「死ななきゃ安い」。これは“どんなに攻撃されてもやられなかったら無意味”という意味の言葉だ。おもに対戦ゲームで猛攻を受けた際にネタ的に使われる。
まさか、フィギュアスケートの平昌オリンピック銀メダリスト・宇野昌磨選手の口から聞ける日が来るとは思わなかった。
2万7000人が宇野昌磨選手に夢中
『大乱闘スマッシュブラザーズ SPECIAL』(以下、『スマブラSP』)というNintendo Switch用ゲームがある。マリオやカービィ、ピカチュウといった任天堂のキャラクターを中心に、70人以上が登場する大人気対戦ゲームだ。
本作は最大8人でプレイ可能。かわいいキャラが画面狭しと動き回るので、パッと見はカジュアルなパーティーゲームに映る。たしかにそういう一面もあり、わいわい遊ぶと楽しい。
大乱闘スマッシュブラザーズ SPECIAL 紹介映像
ときに『スマブラSP』は別の一面を見せる。対戦競技としての顔だ。国際大会が開催されるほどの熱を持ち、ストイックに頂点を狙うプレイヤーは世界に数多いる。
人気ゲームだけに強くなりたい(勝ちたい)と考えるプレイヤーは多く、強ければ注目される。加えて人間性も魅力的なら、もはやヒーローと言ってもいい。
そういったヒーローのひとりが、配信番組“ケプトの定時退社”を切り盛りするkeptさんだ。番組では『スマブラSP』実力者とトークや対戦をくり広げるのが通例。
2020年6月22日配信の第40回は、同時視聴数が2万7000人に迫るほどの盛り上がりを見せた。
第40回のゲストの名前は宇野昌磨。2018年平昌オリンピック フィギュアスケート 男子シングル銀メダリストだ。
オリンピックの、フィギュアスケートの、銀メダリスト。超人である。僕はフィギュアスケート好きなので、宇野昌磨選手のゲスト出演を知ったときは大興奮で紹介記事を書いた。
興奮したのは僕だけではない。『スマブラSP』界隈も、フィギュアスケートファン界隈もざわついた。そりゃもう、わっしょいわっしょいお祭り騒ぎである。
落ち着いてから感想でも書こうと思っていたが、まだクールダウンが終わらない。興奮を引きずっているので、そこそこ長い記事になりそうだ。
きっかけはTwitterのDM
そもそも、どういう経緯で出演が決まったのか。任天堂のような大手企業の企画なら想像しやすい。「すごいゲストを呼んだなぁ」で済む話だ。
ところが、“ケプトの定時退社”はあくまでいちゲーマーが主宰する番組である。ゲーマーの配信に銀メダリストが遊びに来る世界線って何なんだ。
時空がねじ曲がっている気もするが、安心してほしい。この世界は大丈夫だ。話は簡単。宇野昌磨選手は“ケプトの定時退社”のファンだったのである。
彼の対戦ゲーム好きは広く知られている。スポーツ番組のインタビューなどでも、たびたび「試合や練習のとき以外はゲームのことを考えている」という旨の発言をするほど。
宇野昌磨選手は友人運営のゲーム実況チャンネル“OjiGaming”に参加している。その友人が、「宇野昌磨選手が定時退社に出たいと言ってます」と、TwitterのDMでkeptさんに連絡したのが出演のきっかけ。「お姉ちゃんがジャニーズ事務所に履歴書を送った」みたいな話だ。
最初はkeptさんも半信半疑だったそうだが、とりあえずビデオ通話で打ち合わせをしてみることに。すると宇野昌磨選手も会議に入ってきて、思わず笑ったそうだ。
人間、ほんとに驚くと笑うしかないのである。
宇野昌磨選手が本気で『スマブラSP』に取り組むようになって、およそ1年。大会や有名プレイヤーの配信を見るのも好きで、“ケプトの定時退社”は初期から楽しみにしているらしい。
