今回、3作目にしてスピンオフ作品でもある『コーヒートーク トーキョー』がコーラス・ワールドワイドより2026年5月21日に発売された。本稿ではそのレビューをお届けしよう。

名探偵バリスタ? 狭いカウンターの内側から広い世界を見る
タイトル、お店の名前からも察せるように今作は我々にとってなじみ深い日本の東京が舞台だ。都会の雑踏と電車の音が騒がしい、ネオン煌めくコンクリートジャングル。大通りから少し外れたであろう、それた脇道でひっそりと営業されているオーセンティックでレトロ、店内ではレコードが流れているような純喫茶店。“コーヒートーク トーキョー”きっとそんなお店だ。

カッパは川のなかに暮らしてはいないし、のっぺらぼうも人々を脅かして生活してはいない。カッパとのっぺらぼうはサラリーマンとしてあくせく働き、雪女は家庭料理のお店を営んでいる。

さて、長々と世界観を語ったが、じつはこの不思議リアリズム世界をプレイヤーが直接外にでて見ることはない。プレイヤー(バリスタ)は喫茶店を離れられないからだ。誤解のないようにいっておくと、病弱とか出られない特別な事情があるわけではない。外に出たことはあるだろうが、それがプレイ時には描写されないというだけである(実際散歩に行こうとする描写もある)。
要するにプレイ時にはカウンターの向こう側から出られないのだ。食器を手入れし、材料とにらめっこしながらドリンクを作り、お客さんたちと楽しい会話をする、ただそれだけ。仕事中なので仕方がない。外の世界を直接見聞きして、それらに反応することはできない。
と、ここまで聞くとなんとも窮屈そうな印象を持つかもしれない。実際、筆者も「こぢんまりとしたゲームだな」と思っていた節が第1作のプレイ時にあった。だがそれは勘違いだ。バーカウンターに押し込められているにもかかわらず、『コーヒートーク』はその外の世界が広いことをあらゆる方法で思い起こさせてくれる。
その代表的な例がお客さんとの会話だろう。外で働いてきた者、イベントを楽しんだ者、家族との団らんを楽しんだ者など、いろいろなお客さんが訪れ、その日その週にあった出来事をお話ししてくれる。

今日は学校でこんなことがあったとか、職場ではこんなことをしているとか、なにが好きだ、なにが嫌いだとか。深夜の静かな空気もあって、いろいろなお客さんたちが自然と言葉をこぼしていく。
その会話のひとつひとつに耳を傾けると、まったくもってバーカウンターの内側を窮屈に感じないのだ。それはきっと個々の目線で見てきた世界を、会話を通じて追体験させてくれているからだろう。彼ら彼女らの目を通せば、カウンターからでもいつだって世界を歩いているかのような気分になれる。
この世界の広がりに、さらなる拍車をかける要素もある。新システムが導入されたSNS“トモダチル”だ。いわゆるX(Twitter)やFacebook的なもので、お客さんのプロフィールや投稿が見られる機能。誰がなにをしているのか、どんな投稿をしているのかがわかるし、リプ欄(みたいな機能)を見れば誰と誰が会話しているのかもわかる。

このおかげでふだん見られないお客さんの一面がチラ見えする。要するに、お店での会話だけでは見えなかった“生活感”が生まれてくるのだ。店では見せない顔、店の外の人生。それらの共有がゲームキャラクターではない、“この世界に生きている者”という実感をプレイヤーに持たせている。

