- 文化勲章とは
- 宮本茂氏の歩み
- 宮本茂氏 挨拶
- 質疑応答
- 宮本茂氏が携わったおもな作品(一部)
- 『ドンキーコング』(1983年7月15日)ファミリーコンピュータ
- 『スーパーマリオブラザーズ』(1985年9月13日)ファミリーコンピュータ
- 『ゼルダの伝説』(1986年2月21日)ファミリーコンピュータ ディスクシステム
- 『スーパーマリオワールド』(1990年11月21日)スーパーファミコン
- 『スーパーマリオカート』(1992年8月27日)スーパーファミコン
- 『スターフォックス』(1993年2月21日)スーパーファミコン
- 『スーパーマリオ64』(1996年6月23日)NINTENDO 64
- 『ゼルダの伝説 時のオカリナ』(1998年11月21日)NINTENDO 64
- 『ピクミン』(2001年10月26日)ニンテンドー ゲームキューブ
- 『nintendogs』(2005年4月21日)ニンテンドーDS
- 『Wii Sports』(2006年12月2日)Wii
- 『Wii Fit』(2007年12月1日)Wii
- 『Super Mario Run』(2016年12月15日)スマートデバイス
- 『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』(2017年3月3日)Nintendo Switch / Wii U
- 『Pikmin Bloom』(2021年11月1日)スマートデバイス ※配信元:Scopely Explore
- 『ピクミン4』(2023年7月21日)Nintendo Switch
文化勲章とは
受章者は毎年秋に発表され、11月3日に皇居で親授式が行われ、天皇陛下から勲章が授与される。作家や芸術家、研究者など、さまざまな分野で優れた功績を残した人が選ばれている。
これまで、映画分野では黒澤明監督や山田洋次監督、小説家では川端康成氏や司馬遼太郎氏などそうそうたるメンバーが受章している。2024年には漫画家のちばてつや氏が受章したことも話題となった。ゲーム分野、デジタルエンタテインメント分野からの選出は初となる。
宮本茂氏の歩み
1981年にアーケードタイトル『ドンキーコング』を開発。その後『スーパーマリオブラザーズ』、『ゼルダの伝説』など、任天堂を代表するシリーズを開発。近年では『Wii Fit』や『Wii Sports』、『ピクミン』シリーズの開発を手掛け、現在はユニバーサル・スタジオ・ジャパンのスーパー・ニンテンドー・ワールドや、映画『スーパーマリオ』シリーズにも深く携わる。
日本のみならず世界的にも著名で、フランス芸術文化勲章シュヴァリエ章(2006年)、イギリスアカデミー賞(2010年)等を受賞。日本でも2019年に“文化功労者”として顕彰されている。
宮本茂 氏(みやもと しげる)
任天堂 代表取締役フェロー。1952年11月16日生京都府園部町(現・南丹市)出身。1977年に金沢美術工芸大学工業デザイン専攻を卒業し、任天堂へ入社。情報開発本部長などを経て、2015年に現在の代表取締役フェローに就任。(文中は宮本)
宮本茂氏 挨拶

こんにちは。今日は京都までお越しいただいてありがとうございます。
なんかこういうことになりまして、ものすごく照れくさい気持ちでいるんですけども、名誉ある賞に選んでいただいたことは本当に光栄に思ってます。
いつもお話するんですけど、ぜんぜん、ゲームって作家としてひとりで作ってるものではないので、大勢の人たちといっしょに作ってきた結果なので、それを代表していただくつもりでお受けしています。
ここのところ最近、ゲームに限らず、USJでニンテンドーワールドをやったり、映画を作ったりっていう、またいろいろなほかのジャンルの方ともたくさんの仕事をさせていただいて、皆さんとともにこの受章の栄誉を分かち合いたいと思ってます。
質疑応答

社会の中のゲーム
社会というより、僕の子どものころには、任天堂の家庭向けのボードゲーム商品がありまして。ダイヤモンドゲームとか、ロケットゲームとか。それをお正月になるとみんなで出してきて遊ぶと。百人一首もそうです。1年間たんすの上に積んであって、またお正月になると出してくる。そういう任天堂と生活の関わりかたっていいなと、昔から思っていたんですね。
