『ギルティギア』シリーズ誕生秘話

 アークシステムワークスの人気対戦格闘ゲーム『GUILTY GEAR Xrd -REVELATOR-(ギルティギア イグザード レベレーター)』の発売を記念して、『ギルティギア』シリーズ第1作の制作当時をよく知るアークシステムワークスの代表取締役社長・木戸岡氏と、シリーズの生みの親である石渡氏の対談をお届けする。

『GGXrd R』発売記念!アークシステムワークス木戸岡稔氏×石渡太輔氏対談~『ギルティギア』シリーズ誕生秘話~_01
アークシステムワークス
代表取締役社長
木戸岡稔氏(写真左)
 エンジニアを経て1988年に同社を設立。同社のイベント“あーくふぇす”を武道館で開きたいと語るなど、お祭り好きの一面も。

アークシステムワークス
『ギルティギア』ゼネラルディレクター
石渡太輔氏(写真右)
『ギルティギア』シリーズの生みの親。開発の指揮を執りながら、イラストや作曲など、さまざまなパートをみずからがこなす。

『ギルティギア』の構想は専門学校時代から

──『ギルティギア』の構想はいつころから練っていたのでしょうか?

石渡 構想自体は、専門学校に通っていたころからありました。こういう曲が格闘ゲームで流れたらいいなと、ミリアの曲は専門学生時代に作っていましたからね

木戸岡 専門学校には1年いて、2年目にはもうウチで働いていたよね?

石渡 そうですね。 インターンシップのような形で、 すでにアークシステムワークスで働いていたと思います。

木戸岡 確か、 プレイステーションが発売されるぞ! という時期で、 そのときの石渡君は、『ウィザーズハーモニー』(※1)というプレイステーションとサターン用ソフトのドット絵を描いたりしていたのかな?

石渡 はい。 当時はドット絵が主流だったので、キレイな絵を描いても輪郭線が荒くなってしまう。 それを緩和する方法として、イラストレーターで線画を描いてからフォトショップに落とし込むといった手法を使っていましたね。


※1、『ウィザーズハーモニー』とは、1995年12月にプレイステーションとサターンで発売されたソフト。冒険者養成学校を舞台にした物語が描かれる、アドベンチャーゲームと育成シミュレーションゲームの要素を融合したゲーム。第1作が好評を博し、その後『2』と『R』という続編が発売された。


──そういった下積み時代を経験した後に、初代『ギルティギア』の開発に着手することになったのでしょうか?

木戸岡 じつは1995年ころに、 石渡君がツールの練習がてら作った3Dモデルのソルが、なぜかゲーム雑誌の小枠で紹介されたこともありました(笑)。

石渡 3Dで作ったソルですね。 まだ、 頭にタケノコが刺さったようなダサい髪型をしているときのものです(笑)。

木戸岡 実際に制作を始めたのは、 その1年後の1996年ころからですね。スタッフは5人くらいで、カニ歩きしかできないような狭いオフィスで作業をしていたはずです。 

石渡 そうですね。『ギルティギア』を作るにあたって、 プログラマーがいないという話になり、人脈も何もなかったので専門学校の先生に紹介していただいたんですよ。 それが、後にポチョムキンの声を担当することにもなった安部秀之です

──そういえば、初代『ギルティギア』のキャラクターボイスは、ソルを石渡さんが演じるなど、 開発スタッフが担当したキャラクターもいましたね。

石渡 初代『ギルティギア』は予算が少なかったんですよ。絶対に外せない部分を声優さんにお願いして、 それ以外のキャラクターを自分たちで担当しました。

──それで石渡さんがソルの声を担当していたんですね。ちなみに、木戸岡さんは声の収録に参加しなかったのでしょうか?

木戸岡 やらせてくれませんでした(笑)。

石渡 え!? やりたかったんですか!? 最新作ならいまからでも間に合いますよ? 実際に、新キャラクターのヘヒョンの中にいる美少女は、開発スタッフが担当していますし。

木戸岡 やめておきます(笑)。

──(笑)。いったん話を戻しまして、石渡さんと安部さんは、専門学校で出会ったわけではなかったんですね?

