本書では、昨今盛り上がりを見せるエンタメ業界のなかでも、とくにおもちゃやゲーム、出版などの周辺に目を向け、その発展に寄与してきた時と地、人物を描いています。そのなかから“第6章 業界変化の引き金となった『ファミコン』”より、一部を抜粋してお届けします。
業界変化の引き金となった『ファミコン』
ここから先の任天堂の行き方は、これまで記してきたバンダイ、タカラ、トミーなどのそれらとほとんど交差しない、実にユニークな足跡をたどる。新しく子会社が手掛けた事業は、インスタントライスの製造販売やタクシー会社の経営といったもので、これまでの伝統はどこへやら、やがて娯楽に焦点を絞り、『ウルトラハンド』(スルスルと伸びて物をつかめる)や『ラブテスター』(愛情度を測るおもちゃ)、『光線銃SP』などを展開した。1973年には業務用レジャー・システム“レーザークレー射撃システム”を開発し、ブームが去ったボウリング場の跡地を再利用した射撃場経営が子会社の事業にあった。
当初はどこも繁盛したらしいが、オイルショックのせいで、ボウリングブーム同様にあえなく潰えた。多額の投資により任天堂は倒産の窮地に陥った。
窮迫した山内溥に新しいビジネスのヒントを与えたのは、幼なじみとの会食での会話だったと、『ゲーム・オーバー 任天堂帝国を築いた男たち』(デイヴィット・シェフ 著、角川書店)に記されている。
1975年のある夜、家電メーカーの役員をしていた幼なじみと食事をしていた。
「半導体とマイクロプロセッサーがオフィスや家電製品に革命的な変化をもたらし、いまや値段も娯楽製品に利用できるほど安くなりつつある…アタリとかマグナボックスといった会社が家庭のテレビを使ってゲームができる装置を売り出している」
幼なじみの話から、山内溥はすでに取引のあったマグナボックスと交渉して、同社のビデオゲームシステムを日本で製造販売するライセンスを取得したが、日本では販売されなかった。任天堂はマグナボックスの『オデッセイ』に、シューティングゲームが遊べる別売りの『光線銃SP』を供与する関係にあった。
この件とは別に任天堂は三菱電機と組んで1977年に『カラーテレビゲーム6』と『カラーテレビゲーム15』を発売した。これがヒットして、任天堂は一息つく。さらにその先に『ゲーム&ウオッチ』(1980年)の一大ブームがあって、『ファミコン』開発の資金的猶予を得ることになった。
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アタリの失敗の影響
この時点でのアタリの成長はすさまじく、『VCS』用のカートリッジでは『スペースインベーダー』に続き、『アステロイド』『パックマン』などが次々にヒットし、売上は1979年から1982年にかけて毎年ほぼ倍増の成長を示した。1982年の家庭用TVゲーム機の75%を『VCS』が占め、累計で1100万台が出荷されたと『「アタリ社の失敗」を読む 先端“遊び”ビジネスの旗手』にある。
まだ29歳だったぼくは、カメラをぶら下げて会場とプレスルームを往復し、目いっぱい取材をし(というかゲームを遊び)、写真を撮り、大量のレポートを書いた記憶がある。初めてのCES会場は広大できらびやかで圧倒された。
続く1983年1月のラスベガスのCESは状況が一変していた。『VCS』に加え、1979年にマテルがリリースした『インテレビジョン』や、1982年にコレコがリリースした『コレコビジョン』といった次世代のカートリッジ式家庭用ゲーム機が、展示会では新しいソフトとともににぎにぎしくアピールされていた。
アタリも高性能の『アタリ5200』を市場に投入して(これに合わせて『VCS』は『アタリ2600』と名前を変えた)CESに展示したが、『アタリ2600』とのソフトの互換性がないため、他機との優位性はアピールできなかった。
アタリのブースで覚えているのは、『アタリ2600』で遊べる『E .T . ジ・エクストラ・テレストリアル(E.T. TheExtra-Terrestrial)』。言わずと知れたスティーヴン・スピルバーグ監督の映画『E.T.』のゲーム化だ。映画は1982年の6月に全米で公開(日本は同年12月)され、7月には親会社のワーナーの号令でゲーム化の権利を取得し、その年末には400万本を出荷した。
このゲームの実質的な開発期間は5週間だったとされ、膨大に売れ残ったゲームカートリッジが土地の埋め立てに使われたという伝説の●●ゲーだ。
ぼくはアタリブースの試遊機で遊んだのだと思うが、ぼてっとして動きの乏しいE.T.が、なんの目的で動いているのか見ただけではわからず、何をするゲームなのか把握できなかった。