ビデオゲームを作るようになって、リビングの中心にずっとゲーム機があって、そこでみんながくつろいだり、日々暮らしている。そういうものになるのは、とても任天堂らしいなと思って作ってきました。
それを進めていくうえで、ゲームをする人たちのために作るだけではなくて、ゲームを遊ばない人たちにもゲームに興味を持ってもらえるものを作ろうと。リビングにあってもおかしくないものをずっと作り続けていこうというふうに進めてきたんです。それはとてもよかったなと思います。ほかとの差別化も図れたし、自分にも合っているなと思います。
ただ、それは社会とのつながりを意識していたというより、自分が26~27歳ぐらいからゲームを作り始めて――自分もプレイヤーでしたが――そのころは、まわりの同年代にそんなにゲームをする人はいなかったんです。それが、だんだんお父さんがゲームを遊んで育った世代になり、気がつくと、自分がおじいさんになっていて(笑)、おじいさんもゲームを遊んだ世代になっているんですね。
この、“親子3世代がゲームのことを知っている”というのはものすごく大きいと思います。それだけ関わりが深くなって、それを文化として見ようじゃないかと言っていただけるのは、とてもありがたいなと思っています。
これからも、“ゲーム”というより、こういう新しいメディアに興味のない方にも少しでも使ってもらえるものを考えて、リビングの中心にいつもあるものを作り続けていけたらと思っています。
――これまでの活動を振り返って、今回の受章につながった理由をご自身ではどのようにお考えですか? また、その過程で特に印象に残っている困難や転機についても教えてください。
そうですね。とにかく、さっきもお話ししたように、「ひとりでもたくさんの人に遊んでもらえるものを作ろう」と。
困難で言うと、ゲームキューブからWiiに移った時代が、けっこう悩みの時代だったんです。ゲームがどんどん進化して、ゲーム機は高性能になり、プレイヤーのレベルもどんどん上がっていく。そういう時代が続いていたんです。ふと立ち止まると、学校なんかでも“オタク”、“ゲームをする人”といった会話があって、ゲームをする人としない人のあいだに、世の中についたてができていっているなと感じた時期があるんですね。
そこで、いや、そうじゃなくて、ゲームが日常の中に溶け込んで、いつでもゲームに触れているのが理想じゃないかと思いました。そうすると、自分たちがよりおもしろくしようと思って作っているコントローラーそのものが複雑で、初めて触る人には近寄りがたいものになっているんじゃないか。そういうことから、WiiとかニンテンドーDSで、すごくシンプルな形に置き換えようとしたんです。
そういうことをくり返しているあいだに、徐々に、さっき言ったように3世代にわたってゲームに触れるようになり、ゲームをすることが日常になってきた。これはスマートフォンとかモバイルが飛躍的に進んだことも、大いに貢献していると思います。
しかも、僕らは「ゲーム、ゲーム」と言っているんですけど、僕はゲームを作ることだけに集中していたわけではなくて、インタラクティブ(双方向的)なメディアがおもしろいなと思ってきたんです。
インタラクティブなメディアで、いちばんわかりやすいのがゲームなんですけど、自分が何かをすると相手が何かを返してくれる。そこで試行錯誤を繰り返しているうちに、気がつけば楽しい時間が経っていた……そうなれば理想だなと思っていました。
僕はもともと工業デザイナーなので、デザインのCAD(キャド。設計・製図を行うためのソフト)とか、工業用のCAD、3D CADとか、あれは最高のおもちゃなんです。僕はちゃんと使いこなせないんですけど、コンピューターを使って、インタラクティブにいろいろ試行錯誤していると、気がついたらすごく時間が経っている。僕の中では、これも立派なゲームだと思っています。
そういうものをもっと作っていけたらいいなとずっと目指してきたんですが、やっぱり「それはゲームなのか」という議論になるんですね。ゲームではなくても、インタラクティブなメディアを使って、日常の時間を忘れさせるような装置を作る。
それからもうひとつ、そういうものを使うときに、“快適に使えるかどうか”をゲーム制作ではものすごく考えるんです。世の中のいろんなコンピューターのインターフェースを設計している人たちの中で、ゲームぐらいインターフェースを真剣に作っている人たちはいないとずっと思っているんですね。
