【Dの食卓】"飯野賢治の気になること。2025"リポート。幼少期の写真でも眼光キレキレ。飯野氏を深く知る人物たちが語り尽くす濃密な2時間45分

【Dの食卓】"飯野賢治の気になること。2025"リポート。幼少期の写真でも眼光キレキレ。飯野氏を深く知る人物たちが語り尽くす濃密な2時間45分
 2025年5月5日、ゲームクリエイター・故飯野賢治氏の生誕55周年を記念してトークイベント“飯野賢治の気になること。2025”が開催された。

 本インベントは飯野氏が生前、後述するヨシナガ氏と共同開催していたトークライブ
“飯野賢治とヨシナガの『気になること。』”の番外編。ファンから熱い支持を集めていたトークライブが14年ぶりに復活するとあって、今回のイベントも終始盛り上がりを見せるものとなっていた。そんな座談会の模様をリポート形式でお届けしていく。

 なおこちらのトークイベントは、プレミア配信チケットを購入することで5月19日まで視聴可能だ。

・視聴はこちら(ツイキャス)
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ゲスト陣がそれぞれの目線で飯野氏との想い出を振り返る2時間45分

 稀代のゲームクリエイターとして時代を駆け抜け、2013年に42歳という若さで他界した飯野賢治氏。『Dの食卓』、『エネミー・ゼロ』、『リアルサウンド ~風のリグレット~』といった名作を生み出したことは周知の通りだが、飯野氏は活動の場をゲームのみに留めず、さまざまなメディアを通じて自身の考えを発信してきた。

 そんな同氏が、2008年より計7回にも渡ってあるイベントを行ってきたことをご存知だろうか? それがトークイベント
“飯野賢治とヨシナガの『気になること。』”だ。

 これはLINEスタンプ
『ゆかいなエヅプトくんスタンプ』や著書『ハイブリッドワーカー』などを代表作に持つ、サラリーマンクリエイターのヨシナガ氏と飯野氏が共同で立ち上げたイベント。イベントが発表されてすぐにチケットが完売するほど、ファンのあいだで人気のある催しだった。
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 7回目を最後に同イベントは停止していたのだが、飯野氏の生誕55周年を迎える2025年に“番外編”と銘打っての復活が告知された。しかも開催日は飯野氏の誕生日でもある5月5日。
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 久々に開催されたトークイベントのテーマは、“私(出演者)だけが知っている飯野賢治の気になること。”。飯野氏の妻であり、飯野氏に代わってフロムイエロートゥオレンジ(fyto)で現代表取締役に就く飯野由香さんとヨシナガ氏が司会を務め、ゲスト陣と在りし日の飯野氏について語られた。

【登壇ゲスト】
  • 土屋敏男氏:日本テレビ『電波少年』シリーズ プロデューサー
  • 太田克史氏:星海社(講談社子会社)代表取締役 飯野賢治著書『ゲーム』の企画・編集担当
  • たっくす氏:NORWAYメンバー

赤ん坊の頃からすでに鋭い眼光!? 写真で振り返る飯野氏の人生

 イベントはゲスト陣それぞれが用意したトークテーマに沿って進行。トップバッターは由香氏。飯野氏の貴重なプライベート写真とともに同氏の人生を振り返るという、家族だからこそ可能なテーマと言える。

