ゲーム業界は、志と才を持つ多くの人々によって発展してきた。その中でも、45年以上にわたって手を取り合い、コーエーテクモグループを率いてきた襟川恵子・陽一夫妻は、業界を語るうえで欠かせない2名だ。
今回、ファミ通40周年という節目の年に、恵子氏と陽一氏にインタビューする機会をいただいた。昨年、陽一氏がコーエーテクモホールディングス社長の立場を鯉沼久史氏に譲り、経営を監督する立場となった両名。新しいものを創造し、意見を交わし合い、次世代に委ねていくことについて、考えを語ってもらった。
激動のゲーム業界を走り続けてきた両名の言葉の中には、人生を意欲的に生きるためのヒントがたくさん詰まっている。ぜひ最後までじっくりお読みいただきたい。
襟川恵子氏(えりかわ けいこ)
多摩美術大学卒。コーエーテクモグループの経営およびファイナンスとデザインの責任者を務め、その発展に寄与。女性向けゲームブランド“ネオロマンス”の生みの親。2015年、ソフトウェア業界の発展に向けた活動が評価され、藍綬褒章を受章。
襟川陽一氏(えりかわ よういち)
慶應義塾大学卒業後、光栄(現:コーエーテクモゲームス)を設立。もともとは染料工業薬品の販売を行っていたが、PC購入を機にゲーム事業に参入。“シブサワ・コウ”の名で、『信長の野望』や『三國志』、『仁王』などの名シリーズを生み出した。
“創造と貢献”の精神を次世代につなげていく
――長年、おふたりはコーエーテクモグループの先導を担ってこられましたが、昨年6月、鯉沼さんがコーエーテクモホールディングスの社長に就任し、陽一さんは会長として、経営を監督する立場となりました。これによって、お仕事への向き合いかたは変わりましたか?
陽一
変わりましたね。これまでは、身体の半分でゲームを作り、もう半分で、経営における重要事項の決定を担っていました。それが今度は、経営の監督がメインの仕事になりましたので、仕事の内容は大きく異なります。いいゲーム、おもしろいゲームを作ることには、新社長である鯉沼が責任をもって取り組んでいくことになります。きっと、私以上にいい作品をどんどん出していってくれると期待しています。
――それだけの期待を次世代に抱けるようになったからこそ、経営の執行を交代されたということでしょうか。
陽一
はい。そのために、世代交代には、15~16年くらいの時間をかけました。
――かなり念入りに時間をかけたのですね。
陽一
私は2000年ごろに体調を崩しまして、そのときに一度、経営の第一線から離れました。その際、後進にいきなり経営を譲ることになってしまったため、うまく引き継ぐことができなかったのです。その経験を踏まえて、つぎは時間をじっくりかけて、段階的に権限を委譲していくことにしました。そして最終的に、すべて委譲することができましたので、鯉沼が新社長になったのです。
――恵子さんは、コーエーテクモグループを担いながら、次世代に権限を委譲していくにあたり、どんなことを意識されていましたか?
恵子
コーエーテクモグループは、“創造と貢献”という理念がしっかりとありますので、それを伝えてきました。私はファイナンスの責任者として、そこだけはどこの会社にも負けないという気持ちでやってきましたね。夜遅くに仕事をしなければならないときもありますけれど、しっかり取り組んできたおかげで、いい業績を上げることができてうれしく思っております。このファイナンスのお仕事は、これまではずっとひとりでやってきたのですが、これからつぎの世代に引き継ぐにあたり、グループでの将来的なファイナンスの在りかたについて担当者たちにレクチャーをし、長い時間をかけて仕組化を進めてきました。
陽一
名誉会長は、高校生のときから株式投資をやっていますからね。
恵子
昔ね、家のタンスの上に大きな革のバッグがあったんです。いつもそれを、何の気なしに見ていたんですけれど、祖母に「これは何?」と聞いたら、「昔は満州鉄道の株がびっしり詰まっていたのよ」と言われたんです。戦争の前は、その株は莫大な価値を持っていたそうですが、戦後にゼロになってしまったと。それを聞いて、「株って恐ろしいものなんだな」と思いましたが、逆に言えば「夢のあるものでもあるな」とも思ったんです。それで祖母に株について聞きまして、「若いうちに、少しずつでもいいから株式投資をしなさい」と教えてもらいました。小さな会社でも、一生懸命社員の方が働いて大きくなっていけば、株もどんどん価値が上がるから、と。そういうことで、高校時代から株式投資を始めました。
――私もぜひファイナンスについて教えを請いたいです……!