ゲームを作りながら、「お客さんにとってわかりやすいか、思いどおりに動かせるか、レスポンスはどうか、反応速度はどうか。どうしたら間違えるのか、人間工学的にどう作っておけば間違えないのか」と考える。
ふだん、皆さんがウェブで使っているものでも、反応が悪かったり、「はい・いいえ」の質問で、ほとんどの人が「はい」と答えるはずなのに、初期設定の位置が「いいえ」になっていて、うっかりそこで大半の人が間違えたりする。嫌でしょう(笑)。そういうところに細かく神経を使ったデザインを、ゲームを作っている人たちはすごく真剣に作るんです。
うちでも、社内にインターフェースデザインの部門のようなものを作るぐらい、そこを真剣に作っています。それを作っていた人たちは、ゲーム以外の仕事をしても、コンピューターの上で仕事をするならきっとそのノウハウがものすごく役に立つ(くらい)、そこはゲームがいちばん進んでいるところだと思っていました。
いま、モバイルでいろいろなサービスがありますよね。具体的に名前は出しませんけど、とても使いやすいサービスがある。利益だけを目指すのではなく、丁寧に、お客さんがちゃんと使えるかどうかを目指して作っている会社のものは、ちゃんとできています。
トップダウンで「こういうものがあるべきだ」、「こういうものを作れ」という指示ででき上がったものって大抵使いにくい。そういう意味では、ゲームぐらいお客さんに真剣に向き合って、いろいろな設計がされていけば、ゲームに限らず、インタラクティブな世界にはまだまだ進化の可能性があると思います。
「日本が作るものが最高だ」と言えるチャンスもいっぱいあると思うんです。業界を抜けていく人もいるんですけど、そういう人に「ゲーム業界以外でも、これまでやってきた仕事はいっぱい役に立つから」と話しています。
そういうことがこれからできていけば、何年後かには、ゲームという評価だけではなく、コンピューターのインタラクティブな文化として評価していただけるようになったら、うれしいなと思います。
任天堂ファンへのメッセージ

映画を作るためにはお話を作る。お話を作ると、「このキャラクターはこういう性格です」、「家族にはこういう人がいます」と、いろんな設定をしていくんですね。
でも、僕らはゲームを作るためにキャラクターを作ってきたので、つぎにどんなゲームを作るか、まったくわからない。つぎにどんなゲームを作るかわからないのに、いろいろな設定をしてしまうと、不自由になると思っていました。
なので、「ゲームのために作ったキャラクターなので、ゲームでしか使えません」と言ってきたんですけど、長年やってくると、任天堂ファンだと言ってくださる皆さんが、うちのキャラクターを愛してくださる。マリオやゼルダのほかにも、いろいろなキャラクターが作られてきました。
そういうキャラクターが大好きというだけでも、ゲームを遊ばなくても、任天堂のファンになってもらえるなと思うようになったんです。それで、「作るなら自分たちで作ろう」ということで、映画の制作を始めました。
それ以外にも、ユニバーサル・スタジオでテーマパーク(スーパー・ニンテンドー・ワールド)を始めたりしています。ゲームだけに限らず、ゲームから生まれてきた任天堂のキャラクターを、よりたくさんの人に見てもらえるような場を作ろうとしているんです。
いろいろなところとお付き合いをさせていただいていて、とくに最近はピクミンとかもがんばっています。任天堂もいっしょに開発しているんですが、提供しているのは任天堂ではない会社です。スコープリー・エクスプロア(旧ナイアンティック)さんと、あれもいっしょにずっとやっています。
ああいうモバイルを使っても、任天堂のキャラクターにはいろいろ広がっていく可能性があるのでいっしょに仕事をしています。楽しみにしてください。
――かつてゲームが社会問題として捉えられた時期もありましたが、最近は政府がアニメなどとともにコンテンツ産業を重要な基幹産業と位置づけるほどの存在になりました。文化勲章の受章者として、日本のゲーム産業の発展に向け、今後どのような活動や発信をしていきたいとお考えですか。
さっき言ったように、ゲームが貢献できるのは、ユーザーインターフェースの部分です。使う人にいちばん真摯に対応しているメディアじゃないかなと思うんですよ。
