
大橋編集長“勇退”の報に全国から読者が駆けつける
“ベーマガ”とは、1982年創刊のホビーパソコン&ゲーム情報誌『月刊マイコン BASIC マガジン』(電波新聞社)の愛称だ。読者からの投稿プログラム(パソコンに打ち込むとゲームが動く、BASIC言語などで書かれたコード)と、アーケードや家庭用も扱うゲーム記事を二枚看板に、一時は28万部の発行部数を誇ったが、2003年に惜しまれつつ休刊となった。
本記事でリポートするのは、当時のベーマガ編集部での思い出や裏話が披露されるトークイベント“ALL ABOUT マイコン BASIC マガジン III”の模様。2024年5月18日、大田区民ホール・アプリコ(東京)で開催され、約1300人もの読者が、御年75歳で電波新聞社を“勇退”することになった初代編集長・大橋太郎氏をはじめとする個性派スタッフたちと、同窓会のようなひとときを共有した。
新製品はPC-8801mkIISR!? 3つのサプライズ発表
特報(1)手のひらサイズの”パソコンミニ PC-8801 mkIISR”発売決定
”PasocomMini(パソコンミニ)”は、昭和のパソコンを1/4のサイズで再現するプロジェクト。これまでにシャープMZ-80CとNECのPC-8001が、ハル研究所によって製品化された。いずれも単なるミニチュアではなく、シングルボードコンピュータが搭載され、BASICでプログラムを組んだり、昔のゲームを動かしたりと、実際に使うことができる。
その新製品として8ビットホビー機の代名詞、NECのPC-8801mkIISRが再現され、電波新聞社から発売されるとの発表が! 企画した三津原敏氏は、ハル研究所の代表取締役社長時代、プロジェクトの中心的人物のひとりだった。三津原氏の退職に伴い、「アツい思いを持った企業があれば、プロジェクトを引き継いでもらいたい」とのハル研究所の意向に、電波新聞社マイコンソフト事業部が手を挙げたという。
詳細は2024年8月8日に発表とのこと。PC-8801mkIISRと言えば、豊富なゲームラインアップが魅力だった。これまでのパソコンミニにはゲームソフトが同梱されていたが、今回は!? ちなみに三津原氏は、かつてベーマガにプログラムを投稿していた元・読者で、この場にふさわしい人物からのサプライズとなった。
ベーマガは別冊もいろいろと出していて、とくに有名なのがナムコのアーケードゲームを網羅する『ALL ABOUT namco ナムコゲームのすべて』と、パソコンゲームを攻略する“チャレアベ”こと『チャレンジ! AVG&RPG』だ。どちらもシリーズ化され、何度も再版されてきた。2020年に前者が復刻されたことから、チャレアベ再刊を期待した読者も多いはず。
チャレアベの著者は、今回のイベントで司会を務める山下章氏。本人から復刻が告げられると、会場内にどよめきが起こった。現時点では詳細は不明だが、唯一の確実な情報として「オリジナルと同じ、大きなB5判で復刻される」と山下氏。これまで再刊されたバージョンはA5判と小さく、元の判型での復刻が待望されていたのだ。
当時、ゲームの謎を解けない読者はもちろん、パソコンを持っていない少年少女の好奇心も満たし、大人気だった“チャレアベ”。現在では収録作品の資料としての価値も高い。続報が楽しみだ。
3つ目の発表は、1983年にベーマガでデビューして以来、40年以上ゲームメディアで活動してきた、山下氏の新しい取り組みについて。このたび「やり残したこと」を形にしようと、『クラシックゲーム ワールドミュージアム』をWeb上にオープンさせたとの告知があった。
ミュージアムで扱うのは、まだゲーム雑誌がなかった時代に発売され、あまり情報が残されていないゲーム機たち。アメリカで世界初の家庭用ゲーム機オデッセイが発売された1972年から80年代前半くらいまでのゲーム機が想定されている。山下氏が長い時間をかけて集めてきた貴重なコレクションの数々を、自身で紹介する形だ。