コレコのブースでは、『コレコビジョン』の横スクロールゲーム『スマーフ』などの新作が軽快に動いていたし、マテルのブースでは『インテレビジョン』で遊べる『D&D』のTVゲームなどに新鮮味を感じた。しかし、アタリブースは明らかに新鮮味に欠けていた。
さらに目立ったのは、いわゆるサードパーティの存在だった。『アタリ2600』に向けて、アクティビジョンのような大手のソフトハウスだけではなく、インディー系のソフトハウスがかなり出展していた。サードパーティの嚆矢(こうし)はアクティビジョンで、1979年にアタリを辞めたメンバーが創業し、『KABOOM!』(1981年)や『PITFALL!』(1982年)などのゲームを開発して大きな成功を収めた。
しかし、アタリの許可なくソフトを発売していたため、アタリはアクティビジョンに対して訴訟を起こしたが、1982年にはロイヤリティの支払いを条件に許諾するということで和解した。アタリは労せずしてロイヤリティが入ってくる仕組みを作ったことになる。
以降、アタリを辞めた者たちや既存のエンタメ業界(映画や音楽)の新規参入者が、サードパーティとしてゲームを制作するようになった。アタリはなんの審査もせずに無制限で許諾し、その結果●●ゲーがあふれ返った。
CESの会場は広大で、そのなかにはアダルト系のビデオやゲームを展示するスペースがあって、ぼくは取材だから(仕方なく)そのあたりも見て回ったが、とあるブースで『アタリ2600』向けの『パックマン』のパクリゲームを見たときは目を覆いたくなった。迷路のなか、女性を思わせるアイコンが逃げ惑う。それを男性を思わせるアイコンが追いかけ、その男性のアイコンをハサミが追いかけるという、なんともおぞましい代物だった。
『パックマン』といえば、アタリがナムコから許諾を受けて発売した『アタリ2600』向けのものが、前年の春にリリースされていた(この年の展示会に出ていたかどうかは記憶にない)。YouTubeで検索するとそれを見ることができるが、『パックマン』のいいところが1つも生かされていないひどい移植だ。
これについて『「アタリ社の失敗」を読む 先端“遊び”ビジネスの旗手』は、『スペースインベーダー』『アステロイド』と並べてヒット・カートリッジと紹介している。そう、よく売れたのだ。
「あのアーケードのヒットゲームが家庭で遊べる!」と期待したユーザーがこぞって買った。いま思うと、期待に胸をふくらませてカートリッジを差し込み、電源を入れたユーザーの怒り顔(それとも泣き顔?)が目に浮かぶ。
1982年の12月7日まで証券アナリストは、アタリの親会社であるワーナーの今年度売上は前年度の50%アップ、というワーナー側の発表を真に受けていた。ところが、その翌日にワーナーは、アタリの売上下降を理由にワーナーの第4四半期(1982年の10月~12月)の利益は発表数字の10%、せいぜい15%と公表してアナリストを激怒させ、ワーナーの株価は暴落した。これに競合他社までもが巻き込まれる。諸説あるが、これがいわゆる“アタリショック”の発端だ。
かくして1982年のクリスマスのTVゲーム機商戦は惨憺(さんたん)たるものとなった。『「アタリ社の失敗」を読む 先端“遊び”ビジネスの旗手』がダイヤモンド社から翻訳出版されたのは、ワーナーがアタリを持ち切れず、ほかに売却する翌年の1985年6月だったから、ビジネス界でも話題となった。アタリは登場も退場も派手なうえ、主役のブッシュネルの胡散臭いところが面白かった。
アタリの失敗があまりに劇的だったせいか、アメリカのゲーム市場はパソコンが主戦場となった。『AppleII』向けにブローダーバンドやアクティビジョン、エレクトロニック・アーツなどが、その波に乗った。ちょうどこのころ『AppleII』で遊べたサーテックソフトウェアインクの『ウィザードリィ』、オリジン・システムズの『ウルティマ』、そしてテーブルトークRPGの『ダンジョンズ&ドラゴンズ』などが日本にも上陸し、RPGブームをけん引した。
周到に用意された『ファミコン』の発売
思えばこのときが、おもちゃ業界が“ヒット商品”にこぞって群がり消耗戦を演じた最後のときではなかろうか。激しい競争ができたのは、同一領域・同一商品の競争が、2番手、3番手であっても、そこそこ商売ができた時代だったからではないか。
そして、その年の7月15日に任天堂が『ファミリーコンピュータ(ファミコン)』を発売し、TVゲーム市場における日本のおもちゃメーカー同士の激しい市場争奪戦は収束した。
