ゲーマーネーム“noppo”で知られる谷口純也は、2000年代、まだeスポーツという言葉さえ浸透していなかった時代に誰よりも早くeスポーツの未来に賭け、自身の選択を信じて歩み出した。
彼が愛したゲームはオンラインFPS『Counter-Strike』(カウンターストライク)。eスポーツの黎明期を支え、後進に多大な影響を与えたnoppoは、2025年10月14日に37歳の若さでこの世を去った。
筆者はnoppoと20年近い交流があり、その活動について長年取材を続けてきた。彼の歩みを振り返りながら、遺した功績と人間としての魅力を語らせてほしい。
— noppo (@noppo_cs) October 14, 2025
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大成功のeスポーツキャリアを歩んだnoppo
彼は17歳でネットカフェがスポンサーを務めるプロゲーミングチーム“Aggressive Gene”に所属、19歳で『Counter-Strike』最強国スウェーデンに単身eスポーツ留学し、国際的なプロゲーマーとなることを目指した。
スウェーデンでプロゲーマーになる夢はビザの都合で叶わなかったが、帰国後は本場スウェーデンで培った技術と知識で国内優勝多数、国際大会に何度も日本代表として出場した。
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このとき、noppoが披露したのが世界的に話題となった通称「とんでもないプレイ」だ。壁の向こうにいる見えない敵を、音や経験をもとにピンポイントに撃ち抜き、ひとりで相手5人を倒してみせたのである。
eスポーツ競技人生の集大成となったこの大会をもってnoppoは選手を引退する。つぎのキャリアを模索するために台湾の大学に進学して中国語と英語を習得。卒業後はeスポーツで培った経験を活かし、MSIやNVIDIA、Twitchといった外資系企業で、ゲーミングシーンに貢献してきた。
本業のかたわら、DETONATOR、Jadeite、SCARZなどのプロeスポーツチームでコーチを務め、さらに自身のゲーミングデバイスブランド“ZYGEN”も展開。精力的な活動には頭が下がる。
eスポーツを志す者にとって、このような活躍を見せたnoppoは憧れの存在でありロールモデルだ。華麗な経歴でエリート街道を駆け抜けた成功者のようだが、ここに辿り着くまでは挑戦、苦労、挫折の連続だった。
将来を想像して絶望した高校時代。人生を変えた『Counter-Strike』との出会い
両親は教育熱心で、noppoはさまざまな習いごとをさせてもらった。そのひとつが競泳。自分自身のタイム、そしてライバルと競う日々が負けず嫌いな性格を加速させたと振り返る。
ゲームも大好きで『実況パワフルプロ野球4』、『ゴールデンアイ 007』、『カスタムロボ』などで友だちと対戦を楽しんだ。noppoはこの頃から周囲から一目置かれるほどゲームがうまく、自分にもその実感があったという。
そして、高校生となったnoppoに人生の転機が訪れる。楽しく学校生活を送っていたものの、心の中で将来に対する疑問を抱くようになっていた。
「このまま学校で勉強して、就職して定年まで働いて、やっと老後に楽しい人生が始まる。そんな人生を送っていくのかと想像したら、将来に絶望してしまった」
そう考えると学校に足が向かなくなってしまった。両親の理解もあり通信制高校に編入。そんなときに彼は『Counter-Strike NEO』と出会う。
『Counter-Strike NEO』は、世界的に大流行していたPCゲーム『Counter-Strike』の権利をナムコが取得して開発したアーケードバージョンだ。この『Counter-Strike NEO』をプレイできる専用施設“LEDZONE”が、noppoの実家に近い東京・蒲田にオープンしたのは2003年6月のこと。
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どうしても行きたい友人の熱意に折れてLEDZONEに足を運び、『Counter-Strike NEO』に触れた彼はあまりのおもしろさに衝撃を受けた。完全にのめり込み、開店から閉店までプレイする日々が始まる。この友人の存在こそが日本のeスポーツを変えた転換点だったのかもしれない。
ゲームの腕前は上達し、店員や常連客たちとも仲よくなった。ゲーマー仲間にパソコンとPC版『Counter-Strike』を買えば、自宅からインターネット経由で好きなだけ対戦できることを教わった。
この『Counter-Strike』との出会いがnoppoの人生を大きく変えることになる。
プロチームに入り大阪で共同生活。「ゲームに100%ベットする」と決意した岡本太郎の言葉
当時、日本では『Counter-Strike』ナンバーワンの4dimensioNがプロチームとして活動を始めたばかりで、プロゲーマーは夢物語のような存在だった。大阪でのプロ活動について両親を説き伏せることに苦労したが、最後は熱心なnoppoの決断を後押ししてくれたという。
プロといっても、昼はスポンサーのネットカフェで働き、夜に練習をするという形で、現在のプロゲーマーのようにフルタイムでゲームのみに専念できる環境ではなかった。
