多方面に活躍するマルチアーティストBaiyonに聞く、ビデオゲームという存在。インディーゲームのつくり手に焦点をあてたインタビューシリーズの後編が開幕。

●Baiyonはどこから来てどこへ向かおうとしているのか

 マルチアーティスト“Baiyon”の活動の全貌を捉えるのは難しい。クラブミュージックのアーティスト兼レーベルオーナーであり、海外のインディーゲームに多数の楽曲を提供しているが、グラフィックアーティストでもあって、Q-Gamesの『PixelJunk Eden』ではサウンドだけでなくアートディレクションも担当。時には服飾も手掛けるという、まさに“マルチアーティスト”と呼ぶしかない多方面での活躍をしている。
 ではそのBaiyonにとってビデオゲームとは何なのか、表現のひとつとしてどういう意味合いを持つのか? スタジオにお邪魔して話を聞いた。

――今日は「いろんな活動をしているマルチアーティスト・Baiyonにとってゲームは何なのか?」ということを探りたいと思います。というのも、これまでいろんな方面から取材は受けていると思うんですけど、切り口は普通ゲームと音楽のどっちかだけだと思うんですよ。
Baiyon ありがちなのが、音楽の人は質問が音楽だけで、ゲームって言っても子供の時に遊んだものか最近CMでやるもので止まってて。ゲームについて話していても、僕らが可能性を感じているようなゲーム、そういうものが存在しないことになっていて伝わらないことがよくありますね。

――しかもFacebookとかの告知見ていると、「服出しました」とか書いてあって、「服もやるって、Baiyonって何人いるんだよ」ってなるじゃないですか。例えば音楽レーベルやって、お付きのスタッフがたくさんいるような人が「今度ゲームに協力するんだよね」とか「服出すんですよ」って言ったら「ああいろいろやるんですね」って納得できますけど。そういうマルチな活動をやっている中でゲームをなんでやるのか、またゲームはどういう存在なのか、というのを知りたいんです。
Baiyon 時系列で説明したほうがいいのかなと思うんですよね。その辺を話したことはほとんどないので。確かに……なんでこうなったのかっていうのはありますよね(笑)。

●現代美術・ボアダムス・モーグ

――そもそもどういうスタートだったんですか?
Baiyon 一番最初は学校ですごい虐められてたんですよ。けっこう酷い事もされて、まぁ当時から言ってることが変やったと思うんですけど。そして高校の美術部に入ったのが最初ですかね? その頃ボアダムスとかが出てきてて、パズル・パンクスとかやっていた大竹さん(大竹伸朗氏)ってわかります?

Baiyon 現代美術家なんですけど、その人と(ボアダムスの)アイさんがやっていたパズル・パンクスというユニットの「Pipeline」ていうCDがあって。“表向きは24曲で24バンドのコンピレーションの扱いだけど、実は全部ふたりでやってるだけ”みたいなすごいいい加減な内容で。コラージュブックがついていて、それにすげぇハマって。(音は)ジャンクミュージックみたいなんですけど、「これやったら俺でもできるんちゃうんかな?」みたいな。それは合ってたし間違ってたんやけど、そこから急に部屋のライトを変な色とかにして、カセットテープをハサミで切って壁に貼り付けて変なコラージュとかやり始めて、親がすごい心配したという。

――ハハハ! まぁ普通は心配しますよね。
Baiyon その当時は具体美術協会、戦後のいわゆるハプニングアートとか、割とアカデミックな現代美術とかがすごい好きだったんですよ。元永定正さんとか。ちなみに僕の大学の先生でもあって、その人がいたというのが行った理由です。あとはフルクサスとか、もの派とか(も好きだった)。具体美術協会はなんと言えばいいか……紙を破るだけのパフォーマンスとか、めちゃくちゃなことをやっている人達がいたんですよ。吉原治良さんという、もちろん僕よりずっと年上で、ずっと昔に亡くなってしまったんですが、石油会社の息子さんがいて、芦屋を拠点にすごい変なことばっかりやっていたんですね。

Baiyon それをたまたま僕の高校の美術の先生に教えてもらって、それですごい変な絵ばっかり描いてたんです。……あの、こんな話からで大丈夫ですか?