陽一
主要銘柄の株式投資は、個人技なので、なかなか引き継ぐのが難しいですね。ファイナンスに関して、しっかり学べば身につけられる部分は、ほかのチームメンバーに引き継いではいるのですが。名誉会長は、職務であるかどうかに関わらず、株式投資や資産運用が大好きなんです。「好きこそものの上手なれ」ということを絵に描いたような感じですね。それを個人から個人に引き継ぐのは、なかなかたいへんなのです。
恵子
国際情勢や、いまの市場状況などを勉強していないといけないのでね。でも、以前よりもファイナンスの分野の人材が育ってきましたので、だいぶ楽になりました。
――では、ゲーム作りについては、ノウハウは伝授できるものですか?
陽一
はい。基本的に、社員はみんなゲームが好きな人で、プロジェクトチームの中で意見を出し合いながら作っていきますので。私はもう、ファミ通さんの歴史よりも少し長く、45年ほどゲームを作ってきましたので、「何のためにゲームを作るのか」、「何のためにそういう仕様にするのか」といった大切なことは、共有できたと思っています。
事業を長く続けてこられた秘訣は「好き」の気持ちと、互いへの尊重
――おふたりが1981年ごろにゲーム事業を始めたとき、社員数は多くはなかったと思いますが、いまやコーエーテクモグループは3000人を超える大企業になりました。45年もの期間、事業を続けてこられた秘訣というのは何だとお考えですか?
陽一
やはり、「好きだ」という気持ちがいちばん大事だと思います。名誉会長(恵子氏)も、株式投資が好きで、高校生のころから続けてきていますから。その「好きだ」という気持ちに加えて、「競争に負けたくない」という気持ちも大事ですね。
恵子
私としては「なんとか、この子たち(社員たち)を幸せにしたい」という気持ちが強くて、それも大きかったですね。昔、高校を卒業したばかりの子が、うちに就職したことがあったんです。その際に、その子のお母様が福島から来て、「子どもがこれからどうやって暮らしていくのか心配だ」とおっしゃって。それを聞いて、「これはたいへんだ、寮を作らないと」と言って、社員寮や社宅を作るようになりました。やがてそれが資産になりましてね、売買することで、新しい物件を買えるようにもなって。ゲーム業界の中では、社員寮の数がいちばん多いんじゃないでしょうか。
陽一
社員寮だけで、400部屋くらいあると思います。
恵子
それ以外に、社宅もありますからね。
――会社を3000人規模に成長させるうえでは、そういった福利厚生の充実も大事ですが、教育もかなり重要かと思います。
恵子
教育がいかに大事かというのは、私はもちろん、襟川もわかっていましたね。プログラミングにしろ何にしろ、ひとりでやるよりも、みんなに教えて複数人ができるようにしたほうがいいわけですから。教育に関する意見はいつも一致していました。
陽一
教育の重要性はかなり前から感じていて、社内研修は滞りなく実施しています。新入社員に関しては、1ヵ月半ほど合同の研修があり、その後は“ブラザー制度”で教育を行います。これは、先輩の社員が、新入社員に1年間付き添い、仕事や生活の相談に乗りながら研修するというものです。その後、自分のポジションに応じた研修を用意しています。リーダー研修や、プロデューサー研修、海外での研修ですとか。
――先ほど、「教育に関する意見はいつも一致していた」とおっしゃっていましたが、この45年ほど、ご夫婦として、仕事のパートナーとして、意見が分かれることもあったかと思います。そんな中で、仲よくやっていく秘訣は……?