こちらから何かを与える、お客さんに提供するというより、お客さんがそれを使うなかで何かが生まれてきて、それが楽しい。日用品もそうじゃないですか。使っているうちに楽しくなってくる。
“お客さんとどう接するか”というところを丁寧にやってきたことが日本のゲーム産業の強みのひとつだと思っています。
その姿勢は、どの産業でどうかというより、ひとりひとりのデザイナー、システムエンジニア、インターフェースをデザインする人たちに関わるものです。そこを丁寧にできる人が育ってきたと思うんですね。そういう人を少しでも増やせるようにしていくことかなと思います。
もうひとつは、人と同じことをやるとただ競争になるので、「人と違うことをやるんだ」ということはつねに言っています。独自の姿勢で、使う人にちゃんと寄り添って、真剣にものづくりをする。そういう人がひとりでも育っていけばいいなと思いますし、私も引き続きそれをやっていこうと思っています。
故郷・京都で育まれたもの
大学は金沢で、デザインの専攻をしていましたから、「工業デザインならイタリアへ行かなきゃダメだろう」とか、「最新のデザインならニューヨークだ」とか、いろいろなことを言われながら、京都に就職して、京都でコツコツものを作っていたんですね。
30歳を過ぎたあたりで「デザイナーはもうそろそろ枯れる」、「先端の街にいないと、デザイナーは枯れていく」と言われたりするなかで、あまり気にせず、ずっとゲーム作りをしていました。
40歳に近づくと、作ったものが妙にグローバルに評価されるようになりました。本当に、30歳ぐらいで作り始めたころから、日本より海外の売り上げのほうがずっと多いことに気づいたんです。40歳ぐらいになると「どうしてそういうものが作れるのか」と人に聞かれたり、自分でも考えたりするようになった。
そのときに「京都にいてよかったな」と思いました。
何かと競争するんじゃなくて、自分たちの道具を持って、その土地でじっくりものを作る。自分がものを作って相手にしているのは人なので、どこの国の人か、都会の人かどうかは関係ない。その人に対して何かを作って、そこから広がっていくものをずっとコツコツ作っていく。
ローカルなところにいて、いちばん超ローカルなのは自分自身ですから、その超ローカルなところにずっと座って、いろいろな仕事をこつこつやっていく。それができたのは、結果として京都という土地だったからなのかなと。それはラッキーだったと思います。
園部もそうです。園部にあった自然の中で育ったことが、自分がものを作ったりいろんな判断をしたりするなかに反映されている。過去の体験が全部、そこに反映されてきますから。子どものころにのびのびと自然の中で育ったことが、ゲームの中で自然に再現できていて、それがたぶん世界中の人に通じているんだと思うんです。
国が違っても、子どもが物理的にものから刺激を受けたり、考えたりすることはいっしょのはずです。それがそのまま通じていると感じたときに、「田舎で育ってよかったな、京都にずっといてよかったな」と、年とともに思うようになりました。
「園部の自然の何かをもとに、このゲームを作りました」という言いかたをされるんですけど、そういうことではないんです。自然の中で育っていくうちに、山に登って滑って下りたり、川に入って魚を手にしたり、いろいろなことが体に染みついている。その体に染みついたものが、自分のものづくりの原点になっています。
そういう意味で、園部に育ててもらったと思っています。

独創力、その伝えかた
ただ、任天堂も何1000人という……数字を間違えたらいけないですけど、開発者だけでも3000~4000人、全部入れると世界中で10000人ぐらいいるという、すごい規模になってきました。原点にあった“独創”という精神を、全員に引きわたすことが正直難しくなってきているんですね。
だから、つぎのものを作るときに、その作る過程で、少しでも「独創とは何なのか」を議論したい。いまも、新しい人だと思っていた人もけっこう年を取ってきたので、もう少し中堅が集まって、そういうことを議論する場を作ろうかということをコツコツ始めています。がんばります。
宮本茂が考えるAIの効能。「我々にできることはたくさんある」
僕らの時代はコンピューターが出てきて、それまではタイプライターで文字を打っていたのが、ワードプロセッサーになって、どんどん道具が進化していきました。
