クリエイター歴20年以上の飯塚氏と『A列車で行こう』シリーズの関わりとは?
アートディンクを代表する都市開発鉄道シミュレーション『A列車で行こう』シリーズ。その最新作であるニンテンドー3DS版『A列車で行こう3D』が、2014年2月13日に発売される。『A列車で行こう』といえば、根強いファンを持つ人気シリーズ。かくいう筆者もそのひとり……。というわけで、発売日を間近に控え、アートディンクに直撃取材を敢行した。インタビューに対応してくれたのは、ディレクターを務める飯塚正樹氏。聞いてみると、飯塚氏はアートディンクに入社して20年以上という、超ベテラン。せっかくの機会なので、飯塚氏の20年以上にもわたるクリエイター人生における『A列車』シリーズとの関わりを振り返ってもらいつつ、『A列車で行こう3D』の魅力を語ってもらった。
“ア行”で始まる社名が縁に!?
──まず初めに、ゲームクリエイターとしての経歴をお聞かせください。
飯塚正樹氏(以下、飯塚) 1991年に(アートディンクに)入社したので、かれこれ20年以上、ゲームを作っています。最初の仕事は、X68000版『A列車で行こうIII』の手伝いでしたね。
──入社の動機は、やはり『A列車で行こう』シリーズだったんですか?
飯塚 いえいえ、違います。入社当時はまだ、ソフトウェアハウスが乱立していて、求人自体、どこでやっているのかもわからないような時代だったんですね。そんな状況でしたから、『マイコンBASICマガジン』(1982~2003年まで電波新聞社より発行されていたパソコン関連雑誌)の付録についていたソフトウェアハウスのカタログを見て、アイウエオ順に電話したんです(笑)。
──それで、“ア行”のアートディンクにすぐ決まったんですね(笑)。
飯塚 そんな感じです(笑)。電話で「会社案内とかありますか?」と聞いたら、「アルバイトあがりでしか採っていない」と言われたんですよ。新卒採用はやっていなかったんですよね、当時。本当は、情報だけを集めるつもりで電話したんですけど、「面接を受けたいんだったら、実力がわかるようなものを持ってきて」と言われたので、「呼ばれちゃったから、しょうがない。自分で作った作品を持って行こう」と(笑)。それで実際に面接しに行ったら、「あとで履歴書を送っといて。内定を出すから」くらいのノリでした。
──とんとん拍子ですね(笑)。入社前から、ゲーム制作の経験があったんでしょうか。
飯塚 情報処理の専門学校でプログラムを勉強していて、趣味でゲームを作っていました。『マイコンBASICマガジン』にプログラムを投稿したこともあります。ゲーム作り自体は、自分なりにけっこうたくさんやっていたましたね。
──ちなみに、入社前に『A列車で行こう』シリーズで遊んだ経験は?
飯塚 入社する前はソフトを持っていなかったんですけど、面接に行ったとき「交通費代わりにこれ持っていって」と(笑)、『A列車で行こうII』をもらったんですね。それが初『A列車で行こう』でした。『A列車で行こうII』はまだ、都市開発シミュレーションじゃなくて、「大統領専用列車を引いて、大陸を横断しよう」というパズルゲームだったんですね。面接した時点で『A列車で行こうII』まで発売されていて、それから自分が入社するまでのあいだに『A列車で行こうIII』が出たんですよ。『A列車で行こうIII』からいわゆる都市開発ゲームになって、だいぶヒットしました。自分でも買ってハマったので、かなりやり込みましたよ。
コンシューマー版への移植は、ほとんどリメイクに近い作業
──入社後、すぐ『A列車で行こう』の制作に加わったんですか?
飯塚 プログラマーとして入社して、まずX68000版『A列車で行こうIII』にちょっと関わったんですけど、新規プロジェクトとしては『アトラス』が最初ですね。その後、『関ヶ原』や『ビッグオナー』のプログラマーを担当しました。2年目になって、『A列車で行こうIII』をPCエンジンに移植してくれって話になって、初めてまるまる自分で制作しました。会社としても、初のコンシューマー向けのタイトルでした。
──移植作業はすべておひとりで?
飯塚 いちおうある程度、変則的に手伝ってもらったんですけど、基本的には自分がほぼひとりでリメイクしましたね。その当時は専門のデザイナーもつかなくて。けっこういい加減な時代だったんです(笑)。プログラマー兼デザイナーみたいな感じです。
──移植作業は順調でしたか?
