「いまこれからできることを、手加減なくやり尽くすのが『ファイナルファンタジー』」。坂口博信氏がKYOTO CMEXイベントで語った、飛躍への過程とは

マンガやアニメ、ゲーム、映画、映像のイベントを数多く執り行うKYOTO CMEXにて、ミストウォーカー代表取締役社長の坂口博信氏が講演。『ファイナルファンタジー』30周年を受け、“『ファイナルファンタジー』はなぜ飛躍したのか”について語った。

『ファイナルファンタジー』を俯瞰しつつ思う、過去、現在、そして未来

 2017年10月30日、京都・からすま京都ホテルにて、KYOTO CMEX 2017公式イベントのひとつにあたるコンテンツクロスメディアセミナーが開催され、週刊ファミ通の林克彦編集長を聞き手に、ミストウォーカー代表取締役社長の坂口博信氏の講演が開かれた。

 KYOTO CMEX(京都シーメックス)は、京都国際マンガ・アニメフェア(略して 京まふ)など、京都を中心にエンターテインメント・カルチャーに関するイベントを年間20以上開催する組織。9年の歴史と実績があるなか、今回取材したコンテンツクロスメディアセミナーは、業界のトップランナーを招き、コンテンツビジネスの可能性や未来像について聞く勉強会のようなイベントで、今回で3回目の開催となる。

 講演は、『ファイナルファンタジー』(以下、『FF』)というコンテンツがどうして生まれたのか、また、坂口氏をはじめとした開発スタッフの手により、どのように発展して飛躍していったのかを、『FF』30周年にあたるこの機会に改めて訊くという内容。熱心なゲームファンにはおなじみのエピソードも数多く語られるなか、生みの親ならではの坂口氏のリアルな告白と、氏が手掛ける『テラバトル』や『クロノ・トリガー』の裏話に、会場の参加者たちは熱心に聞き入っていた。ここでは講演で語られた内容を編集し、ほぼ全文お届けする。

ミストウォーカー コーポレーションCEO 坂口博信氏

週刊ファミ通編集長 林克彦

『FF』はなぜ生まれたのか

――1987年12月に『FF』の1作目が発売されたとき、すでに『ドラゴンクエスト』(以下、『DQ』)という先駆者がありましたが、『FF』はどういう着想で作られたのでしょうか。

坂口 この話題で1時間ほど話せてしまうんですが(笑)。僕は学生時代にApple社が開発したAppleIIというコンピューターにハマって、『ウルティマ』や『ウィザードリィ』といったRPGにカルチャーショックを受けたひとりです。のちに『FF』でも活躍する田中弘道が同級生で、彼とPCゲームでアドベンチャーゲームを作ろうと夢中になっていたのが原体験ですね。初期のスクウェアはPCゲームを開発していた会社でしたが、それがファミコンに移行していくわけです。そのころの市場はシューティングゲームが主流で、アーケードの移植が売れるとされていました。いちばんの問題はカセットの容量が少ないことで、さらにはセーブ機能もなかった。そういう時期に、僕らがRPGを作ったとしても、いちいちアタマからやり直すことが予想されてナンセンスだったんです。そこへ『DQ』が登場して、ふっかつのじゅもんにショックを受けました。また、あれだけ小さな容量に『DQ』ほどの世界を詰め込むことも無理だろうと考えていたので、頭を殴られた思いでしたね。そこからスタートさせたのが『FF』です。

――容量の制限は、その後ハードが進化しても抱える問題です。やりたいことができない問題もつきまとっていたのでしょうか。

坂口 容量がいくら増えようと、そこが限界になります。現在はスマホで、どこまでの機種が対応できるかということもありますが、やっぱりデバイスの画面の小ささが悩みです。操作もタッチだったりしますし、ゲーム開発はつねに制約との戦いだと思います。

――いちばんミニマムな形がファミコンだと思います。その当時いちばん重要視して残したもの、また、核にしたものは何でしたか?