共同生活をしていた5人は、全員がひとり暮らし未経験の17歳~22歳。誰も率先して料理や洗濯をしない、ゴミの捨て方もよくわからないということで、部屋はゴミ屋敷のような環境となり「地獄のような生活だった」と振り返る。
noppoは日本一になるという目標で日々の練習に打ち込んでいたが、働きながら練習する共同生活に疲弊した仲間はモチベーションを維持できず、いつしかチーム練習すらままならない状態となった。最終的にメンタルの不調をきたすメンバーが出てきたこともあり、半年ほどでチームは解散となってしまった。
大阪でゲームに打ち込む生活を終えたnoppoは、久々に地元の友人たちと再会。彼らはバイトでお金を稼いで好きな物を買ったり、彼女ができたり、バンド活動を楽しんでいたりと、それぞれの青春を送っていた。その姿はまぶしく映り、自分との差を感じて辛かったという。
漠然と将来に対する不安も感じ始めた。ゲームは諦めて、学校生活に集中して進学や就職を目指すべきなのか……。そんな中、ぐうぜん目にした芸術家・岡本太郎のドキュメンタリー番組に衝撃を受ける。
「いいかい、怖かったら怖いほど逆にそこに飛び込むんだ。やってごらん」
「危険だという道は、必ず自分の行きたい道なのだ」
「私は人生の岐路に立ったとき、いつも困難の方を選んできた」
この言葉を聞き、noppoは決意する。
「プロゲーマーを目指そう。100%、自分のやりたいことにベットしよう」
本場スウェーデンへの単身eスポーツ留学
当時、日本で『Counter-Strike』のプロになることは難しく、「どうせならば最高の環境で挑戦しよう」とスウェーデンに行くことを決めた。スウェーデンは2000年代『Counter-Strike』の最強国で、数々の世界大会で優勝チームを輩出していたからだ。
そのためにはスウェーデン語を覚えなければならない。スウェーデン語教室は1時間2万円と高額で、両親に頼み込んで何度か受講したが、短期間でうまくなるはずもなかった。
だが、そんなことは諦める理由にならない。当時人気のSNS“mixi”でスウェーデンの留学生と知り合い、格安でスウェーデン語を教わることが可能となり、なんとかコミュニケーションを取れるまでに上達した。
そして、ビザを取得するためにスウェーデンの国民学校に入学すること、ホームステイで現地滞在させてもらうことも決まり、2007年8月、ついに夢を目指してスウェーデンに渡ることになった。
noppoのスウェーデン行きは、日本の『Counter-Strike』コミュニティにとって衝撃的な事件だった。当時、「現地でのツテや自信はあるのか」と質問をしたところ、自信に満ちあふれた返答を覚えている。
「なし! まったくのゼロからです。でも、目に留まる存在になれる自信があるんで、大丈夫」
彼が滞在したのはスウェーデンのベクショー。ホストファミリーの家はコンビニまで車で30分、バスは1日3本しかないという環境だった。最高の環境で『Counter-Strike』をプレイすることに期待を膨らませていたが、滞在先のインターネット回線は100kbsも出ない貧弱さで、オンラインで対戦できるような状態ではなかった。
「Counter-Strikeのために来たのに、これは困ったぞ…」
そんな中、国民学校で知り合った中国人留学生に事情を話すと「うちなら快適にゲームができると思う」と、自宅の環境を貸してもらえることになった。学校が終わった後、片道2時間かけて友人の家に通い『Counter-Strike』をプレイ、睡眠は1日4時間という生活の始まりである。
「日本だと21~24時くらいしか試合ができないのですが、スウェーデンは24時間いつでも5対5の対戦できました。こんな天国みたいな環境があるなんて! と感激しました。そして、こんな環境ならばスウェーデンが強いのも納得だと実感しました」
noppoはスウェーデンでも実力を認められ、“Afterlife Gaming”というセミプロチームに所属して腕を磨くことになる。
しかし、過酷な生活には変わらず、体調不良で授業を欠席することも増えていった。結果としてビザの更新ができず、スウェーデンでプロゲーマーを目指す活動は終わりを遂げた。
台湾の大学に進学。競技活動の集大成としてつかんだアジアチャンピオンの座
この頃、eスポーツの世界も変化を見せていた。2008年のリーマンショックを発端としてスポンサーの撤退が相次ぎ、世界レベルで大会開催キャンセル、チーム解散、プロゲーマーの失業が報じられた時期だ。日本では世界大会につながる予選の開催も減り、『Counter-Strike』の人気も低迷していた。
どうしたものかと思案を巡らせ、頭に浮かんだのは、中国で世界大会に出場した際にプレイヤー数も観客数もケタ違いだったこと。「今後は中国でeスポーツが盛んになるかもしれない」と思い立った。
「中国語を学ぶことが、今後の人生でプラスになるのではないか」と考えたnoppoは、21歳にして大学進学を目指す。当時の国際情勢を踏まえて中国よりも台湾がいいと判断し、台湾の大学に進学することを決めたのだ。
まず台湾の言語学校で中国語を1年間学んだ。4年間の大学生活を経て、中国語はビジネスレベル手前まで習得できた。ちなみに、大学の授業は英語。仲間に助けられながら英語も学ぶことになる。