コンピュータゲーム史において重要であるにも関わらず、これまでほとんど扱われてこなかった……と言うか、扱える人がいなかった部分が、これで可視化される。現在公開されている範囲だけでも、初めて見聞きする情報ばかりだ。山下氏と言えば、ゲームライターという仕事が存在しなかった時代に、その道を切り拓いた“第一世代”のひとり。そんなパイオニア精神の健在ぶりに、刺激された元ゲーム少年も多いのでは。
『アフターバーナー』のはずが『ボスコニアン』!? 人気ゲーム移植秘話
第1部は“実録マイコンソフト”と題し、かつてソフト開発に携わっていたクリエイターが登壇した。マイコンソフトは、ベーマガや『月刊マイコン』編集部などのあった、電波新聞社出版部のソフトウェアブランドとしてスタート。ベーマガの大橋編集長は、当時マイコンソフトウェア開発室の責任者でもあった。
ベーマガ世代にはアーケードの移植版のイメージが強いが、これは当時の社長がナムコからライセンスを取ってきたことに始まる。同ブランドを飛躍させた『ゼビウス』の移植について、第1弾のPC-6001版『タイニーゼビウス』(1984年発売)を手がけた松島徹氏が当時中学生であったこと、開発中のX1版を原作のゲームデザイナーであるナムコの遠藤雅伸氏に見せたら「ゴミですね」と言われて修正したことなど、伝説となっている逸話の数々が、X1版を担当した“なにわ”こと藤岡忠氏ら当事者たちから語られた。
話題は、移植レベルの高さが注目されたX68000(1987年発売)用のソフトへ。『スペースハリアー』『源平討魔伝』『ドラゴンスピリット』と、ゲームセンターで稼働中の人気タイトルの移植が続くなか、しれっと発売されたのが『ボスコニアン』(1981年のナムコのゲーム)だった。すでに相当なレトロ感が漂っていただけでなく、稼働当時もそこまでヒットしなかった『ボスコニアン』がなぜ、このタイミングで!? 違和感を覚えた人も多いはずだが、じつは本来は『アフターバーナー(II)』発売の順番だったそう!
土田康司氏(X68000版『ファンタジーゾーン』ディレクター)の回想によると、『アフターバーナー』制作中の松島氏が、その進捗報告として見せたのが『ボスコニアン』だったのだとか。諸般の事情から『アフターバーナー』が手に付かなくなってしまったため、合間に作っていた『ボスコニアン』を持参したのだが、『アフターバーナー』だとばかり思っていた藤岡氏はすっかり落胆。「膝から崩れ落ちてガッカリするひとを見たのは、あれが最初で最後(笑)」とは土田氏だ。
松島氏の『ボスコニアン』は原作に忠実な移植だったので、さすがにそのままでは……とグラフィックをパワーアップさせ、ベーマガ出身のゲーム音楽家・永田英哉氏(Yu-You)と古代祐三氏(YK-2)がオリジナル曲も付けて世に出ることになった。永田氏は、“LITTLE WAVE”という曲について、1988年当時大流行していたシューティングにインスパイアされ、そのゲームにちなんで名付けたことを明かし、「魔が差した(笑)」と表現。また、古代氏は“BLAST POWER”という曲について「FM音源でスラップベースを鳴らしたくて作った曲だけど、そこには確実に細江慎治さんや中潟憲雄さん(※)の影響がある」と語っていた。(※いずれもナムコ出身の作曲家)
なお、X68000版『アフターバーナー』は、『ボスコニアン』発売の翌年1989年に無事発売されている。
ふたりの投稿プログラマーが移植テクニックを披露
森巧尚氏は、1984年2月号掲載のPC-8001用ゲームプログラム『BREAK FAST』と、その後発売されたベーマガ別冊『森巧尚のBASIC MAGIC』収録のMSX版とを比較。移植にあたり、PC-8001では文字列で描いていたキャラクターを、MSXならではのスプライト機能を使って表現したことを解説した。ちなみに、同書は森氏にとって初めての著書だったそう。これまでに約50冊を手がけ、最新作はChatGPTプログラミングについての解説書とのこと!