打ち合わせ以降は、番組本番までに合計10時間ほど対戦。昌磨くん、keptさんと呼び合う仲になった。keptさんは語り口が落ち着いていて、宇野昌磨選手も会話を楽しんでいる。
宇野昌磨ファンのみなさんも、「そうそう、これこれ! 昌磨くんの笑顔が見たかった! ありがとう!」と、涙を流したことだろう。
ゲームは1日8時間。宇野昌磨選手の日常
番組前半のトークコーナーでは、自己紹介シートをもとにトーク。職業はフィギュアスケーターとあるが、本人は「『スマブラSP』の話をしにきた」。ひとりのゲーマーがそこにいた。
『スマブラSP』について話したいことが多すぎて、時間が足りるか心配だという。そういうフィギュアスケーターもいる。
視聴者の大半は『スマブラSP』ファンかフィギュアスケートファン。宇野昌磨選手がゲーム好きとは言え、『スマブラSP』ファンの中にはピンと来ていない人もいるだろう。どれほどのものか。
オン・オフシーズンのタイムスケジュール例を見て、その疑問は吹き飛んだはずだ。「この人、ガチだ」と。
フィギュアスケート中心の生活を送るオンシーズンでも、ゲームは1日5時間ほど。オフシーズンの休日だと、これが8時間に増えるのだ。そして寝る前にはYouTubeで動画を見て勉強。頭が下がる。
keptさんは「生活リズムの悪いプロゲーマーの1日」と笑っていた。言いえて妙。
メインキャラはウルフ。『スマブラSP』の基本だから
トークは『スマブラSP』好きとしての宇野昌磨選手の深層へ。
いまのメインキャラはウルフ。対戦を楽しみたい気持ちと強くなりたい気持ちが両方あり、トッププレイヤー・あばだんごさんの「ウルフは『スマブラSP』の基本」という発言を受けて、地力を上げるためにウルフを使っているとのこと。
地力を上げるため! じっくり時間をかけてうまくなろうとする姿勢は、完全に競技者である。
なお、宇野昌磨選手の実力は半分くらいのキャラでVIP。『スマブラSP』はオンラインで世界中のプレイヤーと対戦でき、戦闘力が高いと“VIPマッチ”に参加できる。
キャラを絞ってもたいへんなのに、30~40キャラでVIPとは。想像以上のガチっぷりに震える。
観戦者としてもガチだった
つぎのテーマはさらに深かった。好きな試合、好きな選手、よく見る配信。
好きな選手やよく見る配信はともかく、好きな試合は競技シーンを追いかけてないと出てこない。『スマブラSP』好きだったら誰でも答えられるかというと、そういうわけでもない。
フィギュアスケートファンの中でも、好きなシーズンやプログラムをパッと答えられるほど見ている人と、漠然と全体が好きという人がいるだろう。宇野昌磨選手は前者のタイプということ。
果たして、宇野昌磨選手は観戦者としても“ガチ”だった。いろいろな名前が出るわ出るわ。饒舌も饒舌。どれもひとつに絞れなかったらしく、ベスト3形式に。
“好きな試合”では使用キャラにまで言及して試合展開を語り、“好きな選手”では世界で戦う身としてトッププレイヤーに共感し、“よく見る配信”では「めちゃくちゃおもしろいですよねー」と顔をほころばせる。
僕は宇野昌磨選手が出演するテレビ番組なんかもよく見るが、こんなに生き生きとした顔は見たことない。見ているこっちがうれしくなる。
声に出して言いたい日本語「宇野昌磨のジャスガ反転上スマ」
「いやー、めっちゃ緊張するなー」
オリンピックでもとくに緊張しなかった男が、笑いながらコントローラーを手にする。実際に『スマブラSP』の腕前を披露する時間がやってきた。
最初はキャラを決めたうえで3戦を実施。宇野昌磨選手はウルフ、フォックス、パルテナ。keptさんはむらびと、しずえ、ヨッシー。
keptさんは番組ではゲーム音を聞かずにプレイすることも多いらしいが、「(宇野昌磨選手が強いので)音が必要です」とイヤホンを着けた。