陽一
喧嘩をすることはありましたけども、還暦を迎えてからは、「もう喧嘩は止めよう」と、私が宣言しました。
恵子
そうだったっけ。忘れてしまいました(笑)。
陽一
喧嘩はものすごい熱量が必要になるのに、つぎの日には、何のために喧嘩したのかを忘れちゃったりしている。で、私の場合は、喧嘩しても勝てないので。
恵子
簡単なことですよ。喧嘩したら、おいしいお酒のおつまみを作ってあげるのを止めればいいので。それでおしまい(笑)。
陽一
ですので、もうエネルギーの無駄遣いだから止めようと(笑)。それから15年経ちましたが、いまはもう全然喧嘩をしていません。
――職場でも家庭でも長い時間を過ごして、仲よくいられるというのは、本当に素敵なことだと思います。
陽一
学生時代から付き合ってきましたのでね。昔から遊びが大好きで、いっしょにパチンコや麻雀をやったり。音楽の趣味も合って、ジャズやボサノバを聴いたり。
恵子
襟川はなんでも遊びにしちゃうんですよね。たとえば、こたつでみんなで遊んでいるときも、こたつの天板をひっくり返して、マジックで線を引いて、サイコロを振る遊びを作っちゃうんです。それで夜遅くまで遊んだりしていました。
陽一
ダンボールを切って、織田とか徳川とか武将の名前を書いて、カードゲームを作ったりもしていましたね。
恵子
襟川は慶應義塾大学の生徒でしたから、同じ大学の学生がみんな集まって遊んでいましたね。翌日に早慶戦があるのに夜ふかししたり。「明日は試合なのに、何やってるの」って言ったら、「いやいや、ホームランを打ったらソフトクリームおごるから」なんて言われて。そのまま優勝しちゃったりしましたけどね。楽しかったですね、学生時代をいっしょに過ごして。
――音楽や遊びに対する感性や考えかたが合っていたのですね。
陽一
そうですね。それと、株式投資や、デザインに関しては名誉会長はプロ中のプロでしたので、私はそこを尊重していましたし、名誉会長も、私のゲーム作りについては何も言ってきませんでした。お互いの得意分野を尊重し合っていたことも、長年いっしょにいられた理由のひとつだと思います。

『川中島の合戦』や『仁王』などターニングポイントとなった作品
――ゲーム事業を始めてからの45年の中で、とくに印象に残っている時期や、出来事はありますか?
陽一
私はやっぱり、『川中島の合戦』ですね。開発した当時、ビジネスにするつもりはまったくなくて、趣味でゲームを作っていたんです。それを「通信販売してみたら」と名誉会長から勧められて販売してみたところ、すごく売れて。もともと光栄は、染料工業薬品の販売業を行っていたんですけれども、そこからゲーム開発に転業することになりました。

恵子氏にプレゼントしてもらったPCを使い、陽一氏が最初に開発したゲーム『川中島の合戦』。パッケージデザインは美大出身の恵子氏が担当した。
――『川中島の合戦』が売れたからこそ、いまのコーエーテクモグループがあるのですね。
陽一
私の人生の分かれ道でしたね。1981年ごろは、日本でPCのゲームがどんどん生まれていった時代でしたが、その時代に巡り会えたのは、非常に運がよかったなと思います。当時は8ビットのPCで作っていて、メモリも16キロバイトくらいでしたので、本当に“小さなゲームの実験場”のようで、好きにゲームが作れたんですね。名誉会長が誕生日プレゼントとしてPCを買ってくれて、それでゲームを作ったことをきっかけに、人生が変わったんです。
恵子
『川中島の合戦』は、やっぱり、雑誌に広告を出したのが大きかったですね。私は美大出身ですから、自分で広告を作って、いろいろな会社に「広告の空き枠があったら、安価で出させてくれないか」と電話したんです。ふつうの掲載料は高くて払えませんから。それで、「空き枠なんてありませんよ」と言われたりしたんですけども、めげずに電話していたら、たまたま「ちょうど空いたところでした」と言われて、通常よりも安く広告を出せたんです。そうしたら、もうすごくて。現金書留がたくさん届いたんです。広告ってすごく効果があるんだなと思いましたね。
――恵子さんの営業活動が、『川中島の合戦』のヒットにつながったと。
恵子
それから、日吉にあった私の実家が、道路に面しているところだったんですけども、「この場所でマイコンショップをやろう」ということになって。そこに学生が集まって、襟川がゲーム作りを教えて、いっしょにゲームを作って……というところから、会社が大きくなっていきました。