たとえばデザイナーは、レタリングという、ポスターの文字をきれいに書くことを学校で習うんです。そういうことができるとそれでもうデザイナーと呼べた。あるいは、海外ではやっているタイプのデザインを日本語にしてレイアウトするとデザイナーと呼ばれる。
ところが、コンピューターやワープロがどんどん進化して、文章もどこかから持ってきてくれる、絵もどこかから持ってきてくれる、文字もきれいに描いてくれる。そういう技術、テクニックの部分が進化すると、そこで初めて、レイアウトのセンスやその人個人のデザイン能力が表に出てくるんです。
だから、これまではご主人がデザイナーで奥さんが家事をしていたとしても、じつは奥さんのほうがデザイン能力があったりするというような状況がありえた……僕も心配になることがあるんですけど(笑)。道具が変わるとそういうことがどんどん起こる。いま、まさにAIでそういうことが起こっている。
僕らはいつも、「ものを作る」ということと「作業する」ということを分けています。
何かを作ろうと思うと大きな構成をしますよね。何かに向かって進もうとする。そこから先は作業なんですよね。空いている穴を埋めるとか、きれいに仕上げるとか。やっかいなことに、作業って楽しいんですよ。ものすごく作っているという満足感があるじゃないですか、ライターさんも(わかると思いますが)。
でも、怖いのは、その作業に満足してしまって、「けっこういいものができた」と勘違いしている自分なんですよ。
そういう意味では、AIがいろいろな作業をしてくれるようになればなるほど、「本当に作るとは何なのか」をみんなが真摯に考える機会になるのは、大いにいいなと思います。
過去のデザインにもコピーだけでできたものはあったでしょう。でも、それはずっと残らないですよね。そこに何があるかというと、個人が何かをデザインしようと意図を持ってやっていて、その作業をコンピューターに手伝ってもらっているという構造なんです。
AIがどこまで進化するか、すべてをやってくれるようになるかもしれませんけど、まだまだ我々がやれることは残っているなと思います。
――この50年で、人とゲームの関わりは大きく変わってきました。かつてはリビングでテレビにつないで子どもたちが遊ぶものだったのが、いまでは老若男女が楽しみ、余暇の遊びだけでなく、健康やコミュニケーションなど、さまざまな目的のゲームが増えています。インタラクティブという観点では、生成AIにも可能性があると思います。今後、ゲームと人との関わりかたはどう変化していくとお考えですか。また、そのなかで、どのようなものを届けていきたいですか。
それで最初に思ったのが、「これを学校の教材にしたらいちばんいい」ということでした。シャープさんといっしょに『ニンテンドーDS教室』というものを実際に作って。
それから、美術大学の卒業展のようなことをするときにお客さんにDSを持ってもらえば、作品の前に行くと自動的に音声ガイドと画像で作品を説明してくれる。そういう仕組みをWebのブラウザー上で設計できるシステムを作って、提供することもしました。それがどんどん進化して、ルーヴル美術館のガイドシステムになったんです。
それをやっているころから、ゲーム機とは言っているけれどコンピューターとしては世界でいちばん安いコンピューターじゃないかと思うようになっていました。DSでいろんなことをやりたくて、いっぱい試したんです。その頃には、半分はゲームを作っているけど、半分は「これはゲームと呼んでいいのか」というものを作り始めていたんですね。
それがスマートフォンの進化で一気に進んだ。僕らにとっては悔しいことなんですけど、世の中全体にとっては、メディアの進化としてものすごく大きかったと思います。
いまおっしゃったように、インタラクティブにコンピューターを使うことをゲームと定義したら、こういうもののほとんどがゲームじゃないかと思います。ゲームの中の目的のためだけに遊ぶことと、それ以外の使いかたとの境界線が、本当になくなってきたと思うんです。
今は、開発ツールを使えば、Switchを含めた高性能なものもアマチュアの人が作れるようになってきています。
その人が作ったものを1時間楽しめば、どんな楽しみかたをしても、それをゲームと呼ぶようになる。そうすると、いろいろな遊びができますよね。いまは荒削りながらいろんなものが広がっていっていると思います。
