サイゲームスより配信中のiOS、Android、PC(DMM GAMES)対応ゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』で、2023年1月20日に新たな育成ウマ娘“星3[Fun☆Fun☆ぱりない]ダイタクヘリオス”が実装された。その能力や、ゲームの元ネタとなった競走馬としてのエピソードを紹介する。

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『ウマ娘』のダイタクヘリオス

公式プロフィール

  • 声:山根 綺
  • 誕生日:4月10日
  • 身長:156センチ
  • 体重:ウェーイ!
  • スリーサイズ:B82、W53、H85

調子乗ってる?ノったもん勝ち!うるさい?
んじゃもっと盛り上がってこ~ぜ♪
……な、お喋り大好きギャル。
笑ってないとかありえんてぃ、遊びに誘われたら秒でOK!
とにかくなんでも楽しもうとする彼女の周りには、いつだって最高のグルーヴが生まれている。

出典:『ウマ娘』公式サイトより引用

【ウマ娘・元ネタ解説】ダイタクヘリオスが逃げていたのはマジメすぎるがゆえだった!? ダイイチルビーやメジロパーマーらとの激闘など、史実エピソードやゲームの元ネタを紹介

ダイタクヘリオスの人となり

 パリピギャル系ウマ娘。すべてをノリと勢いで突破する底抜けに明るい性格をしており、どんな逆境も笑い飛ばす強メンタルを誇る。またDJプレイが得意で、『ウマ娘』の人気楽曲をDJヘリオスがRemixした“ぱか☆アゲ↑ミックス”シリーズが『ぱかチューブっ!』で配信されている。

 メジロパーマーとは“逃げ友”であり“ズッ友”で、その中のよさはゲームでもアニメでもだいたいセットで登場しているほど。もちろん、“ぱか☆アゲ↑ミックス”シリーズのMVにもふたりで出演している。ふたりの出逢いや友情を紡いでいく様子は、テレビアニメのSeason2に詳しい。

 また、生粋のお嬢さまであるダイイチルビーに対して、一方的にアピールを続ける姿が散見される。ただ、残念ながらノリが合わないのかルビーはつれない態度で、ヘリオスは毎回のようにフラれてしまい「お嬢さまがつれない」、「お嬢が塩(しお)い」などと嘆いたり叫んだりしていた。

 パーマーとヘリオスは史実でもコンビのような扱いを受けていたが、ルビーとヘリオスも短距離路線でしのぎを削った深い仲。1991~92年のマイル・スプリント路線でライバル関係であり、ヘリオスが牡馬(男馬)でルビーが牝馬(女馬)ということもあって、当時は“恋人”とも言われていたのである。

 『舞台「ウマ娘 プリティーダービー」~Sprinters' Story~』ではヘリオスとルビー、さらにヤマニンゼファー、ケイエスミラクルという4人のウマ娘の物語が描かれている。

 彼女たちのモデル馬は、史実では同じ時代に活躍したが、じつは4頭が一度に揃ったレースはない。1991年のスプリンターズステークスが唯一揃い踏みしそうだったのだが、ヘリオスが有馬記念に向かったため実現しなかったのだ。

 ヘリオスは、ほかにもトウカイテイオーやナイスネイチャ、ツインターボなどもモデル馬どうしで対戦経験があり、ウマ娘としても交流があるようだ。さらに同じギャル仲間だからか、ゴールドシチーやトーセンジョーダンとも仲がいい。交友関係はウマ娘のなかでも出色で、アニメのSeason2でのBlu-ray特典『馬ウマ話』では、そんな彼女の顔の広さがよくわかるエピソードが描かれている。

 ヘリオスの人当たりのよさには、史実のヘリオスがマイル・スプリント路線から中距離~長距離(有馬記念)まで幅広く出走し、たくさんのライバルたちと戦ってきたことが反映されているのだろう。現在『ウマ娘』の公式サイトで発表されているウマ娘だけでも、じつに14人と対戦経験があるというのだから驚きだ。