 飯野氏といえば、体格のよい身体や長髪といったイメージを持つ人も多いと思うが、やはり飯野氏も人の子。当然子ども時代もある。会場では本邦初公開となる赤ん坊から大人になるまでの軌跡がつぎつぎと公開されていった。
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飯野由香さん
 2~3歳のころからすでに体格がよく大人びた表情の写真を見せていたことから、新たな写真が映されるたびに「眼光が鋭い!」、「キレキレですね」というコメントがゲスト陣から飛び出す。もちろん子どもらしい屈託のない笑顔の写真もあり、子どもらしさと後の飯野氏らしさを併せ持った同氏らしい写真の数々に会場は和んでいった。
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中学生の時点ですでに父親の身長を抜いていた飯野氏。でかい!
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高校時代の写真。すでに皆が知っている飯野氏を感じさせるショットだ。
 続いて公開されたのは専門学校で講師をしているときの写真。ホワイトボードにも書いてあるが、すでにこのころには株式会社ワープが存在していることがわかる。
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 さらに由香さんとの交際から結婚初期の2ショット写真も公開され、会場からは拍手が巻き起こった。当時のエピソードとして、結婚式をするかどうかでかなり揉めたことも赤裸々に語られた。由香さんは結婚式を挙げたい、飯野氏は挙げたくないの一点張りで、平行線が続いていたのだという。しかし由香さんが長男を妊娠したことにより、生まれたら式を挙げるのも難しくなるという理由から、最終的には飯野氏が根負け。結婚式を挙げることになったとのこと。
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結婚式の余興の一幕。飯野氏がギター、由香さんがウクレレを弾くシーンもあったのだとか。しかしふたりとも仕事が忙しく、なかなか練習時間を作れないまま臨んだこともあり、演奏に関しては満足できるものにはならなかったそう。
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飯野氏から由香さんへの置き手紙も公開。飯野氏の家族への思いが伝わるメッセージとなっている。家族への手紙にすら自分のサインを入れており、この辺りは飯野氏らしい一面と言えそうだ。
 つぎに公開されたのは次男が生まれたときの1枚。「生命の誕生を絶対に見たい!」という考えのもと、飯野氏は長男にも出産に立ち会わせたいと強く希望。病院に相談をしたところ、先生から「素晴らしい!」と絶賛されたそうで、そこでもふたりは意気投合したのだとか。
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 トークは続けて、飯野氏が突然倒れて入院した際のエピソードへ。このとき飯野氏は一命を取り留めたもののICU(集中治療室)で治療を受けるなど、かなり危険な状況が続いていたという。

 その後、無事病室で目を覚ましたときに作られた曲が
『redcross』。この楽曲は救急車をイメージして制作され、タイトルの由来は入院した場所が日赤病院であったことに起因するという。なおジャケットの写真は病室の窓から撮った景色とのこと。『redcross』はアルバム『KENJI ENO 55』にも収録されている。
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 なお由香さん曰く、飯野氏がこの曲を作ったときの周囲の反応は「あれだけ心配させといて、よくもこんな曲を作ったな!」という冷ややか、かつ怒り混じりのものだったそうで、これには会場も笑いに包まれていた。
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アルバム『KENJI ENO 55』のジャケット 初期イラストも公開された。ロスト・イン・カルト・レコーズからレコード販売を行う今回のアルバム。当初は飯野氏の顔をたくさん配置したデザインだったらしいのだが、最終的にはこのデザインに着地。配信以外にも7枚組のレコード盤もリリースされる。

土屋氏曰く、飯野氏は「恐ろしくピュア」

 続いては土屋氏が飯野氏とのエピソードを語った。土屋氏と言えば人気番組『電波少年』のプロデューサーを務めた人物。飯野氏は『電波少年』の大ファンで土屋氏のことも“天才”と評してリスペクトしていたのだとか。

 そんな中、土屋氏と飯野氏は共通の友人を介して2010年ごろ出会うことに。当時土屋氏は匿名でTwitterをやっていたものの、それが飯野氏に見つかり拡散されてしまったことをきっかけにフォロワーが数十人から一気に1万人を超えたと、笑顔で当時の出会いを語ってくれた。
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土屋敏男氏(写真中央)
 また土屋氏によると、飯野氏はお笑い芸人の松本人志さんが好きだったそうで、当時『人志とたけし』という松本さんとビートたけしさんが共演する番組のスタジオ収録に飯野さんを招いたこともあったそうだ。ただそのときはスケジュール的に厳しかったそうで、飯野氏はとても悔しそうにしていたとのこと。

 しかし収録当日、飯野氏はスケジュールをなんとか調整してスタジオに駆けつけたという。「松本さんとたけしさんが共演する瞬間を絶対に見逃したくない」という強い思いが飯野氏にはあったそうだ。そんな飯野氏について土屋氏は「おもしろいことが大好き」、「恐ろしくピュア」とコメントしていた。

飯野氏はインタビューの在りかたを変えた?

