『ピクロス』宮本茂さんからマリオの描き方を直々に伝授された『マリオのピクロス』から30年。開発会社ジュピターの成り立ちはもはやゲーム産業史だった (1/3)

『ピクロス』宮本茂さんからマリオの描き方を直々に伝授された『マリオのピクロス』から30年。開発会社ジュピターの成り立ちはもはやゲーム産業史だった
 新幹線移動のおともにパズル雑誌を買ってみた。“お絵かきロジック”や“イラストロジック”と呼ばれるもので、数字のヒントをもとにマスをぬりつぶすと絵や文字が浮かび上がってくる。
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一応ぼかしておく。
 ルールはシンプルだけど、これがなかなか頭を使う。脳のふだん使わない部分がぐるぐる回転するようだ。昔、ゲームで少しやったことがあるが、久しぶりなのでまだ勘が戻ってきていない。

 得意な人からコツを教えてもらおう。
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ファミ通グループ代表の林から「ジュピターさんはそういうパズルのこと詳しいよ」と聞いていた。
ユースケ
 イラストロジックのことを教えてほしいんですけど。

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目黒
 急。

 頼ったのはジュピターの目黒徳親さん。

 ジュピターは京都のゲーム開発会社。イラストロジックにはいくつか呼び方があり、コンピューターゲームに落とし込んだものとしては『
ピクロス』シリーズが有名だ。これをずっと作り続けている会社である。

 1995年3月14日に発売されたゲームボーイソフト『
マリオのピクロス』を皮切りに、30年以上もシリーズが続いている。イラストパズルのことを聞くのに、これ以上の人材はおるまい。
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2023年4月27日発売の『ピクロスS9』。今回はこういうパズルゲームについて話します。
目黒
 でしたら、『ピクロス』に詳しい者がおりますので呼んできますよ。

ユースケ
 助かります。
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目黒
 会長です。

ユースケ
 詳しいの方向性が思ったのと違う。

 偉い人が出てきてしまった。写真左の方は
ジュピター創業者の中山誠さん。最初は『ピクロス』のコツを記事にするつもりだったが、もっと大きな話を聞いてみよう。

ユースケ
 結局のところ、『ピクロス』って何なんですか

 と、ここで困ったことになった。中山会長が「雑談なんですけどね」と前置きして話し始めた内容がおもしろすぎたのである。

 ひたすら『ピクロス』を作り続けるジュピターとは何なのか。設立に至る道はひとつのゲーム史だった。なお、ファミ通グループ代表の林も同席。日本のゲーム史にかなり詳しいはずだが、それでも軽く引いていた。
※中山さんは京都の方。おっとりした京都弁を想像しながらお読みください。
ユースケ
 ちなみに、僕のSwitch2は初起動が『ピクロスS9』で、いまは『ピクロス』専用機です。

中山
 贅沢な使い方。

目黒
 僕が言うのもなんですけど、ほかのゲームもやった方がいいと思いますよ。
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「Switch2は画面が大きいから『ピクロスS9』が見やすいんですよ」。

中山誠

株式会社ジュピター 代表取締役会長 / CEO。同社の創業者。文中は中山。

目黒徳親

株式会社ジュピター 常務取締役 / CBO。文中は目黒。

林克彦

ファミ通グループ代表。文中は林。

ミス・ユースケ

ファミ通.com編集者。文中はユースケ。

ジュピターの成り立ちを聞く→返答は産業史

中山
 雑談なんですけどね、僕が最初にいたのは岩崎技研っていう会社で、そこはハル研の親会社やったんですよ。岩田さん(※)が23歳で、僕が22歳。東京でいっしょに仕事をする機会があったんです。
※岩田さん:任天堂元社長・故岩田聡氏。
中山
 その頃はMSXをやっていて、まだファミコンの前。岩田さんは天才プログラマーとして東工大からアルバイトで入って、そのまま社員になって。で、いきなり取締役を任されるような状況。

中山
 岩崎技研ではハル研が販売しているMSXの用マウスを製造していました。名前をキャットと言いまして、マウスは下にローラーがついてますが、キャットは上にローラーがついているんです。

ユースケ
 マウスの逆だからキャットということですか。いまで言うトラックボールみたいな。

中山
 それを(埼玉県)浦和の工場で作って、帰りにハル研に寄って、岩田さんと話をして。働き出してすぐにすごい方と出会ったんですよ。いま考えると運がありますよね。

 まだ桜井さんがハル研にいた頃ですか?