――大学の近くでお店を開いたことが、人材の獲得につながっていったのですね。
陽一
もうひとつ、大きな転機としては、コーエーとテクモが経営統合したことが挙げられます。ふたつの会社がいっしょになって、新しいゲームを作るというシナジー効果が生まれた。そうしてできたのが『仁王』なんです。アクションRPGは、いままでコーエーもテクモも取り組んだことがなかった。でも、コーエーの歴史ゲームのノウハウと、テクモのアクションゲーム作りのノウハウが結びついて、シリーズ1000万本を超えるIPとなりました。

――いまでは、『仁王』はコーエーテクモゲームスの代表作と言えるタイトルです。
陽一
このアクションRPGの分野をさらに拡張させていって、『Wo Long: Fallen Dynasty(ウォーロン フォールン ダイナスティ)』や、『Rise of the Ronin(ライズ オブ ローニン)』が生まれ、コーエーテクモの新しいメインストリームになりました。私からすると、「すごい子どもが生まれちゃったな!」という感じです。いま、さまざまな国でおもしろいアクションRPGがどんどん開発されていますので、ここからさらに大きなジャンルとして育っていくのではないかと思っています。
――『仁王』は、ファミ通の“期待の新作ランキング”に長年ランクインし続けていたタイトルでもあります。「いつ出るんだろう」と多くのゲームファンが期待と不安を抱いていましたが……。
陽一
そうなんです。ずっとランクインしていたので、「期待に応えなくちゃ」という気持ちがあり、作り直したりしていたんですね。2005年にタイトルを発表してから、発売まで12年もの時間がかかりましたが、それだけに、自分としても思い出深い作品です。

制作発表から発売まで約12年を要した『仁王』。2015年9月15日に行われた、“SCEJA Press Conference 2015”にて、ついに発売時期を公開した際、陽一氏は思わずガッツポーズをした。

週刊ファミ通2015年10月1日号より。ファミ通の“期待の新作ランキング”が開発の励みになっていたことが、インタビューにて語られている。



――恵子さんは、思い出深い作品はありますか? やはり、女性向けゲームの祖である『アンジェリーク』でしょうか。
恵子
そうですね。男性は派手に戦うゲームが好きな傾向がありますが、女性はそうではないので、もっとしっとり恋愛を楽しむゲームを作りたいと思いました。ゲームをする女性は当時は多くはありませんでしたので、小さいマーケットでしたし、女性のクリエイターもなかなかいませんでしたけど。
――スーパーファミコンの時代に、女性向けの恋愛ゲームを作るというのはチャレンジだったと思います。
陽一
もともと、コーエーではシミュレーションゲームを作っていましたが、シミュレーションというのは、疑似体験をするという意味です。戦いを疑似体験するゲームを作っていましたが、その延長線上で、恋愛を疑似体験するゲームを作ろう、という発想になりました。“疑似体験を楽しむ”というジャンルは、どんどん拡張していけるだろうなと思いましたね。ただ『アンジェリーク』は、開発当初は“ゲームとしてどう遊ぶか”というところで悩んでいたので、シミュレーションゲームの競い合う要素を取り入れました。それによって、ゲームとして一層おもしろくなったと思います。
恵子
いかにアンジェリークのお部屋を素敵にして、女性に好まれる感じを出すかを考えるのが楽しかったですね。かわいい椅子を置いたり、絵を飾ったり。それで女性のお客様が喜んでくださって、すごく思い入れを持ってくださったので、「じゃあ舞台をやろう」とイベントを始めたんです。最初のイベントは、六本木のヴェルファーレで行ったのですが、人が集まりすぎて警察が来てしまって、対応がたいへんだったことを覚えています。

「女性向けのゲームを作りたい」と恵子氏が発案した“ネオロマンス”ゲーム第1作『アンジェリーク』。ゲームシステム作りには陽一氏も参加した。
――『アンジェリーク』のイベントは、声優さんが出演する催しのはしりとも言えますね。そんなスーパーファミコンの時代から、ゲーム機はさらに進化を続けていきましたが、ハードの進化に関して印象に残っていることはありますか?