 続く話者は飯野氏の著書『ゲーム』を手掛けた太田克史氏。まず太田氏は飯野氏について「90年代当時、同氏のインタビューはほかのクリエイターとは何もかもが違いました」と話す。

 当時はゲームクリエイターがメディアに出ることが自体が珍しく、メディアに出ても話すことは開発中のゲームについてがほとんど。しかし飯野氏はメディアに積極的に出演し、まだ構想段階のゲームについて惜しげもなく披露したり、自身が影響を受けた音楽や本について話すなど、型にはまらずパーソナルな部分も語るエンターテイナーだったと振り返っていた。

 いまでこそ個人に焦点を当てたゲームクリエイターのインタビューも少なくはないが、最初にそれをやったのは間違いなく飯野氏だと、太田氏は力強く語る。

 太田氏は最初、飯野氏に少し怖い印象を持っていたが、ウクレレを弾きながらインタビューを受けるなど、その型破りなスタイルに驚き、徐々に怖いイメージは薄れていったそうだ。
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太田克史氏
 また飯野氏に原稿の執筆を依頼した際、飯野氏は高級ホテルとして知られるパークハイアットで缶詰状態に。太田氏が進捗を聞きに行くと、原稿に関する話ではなく、これからの出版業について飯野氏が語り始めるというなんとも飯野氏らしい展開になったそう。しかし話していることやアドバイスなどはいつも的確で、太田氏も飯野氏の言葉にはかなり影響を受けたという。

 ちなみに著書
『ゲーム』に関しては飯野氏が語ったことを太田氏が書き起こして制作しているとのことで、矢沢永吉さんの『成りあがり』をイメージしている部分もあるのだそうだ。『ゲーム』では「これ書いても大丈夫?」と思うようなギリギリな内容も記しており、由香さんはそれを心配していたという。そのことについて太田氏は「あまり考えていなかった」とコメント。飯野氏からのNGもほぼなく、書き起こした内容をそのまま本にしているため、いま読んでもおもしろい内容になっていると語っていた。

 また太田氏によれば、飯野氏には長編小説の執筆も依頼していたという。飯野氏が他界してしまったため完成には至らなかったが、冒頭部分を読むと非常におもしろいものになっていたそうだ。そう語りながらも「形になっていれば……」と太田氏は悔しさをにじませていた。加えて、自分がもっと飯野氏のスポークスマンとして同氏の存在を広めたかったとも話していた。

出会いのきっかけはYMOのカヴァー。たっくすさんが語る飯野氏

 続いてはたっくすさんが飯野氏との思い出を振り返った。飯野氏がYMOから多大な影響を受けていることはファンなら周知の事実だと思うが、たっくすさんも同じくYMOを心から愛している人物のひとり。

 たっくすさんは自身が手掛けたYMOのカヴァー曲をネットにアップするという活動を個人で行っていた。ただネットでの辛辣な意見を避けるため、たっくすさんは自身をノルウェー人だと称して活動を継続。そんな折、飯野氏がたっくすさんのYMOカヴァーを発見してノルウェー語でコンタクトを取ってきたのが、最初の接点になっているという。

 しかしたっくすさんはノルウェー人ではないし、当然ノルウェー語も分からない。最初は飯野氏のメッセージを無視していたそうなのだが、その後、飯野氏から何回かのメッセージが届き、ついに無視できなくなり、自分が日本人であることを白状。

 すると飯野氏は冗談まじりに「坂本(龍一)さんにノルウェー人がYMOカヴァーやってるって言った俺の信用をどうしてくれるんだ!」と言われたという。
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たっくすさん
 徐々に飯野氏と仲良くなっていくたっくすさんは、飯野氏と音楽をやりたいとアピール。飯野氏が多忙だったため、なかなか実現しなかったらしいのだが、後にFIELD OF VIEWの浅岡雄也さんが参加したことで音楽活動が動き出す。3人での活動を経て、その後のNORWAYへと繋がっていくことになる。

 由香さんによると、NORWAY結成当時、飯野氏は仕事がうまくいってなかったらしく、かなり落ち込んでいたという。そんな飯野氏にとってNORWAYでの活動は非常に楽しいものだったそうだ。それを横で見ていた由香さんだからこそ、飯野氏の最後の彩りとも言えるNORWAYの楽曲を、アルバム
『KENJI ENO 55』には絶対入れたいと思ったのだと語ってくれた。

