マン・オン・ワイヤー
48000円払って地上4000フィートからスカイダイビングもした。62メートルの高さから水面に向けてバンジーでも跳んだ。山間にある200メートルの断崖に立つ小便小僧に並び立ち、同じポーズを取りもした。何とかとケムリは高いところが好き。冒頭から記者の話で恐縮だが、高いところが好きなのだ。
1月23日に全国ロードショーが始まる映画『ザ・ウォーク』は、1974年に高さ411m、当時世界一の高さを誇ったワールド・トレード・センターの地上110階にワイヤーロープを張り、命綱なしで空中散歩をした男の物語だ。この高さ、それだけでそそられる。
男の名はフィリップ・プティ。
大道芸人として身を立てた彼は、パリのノートルダム大聖堂の尖塔間を綱渡り。ついでシドニーのハーバーブリッジを攻略し、そしてニューヨークのいまはなきワールド・トレード・センターのツインビルに目を止めたという。
大道芸人や奇術師の類は、『栄光なき天才たち』で読んだ脱出王、ハリー・フーディーニのエピソード程度しか知らない。あらゆる場所から縛られた状態で脱出したフーディーニは、つまらない死にかたをするのだ。もちろん、この映画の主人公フィリップがこの綱渡りに成功したのかどうか、いまもって生きているのか死んでいるのかも知らない。だが、そんなことも知らない自分がフィリップのこの挑戦を、PlayStation VRで疑似体験できるというから、恐ろ楽しい世の中になったものだ。
異常に盛り上がってきた
試遊はこの映画のPRのために特別に作られたコンテンツで行う。貴重な機会だ。試遊の場まで向かう自分の頭の中に浮かぶのは、『カイジ』の鉄骨渡りのエピソードばかり。
文句なく即死っ…………!
地上411メートル
魔天の地獄……
ワイヤー渡り……!
異常に盛り上がってきた。
ソニー・ピクチャーズの会議室に誘導され、見た光景はわけのわからないほど拍子抜けしたもの。
宣伝の方いわく、「見ると拍子抜けするんですが、皆さんなかなか最初の一歩が踏み出せないようです」。こちとら1週間前にシカゴに取材で行ったおり、高層ビルの地上103階を訪れ、張り出した小部屋に立って強化ガラス越しに足下を見下ろしている猛者だぜ? 猛者、いや、王者のごとき鷹揚な歩みを見せようではないか。
なんて少しのレクチャーのあと、すぐにPlayStation VRがセットされ始めた。あ、心の準備が……。まだ始まってもいないのに、脇に冷たい汗をかき始める。PlayStation VRは何度目かの装着だ。ざっくりかぶって、右目脇下のボタンを押しながらバイザーを前後させて密着度を調節し、後頭部のダイアルでバイザーが動かないようにセットすればいい。
「では最初は指示を出しますので、ヘッドフォンのない状態で一度挑戦していただきます。音声はモニターから聞こえます。1分ほどの試遊になります」。
ダダン。
いかにも緊迫感を煽るサウンドとともに、すでに自分はワールド・トレード・センターの屋上。ほほほほ↑う↓。ヘンな声が出た。前に綱。細い。左手にはハドソン川が見える。おそらくサウスタワーだ。360度、そして全天方向にヘッドトラッキングが効き、曇りがかった鈍い色の空がリアルなニューヨークを感じさせる。行ったことはないが。
主人公フィリップが何かを語っている。語っているが、耳に入ってこない。なぜなら映像が勝手に一歩踏み出しているからだ。押すな! 押すな! 周囲の笑いが聞こえる。
足の裏がムズムズする。土踏まずから内ももを通って大事なところまで続く糸が引っ張られるような、あの感覚。何か適当な言葉はないのだろうか。簡単に言うと「きゅうううう」という感じだ。突然、目の前の縄が光った。スタートの合図だ。「それでは一歩ずつ縄を探りながら歩いてください」。
結論から言うと、1歩目は簡単に踏み出せた。すでに置いてある左足に接するように、右足を置いただけだから。……だが、2歩目が踏み出せない。
視界に広がるニューヨークはCGで作られたもの。それはわかっている。ある意味CGで作られた映像を見続ける職業柄、その精度や完成度にはうるさいつもりだ。だが、全神経が集中した自分の足の裏が「ここにリアルな綱があるよー」と脳を混乱させるのだ。日ごろ街を歩いているときに、点字ブロックをスニーカー越しに感じる練習をすることがある。これが仇となったのか、この綱を踏み外すとヤバいことになる、と感じるスイッチが入る。スイッチが入った途端、足がすくみ、額からヘンな汗が流れ始めた。
意を決して、最大限にバランスを取りながら進む2歩目。イケた……ハズ。あっ。「あー、いま落ちましたねー」。いやいやいやいや、セーフ、セーフだってば! こっちは生死がかかっているんですって! 慎重になればなるほどカラダがバランスを失う。傍から見たら、さぞ滑稽だろう。
なんとか3歩目。411メートル下で人々は日々の営みを続けている。自分は彼らに知られることもなく、ひとりひっそり命をかけている。映画なら、マンガなら、ここで静かに涙していてもいいシーンだ。だが、ここはソニー・ピクチャーズの会議室。
「はい、終了です」。突然、デモが終わった。1分経ったのだ。PlayStation VRが剥がされる。メガネが汗の蒸気で五代目円鏡のように曇っている。曇りが晴れて我に返ると、1メートルも移動していない……。マジか。
だが、だいぶ感覚は掴めた。緊迫感だけ堪能しながら、足運びはもう少し大胆にすればいい。もう大丈夫。任せて。あ、すぐ2回目なんですか?