そうそう、なぜ“移植”が連載のキーワードになっていたのか。これは、他機種用として掲載されたプログラムを、自分の持っているパソコンに打ち込んで遊ぶ読者が想定され、実在もしたからだ。一方で、“Bug太郎”のペンネームで常連となっていた谷裕紀彦氏にとっての“移植”は、人気アーケードゲームをオマージュするといった意味合いで、『DRAGON 'N' SPIRIT』(1987年10月号掲載)や、ステージで紹介された『GIVERS』(1989年3月号掲載)といったプログラムを生み出した。
谷氏はこの日のために新しくプログラミングした『GIVERS2』も実演。当時表現できなかったという、レーザーをオプションに追従させる動きを現役ゲームプログラマーの技術力で実現し、客席を喜ばせた。
元祖『ゼビウス』1000万点プレイヤーが全16エリアに挑戦
大堀氏とベーマガの出会いは、第1部で触れたマイコンソフトの『ゼビウス』移植計画に端を発する。移植しようにも『ゼビウス』をクリアーできる人材が周囲にいなかったことから、大橋編集長が遠藤雅伸氏に相談すると、同人誌『ゼビウス1000万点への解法』の著者である大堀氏の存在を知らされた。そこで、大堀氏が通う高校の最寄り駅で待ち伏せし、スカウトにこぎつけたということだ。大堀氏は移植への協力だけでなく、ゲームの攻略記事も担当することに。創刊以来、プログラムを中心に扱ってきたベーマガが、これ以降、ゲーム紹介にも力を入れるようになっていった。
さて、大堀氏が全16エリアの通しプレイを公開するのは、じつは今回が初めてなのだとか。1000万点に初到達してから40年以上が経ち、しかも当時のテーブル筐体とは異なるプレイ環境で、画面全体が見渡しにくいという不安も抱えていたというが、終盤に残機を5機まで減らしながらも、ブラグザカートの猛攻を華麗に避け、結果的には約20分で見事全16エリアを制覇!! 「もうちょっとカッコいいところを見せたかった(笑)。リハーサルではもっと先までノーミスで行けた」と照れ笑いする大堀氏に、会場から大きな拍手が送られた。
プレイ中は、大堀氏に続いてベーマガデビューした“ゲームライター第一世代”3名が解説を行った。やはり1000万点プレイヤーである“響あきら”こと池田雅行氏による、隠れキャラの位置やエリアの境界を正確に把握した実況はさすがのひとこと。また、“見城こうじ”こと鈴木宏治氏が『ゼビウス』に仕込まれた隠しメッセージなどの小ネタを披露したり、手塚一郎氏が『ゼビウス』がその後のゲームに与えた影響を考察したりと、目も耳も楽しい20分間だった。
会場展示や物販ブースにも絶えず人だかりが
中でも、第2部に登場した手塚氏の著書・別冊『ファンタジー通信』、見城氏の著書・別冊『アーケードゲームグラフィティ』の資料には、「?」と首を捻った人も多かったのでは。というのも、執筆途中でお蔵入りとなり、実際には店頭並ぶことのなかった書籍なのだ。第3部では、このほかに“TOMMY”ことベニー松山氏の著書『ALL ABOUT コナミMSXゲーム』も発売にいたらなかったことが明かされた。
物販ブースにも長蛇の列ができていた。ベーマガのマスコット的存在“つぐ美ちゃん”をはじめ、4種のラベルと味わいが楽しめる日本酒『英勲』と、電波新聞社とカレー専門メーカーが共同開発した『スパイスBASICカレー』がとくに人気だったとのこと。ほか、ゲーム文化保存研究所、Sweep Record、レトロPC・ゲーム専門店BEEPも出店、オニオンソフトウェアの同人ソフト解説本の販売もあり、閉会後まで賑わっていた。
つぐ美ちゃんの制服姿も飛び出した! 編集部思い出トーク
ステージでは、ベーマガの各コーナーに関わったクリエイターたちが入れ替わり立ち替わり登壇し、4人の編集者との思い出話に花を咲かせた。大ボリュームにつき、ここまで登場していない出演者を中心に、トピックをかいつまんでご紹介。
●投稿プログラム苦労話