さっきおっしゃっていましたけど、ゲームデザイナーでなくてもゲームを作れる時代です。ゲームの定義を広くすれば、もうみんながゲームを作れる時代が来たと思います。そういう境界がなくなっていくのが理想だと思っていたので、とてもいい時代になったと思います。ごめんなさい、質問をちょっと忘れましたけど、そういう感じです。
――そのうえで、ご自身は今後、何をしていきたいとお考えですか。
いまは映画作りに夢中になっていて、映画を作るプロの人たちとやっているわけですけど、やっぱり、自分で作ったらどれぐらい作れるかを試したかったりします。
それをやっているなかで、ひょっとしたらまたゲームのようなものを作ろうとするかもしれません。いまのデジタルメディアの進化で、いろんな仕事が大掛かりになってきた一方、スピーディーにできるようになってきたこともあります。意欲のあるあいだは、いろんなことを試したいと思います。
とくに“独創”と言っているので、これまで任天堂でふつうにやってきたことではないことをやって社員を驚かそうかなと思っています。
宮本茂にとってゲームとは

親が勝手に自分の部屋に入るので、入った人が驚くお化け屋敷のような仕組みを作ったり。それで親が怒るのが楽しい(笑)。何か、そういうことがずっとあったんです。
工業デザインをやってからも、不思議なものがテーブルの上で動いていて、「なんで動いているの?」、「よくわからないけど、ずっと動いているんですよ」というようなものを作りたかった。
ゲームを作り始めたころ、「あなたにとってライバルは誰ですか」と、よく聞かれたんです。そのときは「ルービック博士です」と言っていました。ルービックキューブは工業デザインをやっている人にとっては憧れの、傑作のデザインだと思うんです。そういうものをやりたい。そのなかでゲームと出会ったのはとても幸運だったんですね。
ゲームセンターでなぜお金を入れるのか。悔しいからお金を入れる。射幸心からではなく、自分がやったことに対して悔しいからお金を入れる。そのビジネスに使われているのがゲームで、それに出会えたことは、自分にとってすごく幸運でした。
それをどんどん広げていくうちに、そこでお金をもらうことではなく、「なぜもう1回やりたいと思うのか」ということに純粋に興味が移っていきました。
それから、ただ遊ぶだけではなくて、その世界の中に自分が入っているような感じになったらどうだろうと。箱庭ゲームのようなものですね。箱庭を作ると、お話があったほうがおもしろいので、周辺のお話も作る。でも僕たちは語り手ではないので、お客さんがいっしょに遊んでいるうちに、お客さんの中にお話ができてくるようにするにはどうしたらいいか……と、どんどん考えるようになりました。
けっきょく、自分が出したものをどう受け取ってもらえるかという仕事を続けられているので、とても幸運なんですよ。僕はゲーム会社として任天堂に就職したのではなく、おもちゃ会社として、何を出すかわからない不思議な会社として任天堂に就職したことがスタートですから。とてもラッキーな出会いでした。
――50年にわたりゲームと向き合い、いまは映画などにも関わるなかで今回受章されました。ご自身にとってひとつの節目、通過点、どのように受け止めていますか。
遊び手と同じように、作り手も遊びながら作っているんです。それが続けられたら楽しいなと思います。
――開発されたゲームが世界中で楽しまれていますが、開発中でも、その後でも、「この仕事をやっていてよかった」と喜びを感じるのは、どのようなときですか。
自分のメッセージを何か伝えたくて作って、それがどんなふうに伝わったか、ということはあまり思わないんです。「こういうことをしたら楽しいと思ってもらえるんじゃないか」、「こういうことをしたら興味を持ってもらえるんじゃないか」ということを、ひたすら作り続ける。
その触り心地というか、映画で言えばひとつひとつのセリフについて、「ここではこのセリフが正しいか」、「もっと短いほうがいいか」ということも含めて、心地よく受け止めてもらえるかを、ずっとイメージして作っています。
だから、実際に使ったり見たりしている人たちが心地よく思ってくれたらそれで満足なんですよね。
そこから先、その人がどんなふうに解釈してどんなふうに語るかはもう僕の領域ではないと思っています。楽しくその時間を過ごしてもらえるかを見ているので、楽しそうにしてもらえたら満足です。