飯塚 本当にもう、大昔すぎてだいぶ忘れていますけど(笑)。PCエンジンはPCよりも容量が少ないので、そのまま移植できなかったんですよ。それに、PC版はC言語で書かれていたんですけど、PCエンジンのほうはすべてアセンブラという低レベル言語で書かなきゃいけないということもあったので……。けっきょく移植ではなくて、リメイクみたいな感じでした。じつは元になるPC版のソースを見てもいないし、触ってもいない(笑)。ゲームの仕様はわかってはいたので、本当に自分で作っちゃったという。
──ゲームの手触りだけで再現したんですか!?
飯塚 本当にそうです。その当時、アーケードゲームからの移植もそんなノリでした。ハードが変わると、なかなかそのまま移植するのはむずかしい時代でしたから。いまのソース容量だと、とてもじゃないけどできないですね(笑)。
空前のヒットを記録した『A列車で行こうIV エヴォリューション』
──PCエンジン版『A列車で行こうIII』の後も、引き続き『A列車で行こう』シリーズを担当されたのでしょうか。
飯塚 『A列車で行こう』ばかりではないんですね。PCエンジン版『A列車で行こうIII』を作った後、今度は『アトラス』をPCエンジンに移植しました。また同じようにリメイクして(笑)。その後、1994年くらいに初代プレイステーションが発表されて、PC版『A列車で行こうIV』をプレイステーションに移植することになりました。それが『A列車で行こうIV エヴォリューション』です。当時、コンシューマー向けタイトルを本格的にやっていこうという話になって、開発部とは別に新事業推進部が立ち上がったんですね。自分は新事業推進部に配属されたんで、新しいハードへの切り込み隊長的なポジションでした。
──プレイステーション版への移植も大変でしたか?
飯塚 プレイステーションは容量的にPCと大差がないので、そのまま移植をしようと思えばできたはずです。でも、自分的には「そのまま移植してもなあ」という思いがあって、元のPC版にも気に入らない部分がいろいろあったんで、けっきょくリメイクしてしまいました。移植するように言われたのに、またプログラムを一から書いて(笑)。『A列車で行こうIII』から『A列車で行こうIV』に変わったときに進化した部分もあるんですけど、失われてしまった部分もいろいろ見当たったんで、失われた部分もちゃんと作っておこうといった感じですね。
──当時のプレイステーションといえば、勢いのあるハードでしたね。
飯塚 じつは『A列車で行こうIV エヴォリューション』は、(プレイステーションと同時発売された)ロンチタイトルなんですよ。だから、すごく売れました(笑)。同時発売を目指したタイトルって、ほかにもけっこうたくさんあったんですけど、(プレイステーション本体の発売日に)間に合ったタイトルって少なかったんです。ロンチタイトルの中では、ナムコさんの『リッジレーサー』がすごく売れたんですけれども、2本目あたりに『A列車で行こうIV エヴォリューション』を買ってくださる方が多かったらしくて。
──『A列車で行こうIV エヴォリューション』の後は、どのような作品を手掛けられたのですか?
飯塚 『A列車で行こうIV』をプレイステーションに移植する前の時点で、自分で立てた『カルネージハート』の企画だけは通っていました。会社としてはタイミングを見計らっていたんですけど、『A列車で行こうIV エヴォリューション』の売り上げがそれなりに立ったことだし、『カルネージハート』を作っていいよ、ということになって(笑)。
──ああ! 『カルネージハート』ってありましたね!
飯塚 『カルネージハート』は、ロボットがどう動いて、どのように戦うかという思考ルーチンを組んで、自分で操作するのではなくロボットどうしを戦わせるゲームです。じつは昔、『地球防衛軍』シリーズという、宇宙船に攻撃方法をプログラミングしてエイリアンと戦わせるゲームがありました。それをロボットでやりたいと思って企画したのが『カルネージハート』なんですね。
──ロボットアニメの影響もあったのかしら……。
飯塚 そういうわけでもなかったですね。ロボットのデザインは、横山宏さん(イラストレーター、モデラー)という方にお願いしました。当時、『ホビージャパン』(模型雑誌)に連載されていた『S.F.3.D オリジナル』(現『マシーネンクリーガー』)という作品シリーズで特殊なロボットをデザインされていて、それが気に入っていたのでお願いしたんです。『カルネージハート』はけっこう手応えがあって、そこそこ売れたんですよ。シリーズで6作くらい出たのかな? ただ、一般的なユーザーにはむずかしすぎたみたいです。って、少し話が脱線してしまいましたね(笑)。
最新作『A列車で行こう3D』の注目ポイントは?