中山
 ハル研に入られる前ですね。僕、インテリジェントシステムズの創立メンバーなんですよ。

ユースケ
 いきなりすごい話が出てきたな。

中山
 いまの会長たちといっしょにやり出して、社長の中村(俊之)くんもそうですね。岩崎技研はもともとファミコンのソフトを作ってましてね、『サッカー』ですとか。その部門ごと独立したのがインテリジェントシステムズなんです。僕が25歳のとき。
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中山
 『星のカービィ』もね、最初はインテリジェントシステムズで作ったんですよ。

ユースケ
 そうだったんですか? 昔のタイトルが『ティンクル・ポポ』だったという話は聞いたことありますけど。開発元が違ったというのは初耳かも。

中山
 インテリジェントシステムズはアクティブな提案型の会社だったんですよ。 海外で『シムシティ』が流行っていたとき、任天堂さんに「ファミコンでやりませんか」と相談したり。

 そういえば、最初から任天堂さんとお付き合いがあったんですか?

中山
 僕は父親が製造業をしてるんですよ。板金で任天堂さんの部品を作ってましてね。ファミコンのときのシールドケースいうパーツを担当してました。

中山
 その前は筐体。ゲームセンターに置いてある、『ドンキーコング』のスタンドのタイプ。あれのコントローラースイッチなんかを僕はアルバイトで作ってました。

ユースケ
 ファミコンだけじゃないんですね。そんなものまで作っていたとは。

中山
 ノックダウン(※)で、ブラジルに送らないといけない。たしかCOCOM(対共産圏輸出統制委員会)の協定か何かで、そこで作らないとだめやったんやなかったかな。ブラジルに送って、ブラジルで組み立てたものをアメリカに送るとか、そんなことをやってました。それが中学生くらいのとき。
※ノックダウン生産:部品がバラバラの状態で輸出して、現地で組み立てて販売する方式。
ユースケ
 出てくる話がもはやゲームと産業史。

中山
 新生工業って会社でね、僕はいまそこも継いでます。30年くらい前に産業の空洞化が問題になりましたよね。製造業が中国にどんどん行きだした。仕事がなくなるかもしれんと言われたけど、僕はゲーム会社にいたから、ゲームやったらいけるかもしれん言うて、資本を出して作ったのがジュピターなんです。

 設立されたのは何年ですか?

中山
 1990年です。これがジュピターの成り立ち。
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いきなりスケールの大きな話が出てきてたじろぐ我々。
中山
 会社を作ったときに、インテリジェントシステムズを卒業することになって。でも、インテリジェントシステムズのメンバーをひとりでも連れていくと、任天堂さんと仕事できなくなりますよね。義理を欠くことになりますから。

中山
 で、辞めた人間に話をしたんです。そのとき『マリオペイント』を作った寺本が辞めていて、プログラムをお願いできた。で、あとはどうすんのと。インテリジェントシステムズの人事部長にね、採用で最終に10人残ったとしても5人くらいしか取らへんやろ、残り5人紹介してくれと。

ユースケ
 すごいことしますね。

 たしかに、筋は通ってますね……。

中山
 そりゃあねえ、筋は通しますよ(笑)。あかんかった子らに「きみはここ落ちたけど、新しい会社ができたから、こっちどう?」ってね。で、まだ誰もいいひんのに来てもらった。

 そういった皆さんが、最初のジュピターさんを支えたわけですよね。

中山
 その社員の知り合いで目黒がやってきたんです。1年目で。

ユースケ
 支えるなんてレベルじゃなかった。めちゃくちゃジュピターの歴史が動いてるじゃないですか。
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現在、目黒さんはジュピターの常務取締役である。
目黒
 いまのメンバーを集める前に、インテリジェントシステムズでバイトしてた僕の友だちが、「中山さんが会社を作る話がある」って言ってたんですよ。(中山さんが)そのバイトの子に「いい人いないか」と声をかけた中に僕の名前があって、面接を受けに行って。そのときはもう本当にちっこいアパートでしたよね。それこそ押し入れを机にして作業するみたいな。

 それがだいたい……。

目黒
 1992年か1993年の頃ですね。そこでしばらくやった後に、会社としてひとつ物件を借りるときにインテリジェントシステムズの面接で落ちたメンバーとかを集めて、人ががーっと増えた感じです。

 そのとき中山さんはおいくつでした?