――今回、文化勲章を受章されました。世界中を夢中にする文化を作ってこられたわけですが、それが京都・関西から生み出されたことをどう受け止めていますか。
だから、とくに「京都から発信した」という意識は、ごめんなさい、ないんです。逆に、誰が作っているかわからないものにはなりたくないなと思うぐらいで。質問に答えられていないですね。
どう説明したらいいか、またわかりにくい話になるんですけど、昔、ゲームをトレードショーに出していたころ、コンピューターと家電があって、ゲームは家電のほうに入っていたんです。コンピューターは、ゲームの少し上位にあった。
それが徐々に、ゲームもコンピューターの仕事といっしょに扱われるようになった。コンピューターで動いていますからね。でも、コンピューターといっしょになったころは、やっぱりIBMを中心としたコンピューターの世界の人たちが上位で、ゲームが下位にあるような空気がものすごくあったんです。
ところが20年も経つと、コンピューターの世界にいる人たちもゲームで育った世代に変わってきた。2世代目、そしていまは3世代目になって、そういう人たちがコンピューター関係の幹部に顔を連ねている。そうすると、ゲームとコンピューターのどちらが上位か下位かという感覚が、まったくなくなったんです。
みんな「デジタルをいじっているおもしろいやつ、仲間たち」という雰囲気になって、本当にそういう壁がなくなりました。地域ということではなく、道具としてデジタルを使っている人たちがどんどん広がって、どの地域かに関係なく、デジタルを扱う仲間が広がっていった感じがあります。本当に地域性のないものなんですね。
だから、この辺もあまり地域性は関係なくて、「京都“から”発信する」ということは思わないんです。どちらかというと、人。京都の人が京都でマイペースにやっていて、その人がいるからおもしろい。だから僕は京都に住んで、“京都の人”ということをちゃんと守れるようにしようかな、というぐらいです。がんばります。
クッパを“倒さない”ことが発明だった
たとえば、昔『パックマン』というゲームがありました。迷路にある点々を全部食べていくゲーム。画面の中の何かを刈り取っていって、全部なくなったらオーケーです。これは誰が見ても分かりますよね。
『テトリス』は、上から落ちてきたものをはめていって横に1列並んだら消えます。これも誰が見てもわかる。
僕が作った『ドンキーコング』には、ちょっと難しいところがありました。「この人がA地点からB地点まで行きます」というのは、誰が見てもわかる感じがしないんですよ。わかりにくいんです。「全部をクリアーしたらきれいになります」、「全部を満たしたらオーケーです」というものではないので、けっこう苦労しました。
「ここからここへ行くんだよ」とわからせるために、ゴリラが女の子をさらって逃げていって、それを自分が追いかけるようにした。
そのときに、画面がずっとスクロールしてもっと遠くまで行けたらいいのになとずっと思っていました。そのころの技術では、そういうスクロールができなかった。そういうことも含めて、「ジャンプするマリオというキャラクターがずっと走っていけるゲームを作れたらいいな」と思ったのが、まず下地にあります。
そこにいろいろなものを足していくうちに、“キノコを食べて大きくなれば1回やられても大丈夫”という仕組みを入れた。いろいろ入れていくうちに、『スーパーマリオ』になっていったんです。
そのときに“陸・海・空”という言い方をしていました。人が走っていくんだから、地上も走るし、海も泳ぐし、空も飛ぶ。やりたいことを全部アクションでできたらどうかと考えた。たぶんそれが発明だったんですかね。みんなやってみたかったんですよ。横にずっと走りながら、空を飛んだり、泳いだり。
僕も子どものころ、電車に乗っているといつも窓の外を見て、指でさしながら、「ここを人が走っていて、飛んだ」、「川に落ちた」とか、そういうことをやるじゃないですか(笑)。『エキサイトバイク』ってそういう遊びなんですけど。
そういう、みんなが持っている共通体験をゲームでやれる。やった結果、何となく“キノコ王国”という世界観のようなものが残りましたね。
あと、『スーパーマリオ』のいちばん大きな発明というか裏話は、ゴールまで走っていっても、クッパと戦わないことです。