――全然問題ないです! 続けて下さい。
Baiyon 当時からその元永さんという人にすごく会いたくて、高校の美術の先生に聞いたら、今だったら考えられないんですけど、「どうも学校の隣のマンションの最上階に住んでるらしい」ということがわかったんですよ。その時点ですでに国から表彰されていたりして、絵とかとんでもない額になっている人なんで、「マジか。でも会いたいしなぁ」と実家に帰ってタウンページを調べたら電話番号が載ってた。

――時代ですね、個人情報がちょっと緩い感じで。
Baiyon そうそう。それで「会いたいです」って普通に電話して。「えっちゃん」って奥さん、その人は絵本作家とかやっているんですけど(グラフィックデザイナーの中辻悦子氏)、「いいですよ」って。会ってくれるって言うんで、当時学ランだったんですけど、シャワー2回ぐらい入って。それで「好きです」って会いに行ったっていう。

――シャワー2回ってのがいいですね(笑)。
Baiyon 当時は美術部の美術展とかしか出してなかったんで、公民館でやっているようなのをわざわざ見に来てくれたりして。そこからその流れもあって、東京の都立近代(美術館)とか、割とそういう、アカデミックなちゃんとした所でグループ展に参加させてもらったりとか、そういうのをやっていましたね。そのグループ展には確か嶋本昭三さん、一番有名なのだと、クレーン車に吊られて瓶に絵の具を入れたものを落として描くというような人も参加されていて。割とその人はマスなこともやっていて、テレビとかに出てわかりやすく「アートだ!」というようなことも言える人で。

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――テレビで求められるような芸術家像も引き受けられると(笑)。その時期は現代美術寄りの活動だったわけですね。
Baiyon そういったことをやってたんですけど、でも(周囲の大人との)ジェネレーションギャップで「ちょっと違うな」と感じるところもあって。そこでボアダムスとかに出会った時に一気にガンと来たところがあって、(自分が好きな音楽と美術が)繋がったなと。そこから音楽もバーっとやり始めて、コラージュアートとかも同時にやって。それで大学に入って、PowerBookのG3をゲットしたんですよ。

――そこでいろんなアウトプットを統合できるデジタル制作ツールとしてのパソコンが出てくるんですね。
Baiyon 最初は音楽のためだったと思うんですよね。友達の所で触らせてもらった時に「音が見える! 波形編集できるっていうのはスゲェ! これはいるわ」となったんで。それで手に入れて使ってたら「これグラフィックもできるやん」と思って、そっちも同時に始めたんですよね。芸大にいた当時はそんなに絵も描いていなくて、結構ビジュアルに関しては行き詰っていたけど、それによってベクター(グラフィックス)とか、フォトショップとか、キャラクターを描くとか、ちょっと違った形で自分のアウトプットができるようになってきて、そこから両方やるように。そこからはレーベルをインディペンデントで始めたんで、そうすると自然にアートワークを自分でやるじゃないですか。それで結構加速していった感じですね。

――当時はサウンド的にはどんな感じだったんですか?
Baiyon めちゃくちゃエクスペリメンタルです。僕の一番最初のデビューはモーグ・シンセサイザーのドキュメンタリー映画のサントラなんですよ。あれも発端はたまたまディレクターのハンス(Hans Fjellestad氏)と、京都で一緒にプレイしたんですよ。彼はモーグで結構ノイズとかやるような感じの人で、それが終わった後でご飯食べたり飲んだりして、彼が「まだ時間があるから、家泊めてくれないか」って言うんで、「ああいいよ」ってこの家に泊まりに来て。