中山
 30歳です。ちょうど起業3年目。

ユースケ
 30歳の胆力じゃないですよ。

中山
 そのときの笑い話で、任天堂の総務のね、川口さんとか本郷さんとか、その前からずっと知り合いなんです。「独立します」「おめでとう」ってね。で、仕事くださいと営業に行ったんですよ。そしたら「中山くんは信用できるけど、ジュピターってまだ会社できたばっかりやろ。信用できひんし、仕事はようやらんな」。おっしゃる通りやなと。筋は通ってる。

中山
 「企画を持っていけばいいんですかね」「そうやね、そういうことかな」というやり取りがあって、その企画を作る中にあったのが『ピクロス』。

ユースケ
 さっきから重要な話がぬるっと出てくるから心の準備が間に合わない。

中山
 “ののぐらむ”(※)というのが毎日新聞で連載されてたんですね。ほかに紙の媒体だと、“イラストロジック”、“お絵かきロジック”(※)なんて本も。やってみたらおもしろいんですよ。だけど塗りつぶすのがたいへんで、消すのはもっとたいへん。
※ののぐらむ、イラストロジック、お絵かきロジック:どれも雑誌や本などを使ったイラストパズルの別名。[IMAGE]
新聞や雑誌のアナログパズルとして定着したが、ぬりミスをすると修正がたいへん。その点、ゲームならすぐにやり直せる。
中山
 コンピューターゲームという枠組みに合いそうやから提案しに行ったんですよ。したらね、「うん、おもしろそうや」と。

中山
 僕は「自分たちで作りたい」と言ったんですけど、任天堂さんから「これ、うちでしいひん?」って話になったんです。

中山
 そこで紹介してもらったのが(当時)エイプの石原さん。ディレクションをしてもらうことになりまして。

ユースケ
 ん? 石原さんって……ポケモンの石原恒和さん!?

 あ、そうか。石原さんは『マリオのピクロス』のディレクターだ!

中山
 したら、何と宮本さんがね、「マリオを使っていいよ」と。ここから『マリオのピクロス』につながったんです。うちの1作目ですね。

ユースケ
 石原さんに宮本さんに……。出てくる名前が強すぎる。
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中山
 うまくマッチングしたんです。大作だったら絶対にだめだけど、半年から1年で作れるものだからね、ちょうどよかった。作り始めたのは目黒が入社してすぐの頃。

 ビッグタイトルとビッグタイトルの間を埋めたいとか、よく聞く話ですもんね。

中山
 マリオは小田部(羊一)さんという方に全部監修してもらうんですよ。宮崎駿さんたちといっしょに『アルプスの少女ハイジ』を作ったような人ですね。

 何年か前に京都で個展やトークショーを開催されていたのを覚えています。

中山
 その小田部さんが目黒にマリオの描き方を伝授してくれました。

 小田部さんから直々に……? いまからすると考えられない話。

ユースケ
 お金を払っても無理でしょ。

中山
 宮本さんからも直々に(マリオの基礎を)伝授してもらったよね。

ユースケ
 は!?

目黒
 石原さんからはゲーム作りやデザインのノウハウを教わりました。

 豪華すぎる。意味がわからないレベル……。

目黒
 いま考えると、ありえない環境ですよね。

 目黒さんはもともとゲームに興味があったんですか?

