京都でスタジオを率いる“ガイジン”インディーの場合。

 近年、インディーゲームイベント“ビットサミット”などに始まり、急速に盛り上がりを見せつつあるインディーゲームシーン。その2014年12月時点での記録を残しておきたいと思い、複数のインディーゲーム開発者にお願いしてインタビューを行った。個人開発者、独立系スタジオ経営者、ゲームメーカー出身、学生開発者、マルチメディアアーティスト……バックグラウンドも違えば置かれている事情もまったく異なるが、それぞれに話を聞くことで、そこから何かが見えてくるんじゃないだろうか?

 第1弾として公開するのは、Q-gamesのディラン・カスバート氏と、17-Bitのジェイク・カズダル氏へのダブルインタビュー。ふたりとも、海外からやってきて京都から小規模なインディースタジオを率いている。なぜ母国ではなく日本を、そして東京ではなく京都を選んだのか、そして日本のシーンがどう見えているのか?(ちなみにインタビューはすべて日本語で行われた)

Q-gamesディラン・カスバート氏と17-Bitジェイク・カズダル氏に聞く、母国ではなく京都を拠点に選んだ理由。【インディーの肖像 Vol.1】_06

「京都に一目惚れしていた」

――まずはどうやって日本に来たのか、それぞれ最初に来た時の話をしてもらっていいですか?
Dylan 18歳の時に(勤務していたアルゴノートの)社長に「来週、京都に行ってもらうからパスポート取って来て」ということを急に言われて(笑)。当時はもう3Dの実験をしていて、ゲームボーイでベクターグラフィックを出していた。そのデモを夏のCESかな? 任天堂の偉い人に見てもらって、そこから話が始まった。
――そのデモは『X』(1992年/ゲームボーイ)のプロトタイプみたいな?
Dylan そうやね。当時はMindscapeというパブリッシャーが出資していた小さな実験だったんだけど、任天堂がその後に権利を全部買ったんで、開発していろいろ変えて、最終的に『X』になりましたね。

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▲『X』の続編は『X-Returns』(英題X-Scape)として2010年にDSiウェアとして発売された。開発はQ-Games。 (C)1992-2010 Nintendo Developed by Q-Games

――その時は今のように日本に何年も住むことになるなんて考えていなかったわけですよね?
Dylan うん、日本がなんなのかもわからなかったし。飛行機から降りた時に何があるのか本当にわからない感じ。日本文化もあんまりイギリスに来てなかったからね。イギリスはゲーム機も8ビット時代はSinclair ZX SpectrumとCommodore 64と、あとAmigaとかそういう系統の物が多くて。あとその頃、90年前後はマンガもそこまで来てなかったね。その後にブームがちょっと来たらしいんだけど、僕はもう日本に来てたから。
――そう、イギリスのゲーム文化は日本とはまた違う感じだったんですよね。この前、友人のジェイソン・ブルックス(元Edge編集長)にZX Spectrumをリバイバルさせたコンピューターを見つけたんで……
Dylan ああ、4ボタンぐらいついてるジョイパッドになってるやつ?
――そうです。それで「これ買えよ」って言ったら、「俺はCommodoreファンだからさ! ZXなんて全然ダメだね」って、もうオッサンなのに突然ファンボーイ(ハード信者)な話をし始めて。
Dylan へぇー、面白いね(笑)。
――ファミコン派とメガドライブ派みたいなことを、イギリスでもホームコンピューターでやってたんだなぁと。
Dylan そうそう、一緒一緒。僕はSinclairのZXの方だった。日本には(ZX Spectrumは)ほとんどなかったみたいだね。ZX 81は来たみたいだけど(※編注:三井物産が輸入販売した)。そうそう、そういえば僕は関わらなかったけど、『スターグライダー2』の日本のパソコンへの移植なんかも社内でやってたね。(※編注:『X』の前身的タイトル。マイクロプローズジャパンから発売されたPC-98版のことのようだ)

――話が脱線したんで元に戻しましょう。繋がりができて、それで入社したんですか?
Dylan いや、僕は任天堂の社員にはなっていなくて、ずっとアルゴノートの社員として給料を貰っていたっていう感じ。3~4年ぐらいかな? そういう形で任天堂のオフィスでずっと働いてた。
――出向みたいな形ですか?
Dylan はい、出向みたいな感じですね。それで最初は『X』を作っていたんだけど、その時はイギリスと行ったり来たりしてた。それから『スターフォックス』の時は宮本さん(宮本茂氏)が僕達の所に来て、これを集中して作りたいので長期滞在してくださいということで、みんなで開発中は京都に住むことになった。
――それは結構びっくりしなかったですか?
Dylan その頃は僕達みんな日本が好きになってきていたから。僕は一目惚れで、来た時にもう「京都に住みたい」って思ってん。「もう本当にこれでいいわ、ロンドンに戻りたくない」って。
――ああそうか、当時のロンドンは経済が落ち込んでて結構ダークな……。
Dylan そうそう、結構ダークな感じだったからね。すぐに決断してた。

YOUはなぜシアトルから京都に?