──その後は『カルネージハート』シリーズに専念して、『A列車で行こう』シリーズから離れていたのでしょうか。
飯塚 『A列車で行こうIV エヴォリューション』を作った後は、『A列車で行こう』シリーズの仕事には、しばらくしていません。もともと、PC版のナンバリングタイトルを自分がディレクションしていたわけじゃないですし。『A列車で行こうDS』でディレクションに復活するまでは、まったくタッチしていませんでした。『A列車で行こうDS』で、久しぶりにシリーズに関わることになって、「好きにしていい」ということだったので、方向性をどうすべきか、頭を悩ませたんです。そのときに、今回は、思い切って経営シミュレーションに振ったんです。それが結果として評判がだいぶよくて、『A列車で行こう3D』はその正統続編という感じですね。
──『A列車で行こう3D』になって、シリーズはどのように進化しましたか?
飯塚 ハードがニンテンドーDSからニンテンドー3DSになったので、表現仕様をだいぶ上げられました。ニンテンドーDSのときは容量が少なかったので、箱状の電車の色だけ変えられる程度だったんですよ。ニンテンドー3DSになって、ある程度、形状の違う車両を好きなようにペイントして、マップ上に表示できるようになりました。列車を自由にデザインする部分が、うまくできたと思います。ゲームの基本路線は『A列車で行こうDS』と変わらないんですけれども、仕様を全部見直して、全方向にパワーアップさせています。登場する建物や線路の種類も、最新作では『A列車で行こうDS』の倍以上になっています。「ちょっと予算かけ過ぎだぞ?」ってくらいに(笑)。
──ズバリ、『A列車で行こう3D』のセールスポイントは?
飯塚 ニンテンドー3DS版は、時代を体感できるところが企画の中心に据えられています。じつは『A列車で行こう3D』を作るにあたって、「今度のニンテンドー3DS版のポイントはこれだ!」みたいなセールポイントがなかなか見つかりませんでした。そこで昔の企画書に書かれていたボツネタを見直していると、“鉄道の歴史を体験させる”という部分があって。ただ、時代が古すぎてもわかる人は少ないですから、1950~60年代の高度経済成長期くらいから扱うのであれば、リソースの量が増えすぎることもなく、かつ時代のダイナミックさを伝えられるんじゃないかな、と。
──ニンテンドー3DSユーザーは、従来の『A列車で行こう』シリーズファンと比べて若いと思います。『A列車で行こう3D』を作るにあたって、ユーザーの年齢層は意識しましたか?
飯塚 ニンテンドーDS版でもそうだったんですけど、「中学生にはまだ早いけれども、高校生以上だったら遊べるもの」として作ったつもりです。とにかくこのシリーズ、むずかしいと思われがちなので、ニンテンドーDS版でも好評だったチュートリアルをだいぶ充実させました。難易度的には下がったんじゃないかと思う部分もありつつ、新たにできることが増えて複雑さも増しているので、チュートリアルのステップを細かくして、ユーザーが脱落しないようにしています。
──とくに経営シミュレーションの部分は、若いユーザーにむずかしいと思われがちかもしれませんね。
飯塚 経営シミュレーションに関しては、経営が好きな人向けにちゃんと作ったうえで、ある程度、無視しても大丈夫な枠を作っています。前作の『A列車で行こうDS』をリリースしたときは、高校生くらいの人から、「経営に興味を持つきっかけになった」という声もいただいているんですよ。
──『A列車で行こう3D』の開発で、とくに大変だったことはありますか?
飯塚 締め切りを延ばせる状況じゃなかったので、とにかく時間的にキツかったです。とくに忙しくなったのは昨年(2013年)の夏ごろからで、いまだに夏休みを取れていません(笑)。年末でようやく終わったという感じですね。ゲーム業界の忙しさって、昔から変わらず時間との戦いです。
──最後に、『A列車で行こう3D』の発売間近に控えてのご感想をお願いします。
飯塚 どんなタイトルでも「もうちょっと時間があれば、あれができたのに」という後悔しかないんですけど、ハードの限界もあって、ニンテンドー3DSでできることは「もうここが限界であろう」という部分までやり尽くしました。ユーザーから、「ちょっとやりすぎだよ」と言われるんじゃないかと思っているんですけど(笑)。ぜひとも、プレイしてみてください!
『カルネージハート』シリーズの生みの親として知られる飯塚氏だが、『A列車で行こう』シリーズとの関係も、ゲーム制作者としての第一歩から関わって以来、20年以上。記事に書けないようなことまで(!)答えてくださった気さくな人柄とは対照的に、ゲームの開発では限られた期間や予算の中でつねにベストを尽くすプロ意識が言葉のはしばしに垣間見えた。そんな飯塚氏が「できることはやり尽くしました」と断言する『A列車で行こう3D』。「そういうえば昔、『A列車で行こう』で遊んだなあ」という方も、「名前くらいは聞いたことあるけど……」という方も、PC版のナンバリングタイトルとは異なるコンセプトで進化した究極形の『A列車で行こう』を体験してみては?
(取材・構成 ライター/ムライサトシ)