目黒
 もちろんですよ。中学のときから方眼紙にドット絵を描いてるくらい。

ユースケ
 なるべくしてなった人だ。

目黒
 中学生で『スーパーマリオブラザーズ』に触れたときからゲーム業界に就職することは決めていました。

中山
 勉強しいひんから屋根裏にファミコン隠されたって言うてたよね。

目黒
 こういうところで言うのやめてください。
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 『ピクロス』はジュピターさんから任天堂さんに提案した中のひとつだったんですよね。紙のパズルの話がありましたけれども、当時はどうやってその企画が生まれたんですか?

中山
 ヒントをくれたのは任天堂の(当時の)岡田部長。ゲームボーイを作られた方ですね。昔からお世話になっていたんです。

目黒
 エンストした宮本さんを助けたというのはその頃の話でしたっけ。

中山
 うーん、インテリジェントシステムズにいたときやったかな。それで(ファミコンの)『バックギャモン』ができたかもです。

 頭の処理が追いつかないから、いったん整理させてください。

中山
 通勤しよう思って外に出たら宮本さんの車がね。昔は宮本さん、○○○○○○○に乗ってましてね。

ユースケ
 車種まで言わなくていいですから!

中山
 エンストというかバッテリーが上がったんやったかな。僕がたまたまケーブル持ってたからつないで「エンジンかかったわ、ありがとう」言うて。で、「前にバックギャモンやりたい言うてたよね。企画を持ってきてプレゼンしてくれる?」って。さすがに覚えておられないような話だと思いますが。

ユースケ
 整理してもジェットコースター展開過ぎてどうしようもない。

中山
 知り合いにバックギャモンの国内トッププレイヤーがいて、おもしろいボードゲームやなと思ってたんですよ。ファミコンでやれたらいいなとずっと話していたら、こんなところで。

目黒
 人には親切にしておくもんですね(笑)。さすがに、その場ですぐに決めたわけじゃないでしょうけど。

中山
 ほんまよ。開発メンバーはささっと作ってくれました。人はね、ビジネスだ何だと言う前に徳を積んどかなだめなんですよ。

ユースケ
 説法?

中山
 無理のないつながりは大事。「仕事ください」って言ってももらえないですよ。会社を作ったときに任天堂のみなさんに教えてもらって、ようわかりましたもん。アイデアを持って行かないと。

中山
 それが付加価値なんでしょうね。付加価値を提供しないと仕事が価値を生まない。「中山くんが持っているものに、どう付加価値をつけて任天堂に提案してくれるの?」と。明確にしないとあかんのが、やっぱり企画やったんやろうな。
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 人間関係が育んだ『ピクロス』は30年も続く長寿シリーズになっている。特筆すべきは、“ゲームを知らない人が知っているゲーム”ということ。

 ちょっとしたほっこりエピソードくらいの感覚で強い名前がばんばん出てくるが、まだインタビューは始まったばかり。胸焼けしそうな話題はまだまだ続く。

デバッグチームから異様に評価が高かった

中山
 任天堂の岡田部長から「アナログのゲームでこんなのがあるよ。これゲームにできるんじゃない?」みたいなヒントをもらって『マリオのピクロス』をやり始めたんです。

目黒
 最初はスーパーファミコンで試作して、最終的にはゲームボーイに。気軽に遊んでほしいので、携帯ゲーム機との親和性が高いですよね。ただ、画面の解像度がすごく低いので、10×10とか5×5のドットでどこまで絵を表現できるか悩みました。

ユースケ
 たとえばどういうところですか?

目黒
 数字です。数字を読みやすくするにはどう描けばいいか。ゲームボーイの解像度で見ると、5も6も大差ないんですよ。1ドット加わるだけ。そこに変化を加えようと、石原さんや宮本さんたちが工夫されて。

目黒
 僕はきっちりとした数字が書きたかったのに、「5の、ここの部分を削ってくれ」とか。この工夫が当時の僕には理解できなくて、疑問に思いながらやってました。

目黒
 でも、その工夫が本当にすごい。ただのドット絵なんだけどパッと見た瞬間に5と6の違いを認識できる。2は下の線がちょっと長いんですね。ほかの数字との差を見せるんですよ。
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左は機械的に描いた数字。2と5は線対称で、5と6の違いはドットひとつ分。形が似ているので、一瞬見ただけだと誤認しそうだが、右のように工夫を凝らすと格段に認識しやすくなる。
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5の右上や2の下に注目。たったの1ドットがあるかないかで見やすさが変わる。
 当時は容量とか制限が多いですよね。

中山
 そうですね。でも、やっぱり楽しいですよ。そういうものを目黒がいきなり経験できたのは大きかった。企画が通ったのも奇跡的なんだけども、マリオが足されたのは、それはもう偶然。そのときの任天堂さんの状況がたまたまそうさせてくれた。

 いやー、すごい話ですねえ。目黒さんはおいくつでした?