坂口 グラフィックですね。当時ナーシャ・ジベリというプログラマーがいて。彼はAppleIIの天才プログラマーと呼ばれていて、僕が学生時代に本当に尊敬していた人でした。だから、まさか彼に会って、しかもいっしょに仕事ができるとは思っていませんでしたよ。ファミコンのCPUが6502でしたが、AppleIIも同じなんです。なので、彼にしかできない強引な走査線の扱いができたんですね。当時のテレビはブラウン管なので、画面に走査線が走っているんですが、それとリンクさせてプログラムを走らせていたところがあって。メッセージのためのひらがなを常駐させる必要がないということで、画面の下半分にメッセージが出るときにだけ、強引にメモリを切り替えるんです。そういうことをやってくれたおかげで容量が倍ほどに稼げて、そのぶんグラフィックに回せました。わかりやすく言うと、山がカクカクしていたのが、斜めの線も使えるようになって、見た目をかなりかっこよくできたんです。容量と戦いつつ、グラフィックをどこまで昇華できるか。見た目ですね、やっぱり。

名だたるスタッフをいかに集め、育てたのか

――田中弘道さん、石井浩一さん、河津秋敏さん、時田貴司さん、青木和彦さんというクリエイターが20代のころに『FF』を作られたわけですが、皆さんはいかにして集まったのでしょう。

坂口 いやー、すごくイヤな奴らばっかりで(笑)。河津とはつねにケンカをしていました。石井は飲み屋で働いていて、「かわいい絵が描けるから金になると思って来ました」っていう奴でしたし。当時はスクウェア自体に知名度がなかったので、リクルート雑誌で募集をかけたら偶然集まったんです。

――でも、当然坂口さんが面接をされるわけじゃないですか。

坂口 たとえば石井や、のちのノムテツ(野村哲也氏)もそうですが、絵描きはわかりやすいですよね。スケッチブックを見た瞬間、「この子は欲しい」となりました。河津は東京工業大学のSF研究会で後輩と……彼の後輩もその後スクウェアで活躍するんですが、年がら年中ボードゲームをやっていたような人間なので。僕や田中は『ウィザードリィ』や『ウルティマ』を介してRPGを知りましたが、それよりも元祖のTRPGやボードゲームの知識が満載の人間でしたから。そこは面接で話せばわかりますよね? 「この知識はすごい」と。

――個性的な方が多いですね。

坂口 知識と絵がメインで、性格はどうでもいいと思っていたので。それでこうなっちゃいましたね(笑)。

――チームはどうまとめたんですか?

坂口 メインプログラマーのナーシャが英語しか話せないので、僕や田中が一旦スタッフの意思統一をしてから伝える、ということをしていました。そこがヘンなパイプラインでしたね。いま現在でも、ワークフローを作るときにバラバラに指示が飛ぶと、チーム内でぐちゃぐちゃになります。我々の場合は本当に偶然でしたが、英語というひとつのハードルがあるために、メインプログラマーに対してキレイなワークフローがあったんだと思います。僕もそんなに英語が話せないので、いかに簡略化して説明するか、一旦咀嚼したのがよかったんだと思います。……それとは別の話ですが、ナーシャは人を驚かすことがとにかく好きで。こちらの要求で優先度が高いものは要求どおりに作るんですが、優先度が中以下のものはわざとすごく力を入れて作ってくるんです。それで僕らが「なんじゃこれは?」と驚くと、それがうれしかったみたいで。

――イベントシーンか何かのことですか?

坂口 飛空艇です。僕はそんなに速く飛ぶ必要はないと考えていたんです。それよりはマップの切り替えをスムーズにしたいとか、メッセージが出るときにもうちょっと芝居をしたいと考えていました。でも、彼は飛空艇を速く飛ばずというところに命をかけてくるわけです。彼のそういうところのおかげで、みんなのモチベーションが上がってきて。「これは思ってもいなかったすごいものができるぞ」と。