音は敵の動きを判断する要素のひとつ。つまり、手を抜かずに勝ちにいくということ。本気だ。
結論から言えば、やはり宇野昌磨選手は“ガチ”だった。keptさんは『スマブラSP』の国内ランキング16位の実力者。とくに、むらびとの扱いにかけては世界一とも言われている。
そんなkeptさんと十分に渡り合っている。適当に強い技を連発するようなことはなく、相手の動きを見てから対策する真摯なプレイは『スマブラSP』ファンを唸らせた。
技を空振りさせてその後の隙をつく“差し返し”、空中に飛ばした相手の落下時を攻める“着地狩り”、相手がジャンプしたくなるタイミングを想定して動く“ジャンプ読み”。
こういったテクニックを当たり前のように活用する。keptさんは「丁寧で好感の持てるスマブラ」と評価していた。人柄が出ている。
しずえ(kept)対フォックス(宇野)の2戦目。声に出して言いたい日本語が誕生する。それは、
「宇野昌磨のジャスガ反転上スマ」
だ。宇野昌磨のクリムキンイーグル(※)ではない。宇野昌磨のジャスガ反転上スマ(※)である。
※クリムキンイーグル:両足を外側に開き、背中をリンクすれすれまで倒して滑走する、宇野昌磨選手の得意技。
※2020年6月28日12時追記 正しくは“ジャスガ反転ダッシュ上スマ”らしい。
“ジャスガ(ジャストシールド=ジャストガードの略)”とは、相手の攻撃が当たる瞬間にシールドを解くこと。するとガード後の隙がほぼなくなる。
宇野昌磨選手は後ろを向いた状態でジャスガして即振り返り、追撃しようとするkeptさんに上スマッシュ攻撃を叩き込んだ。宇野昌磨選手は上級者のテクニックを狙って出したのだ。目の肥えたファンほど目を疑ったに違いない。
宇野昌磨選手のジャスガ反転上スマ https://t.co/uu1avgRb39
— くらうす (@Kluhs_79)
2020-06-22 21:17:22
宇野昌磨選手は練習量の多い選手だ。その勤勉さを『スマブラSP』でもいかんなく発揮。何度も反復練習したからこそ、ジャスガ反転上スマを瞬時に実行できたのだろう。
練習量の多さは扱えるキャラ数の多さにも影響する。keptさんによると「昌磨くんはおま(おまかせ=ランダムキャラ選択による対戦)がまじで強いっす」。
その言葉は正しかった。3試合を戦い、2対1でkeptさんに勝ち越したのだ。
おまかせ対戦は宇野昌磨ファンにとってのフィーバータイムでもあった。得意キャラを使えるとは限らないので、少し気が抜ける。つまり、ふたりともよく笑う。着飾らない部分をさらけ出している。
仲のいい人同士の煽り合い(ふざけ合い)は見ていて微笑ましい。アスリートのファンの中には「その人が楽しんでいる様子が見たい」という人が一定数いる。僕もわりとそのタイプだ。
少なくとも数年分の宇野昌磨スマイルを補充できて満足である。
ゲーマーとアスリートのすてきな関係
宇野昌磨選手について書きたいことはまだまだある。
- “ウメブラ”や“闘龍門”といった大会の配信はたいていチェックしている。
- “おまかせタミスマ”というオンライン大会で4回戦まで進出したことがある。
- 夜中に交流用Webサービス“スマメイト”を使って対戦を楽しんでいる。
- 全キャラVIPにしてアイアンマンチャレンジ(※)をやりたがっている。
※アイアンマンチャレンジ:VIPマッチで1勝するたびにキャラを変更し、全キャラ完了するまでのタイムを競うこと。
大会上位クラスの実力を持ち、愛も知識もファンと同等以上。そして、世界的なスーパーヒーローであることは言わずもがな。『スマブラSP』コミュニティからすれば、彼を好きにならない理由がない。