1981年に登場して一時市場をリードしたエポック社の『カセットビジョン』も、1982年7月にバンダイが輸入販売したマテルの『インテレビジョン』も、8月にトミーが発売した『ぴゅう太』も、11月にタカラが発売した『ゲームパソコンM5』も、翌年7月にバンダイが発売したパソコン『RX-78 GUNDAM』も『光速船』も、すべて任天堂に市場を譲ることになった。
バンダイの創業者・山科直治が1981年に日本玩具協会、見本市協会の会長になって、日本玩具国際見本市(現・東京おもちゃショー)の一般公開に踏み切ったとき、任天堂が出展するかどうかが1つの焦点だったが、結局それはなかった。その後『ファミコン』が一世を風靡(ふうび)すると、任天堂の問屋組織だった初心会の仕切りで、任天堂スペースワールドという展示会を独自に開催するようになった。僕の記憶では、山内溥はおもちゃ業界とは一定の距離を置いていた。
『新・電子立国 第4巻 ビデオゲーム・巨富の攻防』には、珍しく山内溥がおもちゃを引き合いに出して語る様子が描かれている。
「玩具というのは本来アイデア商品なんです。ですから、飽きられたらおしまい。今年は売れたけれども翌年は駄目になる、ということなんかザラでして、商品寿命が短く浮き沈みの多い業界なんです。ですから、玩具メーカーは世界中にたくさんありますけれども、どこも中小企業ばかりで大きくなれないんです。アメリカの大きな玩具会社だって年商2000億円までぐらいですからね。…ところが昭和50年代初めに“マイコン革命”が起きました。マイクロコンピューターが非常に安くなり、いろんな産業で使われるようになったのを見て、玩具産業でもおもちゃにマイコンを使うようになったんです。このとき初めて、ハードがあってたくさんのソフトがあるという道が開けてきたんですよ」
この発言から類推するに、タカラの創業者・佐藤安太がおもちゃのヒット地獄から“定番”への道を見つけたように、山内溥も“ハードとソフト”という関係のなかに任天堂の未来のビジネスモデルを発見したのだろう。花札、トランプは定番中の定番だが、その後のいろいろなアイデア商品は短命に終わった。やっと行きついた射撃場ビジネスも、オイルショックのせいでボウリングブームのあとを追うようにあえなく潰えた。山内溥自身が当たりはずれに翻弄されてきた。それを思えば、おもちゃ市場に対する批評的言辞は自分に返ってくる刃で、マイコン革命がもたらしたハードとソフトという新しいコンセプトは、持続的な企業の成長に資するものと、思えたに違いない。
LSIゲームの過当競争やアタリの失敗、過熱が予見されるTVゲーム市場を横目で見ながらの『ファミコン』の投入は、周到に準備された。
当時『ファミコン』の定価の目標値は1万円を切る価格だったとされる。海外の市場に出回っていたマシンは、コスト積み上げ方式が常識だったから3万円から5万円で売られていた。それでいて性能はそれらのマシンを上回っていた。いかに常識破りの価格設定だったかがわかる。
当時の常識では、年間2万台から3万台がゲームハードを作る会社の販売台数だったという。
圧倒的に安い価格設定と機能でハードを普及させ、その後はソフトの面白さ、クオリティコントロールでソフトを売り、ハードとソフトの相乗効果でデファクトスタンダード(市場競争の結果によって標準化された規格や製品)を短期間で構築する任天堂式ビジネスの原点がここにあった。
そして『ファミリーコンピュータ』は1983年7月15日に発売された。さすがに1万円を切ることはかなわなかったが、1万4800円という破格の値段で登場した。その価格の破壊力とソフトの優秀さは、ここで改めて記すまでもない。
※『エンタメ(IP)100年史 創業者のエウレカ、継承者の転換』第6章(6-1)より抜粋。『エンタメ(IP)100年史 創業者のエウレカ、継承者の転換』が本日発売
そのほかにも、戦後のおもちゃ業界をはじめ、それにまつわる会社や人物、テレビゲームの登場と影響、出版業界についてなど……昨今のIP産業隆盛の根源を、著者である元KADOKAWA社長の佐藤辰男氏が自身の視点から探る1冊となっています。
興味を持たれた方は、ぜひお手に取っていただければ幸いです。
![[IMAGE]](https://cimg.kgl-systems.io/camion/files/famitsu/66879/a9c3c0da200c92b4703ae40246d591184.jpg?x=767)
仕様
- 書名:『エンタメ(IP)100年史 創業者のエウレカ、継承者の転換』
- 著者:佐藤辰男
- 価格:2,000円+税
- 発売日:2026年2月26日
- ページ数:240ページ
- 判型:四六判