 ヘリオスの勝負服は、モデル馬の勝負服のカラーリング(青地、黄一文字)を反映したトップス(ベルトも)に白のショートパンツを合わせたギャル系ファッション。髪の青メッシュや白のウマ耳カバーは、モデル馬のメンコがモチーフだと思われる。

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競走馬のダイタクヘリオス

ダイタクヘリオスの生い立ち

 1987年4月10日、北海道平取(びらとり)町の清水牧場で生まれる。馬名は冠名のダイタクに、太陽神ヘリオスを合わせて名付けられたという。

 父はシンボリルドルフと同期であったためにGIを勝てなかったと言われる悲運の素質馬ビゼンニシキ。母はネヴァービート産駒のネヴアーイチバンである。

 近親には1975年の皐月賞、日本ダービーなどを勝利した“狂気の逃げ馬”カブラヤオーとその全妹で1979年のエリザベス女王杯を勝ったミスカブラヤ、重賞馬ダイタクリーヴァ、ダイタクバートラムのきょうだいなどがいる。

 現役時代のその逃げっぷりは、いとこのカブラヤオーにも劣らないほどだったが、ヘリオスのふだんの性格はとてもおとなしかった。また生まれつき体質も頑丈で、まったく手の掛からない仔馬だったという。

 ただ、馬格はふつう(やや小柄)で動きも特筆すべきところはなく、それは育成牧場に移っても変わらなかった。オープン馬まで出世した5歳上の姉スイートラブと比べても見劣りしていたため、「900万条件(当時の2勝クラス)で止まる馬だと思っていた」と関係者は見積もっていたようだ。

 ところが大人しい性格はレースになると豹変し、“笑顔の馬”と呼ばれるようになった(後述)。そして競走馬としての素質もかなりのもので、900万条件どころかGIマイルチャンピオンシップ2連覇を含む重賞7勝を挙げ、7億円近い賞金を獲得することとなった。いい意味でも悪い意味でも期待を裏切った、スケールの大きすぎた馬だったのだ。

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ダイタクヘリオスの血統

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 父はビゼンニシキ。1984年のクラシック戦線でシンボリルドルフのライバルだった馬である。皐月賞2着、ダービー14着を経た3歳秋に菊花賞を狙わずマイル戦線に転向したが、その初戦で大ケガをしてしまい無念の早期引退を余儀なくされた悲運の素質馬だった。豊かなスピードと鋭い切れ味の末脚が武器であり、堂々とした馬格の持ち主でもあった。

 ビゼンニシキは先行と差しを状況に応じて使い分けられる柔軟性の持ち主だった。いつも暴走気味に逃げを打っていたヘリオスも、じつは本質的には父と同じく先行馬だったと言われている。ただヘリオスは性格がマジメなため、一生懸命になりすぎて毎回掛かり通しとなり、結果として逃げることになったため、真の素質を見せる機会がなかったということのようだ。

 母のネヴアーイチバンは競走馬としては未出走だが、6歳上の姉カブラヤがカブラヤオー、ミスカブラヤという2頭の名馬を産んでいたこともあって、血統的には期待されていた。母系は短いところで活躍する馬が多かったが、産駒はいずれも父の特徴がよく出ており、ヘリオスにもそれが受け継がれていた。

 一方でネヴアーイチバンは小柄な牝馬であり、それが大柄なビゼンニシキをつけた理由のひとつでもあったようなのだが、ヘリオスがそれほど大きくなかったのは母の影響が出ていたのだろう。

ダイタクヘリオスの現役時代

※記事中では、年齢は現在の基準に合わせたもの、レース名は当時の名前をそれぞれ表記しています。オープン以下の条件戦は現在の標記にならい、1勝クラスなどと表記しています。

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2歳(ジュニア級:1989年)

 きょうだいと同じく栗東の梅田康雄厩舎に所属することになったヘリオスは、10月7日、京都競馬場芝1400メートルの新馬戦で2年目の新人、岸滋彦騎手を背にデビューする。彼はこの少し後にサンドピアリスでGI初勝利(エリザベス女王杯)を挙げるなど期待の若手であり、ヘリオスの引退までほぼすべてのレースでコンビを組み続けることになる。