――北瀬佳範さんとは、お互い別々のイベントシーンを作りあっていたというお話を聞いたことがあります。

坂口 ああ、それは競争ですね。僕と北瀬はゲームデザイナーですが、スクリプトを使って演出を作りつつ、全体をつなげてシナリオの部分を作るんです。そういうことを彼と半々で担当していたのが『FFV』でした。……余談ですが、彼はずるいんですよ? 1日かけて作業したものを夜にまとめておくと、「あいつは昨日何を作ったのかな?」と、翌朝それぞれの成果を見られるわけです。すると、画面の中でとんでもない天変地異が起きているんです。そんなものはスクリプトで描けるはずがないので、「北瀬どうやったの? これ」と聞くと、「メインプログラマーに頼みました」って。結果的にはそれがいいものになるんですけど、ずるいんですよ、僕に勝つために彼はあらゆる手段を使ってくるの(笑)。

――そういう積み重ねで『FF』の革新的なイベントができたということですね(笑)。

坂口 僕がひとりでスクリプトを組んでいたら、画面がシェイクして、「たいへんだ! 地震だ!」とメッセージを出していたようなシーンでした。それがあそこまでの映像演出として成り立ったのは彼のおかげですし、そういう競争があったからです。

天野喜孝先生と植松伸夫さん

――『FF』はイラストレーターの天野喜孝さんがイメージビジュアル、植松伸夫さんが音楽を担当するスタイルで一貫していました。当時のゲームの作りではそうしたものがほかにありませんでした。なぜそのおふたりをキャスティングしたのか、お聞きしたいです。

坂口 ビジュアルについては、『DQ』に鳥山明先生が関わられているということがあったからです。僕は大の鳥山明ファンでしたし、鳥山先生がいたら、そこに世界が出来上がるじゃないですか。『DQ』はメインビジュアルの威力もあったので、ぶっちゃけそこに対抗しようという気持ちがありました。僕が文庫本を読み漁っていた高校時代に『グイン・サーガ』や『吸血鬼ハンターD』のイラストを天野先生が描かれていたので、自分の中のファンタジーストーリーとすごく重なっているところがあって。世界観を構築していくために、天野先生にお願いしました。ファミ通さんに載せていただいた最初の広告は、砂の巨人に対して小さな4人の光の戦士が立ち向かっている天野先生のイラストでした。「横開きの本だから、横描きのイラストをお願いします」と何度もお話していたんですが、なぜか縦書きのものが上がってきて(笑)。仕方がないから縦に本を開いて見る広告にしたんですが、それがすごい反響になりました。そういう意味では思惑通り、『FF』の世界観をインパクトありきで打ち出すことができましたね。

――少し脱線します。『テラバトル』は藤坂公彦さんがキャラクターを描かれていますが、藤坂さんの絵にもそういう魅力と力を感じていらっしゃいますよね。

坂口 そうです。僕は最近絵描きがどれだけたいへんかを実感しようと思って、半年ぐらい、タブレットで絵がかけるようにがんばってみたんです。これには、彼らの技も知りたかった理由もあったんですが(笑)。そのときに思い知ったのは、藤坂が描くような線1本が僕には描けないということなんですよ。

――坂口さんが描く丸と藤坂さんが描く丸は別モノだと。

坂口 違いますね。やっぱり藤坂の絵は線自体が独特の色気を放っていますから。これはもう指紋みたいなもので、それぞれの人間が持った個性や才能ですよね。

――坂口さんの作品は絵と切り離せないと言いますか。絵をすごく大事にしていますね。

坂口 絵はそれ自体に価値がありますから。それが動いたり、ストーリーや音楽、プログラムに絡んできたときの高揚感、ですね。

――植松さんはどういったいきさつで合流されたんですか?

坂口 PCゲームを作っていた時代に、絵を描いてくれていた女の子が3人いたんですが、植松さんはその友だちでした。日吉でレンタルレコード屋のバイトをしながら音楽活動をしていたけど、音楽ではなかなか食べていけなくて。作曲ができるというので紹介してもらいました。ファミコンの同時発音数はたったの3音で、うち1音がノイズという制限がありましたから、正直、著名な音楽家には依頼しづらいと思っていました。一方で、プログラムやグラフィックは自前でしたから、できたら音楽も身近な人間にやってほしいという気持ちもあって。ちょうど日吉の街を歩いているときに植松さんと会ったので、「やろうよ!」と声をかけました。

――そこからずっとごいっしょされているんですね。

坂口 植松さんとは好きな音楽がけっこう似ていたんですよ。ケイト・ブッシュについて熱く議論したりもしましたね(笑)。

――いまでこそおふたりはツーカーの仲ですが、最初はどういうふうにオーダーしていたのでしょう?