陽一
プレイステーション2が発売されたのは2000年なのですが、当時、ソニーさんから「ハードのローンチに合わせて、新作を作ってください」というお話があって。そうして作ったのが『決戦 -KESSEN-』というゲームなのですが、この『決戦 -KESSEN-』のプロデューサーが私で、メインプログラマーが鯉沼だったんです。このときの鯉沼がもう、尋常ではない執念をもって、納期に間に合わせるためにものすごい努力をしていたのですが、その姿勢に非常に心を打たれたんですね。彼はいいビジネスマン、クリエイターになるなと思いました。

コーエーにとって初めてのローンチタイトルとなった『決戦 -KESSEN-』。意地でもローンチに間に合わせるため、必死に取り組んでいた、と鯉沼氏もインタビューにて語っている。
――そのころから、ビジネスを率いる能力を発揮されていたんですね。
陽一
本当にすごい執念で、全身全霊で打ち込む姿に、私は本当にびっくりしました。「絶対に、ハードのローンチに間に合わせるんだ」と。なかなか取れないバグがあり、それがソフト側のバグなのか、ハード側のバグなのかもわからない時代でしたが、彼は要因を全部見つけ出して、ゲームを完成させました。そうして発売されたゲームが、世界的なヒットにつながったんです。
恵子
鯉沼は、コーエーに入る面接の際に「自分はこの会社の社長になる」って言ってたんですって。有言実行。そんな人だから、意志が強いんですよ、すごく。
ゲームメーカーの発展には優秀なプロデューサーの育成が必要
――いまはハードが進化して、できることが増えすぎたからこそ、ゲーム開発が難しくなっている面もあるのではないでしょうか。
陽一
先ほどもお話ししましたが、ゲーム作りは、やはり「ゲームが好き」という気持ちからスタートするものです。ハードの性能が上がって、できることがどんどん増えても、ゲーム作りの基本はやっぱり変わらないと思います。いままでにない、新しいおもしろさを作っていく。お客様が「楽しいね」、「こういうゲーム、いままで遊んだことがなかった!」と言ってくれるような、感動や心の豊かさにつながるおもしろさを作り上げていく。それはもう、『川中島の合戦』のころから変わりません。どんなに技術が進歩しようと、AIが活用されるようになろうと、その基本は変わらないと思います。うちの社員は、みんなそれを心に持って入社しているので、その気持ちをずっと持ち続けてくれるだろうと期待しています。
――鯉沼さんのような、クリエイティビティとビジネスマインドを兼ね備えた人材がゲーム事業を引っ張っていくのだと思いますが、そのふたつを両立させるのは、なかなか難しいようにも思います。
陽一
そうですね。新入社員として入ったスタッフは、ある程度育つとパートリーダーになり、そのつぎはメインプログラマーやメインプランナーといった、部門の責任者になります。そうして、ディレクターになっていく。ここまではだいたい、クリエイティブな仕事なんです。でも、その先のプロデューサーになると、対外的な折衝もありますし、どのくらいの予算をかけて、どのくらいの売上や営業利益を出すかを考えることになる。これはマネジメントの仕事です。
――ビジネスマインドが必要になりますね。
陽一
「ゲームを作りたい」と言って入社してきた人は、ディレクターくらいまでを目標にしていることが多いですが、優秀なプロデューサーが育たないと、当社の発展はありえないと感じています。自分はクリエイター兼ビジネスマンとして、半分経営、半分開発をやっていて、幸いにして鯉沼も同様の気質を持っていました。これらを両立できる人材をもっと、どんどん育てていかないといけません。“品質・納期・予算”の3つをコントロールできる人材ですね。
――品質を高めようとすれば納期が遅れ、予算が足りなくなり……と、バランスを取るのが難しい要素だと思います。
陽一
ここにうまく折り合いをつけながら、ある程度の数字の枠の中で結果を出していくのがプロデュースです。それをやり遂げていくことで、経営者としての資質が磨かれていくと私は考えています。プロデューサーを増やすには、クリエイティブ&ビジネスの能力を育てていく教育が必要ですので、これからもっと取り組んでいきたいと思っています。プロデューサーをやりたがる人は多くはないんですが、ゲームメーカーの発展のためには必要ですので。
恵子
若いうちは、ビジネスマインドはなかなかわかりませんよね。
――おふたりは、ご自身のビジネスマインドをどのように育ててきたのでしょうか。
陽一
名誉会長は、もともとビジネスマインドの塊ですから(笑)。
恵子
私は美大でグラフィックデザインを学んでいたので、商品をよく見せるにはどうすればいいかを考えるのは得意でした。それと、当時はストライキで大学に行けないこともありましたけど、その代わり、デパートや出版社で仕事をする機会があったんですね。人と人とのつながりを作って、利益を上げていくということを学びました。その経験が宣伝や営業にも活きていましたね。