実際、多くの人がYouTubeのコメントやTwitterで彼を絶賛していた。仲間意識が芽生え、もう完全に「おれたちの宇野昌磨」である。
また、一度はオフライン大会を観戦してみたいという。5月に観客として参加予定だったが、新型コロナウィルスの影響で中止になってしまったそうだ。
その大会とは“ウメブラ Japan Major 2020”。僕も観に行く予定だった大会だ。残念。
よく考えたら、アスリートがそのスポーツ以外の好きなことについて長時間しゃべり続ける生放送は珍しい。少なくともテレビでは見たことがない。
ドキュメンタリー番組で長く話すことはあるものの、重点的に掘り下げられるのはだいたい苦労話だ。苦労が力になったから世界の頂点を狙える的なストーリーが好まれる(ということになっている)。
広い層に向けるとそうなるのかもしれない。だが、特定の層を楽しませる配信番組なら、ひたすらハッピーに作ればいい。ファンは好きなアスリートが苦しんでいることを知っている。だから、たくさん笑ってほしいのだ。
番組成功の裏には、宇野昌磨選手とゲーマーたちのすてきな関係性がある。
keptさんをはじめ、ゲーマーたちは「宇野昌磨選手が自分たちと同じ場所まで降りてきてくれた」と感じていると思う。雲の上の存在が自分の好きなものを認めてくれたら、それはそれはうれしいだろう。
とはいえ、わりとある話だ。固いイメージのある有名人がじつはガチゲーマーだった。これだけでは大きな感動は生まれない。
加えて、宇野昌磨選手も「keptさんたちが自分と同じ場所まで降りてきてくれた」と感じたのではないか。番組内では『スマブラSP』プレイヤーを尊敬するような発言も多く、それは本心だったように思う(そもそもリップサービスをするタイプではない)。
keptさんの人柄もよかった。下手に出ることも上から目線になることもなく、あくまで対等な『スマブラSP』仲間。全編にわたって和やかな空気が流れており、宇野昌磨選手のファンからは“感じのいいお兄さん”として認知された模様。
フィギュアスケートと『スマブラSP』という異なる競技に取り組む二者が、お互いをリスペクトする。これが異ジャンル交流におけるあるべき姿だ。
『スマブラSP』ファンと宇野昌磨ファンのみなさんへ
もう『スマブラSP』ファンは宇野昌磨選手の虜。テレビでフィギュアスケートが流れていたら見るだろうし、試合結果をネットでチェックするかもしれない。スケートリンクに足を運んで、自分で滑ってみるのもいい。
最初はそれくらいで十分だと思う。宇野昌磨選手が出るような上位の大会はチケット争奪戦が激しいので、現地での応援はなかなか難しい。テレビ中継やネット配信で試合を見るだけでも、フィギュアスケートは楽しいものだ。
せっかくだからフィギュアスケート観戦のコツも書いておく。報道では4回転ジャンプを跳んだか否かが注目されがちだが、跳べばいいというわけでもない。
スケーティングの美しさも重要な要素で、宇野昌磨選手や羽生結弦選手のような上位選手はたいていオールラウンダー。トリプルアクセルのイメージが強い浅田真央さん(2017年引退)も、実際はしなやかさが評価された選手だったりもする。
選手の特徴に注目するとおもしろいのは、ゲームもフィギュアスケートも同じだ。
今回の配信で『スマブラSP』を初めて見た宇野昌磨ファンのみなさんは、試しに遊んでみてほしい。さすがにNintendo Switchを買うのはハードルが高いと感じるのなら、友だちや親せきの家にあったら触ってみるくらいでも問題なし。
一度遊べば宇野昌磨選手やkeptさんと同じ気持ちを味わえて、ふたりが笑顔になった理由がわかるはず。
うまくなくても大丈夫。へたでもおもしろい。それがゲームだ。