ファミ通.comの編集者&ライターが2021年夏のおすすめゲームを語る連載企画。元ファミ通.comニュース班のヨージロがおすすめするタイトルは、Nintendo Switch用ソフト『ウムランギジェネレーション スペシャルエディション』です。
【こういう人におすすめ】
- フォトモードが好きな人
- 断片的な情報から考察するのが好きな人
- コロナ禍に生きるすべての人
ヨージロのおすすめゲーム
『ウムランギジェネレーション スペシャルエディション』
- プラットフォーム:Nintendo Switch
- 発売日:2021年6月5日
- 発売元:PLAYISM
- 開発元:ORIGAME DIGITAL
- 価格:2480円[税込]
- 備考:PC版『ウムランギジェネレーション』は2020年5月20日配信(※Nintendo Switch版『ウムランギジェネレーション スペシャルエディション』は、PC版に追加要素を加えたもの)
ゲームを含む映像を伴ったメディアで物語を伝えようとしたとき、いちばん手っ取り早くて正確なのはセリフや文章で説明することだろう。
舞台はどこそこで、登場人物はこんな人たちでこんなことを考えていて、世界はこんな状態になっている……ってな具合に懇切丁寧に説明すれば、誰にでも物語は理解できる。
でも、理解できる=最適な状態ってわけじゃないのが、エンターテインメント表現の難しいところであり、おもしろいところでもある。たとえば映画『ブレードランナー』の劇場公開版では、冒頭のシーンで主人公のデッカードによるモノローグで舞台設定がツラツラと語られるのだが、後に登場したディレクターズカットおよびファイナルカット版ではそれがまるごとカットされていた。
物語への理解度が高まるのは当然モノローグがある前者だが、作品として印象に残るのは断然後者だろう。情報が削ぎ落とされたことで、同作の真の主役とも言える街の景観(“サイバーパンク”のビジュアルイメージを決定付けた偉大な景観だ)に目が行くのだから。
すぐれた物語を紡ぐことは、刃物を研ぐ行為に近いのかもしれない。分厚い刃ではなにも切ることはできないし、刺すこともできない。鋭く研ぎ澄ました刃のような物語(の伝えかた)こそが、僕らの感情を切り裂き、心に刺さる忘れ得ぬ傷を残すのだから。
そういう意味で言うと、今回紹介する『ウムランギジェネレーション』の刃はとつもなく鋭利だ。
ものすごく寡黙で、ものすごく饒舌
『ウムランギジェネレーション』は寡黙な作品だ。多くの人物(やそれ以外の何か)が登場するが、彼らは何も喋らないし、何かコンタクトを取ってくることもないし、主人公自身も言葉を発することはない。物語に関する説明テキストも一切なく、ゲームを開始するといきなりビルの屋上らしき場所に放り出される。サウンドはローファイヒップホップとヴェイパーウェイヴの中間みたいな雰囲気で、騒がしさのなかに若干の切なさ、儚さが漂っていて、本作の寡黙さをより強調している印象だ。
ゲームのルールはシンプルで、ステージごとに指定された撮影ミッション“フォトバウンティ”をこなすだけ。マップ内のギミックにアクションを起こして新たなエリアに行ったり、時間経過によってシチュエーションに変化がおきる……なんてことも一切なく、固定された状況の中をカメラ片手にウロウロするだけだ。
言い換えればこの作品は“写真を撮るだけのゲーム”なわけだが、そのゲームプレイだけに徹するのは実際のところ難しかったりする。
『ウムランギジェネレーション』は寡黙な作品だ。でも、同時に饒舌な作品でもあるから。
強制的な凝視と思考が世界の解像度を上げる
フォトバウンティのルール自体は“指定された写真を撮る”という単純なものだが、“指定された写真”の内容はなかなかにヒントが少なくて頭を悩まされる……というか、意味がわからなくて途方に暮れることも少なくない。
“10枚のソーラーパネル”なんてわかりやすいターゲットもあるが、“Sharki”や“「Tepuna」という単語”などは説明が足らなすぎて、正直ナンノコッチャだ。
必然、プレイヤーは壁に貼られたポスター、頭上にある看板、スプレー缶で壁に書かれた汚い字、人物が着ている服の柄、テーブルに置かれた新聞の一面など……マップ内のあらゆるものを凝視し、思考していくことになる。
正直に告白すれば、最初の数ステージは退屈だし苦痛だった。誰も喋らなくて、なんの説明もないステージ内を、わかりづらいヒントを頼りにウロウロと歩きまわって、細かいところまで凝視して、意味もよくわからないまま写真をパシャパシャ撮る……一体このゲーム、なにがおもしろいの!? という心境だ。
しかし、凝視と思考を続けているとやがて、ゲーム内の景色がこの世界で起きていることを饒舌に語っていることに気付かされる。
“10枚のソーラーパネル”を見つけたとき、同時にプレイヤーはこう思うだろう。「で、このソーラーパネルはなんのためにあるんだ?」。
スプレーアートの要領で壁に描かれた“「Tepuna」という単語”をようやく見つけても、ターゲットを見つけたよろこびより、すぐ近くで踊っているモヒカン頭の集団のことが気になるに違いない。
“15本のろうそくと4台のブームボックス”をフレーム内に収めるのはひと苦労だ。ところで、なぜ空がこんなに赤いのか?