陽一
商業デザインの分野では、締切や予算を守って納品するのが当たり前ですから、自然とビジネスマインドを持っていたわけですね。私は最初、ビジネスマインドなんてなくて、ゲームを作って遊んでいただけなんですけれど(笑)。ただ、いいゲームを、みんなで同じ気持ちで作っていくにはどうすればいいか、を考えていくと、先ほどお話しした、品質・納期・予算を守るという考えにつながっていきました。
――ところで恵子さんは、2024年に公益財団法人 襟川教育財団を立ち上げ、神奈川県のシングルマザー家庭に学資金の給付を行っていますね。これも、人材教育の一環かと思います。
恵子
私は早くに父を亡くしているのですが、周囲の支援もあって、生活に困ることはありませんでした。でも、世の中には苦労している母子家庭の方がたくさんいらっしゃいます。母子家庭と父子家庭の収入を比べると、母子家庭のほうがかなり少ないんです。そんな中で、お子さんを塾に行かせるのはとてもたいへんです。
――進学のために塾に通うことは、現代ではかなり一般的なことですからね。
恵子
優秀なお子さんなのに、塾に通えないから、高校や大学に進学するのを諦めることがある……というお話を聞きまして。そんな方々のお役に立てればと思い、学資金の給付をすることにしました。たくさんのご応募をいただいて、倍率が高くなってしまっているのですが、皆さんのお気持ちに応えるために、対応できる範囲を広くしようと考えているところです。
――まだ支援は始まったばかりだと思いますが、母子家庭の皆様からの反応はいかがでしょうか。
恵子
今年、第1期育英生の皆さんの懇親会を、初めて開催したんです。「勉強になった」、「楽しかった」というご意見があった一方で、「もっと育英生どうしで交流したい」というリクエストもありましたので、何かしらの活動をやれないかと検討しています。将来、育英生の皆さんがどんどん社会に出て、困っている人を助けて、その環が広がってくれればと願っています。

恵子氏が代表理事を務める、公益財団法人襟川教育財団が給付している奨学金“えりかわ学資金”。学業への意欲がある学生が、シングルマザー家庭にあって、経済的な理由で進学を断念することがないよう、返済不要で給付する。神奈川県在住の母子家庭の子女で、中学生、高校生、大学生が対象となる。
朝の5時から10時まで、ずっとゲームをしていても飽きない!
――陽一さんは、経営の執行を鯉沼さんに委ねたことで、以前よりも趣味に使える時間の余裕が生まれたのでは?
陽一
そうですね。意思決定や決裁をする場面が以前よりも少なくなりましたので、そのぶん、ゲームをプレイする時間は増えたと思います。
恵子
ずーっとゲームをしているんですよ。
陽一
朝の5時から10時くらいまで、ずっとゲームをしています。社内のゲームも、社外のゲームもプレイしていますので。毎日ゲーム漬けという感じですね。
――ちなみに、最近プレイしているのはどのタイトルですか?
※本インタビューは2026年4月に実施陽一
少し前は『Ghost of Yōtei』をプレイしていて、いまは『紅の砂漠』を遊んでいます。それと、当社が開発した『ぽこ あ ポケモン』もやっています。『仁王3』は、2周目のラスボスにちょっと手こずっていますね。
恵子
襟川は、書斎を真っ暗にして、自由に動くイスを置いて、ときどき横になったりしながら、ずーっと1日中遊んでるんです。
陽一
ぜんぜん飽きないんです。話題になったタイトルや、人気のタイトルはだいたいプレイするようにしています。
――陽一さんがゲームに没頭されているあいだ、恵子さんはどんなことをして過ごしていますか?
恵子
なんでしょうね、本を読んだり、ものを作ったり。書斎で襟川がやっているおもしろそうなゲームをチェックしたりもしています。世間に遅れないように。
陽一
韓国ドラマにずいぶんハマってる時期があったよね。2、3年くらいずっと見ていて、もう見るものがなくなるくらい。
恵子
確かに一時期、韓ドラにハマってましたね。
陽一
最近は『風と共に去りぬ』かな。
恵子
『風と共に去りぬ』はもう、何回観たかわかりませんが、あれほどの名作はないですね。どのシーンを見ても、構図がいいし。しょっちゅう観ていますね。
人生には無限の道があり、野望を持ち続ければ道は拓ける
――ファミ通は今年で40周年を迎えることとなりました。ファミ通に対するご意見、ご期待などがあれば、ぜひお聞かせいただけないでしょうか。
恵子
ファミ通さんは、市場も読者の心もよくわかっていらして、皆さんが「ここはどうなっているんだろう?」と思っていることを、記事にしっかり書いてくださっていますよね。とてもいい雑誌だと思います。
――ありがとうございます!