 さて、デビュー戦で単勝3番人気に支持されたヘリオスは、道中は断然の1番人気だったオースミロッチの後ろ、3番手につける先行策を見せるが、直線で伸びずに人気通りの3着に終わる。なお、勝ったオースミロッチは生涯で挙げた8勝すべてが京都競馬場のレースという、こちらもなかなかに個性派の名馬であった。

 2戦目はダートで走らせるも、最後に息切れして2着に。好走したとはいえ、やはり適性は芝と見た陣営は、連闘で芝1600メートルの新馬戦(いまは1度のみだが、当時は期間内なら何度でも出られた)に出走させ、今度は問題なく逃げ切って初勝利を挙げる。

 思いのほか強い勝ちかたに、陣営は2週後のデイリー杯3歳ステークスに格上挑戦することを決める。ただ、レースは生涯の課題となる“掛かり癖”が出てしまい、終始コントロールが利かない状態に。それでも最後はヘロヘロになりながらも勝ち馬からそれほど離されずに4着を確保し、「力のある馬だな」と岸騎手も評価していた。

 ヘリオスはレースになると集中しすぎてしまい、ペースなど関係なくただ一生懸命に走ろうとする傾向があった。その状態になると、騎手が指示を伝えるための馬具“ハミ”を噛まないため、ペースの上げ下げやコース変更といった細かい指示が伝わらなくなる。

 また、ハミを噛まないと舌がベロンと出たままの状態になり、見た目には笑っているような顔になる。ヘリオスはそれを毎回やっていたため、いつも笑っているような顔になり、“笑顔の馬”と呼ばれるようになったのだった。じつは、笑顔というのはポジティブな意味の表現ではなかったのだ……。

 もうひとつ、のちの“逃げ友”メジロパーマーと同様にヘリオスも“頭が高い”馬だった。これはピッチ走法の馬に見られる傾向で、ストライドが伸びなくなることから昔は矯正することもあったようだ。ウマ娘のモデル馬では、パーマーのほかにもキングヘイローやキタサンブラックなども頭が高い走法である。

 それはさておき、かかって小細工が利かないなかでも力を出し切らせてやれば相当強い、という手応えを得た陣営は、すぐに2歳1勝クラスのさざんか賞に出走を決める。ここを逃げ切って2勝目を挙げ、オープン入りを果たすと、連闘でGIの阪神3歳ステークスに挑戦する(牝馬限定戦となるのは1991年から)。

 わずか2ヵ月半で6戦目というきびしいスケジュールだったが、代打騎乗の武豊騎手を背に、ヘリオスはいつものように限界まで逃げ粘って2着を確保した。

3歳(クラシック級:1990年)

 阪神3歳ステークスの好走でクラシックを意識し始めた陣営は、年が明けるとシンザン記念にヘリオスを出走させた。このレースでは11頭中11番枠と大外枠になってしまったこともあってスタート後にハナを切れず(※)、2~3番手でレースを進める。それが影響したのか、最後は伸び切らず2着に終わった。

※先頭に立つこと。

 続くきさらぎ賞では不良馬場に泣いて6着に沈み、初の遠征となった皐月賞トライアルのスプリングステークスでは、1番人気のストロングクラウンと壮絶な逃げの打ち合いでハイペースになりすぎてスタミナがもたず、11着と惨敗を喫してしまう。

 賞金だけなら皐月賞に出走することはできそうだったが、これでは勝ち目はないと陣営はあきらめて短距離路線に転向することとなる。実際のところはスタミナ不足というよりは枠順や馬場、展開など悪条件が続いたからではあったようだが……。

 デビューから半年にして早くも10戦目となった、4月の1200メートル戦クリスタルカップ。スプリングステークスの反省を活かし、ハイペースで逃げようとするライバルと無理に競ることなく前に行かせて2番手から進んだヘリオスは、出走馬中最速の末脚で抜け出して余裕の勝利。重賞挑戦6戦目にしてようやく初勝利を挙げた。