「今度はヘッドフォンを着けていただきましょう」。
PlayStation VRを装着したうえから、ヘッドフォンをかぶせてもらう。かぶせてもらいながら、この綱渡りをリアルに行った男のことを考える。どうしてこんなことをしようと思ったのか。思いついても実行に移すとか、ちょっと意味がわからない。で、彼は成功したのかどうなのか……周囲の音が遠くなった。ヤバい。
ダダン。
風の音がする。強く吹く、海沿いの風だ。頭を回すと、風の聞こえてくる方向も動く。ヤバい。二度目とか言っている場合じゃない。
先ほどより大きめに足を運ぶ。イケるか? イケそうだ。バランスも本気で取っている。耳の奥から、頬の内側の下顎の付け根のあたりにかけてが意味不明な引き攣れを起こす。簡単に言うと「きゅうううう」という感じだ。
「口が開いている男は出世できない」と会社が呼んだマナー教室の講師に指摘された自分だが、このときばかりは歯を食いしばって進む。進む。進む。
足下の感覚が突然変わった。
「ロープがそこまでです」。
“Mam! Still alive!(ママ! ボク生きてるよ!)”
「まだお時間ありますので、後ずさるなど試していただいても結構ですよ」。
だったら、試したかったことがある。そのシカゴの104階でやる気マンマンだったのに、いざとなったら怖じ気づいて試せなかったこと。いまもカラダのあちこちが「きゅうううう」となっているが、ここは力と気力を振り絞って……。
ジャンプ!
映画は1月23日から公開
「まあ、高いところは得意なんですけどね」
「ジャンプしたのは自分だけらしいですよ」
「感想? 記事を読んでくださいよ」
「世の中の高いところはだいたい制覇したね」
職場に戻ってからの自分のコメントはともかく、フィリップの気持ちが少しだけわかった、フィリップと一瞬同化した、いやむしろオレがフィリップと言える貴重な体験だった。こうなればフィリップの来し方、行く末は見届けなければなるまい。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や『フォレスト・ガンプ/一期一会』を撮ったロバート・ゼメキス監督による映画『ザ・ウォーク』は、2016年1月23日(土)から全国ロードショー。フィリップや自分が見たあの風景を、すでに見ることがかなわなくなったあの風景を、ぜひ皆さんにも見ていただきたい。
余談だがジャンプした結果はというと、視野も一瞬ふわっと浮いて着地に失敗した。だが、映像は綱の上のままだったので、そこで現実に引き戻された。とはいえ、あのまま落下する映像になるのもまっぴらごめんだが。
今回のデモのゲーム化の可能性を宣伝氏に尋ねると、ゲーム化はないが、誰でも触れられる機会がどこかで作れるようなら作りたいですね、との回答。まずは映画のヒットを願おう。
備考 |
映画『ザ・ウォーク』 原作:「TO REACH THE CLOUDS」 by フィリップ・プティ 監督:ロバート・ゼメキス 出演:ジョセフ・ゴードン=レヴィット、ベン・キングズレー、 シャルロット・ルボン、ジェームズ・バッジ・デールほか 上映時間:2時間3分 配給:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント |
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