※映像はMOOG公式チャンネルで公開されており、冒頭の曲がBaiyonによるもの。


――クラブアーティストとかDJの間だと、海外ツアーのついでに現地の関係者の家に泊まって交流するとか、よくありますね。
Baiyon それで「実は映画も作っててさ、モーグのドキュメンタリー映画作ってんだ」って言われて、「えー、俺、最近作ったのでモーグ社のエフェクトMoogerfooger使った曲あるよ」って聞いてもらったら「ヤバい。ちょっと使わせて欲しい。帰ったら連絡するから」。って、しばらくしたら契約書とかが本当に送られてきて。だからボーっとしていたら23歳でニューオーダーの「ブルーマンデー」とかマニー・マークとかと同じCDに入って、いきなり男の子の夢叶っちゃったみたいな(笑)。しかも映画本編ではオープニングとエンディングに使われて。当時は、ノンビートで、エクスペリメンタルな2000年以前のラップトップが普及した頃の“電子音響”みたいなのあったじゃないですか。

――MAX(MAX/MSPという音楽用ソフト)とかですか?
Baiyon そうですね、MAXなどを多用した音響アーティスト、ピーター・レーバーグとかフェネスとか。フェネスは追っかけて、初来日2回行ったんですけど、ライブを公民館みたいな所でやってましたからね。当時はFenn O'Bergって言って、ピーターとジム・オルークとかとユニットやっていた時代で。フェネスがすごかったのは、ハーシュノイズだったらメルツバウとかあるじゃないですか。

――「ガビー、ビャー♪」と鳴ってる方のノイズですね。
Baiyon ハーシュノイズも好きだったんですが、メインにラップトップを使った彼らの音はそれとはちょっと違って、メロディがあったんですよね。それをノイズ化することで、感情が全然違う方向に動いたりするのに結構びっくりして、「ああ、これいいな、こういうのやりたいな」と思って。なのでファーストアルバムとかはかなりノイズなんですよ。マスタリングしてもらったステファン・マシューという人もそういう感じの人で。会ったことなかったんですけど、今年10年越しぐらいに会いました。

●プレイステーション・インスピレーション・ラブレター

――ゲームとの関係はどうだったんですか?
Baiyon 好きだったですよ。もちろんファミコンやってたし。ちょっとPS2の頃とかは一時期ポコっと抜けたりしますけど、PS1は買った記憶あるし。当時はセガがすごくて。高校の入学のタイミングで「ゲーム機が欲しい」って親に言ったら「いいよ」っていうんでいろいろ調べたんですけど、友達がみんな「プレステなんで買うの? どう考えてもセガでしょ」みたいな事を言われて。

――はいはい、そういう時期ありました!
Baiyon 当時、雑誌をいろいろ読んでいて、見開きでいろんなプロトタイプのコントローラーがブワーッと並んでいる写真があって、それで「うわ、なんかカッコイー」と思って、ワクワクしたんですよね。

――ちょっとそれまでのゲーム機から外した感じありましたよね。自分もPS1を買う前は「ボタンがマルバツって、子供のオモチャじゃねぇんだからさ」とか言ってましたもん。いや、子供のオモチャでもあるし、お前ただの中学生だし、今考えたら何が問題あるのかわかんないんですけどね(笑)。
Baiyon そう、そもそもそのクールさってものがまだ誰もわかってない感じだった気がする。サターンの方がゲーム機っぽいし、先行して盛り上がってたから、周囲は「もうこれはサターンでしょ」と。でもそのコントローラーを見ていたら妙にワクワクして、「コレはなんか面白いかもしれない」と。それでやってましたね。

――PS1の世代だと音楽寄りのゲームも出てたじゃないですか。『DEPTH』とか『攻殻機動隊』とか『ワイプアウト』とか。その辺の感覚の繋がりはまだなかったんですか?
Baiyon 自分自身の認識として「『ワイプアウト』のデザインをやってるのがデザイナーズ・リパブリック」とか繋がるのはもっと後ですね。その時も「カッコいい」とは思ったけど、デザイナーズ・リパブリックの所まで意識が行かなかったというか、そもそもゲームを作る人という所までフォーカスする気持ちがまずなかった。高校生の頃はまだ“それを誰が何のためにどういう気持ちで作ったか”という事を考えるチャンネルが存在していなかったんで。後で気付いて「あぁ!」ということはいっぱいありますね。