投稿プログラムについては、前回のイベントでも苦労話が尽きなかったが(前回リポートを参照)、今回はポケコン用プログラム選考担当の中村伸彦(PANDA)氏が、「ポケコンは投稿数が少ないので、当落線上にあってその月に採用しなかったものも、投稿が来ない事態に備えてとっておいた」と打ち明けた。中村氏は、やはり投稿プログラムを選出していた断空我氏、くり氏と同じ大学に通っていたとのこと。
●くりひろし氏の描く“つぐ美ちゃん”
解説マンガ『Dr.Dと影のパソコンレクチャー』の連載で、4人の編集者を出演させていたくり氏だが、南雲氏は「つぐ美ちゃんは基本“キャラ”なので、かわいいお洋服をいろいろ着せてもらっていたけど、私が実際に着ていたのは電波新聞社の女子社員の制服で、正直、カッコよくなかった(笑)」と告白。「でも、制服姿を描いていただくことがあって、あのダサい夏服をこんなにかわいく描いてくれるなんて、嬉しかった」とはにかんだ。
●表紙イラストの驚愕エピソード
イラスト担当の斉藤久典氏は、高校卒業前後に編集部へ遊びに行ったところ、「明日から来れる?」と言われてベーマガへ。1988年1月号の表紙を電波新聞社の富士通FM77AVで1週間ほどかけて描いていたが、完成しないまま本社ビルが年末年始で閉鎖されてしまったとか。
そこで、大橋編集長に相談したところ、「家の近くにマイコンショップってある?“77”って置いてある? 僕の名刺を渡して描かせてもらって」というまさかの返答が(笑)。実際に交渉し、営業中のショップでお客さんがいるなか、首を横にしてモニターを見つつ、縦長の表紙を描き上げたそうだ。
大堀氏がシステムを考案した、全国のゲームセンターからハイスコアを集計する『チャレンジ・ハイスコア』の歴代担当者が集合。見城氏から担当を引き継いだ山下信行氏(やんま)は、当時プレイシティ・キャロット新宿店の常連で、高田馬場や早稲田も含む副都心エリアのハイスコアラーと交流があったそう。真摯にゲームと向き合う彼らを間近で見ていたため「もっと讃えてあげたい」という思いで、各タイトルのスコアを大きく扱うようになったという。
また、やんま氏の後継者となった宮崎良太氏の時代は対戦格闘ブームで、「キャラ別集計になって、全国一を取れる方が増え、喜ばれた」そうだ。
どうしても1980年代のイメージが強いベーマガだが、2003年まで刊行されていた。その最後の4年間にライターとして活躍したまかべひろし氏は、「僕が書いていたのは、“編さん”が編集長の時代。ゲーム色を抑えて、プログラムや学校訪問など教育の面に力を入れていた」と証言。プログラム講座でC言語を使っていたところ、編さんから「これBASICにならない?」と言われたそうだ(笑)。
イベント当日、公式フォトグラファーを務めていた倉元一浩氏は、高校生のときに初めて編集部に遊びに行った際、廊下をスケボーで走り回っているひと、ヌンチャクを振り回している人がいるのを見て「スゴいところに来てしまった」と思ったんだとか。そのスケボーやヌンチャクのひとが南泰人氏で、彼の素行不良(!?)のために編集部の“マイコンルーム(※)”が地下に移されてしまったらしい。ところで、当時はプリントした写真を切り貼りしてゲームのマップを作っていたのだが、影さんはその完成度に並々ならぬこだわりがあったと、南氏が回想していた。(※現行パソコン全機種などが置かれた部屋)
ベーマガには、ペンタンから発売されたゲームグッズの広告も載っていて、楽しみにしていたひとも多いはず。当時、モデルとして『ドルアーガの塔』のトレーナーを着ていた小学生のサプライズ登場もあった。じつは、プログラムが動かないので見てもらうために編集部を訪問したところ、大橋編集長からモデルに指名され、けっきょくプログラムはそのままになってしまったらしい(笑)。
大橋編集長への感謝の大合唱!
大橋編集長は「勇退ならぬ“遊態”で、日本の科学電子立国再生に動きたい。ここに集まったみんなで、今日の熱気をつぎの世代に伝え、育てよう」と応え、未来への「花の種を蒔いて」(山下章氏)イベントを締めくくった。