 さらに、当時はオープン特別だった葵ステークスでは、獲得賞金の実績から59キロという重いハンデを課されてしまう。レースは3頭によるハイペースの逃げとなり、惜しくも2着に敗れるが、1着入線だったアンビシャスホープが斜行により失格となり、くり上げて1着となった。

 続くは春競馬最大の目標となったマイル戦のニュージーランドトロフィー4歳ステークス(当時は日本ダービーの翌週に開催されていた)。前走同様、今回も先頭の1000メートル通過が57秒1と、逃げ馬にはツラいかなりのハイペースとなり、最後にかわされて2着に終わる。とはいえ、この時点ですでに12戦4勝、2着4回、総獲得賞金も1億2000万円を超える数字を叩き出しており、幼駒時の期待度からすれば上出来すぎる内容であった。

 ここまでデビューから1ヵ月に1戦以上のペースで戦ってきたヘリオス。ニュージーランドトロフィー4歳ステークスの後に、ようやく長めの休養が与えられることとなった。故郷に戻って羽を伸ばしていたが、厩舎に戻る際の輸送で脚を痛めるというアクシデントに見舞われる。

 その後もなかなか調整がうまくいかず、ぶっつけ本番でマイルチャンピオンシップに挑むことに。実績のなさと、臨戦過程への不安からか12番人気という低評価を受けた。

 そんな競馬ファンの判断は正しかった。スタートから猛然と競り合う先頭集団にヘリオスはついていけない。さらに後半になっても巻き返すことはできず、18頭中17着と文字通りなす術もなく惨敗してしまうのである。鞍上はさざんか賞以来となる代打騎乗の田島良保騎手だったが、これだけ調子が悪いとどうしようもなかった。

 ちなみに1着は牝馬のパッシングショット。2着は前走の天皇賞(秋)でヤエノムテキの3着に食い込んでいたバンブーメモリーだった。

 続いてオープン特別のシリウスステークス(※)に出走。前につけずに中団から進み、最後も伸びず4着に終わるが、調子自体はようやく上向いてきたため、何とかスプリンターズステークス(当時は12月開催)に出走する運びとなった。

※現在阪神競馬場で開催されている同名のダート重賞とは別物で、1990~96年に中京競馬場で開催されていた芝1200メートルの特別競走。

 スプリンターズステークスでヘリオスは、3戦ぶりに戻ってきた岸騎手とともに久々の逃げを打つ。4頭が競り合い、一歩も引かないバカ逃げは前半600メートル通過が32秒4という超速時計だった。ラスト600メートルと違い、ゼロから加速するスタートダッシュを含んでのものであるため、このタイムはものすごく速いのである。

 当然、1200メートルの電撃戦とは言えそんなペースで最後までもつわけはなく、1番人気のバンブーメモリーら後方待機組にきっちりと差し切られてしまう。勝ったのはそのバンブーメモリーだった。

 ただ、マイルチャンピオンシップとは違い、最後は粘って掲示板を確保しており(5着)、今後の成長次第ではGI戦線でも戦えるメドが経ったと言える1戦となった。

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4歳(シニア級:1991年)

 年明けは、ヘリオスにしては珍しく中1ヵ月半も空けて2月の淀短距離ステークスから始動。そのせいか、馬体重がプラス16キロと“成長分”とは言えない増えかたをしており、レースも煮え切らない内容で4着に敗れる。

 陣営も反省したのか(?)、次走を早くも3週間後のマイラーズカップ(当時は2月開催で、この年は阪神ではなく中京芝1700メートルで行われた)に。きっちり馬体も絞ったヘリオスは、岸騎手の代打・武豊騎手に導かれてハイペースの逃げ集団の後ろからきっちり差し切って勝利。久し振りの5勝目(重賞は2勝目)を挙げた。