在学中も『Counter-Strike』熱は衰えなかった。選手活動も続け、2012年に東京ゲームショウで開催されたAsia e-Sports Cup 2012に日本代表として出場。順調に決勝戦まで進み、フィンランドのトッププロ“lurppis”を助っ人に含むシンガポールチームを見事に撃破。前述したように「とんでもないプレイ」と呼ばれるスーパープレイでチームに貢献し、日本初となる『Counter-Strike』アジアチャンピオンの座を手にしたのだった。
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「日本を代表して出場しますから!」
当時はいまと違ってユニフォームを用意しているチームは少なく、試合でもほとんどが私服だった。その中でJAPANの文字入りジャージを着用し、日本を背負って挑むnoppoの気概が印象的で、いまでもよく覚えている。
Asia e-Sports Cup 2012は、世界的にも『Counter-Strike』で行なわれた最後の大型大会となった。『Counter-Strike』はリリースから10年以上が経過しており(※)、eスポーツシーンは新たなゲーム『League of Legends』を花形タイトルとして、時代が移り変わっていく。
全敗の就職活動、eスポーツのキャリアを活かして外資系企業へ
このときの年齢は26歳。就職活動に参加している多くは21歳で、明らかに浮いている自分の状況が辛かった。大小含めて数々の採用試験に挑み、2次面接まで進むこともあったが最終的にはどこも不採用。就職活動は全敗のまま卒業を迎え、選手引退後のセカンドキャリアに苦しむ格好となる。
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何か就職する方法はないかと考え、ゲームやeスポーツのイベントへと積極的に参加し、自分の顔を売りながら各企業の担当者に状況を説明、仕事はないかとアピールし続けた。しかし、それでも仕事は決まらない。
転機は2014年に訪れた。鍵を握っていたのは世界的なeスポーツチーム“Fnatic”の『Counter-Strike』部門でキャプテンを務めたPatrik “cArn” Sättermon氏。cArn氏はスウェーデン人で、2008年世界大会の際にnoppoがスウェーデン語で話しかけ、スウェーデンに単身留学したエピソードを伝えたところ気に入られて親友となり、以降も交流を続けていた。 そんな彼が東京ゲームショウのMSIブースに登壇することになったのだ。
「純也も来なよ」と東京ゲームショウに誘われ、久々にcArn氏と会うためにMSIブースを訪れたところ、偶然にも台湾時代の友人と再会。友人は台湾企業のMSIに就職していて、東京ゲームショウのために日本にやってきていたのだ。
懐かしさに盛り上がりながら仕事を探しているという近況を伝えると「ちょうどマーケティングの担当者を募集しているところだ」と面接を受けさせてもらえることになった。
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入社後はゲーマーの経験を活かしてイベントを企画したり、SNSを担当してフォロワーを10倍以上に増やすなどの活躍を見せた。しかし、社会人経験が不足していて迷惑もかけた
という。
「自分はアジアチャンピオンで、eスポーツにいちばん詳しいんだというおごりがあり、新人のくせにめちゃくちゃ生意気なヤツでした。先輩たちがそんな自分を戒めてくれて、たくさん学ばせていただきました」
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NVIDIAの面接を受けたものの3週間以上経っても採用の通知は届かない。諦めきれず、「面接では伝えられなかったが、NVIDIAに入ってこのような取り組みをしたい。自分はゲーマーとこれまでの経験を活かして、製品の認知度を上げて売上に貢献することができる」と提案を資料にまとめて採用担当者に送付。熱意を伝えたことが功を奏したのか、見事に採用を勝ち取った。
そして、NVIDIAでも多くのイベントを開催。eスポーツチームや大会のスポンサーとしてシーンの発展に貢献することになる。
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大会配信のため、Twitchオフィスに週1回ペースで通う生活。そこで、日本オフィスで人材募集を行なっていることを知る。
Twitchは就職活動時代にnoppoがいちばん入社したいと思っていた企業だった。当時、Twitchに日本支社はなく、ビジネス英語に自信がなくて諦めた彼にとって千載一遇のチャンス。MSI、NVIDIAで培ってきた経験と実績を評価され、見事に採用を手にした。
これまで以上に安定した社会人生活を送ることができるようになり、プライベートの時間を使ったeスポーツ活動にも力を入れていくようになる。
本業のかたわらゲーミングデバイスブランド“ZYGEN”設立
VAXEEは、ZOWIE創業者のVincent Tang氏と製品開発責任者のXanver Tseng氏が、ZOWIEをBenQに売却した後に立ち上げたブランド。自分たちの技術を正しく伝えられるパートナーを模索しており、noppoにその白羽の矢が立った形だ。