――ゲームがまだ表現の対象というよりも、そこは遊びとして独立している感じですね。
Baiyon そうですね。当時はまだ「ゲームはゲーム」みたいな感じやった気がしますね。ただインスピレーションという部分では『MOTHER』とかからもちろんあったし、後は『PixelJunk Eden』なんかでもやっているんですが、ファミコンの画面がバグった時の模様とかでグラフィック作品を作ってるんですよ。カセット斜めに挿したり、抜き差ししたり、叩いたりしたのをDVカメラで撮っておいて、スクリーンショットにしてイラストレーターに持って行ってトレースして、別の形に見えたら作り込んでいく。そういう、一方通行のラブレターのようなことは当時から結構やっていた気がしますね。


※ファミコンカセットを使った制作手法についてはGlobal Game Jam 2012のキーノートのひとつで解説している(13分55秒から)。

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――ああ、自分の周囲の物からのインスピレーションとフィードバックというか。
Baiyon 基本、僕は一方通行のラブレターなので。ファッションとかもそういう気がします。レーベル始めた時になんでかわからないけど、「グッズでパンティー作りたいな」と思って、作ったんですよ。そうしたらそれが結構好評で、ベンチャー企業が下着のブランドの店舗を作るからパンティーをデザインしてくれないかって連絡が来て、「やります」って言ってやってたら知り合いから連絡が来て、「パンツ伊勢丹で飾られてて7800円もしてるよ」って。なんかそういうのはありましたね。

――「ノイズから高級パンツまで」って普通は大分距離がありますよ! でも、その当時はそういう対象としてゲームがあったということですね。これちょっと混ざりがちですけど、ゲーム体験のインスピレーションから別の表現するのと、インタラクティブアート的にゲームを通じた表現をするのって違うじゃないですか。『PixelJunk Eden』とか、もっと明確にはその後の『PixelJunk 4am』とかは後者の範疇になってきているわけで。
Baiyon うーん、そうですね。元々中学生ぐらいからハプニングアートなどが好きだったというのが発端で、「目の前にゲームがあるからそれで何かできないか」という感覚はあったんだと思うんですよ。今であれば脳の中が整理されて、それがどういう意味合いを持っていくのかという所まで行くと思うんですけど、当時はまだそこまで考えていなくて、ただカッコいいものを作りたいからそうしていた。自分の好きなモノを表からは分からない階層、レベルまで埋め込めるカタルシスとか、そういう部分でやっていたんだと思いますね。

――オマージュをこっそり仕込んでおいて、わかる人だけわかるというような。
Baiyon そう。当時、僕は関西でずっとやってて、自分で服を作ったりTシャツを作ったりして売ってたんですね。それで販路というか、扱ってくれる店舗が関東に欲しいなと思って。吉祥寺に今はもうないshop33という店があって、あそこに行って取り扱ってもらうことになったんですけど、そこはデザイナーズ・リパブリックがロゴなどを手掛けていて、森本さん(森本晃司氏)とか大友さん(大友克洋)さんの物があったりとか。

――ゲーム関連で言うとNendoとかもですね。
Baiyon そうそう。それで「あぁ、昔自分が好きだったもので(表現を)やるって、あるんやこういうもん!」って感覚がありましたね。

――まとめると前夜というか、2000年代初頭ぐらいはそんな感じだったと。
Baiyon そうですね。それがどうもっと繋がるようになっていったか、どこのタイミングなのかな。まぁそんな感じでずっとやっていたんですけど、ゲームはずっと作りたかったんです。何も考えずに。プログラミングとかもまったくわからないので。どっかのバーで飲んでいて「あの人、任天堂のプログラマーらしいよ」とか言われて、それで話せただけで嬉しいというぐらいの感じ。「ゲームってどう作るんですか?」、「これ、いま話したら作れるのかな?」ぐらいのレベルでわかってなかったんで(笑)。