目黒
 専門学校を卒業してすぐなので20歳くらいです。

 20歳? 卒業してすぐ? いまだったらありえないですよね。

目黒
 ジュピターのデザイナーは僕ひとりだったので。

 だって初めての社会人経験で、いきなり宮本さんたちと仕事したってことですよね。

目黒
 この距離(隣の席くらいの距離)で宮本さんにドット絵とかデザインの質問してました。

中山
 うらやましいですよねえ。ここから目黒の超ラッキーな人生が始まったんです。その後、コロコロコミックでやりたいという話もありましたね。ドットくんっていうのが主人公で写真撮ってもろて。目黒、コロコロコミックに出てましたから。

ユースケ
 コロコロに出てんの!?
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ガタッ!
目黒
 いや、だまされたんですよ。

中山
 人聞き悪いなぁ(笑)。

目黒
 「『ピクロス』の取材があるから来てほしい」って言われて。知らずに東京にのこのこ付いていったら、いきなりいろんなポーズでパシャパシャ写真を撮られて。

中山
 記事の参考になるから見せたほうがいいんじゃないの?

目黒
 いやいやいや。

ユースケ
 僕、これまでにけっこうな人数を取材してますけど、「コロコロ出てんの!?」って叫んだの初めてですよ。

一同 (笑)

目黒
 当時、マンガの中でクリエイターとそのゲームの主人公がゲームを体験する企画があったんです。新作のゲームを紹介する感じで。“ゲームの鉄人”というタイトルでした。

中山
 それが20歳の出来事ですから幸せですよね。

目黒
 いまだによくわかってないんですけどね(笑)。ふつうはできない体験ができたのはおもしろかったなーとは思います。

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中山
 任天堂さんにはいろいろ挑戦させてもらいましたよ。ニンテンドウ64が出た頃にね、振動パックってありましたでしょ。それを見て、僕は開発の方に「これゲームボーイでできませんか?」って提案しに行ったんですよ。ゲームボーイでピンボールやったらおもしろそうやなと思って。

中山
 したら岡田部長が「ここ接点が危ないから揺らしたらあかんかもしれんよ」ってテスト機を作ってくれた。でも試したら大丈夫やったんですね。これはいけるなと。振動のレベルを変えても大丈夫やし。

中山
 ピンボールと親和性が高いものは何かなと、ふたつで悩んだんですよ。まず思いついたのが『メトロイド』。丸くなって進むでしょ。でも『ポケモン』もいいな。モンスターボールは転がしたり飛ばしても違和感ないなあ。どっちかやな。

中山
 『メトロイド』はアメリカですごい売れそう。でも、日本ではどっちか言うたら『ポケモン』かな、とね。

ユースケ
 『ポケモンピンボール』(1999年4月14日発売)ですか!? 『ポケモンピンボール』もジュピターさん開発だったのか……。

 最初にゲームボーイの『マリオのピクロス』がヒットしたとき、任天堂さんの反応はどうでしたか?

中山
 思ったよりも反応がよかったと思いますね。最初、問屋さんは「あんま売れへん」て言うてはったんですね。ちょっと受注が悪いなーと。でも実際に発売されたら意外と感触がよくて、主婦層や女性にもいいよねみたいなことで、潮目が変わったんです。

目黒
 デバッガー内で『マリオのピクロス』の評価がすごく高かったんですよ。完成したらデバッグは“マリオクラブ”という組織がやってるんですね。そのときレビューも書いてもらうんですけど、点数が異様に高かったんです。

ユースケ
 うわ、それ最高じゃないですか。
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