……そんな具合にフォトバウンティという目的によって、プレイヤーは『ウムランギジェネレーション』が描く世界への解像度を高めていき、結果、一切のセリフも説明テキストもないまま、その世界がどうにもマズイことになっているという“物語”をハッキリと理解するのだ。それはじつにスリリングで好奇心を刺激される体験だが、こういった演出手法自体は“環境ストーリーテリング”と呼ばれるもので、本作ならではのものってわけではない。
でも、従来の環境ストーリーテリングはアクションなりRPGなり、主となるゲームプレイがあったうえで、世界観に深みを与えるための補助的な手法として使われていることがほとんどだった。対して、『ウムランギジェネレーション』では環境ストーリーテリングがゲームのルールと密接かつ確かな説得力で結びつき、物語の主要素として働いているところがじつに新しい。また、環境ストーリーテリングのみで本作のような骨太の物語を描ききった作品を、僕はほかに知らない(それでも強いて挙げれば、ジャンルは異なるが『風ノ旅ビト』に触れたときの感動に近いものが本作にはあった)。
でもやっぱり、主役は物語じゃなくて写真撮影
わかりやすい状況説明を一切行うことなく、芸術的とも言えるステージデザインでドラマティックな物語を饒舌に描いた作品ーーここまでに僕が語った内容をひと言でまとめるとそんな感じだろう。
つまり、“写真撮影”というのは物語の理解をスムーズにするための手段であって、『ウムランギジェネレーション』は“物語”こそが主役のゲームなのである!……ってのはあまりに浅はかな認識だ。
なんだかお寒いセルフツッコミみたいなことをしてしまったが、このゲームの主役は、やっぱり写真撮影なのである。
そう断言する理由は、実際の写真撮影のようにさまざまなレンズが選べて、現像した写真のコントラスト、露出、色合いを細かく調整できるというゲーム的なおもしろさによるところも非常に大きい。だが、それ以上に「ちゃんと写真撮影をしなければ!」という“使命感”を抱かせるつくりになっているからなのだ。
……まったくもって何を言っているのかわからないと思うが、いま僕はネタバレに近い話をしているので、どうしてもニュアンス雰囲気な話に終始せざるを得ないという事情があったりする。なので、ここで一旦、注意文を挟もうと思う。
以下の内容はネタバレではありませんが、ゲームのエンディングについて少し言及しています。
『ウムランギジェネレーション』には一切のセリフも説明テキストもない、と書いたがじつは一ヵ所だけ、説明テキスト的なものが表示される部分がある。エンドロールの最後に挟まれる「この作品をウムランギ世代へ遺す。世界の終わりを見守ることになる彼らへ」というメッセージがそれだ。
僕はこの一文を読んだ瞬間、自身のプレイ内容を激しく恥じた。そして慌てて2周目のプレイを開始した。
ここまでにさんざん語ったとおり、『ウムランギジェネレーション』の物語は描きかたの妙もあって非常に惹き込まれる仕上がりになっている。そのため、本作の饒舌さに気づいた瞬間から、そっちを追うことに夢中になってしまった。
とにかく先のステージへ行って、物語の行く末を見届けたい……そういう気持ちになってしまうと、当然フォトバウンティは雑になる。構図も色彩もなにも考えず、とりあえずターゲットをフレーム内に収めてシャッターを押す。できあがった写真の仕上がりなんてもちろん気にしない。
確かに僕はターゲットのことや、それ以外のあらゆることについて思考して凝視して、この世界で起きていることへの理解を深めていた。でも、重要なことをひとつ忘れていたのだ。
なぜ写真を撮るのか?
そのことをまったく考えていなかった。だから、エンドロールのメッセージにハッとさせられたのである。
スマートフォンの普及で写真撮影という行為はあまりにも身近になり、撮影する理由を意識することはほとんどなくなった。しかし、本来写真撮影ってのは遺す行為だ。だから、遺される側(そこには自分自身も含まれる)のことを考えれば、テキトーな写真なんてのはじつにけしからん話である。ましてや“世界の終わり”を前にした世代たちに対して、構図も色彩も何も考えていない雑な写真を遺すなんて言語道断だ。
“ウムランギ世代”のために僕らはゲームを遊ぶ
ゲームというフィクションに対して「自身のプレイ内容を激しく恥じた」だとか「雑な写真を遺すなんて言語道断だ」とかムキになっちゃってる僕のことを、「こんなげーむにまじになっちゃってどうするの」とライク・ア・『たけしの挑戦状』(意味がわからない人はググろう!)的な冷めた目で見ている人もいると思う。
でも僕に言わせれば、いまの世の中は「げーむにまじになれなくてどうするの」って感じだ。
『ウムランギジェネレーション』の“ウムランギ”とは、マオリ語で“赤い空”を意味する。そして僕らが住む日本の首都の空も、この1年で何度も赤く染まったーー東京アラートというバカげたパフォーマンスによって。
“ウムランギ世代”はフィクションなんかじゃない。悲しいことに、情けないことに、腹立たしいことに、現実になってしまったのだ。そんな絶望的な時代に、僕らがやれることってなんだろうか? それは家にこもって「げーむにまじになっちゃって」しまうことだ。
だから、2021年の夏にやることはひとつしかない。いますぐゲームを、コントローラーを手に取るんだ。タイトルはなんだっていいが、僕がおすすめするのは断然『ウムランギジェネレーション』だ。このゲームから得られることはあまりにも多い。
とりあえず、これから先もゲームで生き延びよう。
執筆者紹介:ヨージロ
元ファミ通編集部ニュース班で現在はサラリーマンの兼業ライター。もう30年以上「げーむにまじになっちゃって」います。