石渡 じつは、 まったく面識がありませんでした。先生に紹介していただいたプログラマーの中で、安部君の作品がいちばんおもしろかったのと、 技術力が抜きんでていました。いろいろと手探りな中、彼が加わった途端に希望が見えてきたほどです(笑)。

──頼みの綱がやって来たと。

石渡 そうですね。でも、そのとき不安はありませんでした。単純にゲームを作れることがうれしくて、夢中だったんです。開発に集中できたのは、木戸岡さんのおかげでもあります。僕らが『ギルティギア』を作っているあいだ、木戸岡さんがほかのいろいろな仕事をこなして稼いでくれましたから。

木戸岡 けっこうギリギリでやりくりしていました(笑)。それに、『ギルティギア』が売れると思っていなかったんですよ。プレイステーション全盛時は、 なんでも3D化させるような時期だったので、 なぜいまさら2Dの格闘ゲームなの? と言われることも多かったんです。 だから、 開発が終わっても「とりあえず、 発売されるのか」といった感じで、 そんなに大事でもありませんでした。

石渡 僕はもう単純に感無量でしたけど、同時に消化不良もたくさんありました。

木戸岡 なかなかマスターアップ(完成)できなくて、発売も一度延期していたよね。もう延期はうちの伝統になっている(笑)。

石渡 マスターアップできなかったのは、 不具合だけが原因じゃないんですよ。 チェックを出すたびに、こっそりと新しい仕様が入っていたんです(笑)。

木戸岡 いまの時代にそれをやったら怒られるよね(笑)。これは時効だろうというエピソードがあるんですけど、発売後に不具合があってお客様からユーザーサポートに連絡が来たんです。社内で検証しても不具合が再現できなかったので、実際に安部がそのお客様のところに見に行ったことがありました。それでようやく検証できたと……。当時だから許されたことだと思います(笑)。

石渡 時代が時代でしたからね。当時のゲーム開発は、下町の職人みたいなところがあり
ましたよ。

──第1作が発売され、 その後シリーズ化されるわけですが、そういった構想はすでにあったのでしょうか?

石渡 構想というか、 僕自身はもっとよくしたいというイメージがありました。

木戸岡 でも『ギルティギア』自体は、初代を発売してひと段落したんだよね。何も考えていなかったともいいますけど(笑)。

──ではなぜ、『ギルティギア』がシリーズ化やアーケード進出を果たせたのでしょうか?

木戸岡 確か、ソフト発売後に、森君(『ブレイブルー』シリーズのプロデューサー、森利道氏)が当時在籍していた開発会社のピックパックさんから仕事の話をもらって、それなら『ギルティギア』をドリームキャストとアーケードに移植してほしいと言ったんですよ。でも、 アーケードはうちだけでできるものではなかったので、 いろいろなメーカーに営業してまわりました。

──木戸岡さんみずからが営業を?

木戸岡 そうですね。 当時は人も少なかったですから。 いくつか回っていたらサミーさんがすごく気に入ってくれて、 それでアーケード進出が決まりました。そのときは、ピックパックさんの森君たちが主体になって開発を進めてくれました。

石渡 他社さんに委託する形になったのですが、やっぱり監修しないと開発が進まないだろうという話になり、僕が出向する形で開発に携わることになりました。

木戸岡 それ以来、石渡は5、6年くらいウチに帰って来なかったんですよ(笑)。

石渡 いやいや、2、3年で一度会社に戻って来たと思いますよ(笑)。

木戸岡 2000年に『ギルティギア ゼクス』のアーケード版が出たから、2年くらいで一度戻っているのか。でも、その後またすぐに出向したよね?

石渡 そうですね。けっきょく、『ギルティギア イグゼクス #RELOAD』までは出向が続いたので、2002年いっぱいはアークシステムワークスに帰りませんでしたね。

──当時の石渡さんは、アークシステムワークス社内にはぜんぜんいなかったんですね。

石渡 いま思い返すとそうですね。でも、そのあいだは会社に住み込みで働いていたので、実家にも帰っていませんでした(笑)。