もちろんバリスタ本人は現地にはいないし見てもいない。だが、その断片から想像することはできる。各々の話や投稿をつなぎ合わせれば「こんなことがあったんだなぁ」と全体のイメージも膨らんでくる。気分はちょっとした安楽椅子探偵モノの小説のようだ(死体や事件は出てこないけれど)。
そして、この喫茶店での出会いをキッカケに交友を深める場面にも立ち会える。人の数だけ世界があると誰かが言ったが、それなら人の出会いの数だけその世界は広がる。恋愛にしろ友情にしろ、人と人との輪が広がる瞬間には自然と頬が緩む。
人と知り合う瞬間は勇気が必要だと勝手に思っていたが、案外そうではないのかもしれない。『コーヒートーク』をプレイすると人見知りの筆者もそんなふうに思ってしまう。
寄り添いと立ち会い。変わらない『コーヒートーク』の魅力
あくまで私見だが『コーヒートーク』は、小さな個人が抱える大きな問題に対する決断に立ち会い、それを見守り寄り添うことがどれだけ大切か、ということを伝えていると思っている。
今作でもさまざまな悩み、心配事を心の奥底に抱えたお客さんたちが訪れる。中年の危機を迎えたカッパのサラリーマン、パートナーの死を引きずる雪女、学校の友人関係で悩むキツネ耳でハーフ(イギリスと日本)の女の子、そして成仏できない記憶喪失の幽霊娘などなど。成仏云々はともかく、老若男女が悩みを打ち明けるからこそ、誰もが誰かに深く共感してしまえるようになっている。
たとえば筆者は、キツネ耳の女の子が抱える友人関係の悩みに深く共感してしまった。彼女はハーフゆえの疎外感があるなかで、ただ友だちがほしかっただけなのだが、言葉選びとその後の対処を間違ってしまい友人と仲違いしてしまう。

ふだんはきっと愛嬌のある活発な子なのだろう。だがそれが仇になり、子ども社会では自身を孤立させてしまった。たった一瞬の言葉選びを間違えただけでだ。子ども社会はときに大人より残酷になる。筆者も子ども時代のトラウマをしっかりと思い出してしまった。他人事と思えない。正直かなり堪えた。
だが、ここまで共感してもなお、前述した通りカウンターの向こう側には出られない。直接問題解決に出向くことはおろか、現場で手助けすることすらできないのだ。どんなに力になりたいと思ってもここは変えられない。
だからこそできることには全力を尽くしたくなる。本作におけるプレイヤーができること。それはおいしい一杯を贈ることだ。この一杯が目の前の悩める存在をなにかよい方向へ導いてくれないか。それが難しければせめていまだけは安心してくれないか。そう祈るように差し出させる。

そうして一杯を提供したら後は見守るだけ。たとえもっと力になりたいと願っても、それ以上にプレイヤーが介入することはできない。この感情が爆発して、ときにはカウンターと外の世界を隔てるこの壁が恨めしいとさえ思えてしまうことも。
だが、きっとそれでいいのかもしれない。彼らや彼女らの人生はそれぞれのものだ。自分自身が変えるしかないということだろう。そんな一見そっけないようで気遣いを感じられるこだわり、信念、美学のようなものが『コーヒートーク』の根底に眠っているような気がしている。
そしてそれに呼応するかのように、みな誰かの悩みに自然に言葉を返す。バリスタ本人はもちろんのこと、常連から初対面のお客さんまで。寄り添いかたは人それぞれだが、誰もが誰かの思いを汲み、手を差し伸べる。きっと、皆が皆、大なり小なり心に痛みを抱えているからこその行動だろう。

シリーズプレイヤーへのちょっとしたサプライズも
ただ、シリーズプレイヤー向けのサプライズ……というかサービス的なものはある。トモダチルの投稿でシアトルの面子がときたま登場するのだ。スーパーモデルの吸血鬼、娘との関係に悩むパパ警官、ガタイのいい狼男などなど。懐かしい面々が楽しそうにしている場面がチラ見えする。

本作はストーリー体験がおもないつ遊んでもいいタイプのゲームだ。おいしい一杯を片手にゲームを進めれば、物語ともリンクして満足感のあるゲーム体験が味わえるだろう。
派手な展開、あっと驚くような伏線回収劇などがあるわけではない。しかしそれが『コーヒートーク』らしい魅力でもある。地に足がついているからこそ共感できるリアルな悩みと勇気ある決断を見守れる。そうした寄り添いのストーリー体験をぜひ『コーヒートーク トーキョー』で味わってみてほしい。