 当時は春競馬での短距離・マイル路線のGIレースは5月の安田記念しかなかったため、ヘリオスの目標もそこになる。ただ、陣営も間を空けないことを意識していたのか、直接向かわずに2戦を挟むことにした。

 その1戦目、ダービー卿チャレンジトロフィー(1990~95年のみ1200メートルで施行されていた)では、1番人気に支持されて気持ちよく逃げを打つも、最後に失速して4着に終わる。

 続く2戦目は京王杯スプリングカップだったのだが、ここでヘリオスは運命の出会いを果たすこととなる。それはメジロパーマーではなく、“お嬢”ことダイイチルビーであった。

 外枠から出たルビーは4~5番手(外側)から最後の直線で抜け出し、華麗に勝利。一方のヘリオスは、最内枠という絶好のポジションを活かして逃げを打つ……こともなく、4~5番手(内側)を追走してそのまま抜け出す……こともなく、最後の直線でルビーの後ろから外に持ち出すも伸びず、6着に終わった。

 うれし恥ずかしのファーストコンタクトは、お嬢に歯牙にもかけてもらえず終わってしまったのである。

 しかし、安田記念では意地を見せた。10番人気と支持を落としたヘリオスだったが、この日は笑みを見せずキリッとした顔で7~8番手を追走していた。なんと、掛からずに折り合いがついていたのだ。もっとも、ルビーは後方から進んでいたから、顔が見えるわけもないのだが……。

 そして最後の直線に入ると、敢然と先頭に立つヘリオス。これは大金星か……と場内からは悲鳴が上がる。しかし残り200メートルで大外からルビーが突っ込んできた。粘っていたヘリオスだが、さすがに勢いが違って2着。最後の最後、抜き去っていくルビーのお尻を追いかけるように走り、首をルビーのほうに向けたようにも見える、見事な負けっぷりであった(ちなみに3着はバンブーメモリー)。

 そのまま放牧には向かわず、秋に備えて賞金を稼ぎにスプリント戦のCBC賞へ。しかし前戦の激走はどこへやら、またしても煮え切らない内容で5着に敗れる。3歳時のきさらぎ賞もそうだったが、どうやらヘリオスは重馬場が苦手なようである。なお、このレースには安田記念で3着だったバンブーメモリーも出走していて、9着に終わっている。

 前半戦最後の1戦に選んだのは、2000メートルの中距離レース、高松宮杯だった。そしてなんと、ここには愛しのルビーも出走してきたのだ。2000メートルは距離としては少し長いものの、母ハギノトップレディ、祖母イットーと母仔3代での高松宮杯制覇を狙って出てきたのである。

 レースはヘリオスが2番手、ルビーが3番手で進み、最後の直線は安田記念の再現のような絵面に。しかし、このレースでヘリオスに騎乗したベテランの加用正騎手は、いつもより仕掛けを早めにしていた。当時の中京競馬場の直線は短く、仕掛けが早まったぶんルビーが追いかけるには距離が少し足りなかったのだ。写真判定の末、ヘリオスはハナ差で勝利を収める。

 お嬢にも勝利し、あとはGIを勝つだけ。放牧を挟み、秋は毎日王冠から始動する。調子は悪くなく、逃げて2着。ちなみに1着はプレクラスニー。彼は次走で天皇賞(秋)に出走し、メジロマックイーンの2着に入るが、マックイーンが審議により18着降着となったため、くり上げで優勝を果たすことになる。

 話をヘリオスに戻そう。彼は毎日王冠の後、マイルチャンピオンシップの前哨戦であるスワンステークスへ向かう。ここでも逃げるが、この年の4月に遅いデビューを果たしてから急成長してきたケイエスミラクルらにまとめてかわされてしまい、9着に沈んでしまう。勝ったのはそのケイエスミラクルだった。

 そして、陣営にとっての本番であるGIマイルチャンピオンシップを迎える。1番人気はルビー、2番人気はケイエスミラクル、3番人気はバンブーメモリー、そしてヘリオスは4番人気だった。このレースで、岸騎手は梅田師から「ハナに立つな」という指示を受ける。ハイペースで競り合って潰されるレースが続いていたため、多少無理矢理抑えてでも安全策を採るべきだということか。