陽一
『ログイン』の時代から、私どものゲームをたくさん紹介してくだって、本当にうれしく思っています。『仁王』が開発を諦めなかった理由のひとつが、ファミ通さんの期待の新作ランキングでしたし。これからも、読者のゲームへの期待が伝わってくるような企画を掲載していただけるとうれしいですね。それと、歴代の編集者の方々とお話しして感じるのは、やっぱりゲーム愛。ゲームに対する愛情をずっとお持ちになっているので、その気持ちをどんどん大きくして、クリエイターやゲームファンが喜ぶような企画を充実させていただけるとありがたいと思います。
――ゲームが好きな気持ちをずっと持ち続けて、皆さんに喜んでいただける企画を50年、60年と作っていきたいと思います。おふたりはファミ通よりも長く、ゲーム業界を走り続けていますが、これから、ゲーム業界の中でどのように活動していきたいとお考えですか?
陽一
コーエーテクモグループの目標は、世界のデジタルエンタテインメント会社のナンバーワンになることなので、まずは10年を目途にトップ10に入りたいと思っています。私が社長を務めている時代には、残念ながら実現できなかったのですが、それは後任の鯉沼に託して、会長として応援していきたいと思います。実現できたら、みんなで大パーティーをやりたいですね。
恵子
そのためにも、国内外での人材の交流は必要ですね。海外の市場なども理解して、世界中の皆さんの心を掴む作品を作れるような人材を育成できればと思っています。
――まだまだ目標があるおふたりのように、私たちも人生を意欲的に楽しんでいきたいです。後進に、人生を楽しむためのアドバイスを贈るとすれば、どんな言葉を贈りますか?
陽一
それはもう、「野望を持て」ですね。身の丈に合わなそうな大きな夢でも、持ち続けていれば、いつか必ず、何らかの形で、自分が目指したものにたどり着けると思います。
恵子
野望っていう言葉は、なんだかちょっと、よくないんじゃない?
陽一
“信長の野望”はいい言葉でしょう(笑)。私にとっての野望は、先ほどお話しした、世界のデジタルエンタテインメント会社のナンバーワンになることなんです。
――その野望を抱いたきっかけは?
陽一
私は1988年に、サンフランシスコで開催されていたウェスト・コースト・コンピュータ・フェア(WCCF)というゲームの見本市に参加したことがあります。お城を模した大きなブースを名誉会長がデザインしてくれて、意気揚々と出展したんですけれども、そのときのほかのブースを見たら、すごいゲームがたくさんあって。当時はブローダーバンドや、エレクトロニック・アーツなどが出展していましたね。「これが世界的な競争に勝てるゲームか。いや、我々もぜったいに負けられないな」と思いました。「どうせゲーム業界で仕事をするんだったら、ナンバーワンになりたい」という野望を、そのときに抱いたんです。
恵子
会場の雰囲気がわからないので、「のぼりをたくさん立てよう」と言ったりしましたね。お城のブースは目立ちましたよね。
陽一
のぼりを立てているところはほかにありませんでしたからね。でも、我々が出展している歴史シミュレーションゲームは、ひとつずつ国を取っていくゲームですから、見栄えはおとなしかった。アメリカのゲームは演出が派手で、掴みがすごかったんです。3Dグラフィックのゲームがで始めたころでもあり、「こういう表現があるのか」とびっくりしました。このときに受けた影響が、後に『デストレーガ』や『決戦 -KESSEN-』、『真・三國無双』のような、演出も見応えがあるアクションゲームを開発することにつながっていったと思います。
――早くに世界を知ったことが、グローバルでヒットするタイトルの制作につながったのですね。
陽一
そうですね。アメリカの実情を知って、「世界でナンバーワンになろう」という気持ちを持ったことで、いろいろなゲームジャンルにどんどんチャレンジしていけました。シミュレーションゲームだけを作り続けていたら、それ以上の発展はなかったと思います。
――最後に、恵子さんからも、意欲的に人生を生きるためのアドバイスをいただけますか?
恵子
何十年先を考えるよりも、もうちょっと近いところを見て、生きていったほうがいいと思います。何十年先はあっちのほうに置いといて、いまを一生懸命がんばればいい。脳が活性化して、なんでもできます。
陽一
無限の道があります。
恵子
本当に、無限よ。無限大。ちょっとしたきっかけで、何かと出会ったり知り合ったりすることで、どんどん自分が開けていきますからね。
