏がゲストとして登壇した。
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今回は、国内外のゲームソフトの開発と流通に深く関わった和田氏が、デジキューブとエニックスの歴史や、ゲーム業界のビジネスを独自の知見で語る内容になった。
■デジキューブという会社は革新的だった
最初のトークテーマは、かつて存在した企業“デジキューブ”。和田氏によると、デジキューブはスクウェア(現スクウェア・エニックス)の子会社として、コンビニエンスストアでゲームを販売するために立ち上げられた。だが、それだけではなく、たとえば、デジキューブは2000年の時点でゲームソフトのPR映像などをCS放送などで配信し、いまのニコニコ動画やYouTubeの紹介動画と似たようなプロモーションを実施し、コンテンツに自分たちで価値をつけていくという“ゲームのキュレーター”のような革新的なサービスも手掛けた先駆けの会社だったと振り返った。「2005年あたりのネット文化にアイデアを持って来ていれば、デジキューブは大きく化けていたかもしれません」(和田氏)。
なお黒川氏は、デジキューブがコンビニでゲームを販売するというインフラを残したことが、エンターテインメントコンテンツには大きなプラスになったと指摘した。
■スクウェアの“お金を稼ぐマシーンがなかった”時代とは
2000年に入り、スクウェアは映画『ファイナルファンタジー』の不振や、大量の子会社の設立と人員の採用があったことを黒川氏が指摘すると、和田氏は部長クラスの人員が多数退職してしまったり、『ファイナルファンタジーIX』と『ファイナルファンタジーX』以外に大きく売れるタイトルがなかったにも関わらず、新規事業に参入しようとしていたりと、さらに大きな混乱状況に会社が置かれていたと振り返った。
和田氏は、当時のスクウェアが“お金を稼ぐマシーンがなかった”状態であると語り、たとえば映画『ファイナルファンタジー』は製作に4、5年かかったこともあり、手元に残るお金がほとんどなかったそうだ。「この状態をたとえるならば、“お寺の境内を借りてお祭りをするために、たこ焼き屋さんや太鼓のプロにまで、自腹でたくさんお金を払っていた」(和田氏)というほどだったのだという。それでも、スクウェアは『ファイナルファンタジーXI』というMMORPGへ注力するなどして経営を続け、エニックスと合併する直前は創業以来最高益を記録するほどに立て直すことができた。
ただ、和田氏は当時の状況を振り返り、ハワイのスタジオに長期間滞在していた坂口博信氏に匹敵するリーダーが国内におらず、本質的にはしっかりとお金を稼ぐパイプラインがないという、ビジネス面での不安を抱えていたという。そこで和田氏は、家庭用ゲーム以外に、携帯電話(ガラケー)のコンテンツなどにも進出していくことを決断する。だが、すぐにガラケー用のコンテンツが開発・運営できたかといえばそうではなく、当時はパッケージソフトのセールスに特化した人員ばかりが会社に集まっていたことや、ネットワークエンジニアが少なかったこともあり、研修や異動にかなりの苦労を要していたとのこと。