ZOWIEでは、Emil "HeatoN" Christensen、Abdisamad "SpawN" Mohamed、Filip "NEO" Kubskiといった世界的に有名な『Counter-Strike』プレイヤーが製品開発に参画していた。自分が考案したゲーミングデバイスのブランドを持つことができるのはnoppoにとっても憧れで、夢のような話だった。
Vincent氏、Xanver氏たちはこれまでも日本のeスポーツに多大な支援をしてくれていて、noppoも現役時代にお世話になっている。恩返しをしたいという気持ちもあった。そこで、大学時代に学んだ中国語を駆使して、VAXEEスタッフと綿密なコミュニケーションを取りながら、こだわりのゲーミングデバイスを開発していった。
このときに生まれたのがZYGENである。ゲーミングマウス『NP-01』シリーズは、トッププロが世界大会で使用するほどの人気となっている。
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「中国語を学ぶことが、今後の人生でプラスになるのではないか」という予測は、このような形で実を結ぶ結果となった。
立場を守るか? 新たな挑戦か? プロチームのコーチ就任
2022年頃、日本のeスポーツシーンは成熟し、取り組みの体制も様変わりした。選手はプレイに専念し、チームビルディングと戦略立案をコーチやアナリストが担当する分業制を多くのチームが導入。世界ではnoppo世代のレジェンドたちがコーチに就任し、チームを勝利に導くケースが増えていた。
「野球では、名選手が名監督になるとは限らない。ゲームでも同じで、自分がいいコーチになることができるかはわからない。レジェンドと呼んでもらえるようにもなり、立場を守ったままのほうがよいのではという気持ちがあった」
そんなときでも、岡本太郎の言葉に導かれた。
「危険だという道は、必ず自分の行きたい道なのだ」
迷うことはない。Jadeite『VALORANT』部門のコーチに就任し、2年目のシーズンでチームを日本2位に導いた。
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コーチ業でも苦労は絶えなかったという。
本業の空き時間しか使うことができないため、選手たちにつきっきりの指導ができない。戦略研究に使うための時間もない。それなら環境を変えればいい。チームにコーチ増員を提案し、さらなる分業化を図ることで問題を解消していく。
自分の時代と価値観が異なる若いプレイヤーに指導したり、説明する際のやり方にも苦労した。自分の時代は先輩の言うことは絶対だったが、上からの指導は令和のプレイヤーたちにまったく響かなかった。
選手たちとの付き合い方、コミュニケーション方法など、コーチの立場ながら若い選手たちから多くのことを学んだという。
挑戦と挫折をくり返し、成功を手にしたnoppo
困ったときに手を差し伸べてくれたのはゲーマー仲間や先輩たちだ。eスポーツに対する情熱を持ち、真摯に向き合う彼は多くのゲーマー仲間に愛された。そして何より、誰よりもnoppoを理解し応援してくれた家族の存在があった。
noppoがeスポーツで最も尊敬する人物のひとりであり親友と語っていたFnaticのcArn氏は、訃報に寄せて、SNSに思いをつづった。
この投稿に対して自分がnoppoのエピソードを添える投稿をしたところ、『Counter-Strike』の共同開発者であるMinh Le氏の目に留まり、お悔やみのメッセージが寄せられた。
『Counter-Strike』に人生を賭けたnoppoにとっては神のような存在だ。ゲームを生み出したひとりであるMinh Le氏からメッセージをいただけたのは、彼が『Counter-Strike』を愛していたからこそ起こった奇跡と言えるだろう。きっと『Counter-Strike』の神も、noppoを愛している。
Very sorry to hear about Junya's passing. It is tragic to know that he passed away at such a young age. I'm sad that we couldn't have met in person :(
— Minh Le (@GoosemanCS) October 15, 2025
noppo=谷口純也は、日本のeスポーツに欠かせない存在である。彼を失ったことは、友人としても、ひとりのeスポーツファンとしても、非常に残念だ。 noppoも、さらなる発展が期待されるeスポーツの未来を見届けることができなくなったのは無念だと思う。
しかし、これまでゲームとeスポーツに人生のすべてを注ぎ込んできたことについて、微塵の後悔もないはずだ。今回紹介したnoppoのエピソードが、ゲーマーやeスポーツの未来を作る人材の手助けになることを願っている。
「恐れなくても大丈夫。これから将来に不安を感じている方もいるかもしれないけど、なんだかんだうまくいったり、自分に合った色々な場所があります。そこでうまくいかなくても、僕ができたように、あなたもきっとうまくいきます」
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