 スタート後、岸騎手は指示を守って手綱を絞り、3番手集団から追走する形となる。しかし前2頭はそれほど速くもなく、さらにヘリオス自身がやる気を見せていた。そこで、中間地点(800メートル)あたりから指示を破ってスッと進出し、残り600メートルで早くも先頭に立った。

 最終コーナーを回った時点ではもう完全に抜け出しており、すでに挽回不可能な差が築かれていた。後ろからはルビーを先頭に、ケイエスミラクルら追込勢が猛然と迫ってくるが、影すら踏むこと叶わず。関西テレビで実況を担当していた杉本清氏も「ダイタクヘリオス、岸やった! うまく乗った岸」と賞賛する圧勝劇だった。

 ついにGI馬となったヘリオスは、スプリンターズステークスではなく有馬記念へ。ツインターボの大逃げにはついていかずに3番手から追走するも、最後は力尽き、5着となった。勝ったのは14番人気のダイユウサク。1.7倍の圧倒的1番人気だったメジロマックイーンを破る大金星は、単勝137.9倍の超大穴だった。

5歳(シニア級:1992年)

 ヘリオスは夏の休養後も激戦続きだったためか、この年は中2ヵ月も空けてマイラーズカップから始動。前年の目覚ましい活躍のせいで60キロの斤量を背負わされることとなったが、4番手追走から同じく58キロを背負ったルビーらを退けて、2着に5馬身差をつける完勝を果たす。

 しかし続く京王杯スプリングカップでは、前走同様の先行策で進むも最後に伸びず4着に終わる。さらに、安田記念も同じように先行策から伸びきれずに6着。ヤマニンゼファーの作るよどみないペースにハマった感もあり、このレースはまさに完敗だった。

 なお、ヘリオスとまったく同じローテーションだったルビーは6着、5着、15着と精彩を欠き、このレース限りで引退を決める。なお、ヘリオスとルビーは8回同じレースを走り、ヘリオスの5勝3敗という結果に終わっている。

 約1年のあいだに8回も顔を合わせるなど、しのぎを削ってきたルビーに去られてしまったヘリオスだが、すぐに新たなライバルと運命の出会いを果たした。それがメジロパーマーである。お待たせしました。お待たせし過ぎたかもしれません。

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 安田記念に敗れた陣営は、ヘリオスの宝塚記念への出走を決める。先行争いがゴチャつかず、すんなり前に行かせてもらえれば、そこまでヒドく掛かることもないので2200メートルでも好走できる、という目論見があったようだ。宝塚記念はファン投票があり、出走予定馬の顔ぶれを見るかぎりそこまでガツガツ競ってくる馬はいない、とも思われていた。

 そんなところに、誰もがマークしていなかったパーマーがスタート直後から全力で飛ばして先頭に躍り出たのである。このときのパーマ―は前走の新潟大賞典を勝っているとはいえ、ファンからの9番人気で、とてもではないが優勝候補とは言えなかった。

 ヘリオスの鞍上である岸騎手は、パーマーとヘタに競り合って潰されても困るので、先に行かせる選択をする。しかし、それが失敗だった。パーマーのスピードは衰えるどころか、3コーナーを回ったところでさらに加速し始めたのである。

 荒れた馬場も味方してパーマーはまんまと逃げ切り、GI初勝利を飾る。勝ちタイムは史上最遅だった。

 一方、パーマーについていけなかったヘリオスは無念の5着に終わった。とは言え、中距離戦線でも戦えるメドが立ったので、秋は毎日王冠から始動し、天皇賞(秋)へと転戦するローテーションを組む。

 その毎日王冠では、最内枠から好スタートを決め、イクノディクタスやナイスネイチャの追い上げもかわし、そのまま当時の日本レコードを更新する見事な逃げ切り勝利を収めた。