坂口 当初からとくにオーダーはなくて(笑)。まず、シナリオは渡します。世界観やキャラクター紹介なども渡しますし、絵ができていれば見せます。……そこまでですね。いまでもそんな感じです。

――植松さんから上がってきたものが、イメージと違ったことはありましたか?

坂口 これは有名な話があります。植松さんがいちばん最初に「いいのができた」と言って、テープに10曲くらい入れて持ってきたんですよ。僕はそれに即ボツを出したんですね。でも、そんなに時間をかけずに第2弾を持ってきたのですぐに聴いて。「これはすばらしい、OK!」と言ったら、「曲順を入れ替えただけだしー」って(笑)。

――印象の問題ですか(笑)。

坂口 最初に来たものは何が来ようがボツにしようと思っていたところもあったので、それを見抜かれたんです(笑)。

――結果的には植松さんがいいものを上げていたという。

坂口 そういう話ですね(笑)。最初からあのメインテーマは入っていましたし、プレリュード以外は戦闘の曲も入っていたかな? すべての原型がありました。

――坂口さんの意図を汲み取っていたんですね。

坂口 いえ、あれは植松さんが生み出したものです。僕らが作った世界観に感化されたというよりは、どこかですぎやまこういちさんと戦っているところはあったと思います。よくも悪くも『DQ』は先駆者として僕らの前に立ちはだかっていましたから。意識しないでいようと思っていても、意識させられました。

――では、あからさまに『DQ』の話をすることはあったんですか?

坂口 ありましたね。「『DQ』はなかなか抜けないから、タイトルナンバーの数だけでも抜こうぜ」と言ったり。でも、本気ですよ? 「4作目ぐらいで抜けるんじゃない?」と言って、3作目までダッシュで作りました(笑)。AppleIIのころ、『ウィザードリィ』よりも『ウルティマ』のほうが新作が早く出たんですね。最初は『ウィザードリィ』がおもしろかったのに、『ウルティマ』が抜いていったような勝手なイメージがあったので、ソフトを矢継ぎ早に出すことも大事なのかなと。あとは「RPGの主人公がしゃべらない」ということを堀井雄二さんがおっしゃったことで、僕らは逆にその呪縛が解けたので、「しゃべってもいいんじゃない? 映画みたいにしちゃおうよ」って。

――『DQ』の存在があったからこそ、『FF』の方向性が打ち出せたんですね。

『FF』のターニングポイント

――『FF』にはターニングポイントがいくつかあったと思います。過去にも鳥嶋和彦さん(伝説のマンガ編集者。現 白泉社代表取締役社長)との出会いや、3Dポリゴンで表現された『FFVII』について多くの場所で語られていますが、そこを改めてお聞きしたいです。

坂口 『FFIII』のころ、広告代理店経由で会議室に呼び出されたんですね。だだっ広い部屋にポツンと座っていたら、鳥嶋さんがひとりで入っていらして。「はじめまして。これから僕が『FF』のダメなところを言っていくから」と、初対面なのに延々ダメ出しを受けたんです。だから、「このオヤジ何なんだ?」というところからのスタートだったんです。お付き合いを続けるなかで、思ったことをズバズバ言うのが鳥嶋さんだとわかったので、あのときが特別だったわけじゃありませんでしたが(笑)。

――そのときに鳥嶋さんから言われて納得したことは何ですか?