――ジェイクさんは最初に日本に来た時はどんな感じでしたか?
Jake 私は19歳の時、93年。当時は大学生で、交換留学制度を使って来たんだけど、その時もうすでに任天堂が結構好きで。だって高校生の時から任天堂でゲームカウンセラー(子供からのゲームに関する質問を応える役職)としてバイトしてたんだよね。京都の会社だっていうのもよく知ってたし、日本のスーパーファミコンもその時アメリカで入手してたから、日本に持ってきてた。
――超オタクだ!
Jake そうですね。授業が終わったら三宮のゲームショップとか行って、すごいゲームも買いました。秋葉原に一日行ったりもして、最高に楽しかったです。
――日本で働くようになったのは?
Jake その後アメリカに帰ってきてエニックスでも働いてた。一年ぐらいいて「やっぱり開発したいな」というのがわかってきたので、美術大学に行って勉強して、それからシアトルの会社で2年半ぐらい(勤務した)。そうしたら水口さん(水口哲也氏)が誘ってくれて、東京に引っ越したんだ。それが99年かな。ドリームキャストのスタートの頃で、すごくいいタイミングだったよね。
――いい時代ですね!
Jake うん。すごい楽しかったし、周りでも面白いソフトがいっぱい出たしね。フレッシュないいチャンスだと思ったんだけど、でもドリームキャストがダメになって……。セガからプレイステーションで一番最初に出た『Rez』もやった(ユナイテッド・ゲーム・アーティスツでグラフィックデザイナーとして参加)。いい時代でしたね。

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――で、今おふたりとも京都でスタジオを開いているわけですが、ディランさんはずっと京都にいたっていうのがありますけど、ジェイクさんはなぜシアトルから京都に?
Jake 東京はもう4年半ぐらいいて、すごい良かったんですけど、やっぱり人数が多すぎるし、家賃高いし。面白いけど疲れるんだよね。
Dylan 子供生まれるといろいろ費用かかるしね。
Jake うん。それで自分の会社も立ち上げたから、前は考えなかったスタジオの家賃とか、会社のみんなの給料とかを全部考えたら、やっぱり東京はちょっと難しいんじゃないかなと思って。インディースタジオでまだお金があまりないですからね(笑)。それにディランさんとずっと前から友達で、もう10何年も京都のことを知ってるし、私も何回も遊びに来たし。
Dylan うん、そうね。
Jake 一回アメリカに帰ったけど、日本にはずっと戻りたかった。2003年にアメリカに戻ってきて、大学にしばらく行ってからEAのロスのスタジオに入って、それからまたシアトルに戻って自分のスタジオを作ったんだけど、なんかいい方法ないかなって。でも東京は難しいし、奥さんが千葉の人で関東でずっと育ってるから「もう東京は絶対戻らない」って言われてね(笑)。子供がいるから、育てやすい、家賃がそんなに高くない、それで周りに面白いゲーム業界の会社も多い……ってなるとやっぱり京都だったね。
Dylan 文化もあるしね。
Jake 文化もあるね。あと日本から帰った時、日本は大好きだけどちょっと疲れてた。それで京都に来て思ったのは、日本に疲れたんじゃなくて、東京に疲れてた。忙しすぎて人数も多すぎる。面白くていい街だけど「住みやすい」というのは違う。京都に来たら「はー」って(リラックスするような溜息)。めちゃめちゃいい感じで、みんなのんびりしてるし、ものすごいきれいな街でゲーム業界の面白い人いっぱいいるし、ガイジンのインディークリエイターもいっぱいいるし。「これちょうどいいんじゃないかな?」って思ってたら、奥さんもすごい気に入って。もう多分出ないと思ってる。

Q-gamesディラン・カスバート氏と17-Bitジェイク・カズダル氏に聞く、母国ではなく京都を拠点に選んだ理由。【インディーの肖像 Vol.1】_05
▲京都某所の仮オフィス。

Dylan うん、京都はそういう……なんやろ、落ち着く感じの街だからね。だからやっぱり楽しい。
Jake 私の中の日本の好きな部分がほとんど京都にある。嫌いな部分はほとんど京都にない。(一同笑)
Dylan オリジナリティーのあるものが多いね。お店でもフランチャイズのものはそんなになくて。フランチャイズのパン屋さんとか絶対行かない。個人のパン屋さんにしかいかないんだけど、そういうこと(が出来る)。レストランとかカフェも全部そうね。
Jake 私は日本の60年代の文化とかデザインがすごく好きで、京都って結構ファンキーなんだよね。昔からある店とかよくあって。飲み屋とかカフェとかいっぱいあって、東京より面白い。大きくはないけど、小さくもないしちょうどいい街だと思うんです。
Dylan (ジェイクが)京都に着いた日に、京都駅の近くの昔からやっているバーに行ったんだけど、その人は50年代からやってて、お母さんがさらにその前からやってるっていう、あの話面白かったね。何世代もやってたりする、それが面白い。
Jake 昔から8-4のTGSのパーティー(※)の後に、みんなで東京で私が一番好きな飲み屋街の恵比寿横丁、昔風なファンキーでオールドスクールな感じの所に行くんだけど、「ジェイク、こんなのが好きだったら京都はこんなのばっかりだから」って言われてたね。(※ローカライズ会社の8-4はTGSのたびに海外のプレスや開発者を集めたパーティーを行う)