 しかし続く天皇賞(秋)で事件が起こる。またしてもパーマーが逃げを主張してきたのだが、宝塚記念の二の轍は踏むまいと今度はヘリオス側も抵抗し、先頭を譲らなかったのである。すると2頭はそのまま競り合い続け、1000メートル通過が57秒5という超ハイペースを刻むこととなり、結果として共倒れしてしまう。ヘリオスは8着、パーマーは17着、この2頭の後ろについてしまったトウカイテイオーも巻き込まれる形となり、7着に終わっている。

 連覇を狙うマイルチャンピオンシップでは、前年に続き「ハナに立つな」という指示が飛んだ。前年はそれでも、道中で指示に逆らって先頭に立ち、そのまま逃げ切ったのだが、なんとこの年もリプレイを観ているかのような展開となる。

 大外18番枠からスタートしたヘリオスは、逃げ2頭のすぐ外の3番手につける。そして中間地点を過ぎたあたりから前に進出し、残り600メートルで先頭に立つと、最終コーナーを回った時にはすでに2馬身以上のリードを築いていた。

 そのまま悠々とリードを広げ、マイラーとして急上昇中だったシンコウラブリイらがようやく追撃するも、時すでに遅しという状態に……。パーマーと共倒れした前走は何だったのだ、というくらいスマートな勝ちかたで連覇を達成した。

 この時点で33戦もこなしていたヘリオスは、GI・2連覇という勲章を引っ提げて次戦のスプリンターズステークスで引退することが決まる。その引退レースでは、スタートから後手を踏んで前に行ききれず、サクラバクシンオーには先着したもののニシノフラワーやヤマニンゼファーの後塵を拝して4着。安定感こそまったくなかったが、人気薄で激走するなどとにかく印象に残る競走馬生活だった。

 ……とまとめに入ったのだが、じつはここで終わりではなかった。なんと、最後にもう1戦、有馬記念を走ることになったのである。せっかくだから最後にもうひと花咲かそうと、ヘリオスは三たびパーマーとともに爆逃げを敢行する。しかし、連闘での出走だったためテンションが上がってしまっていたのか、いつもよりさらに掛かってしまい、最後の直線に入る前にスタミナを使い切ってしまうハメに。

 けっきょく、ヘリオスがいいペースメーカーとなってパーマーが2度目の大金星を挙げて宝塚記念に続くグランプリ連覇を達成。ヘリオスは12着に終わり、今度こそ引退することとなった。ちなみに、1番人気のトウカイテイオーは11着。イクノディクタスが7着、ライスシャワーが8着に入り、ナイスネイチャが昨年に続き2度目の3着を記録した。

 ヘリオスの通算成績は35戦10勝、重賞7勝。GIのマイルチャンピオンシップを連覇するという、幼駒時代の冴えない評価を思えば信じられないくらいの成績を残した。

 通算獲得賞金も約6億8000万円と、当時では史上4位の好記録。勝ちパターンにハマれば強いが、いつハマるのかがわからないという不安定極まりない競走馬生活ながら、終わってみればこの数字である。“無事之名馬”の好例だろう。

 1番人気で勝ったことが2歳時のさざんか賞の1回しかなく、人気薄になると好走して高額馬券を演出する“新聞の読める馬”としても名を馳せていたが、ルビーのお尻を追いかけたり、パーマーと爆逃げして共倒れするなど、とにかく話題の多い馬であった。これほどまでの個性派は、この先出てくることがあるのだろうか……?

引退後のダイタクヘリオス

 1993年1月、京都競馬場で引退式を行った後、日高軽種馬農業協同組合門別種馬場で種牡馬入り。初年度産駒から2000年のスプリンターズステークスを最低人気で勝ったダイタクヤマト(シーキングザパール、キングヘイロー、アグネスデジタルなどと対戦経験あり)を輩出するなど、種牡馬としても一定の活躍を示した。

 その後は2008年に種牡馬を引退、功労馬として青森県の山内牧場で余生を過ごすことになったが、その年の12月12日に静かにこの世を去った。

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