坂口 いやいや、ほとんど覚えてないです(笑)。……これもぶっちゃけ話になりますが、当時鳥嶋さんが所属していた週刊少年ジャンプの袋とじというのが絶大な人気とマーケティング効果を持っていて、ここで扱ってもらうというのがミリオンへの道だと考えていました。もちろん『DQ』を扱っているジャンプですから、そう簡単にはやってくれないだろうと粘ってみたという。そういう邪な気持ちもありつつ、その後も鳥嶋さんとお付き合いさせていただくなかで、『FFIII』を出したときもなぜ『FFIII』はダメなのかということをとくとくと話してくださるんですよ。しかも全身全霊で。これはすごくありがたかったです。ジャンプの編集者がマンガ家を育てる話は有名じゃないですか。すごい仕組みだと思うんですけど、ある意味僕もその仕組みに乗っからせてもらったと思うんです。鳥嶋さんの指示を具体的に言うと、「キャラクターをもっと魅力的にしろ」ということでした。『FFIII』はシステム寄りで、あまりキャラクターが立っていないゲームでしたから、とくにそこを言われつつ。そのおかげで『FFIV』は主人公のセシルが暗黒騎士から聖騎士になって……とか、それぞれのキャラクターがすごく立ったゲームになりました。これは本当に鳥嶋さんのアドバイスのおかげですね。

――外にいる人からストレートに言われるなんて、なかなかないことですね。では、『FFVII』について教えてください。それまでは任天堂のハードでしたが、プレイステーションに変わって3D表現になりましたね。

坂口 当時『バーチャファイター』が出て、ポリゴンで作られた3Dの独特な空間がすごいと思いました。ハードウェア自体が、ニンテンドウ64もプレイステーションもいわゆる3Dが磨けるようなマシンで、3Dがマーケティングの舵をとっていたので、時代はそっちに動くというのはわかっていたんです。ただ、RPGを3Dでというのはハテナに思うじゃないですか。

――当時はそうでしたね。

坂口 かといって、いくら色数が増え、解像度が上がっても、従来の路線ではしょうがないのかなという気持ちがあって。それで、シリコングラフィックスという、当時高価だったCG制作マシンを数台導入して、メインプログラマーやメインデザイナーの北瀬、モデラーたちで10人くらいの研究チームを作り、「3DのRPGとは何ぞや?」ということに向き合ったんです。それから『FFVII』の戦闘に近いデモを試作して。この試作でカメラアングルやテンポの悪さなどの問題点が浮き彫りになったんですが、やってみたらできてしまったので、僕が「やりたい! 作りたい!」ってみんなに宣言しました(笑)。

――それまでは『DQ』に対する意識があったけれど、『FFVII』で自分たちがやりたいことを見つけたんですね。

坂口 そうですね。デザイナーもプログラマーも3Dをやれる人間がいなかったので、新しくリクルートしたことも大きかったですね。そうして集まってきた人たちは感性が違うじゃないですか。新しいメンバーと既存のメンバーとの、そもそものクリエイターの立ち位置の違いみたいなものが、お互いおもしろくなってしまって。飲みに行って、みんながそれを語り合いだしたんです。そうやって刺激を受けたことが、チームをいっそう活性化させたのだと思います。

――『FF』をより大きくするために、『FFVII』の方向へ進んだのでしょうか。それとも、自分たちがやりたいことを先行したら、結果的にそうなったのでしょうか。

坂口 それはいろいろな要素が複雑に絡んでいます。ひとつはアメリカ主動です。当時アメリカではドット絵はダメだと言われていて。実際、『FF』も『DQ』も売れなかったんです。僕らはそれとは別の観点でRPGの3D化を始めたわけですが、やっていく途中で「あ、これはアメリカで売れる」と気づきました。もともと僕がAppleIIからスタートした人間なので、どうしてもアメリカで売りたかったんですよね。あとはナーシャ・ジベリの存在もありましたし。ことあるごとにチャレンジはしていましたが、なかなかうまくいかなくて。何度も悔しい思いをしました。

『FF』の挑戦。映画とオンライン

――『FFVII』以降のチャレンジとして、映画とオンライン化があります。両方とも2001年でしたが、当時のテクノロジーの進化のチャレンジがオンライン化ですし、映画はもっと『FF』というブランドを広げるためのチャレンジだったと思います。