 ただNORWAYは飯野氏がプライベートでやっていたバンドのため、配信したりアルバムに収録したりすることに躊躇いもあったという。そこでNORWAYのメンバーに相談したところ、「もちろんいいよ! ありがとう!」と快諾。晴れてアルバムに収録されることとなった。
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トークイベントではNORWAYのメンバーでもあったHISASHI(GLAY)さんからのビデオメッセージも公開された。飯野氏との出会いや思い出を語りつつ、NORWAYについては、高尾山でレコーディングしたことや、Ustreamでレコーディングを配信したこと、GLAYでは出せないニュアンスを出すことができたことなどを話してくれた
 ここで、イベントの10日前に制作が決まったというNORWAYの新曲『Forbidden Colours』が会場でお披露目された。もともとは映画『戦場のメリークリスマス』のメインテーマ『MERRY CHRISTMAS MR. LAWRENCE』をデヴィッド・シルヴィアン氏が歌ったもので、これをNORWAYがカヴァーした楽曲となる。なお、本楽曲は現在YouTubeで配信されている。
 最後にたっくす氏は、飯野氏が生前構想していたプロジェクト“ILCA(イルカ)の学校”に関してコメント。たっくす氏は飯野氏が持つ“若手や子どもたちにクリエイティブの素晴らしさを伝えたい”というビジョンに強く共感。その遺志を継ぐべく、現在は自分なりに飯野氏の想いを解釈して活動を続けているとのこと。こうした姿勢を受け、ゲスト陣からは「そういう意味では、もっとも飯野氏の思いを継いでいる」というコメントがなされていた。

飯野氏とヨシナガ氏の出会いは特徴的なワードセンスがきっかけ?

 最後はヨシナガ氏が飯野氏との思い出を語った。当時まだ学生だったヨシナガ氏はブログをやっており、その中の特徴的な表現として“興奮”を“KO・U・HU・N☆”と表記していたとのこと。

 そんな中、飯野氏のブログに同じ表記で“KO・U・HU・N☆”というワードが出てきたという。これを見たヨシナガ氏はピンと来て、自身のブログを見た飯野氏による、メディアを使った間接的なメッセージだと感じたそうだ。

 そういった縁もあり飯野氏とヨシナガ氏はメールでやり取りをするように。その後、ヨシナガ氏は自身が出演しているトークライブに飯野氏を誘ったところ、飯野氏はこれを快諾。初めて対面することになり、そこから交流は密なものになっていった。そうして誕生したのが、2008年に第1回目を迎えるトークイベント
“飯野賢治とヨシナガの『気になること。』”だ。
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ヨシナガ氏
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“気になること”の“気”の字が飯野氏の“E”とヨシナガ氏の“Y”を示しているのもおもしろい仕掛け。
 トークでは想い出として、飯野氏が考えた架空の料理“バリルンご飯”というものについても語られた。

 読んで字のごとく実際には存在しない料理で「Twitterのトレンドに入れられないか」という目論見のもと作られたワードになる。この目論見を達成すべく、当時トークイベントの会場に来ていた150名が“バリルンご飯”を流行らせるようTwitterに投稿をしていたところ、噂が噂を呼び、ついには「バリルンご飯が美味しいと聞いたのですが」と質問してくる人まで現れる自体になったそうだ。ヨシナガ氏はこうしたアクションを見て「凄いことを考えるな」と感心したと振り返っていた。

 こうして好評のまま続いてきた
“飯野賢治とヨシナガの『気になること。』”だが、あるとき突如として終幕を迎える。というのも、このトークイベントは「満員じゃなくなったら終了する」という飯野氏の要望を前提に進められていたためである。あるときわずかに参加人数が足りなくなり、宣言通りこれをきっかけに閉幕したという形だ。同イベントをビジネスではなく、「楽しいこと」として考えている飯野氏だからこその考えがあったのかもしれない。
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イベント終盤では質問コーナーも実施。「飯野氏が好きな旅行先は?」、「飯野さんのファンションのこだわりは?」などプライベートに関する質問が飛び出していた。さらにクイズコーナーでは「飯野氏の最期の言葉は?」というなんとも規格外の内容も。
 イベントのラストでは、ゲスト陣がひとりずつ飯野氏についてコメント。由香さんは感極まった様子で、ゲストや来場者に感謝の言葉を送りつつ、亡くなった飯野氏への想いを語った。会場からもすすり泣く声が聞こえ、飯野氏がいまでも多くの人に愛されていることが伝わる一幕だった。そして最後は会場全員の拍手に包まれながらイベントは終了となった。
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