坂口 映画は、単純にCGチームを強くしたいという思いが発端なんですよね。当時スクウェアに入ってきてくれたCGスタッフはもともと映像屋さんですから、最終的にハリウッドの映画制作に携わりたいと思う気持ちがものすごく強くて。あとは、僕たちが『FFVII』の映像を作ったといっても、すでに『ジュラシック・パーク』という映画がありましたので、技術の次元がまったく違うと言いますか。そういうCG技術が最終的に必要になるんじゃないかと思って、ここで一旦大きくプロジェクトを立てよう、と。ハワイがハイテク企業を誘致して、活動を後押ししてくれるということだったので、ハワイにオフィスを構えれば、日本人半分とハリウッドから来た人半分というスタッフで構成されたスタジオが実現できるなと。ハリウッドの技術も流入してほしかったですし、一気に技術を引き上げたいという気持ちがいちばん大きかったです。

――『FF』ブランドを広げるためではなかったんですね。

坂口 僕は「タイトルに『FF』とつけなくてもいいんじゃない?」と、最後まで言っていたんですけど、却下されました(笑)。ビジネス的に失敗してしまいましたし、いま考えると、徐々にやっていけばよかったのかもしれませんが、僕のタチとして、大きなプロジェクトを立ててドン! とやるところがあるので。つねにそうしていると言いますか。

――そしてオンライン。このチャレンジは、プレイオンラインや『FFXI』につながりました。

坂口 ちょうどそのころのネット環境がADSLで、だいぶ整ってきて。『エバークエスト』や『ウルティマオンライン』が立ち上がろうとしていた時代ですね。「これは来るぞ」という予感がありました。実際に僕は『エバークエスト』にハマりすぎて、廃人になる直前になるまでやりましたね(笑)。それに、田中をはじめ、15人ほどの主要スタッフに会社命令で強制的にやらせたんです。夜は集まって『エバークエスト』の世界でみんなとチャットをしたりして。最初は半信半疑だった人間もどっぷりハマって、「これはすごいよね」となって。そういう体験を中核の人間がしてしまえば、あとは簡単。そこから『FFXI』のプロジェクトが始まりました。とはいえ、サーバーの問題などがありますから、これはこれでハードルが高いんですけど。

――やっぱり、自分たちがおもしろがっているところからスタートしたんですね。

坂口 そうですね。ゼロからスタートしたわけではなく、もともとあった『エバークエスト』からスタートしています。加えて、非常に壮大な構想で……いま考えるとさすがに無理だと思うんですが、夢を描いたのがプレイオンラインでした。要は、オンラインゲームをやるために集まってきた人間たちを、別の軸でつなぐこと。たとえば、スポーツの試合結果だとか、オンライン上のコミュニティー遊びですね。それを『FFXI』とセットでやれないかなと……。かなり夢が膨らんじゃった感じですよね(笑)。

――時代が早かった(笑)。

坂口 まあ、早いぶんには悪くはないと思うんですけれど、あの時期ではなかなか無謀でしたね(笑)。ゲーム業界って、やったもん勝ち的な、先に発想を実現した者が勝つというところは多少あると思うんですよ。

――いわゆるクロスメディア的な展開というのは、どのくらい意識されていたのでしょうか。

坂口 そこは逆に苦手だったところです。鳥嶋さんの影響も大きいのですが、僕はもともとチョコボというキャラクターを育てたくてしょうがなかったんです。マスコットキャラクター的な存在って、絶大な力を持つじゃないですか。それを『FF』発で、もしくはまったくゼロからでもいいんですが、なんとか生み出せないかなと。ですから、チョコボのマンガ展開もしました。僕は当時の関係者の方に申し訳ないことをいろいろやってしまったんですけど。そこは僕の才能がないのかなと思いつつ、もっといい仕掛けがあったんじゃないかなと思いつつ……。僕にはムリみたいですが、うまい人はそれをすごくうまくやるじゃないですか。なんでああいうことができるんでしょう?