ふつう、お話を考えたらずっと進んでいって、最後のゴールにボスがいたら戦わないとダメじゃないですか。でも、その戦いを作るのがたいへんで、「このままでは戦いは作れへんな」と思ったときに、「ずっと右に走っていくゲームなんだから、いちばん右に行ったら勝ちでどうだ」と思ったんです。じゃあ、戦わずに上を飛び越したらいいんじゃないかと。
それに気づいたときはすごくうれしかったですね。どうしようかとすごく悩んでいたんですけど「これで解決するんじゃないか」とやってみたら、おもしろかった。
2作目、3作目を作っていくと、徐々に「もうちょっとちゃんと戦おう」ということで、また戦うようになっていくんですけど、最初はそうでした。裏話としてはそういうところです。
次世代のクリエイターに伝えたいこと
インタラクティブのおもしろさは、使っている人が「つぎにこうしたらどうなるかな」と思うことだと思うんです。それを試してみた結果、どういう答えが返ってくるか。その答えの返しかたにたぶん作家性がある。ネガティブな人もいればポジティブな人もいるし、意地悪な人もいれば、サービス精神旺盛な人もいる。そういうやり取りだと思います。
僕はそこをすごく大事にしていますし、すぐ意地悪になるので、あまりやりすぎないように気をつけたりしています(笑)。
さっき言った、心地よいかどうかです。それを繰り返しているうちに、その人の中に思い入れが出てきて、それが自由に広がっていく。後はこちらが好きなものを展開していけば、相手が自分なりに消化してくれる。そういう関係を作るのが理想かなと思います。
若いクリエイターにいつも言うのは、自分が何かのゲームの大ファンで、「このゲームはおもしろかったけど、ここをこうしたらもっとおもしろくなる」というスタートは、やめたほうがいいということです。
それだと、自分がすごくおもしろいと思ったそのゲームのところまでは自分で作らないといけない。でも、一生懸命そこを作っても、それは誰かが作ったものと同じなんです。
何かをベースに改造するよりは、おおもとの「こんなことをしてみたらおもしろいんじゃないだろうか」ということを、一生懸命作り上げていくほうが、きっと楽しいですよと。その仕事のほうがやり甲斐がありますよ、ということは言います。
――2019年に文化功労者に選ばれたときも、ゲーム業界では初めてだったと思います。今回、さらに文化勲章を受章されました。宮本さんが歩んできた50年は、ゲームが文化として認められ、成熟してきた50年でもあり、今回の受章はその証とも感じます。この50年間のゲームの文化としての広がりや成熟を振り返ってどうお感じですか。
いまだに何かを考えるときは「こんなことができたら楽しいかな」というところから考えるんです。
「こういうものがあったら」、「こういうことができたら楽しいな」と思ったとき、昔だったら映画を作るとか、マンガを描くとか、小説を書くとかだった。そこに、ゲームを作るというだけでなく、インタラクティブなシステムを作るという選択肢が増えたんだと思います。
だから、よく“メディア”という言いかたをするんですけど、ゲームが、“ゲーム機”というところからようやく“メディア”になってきた。
メディアをやるなら、映画を作ることも、何もかもひっくるめて、自分たちがメディアとして扱ったらいい。そのなかで、メディア自体が混ざって、新しいものが出てくるかもしれないと考えるようになりました。
いまは先祖返りにはなるんですけど、映像も作ってみようと思った理由には、そういうこともあります。
だから、何か特別なものになったというより、当たり前になったということでしょうね。
――宮本さんご自身のお気持ちはいかがでしょうか。
僕らのころも、もっと選択肢が広かったらよかったのかなと思うし、そんなにあったら、自分で選びきれなかったかもしれないですけどね。楽しいことを探しているだけだったので。
またニンテンドーDSのころの話に戻りますけど、電車で、みんながスマホやガラケーでメールを打っている姿を見て、それがいちばん楽しそうだったんですよね。見ていて悔しいなと思って。「ゲーム遊んでいるよりも、メールを打っているほうが楽しそうや」と思ったことがありました。
つねに、ああいうものになりたいんです。もう、ゲームと呼べなくてもいいんじゃないですか。そろそろ、本当にゲームと呼んでいいのかということになってきている。
TikTokをずっと見ているのもゲームをしているのも、あまり変わらない。でも、ゲームのほうがインタラクティブなので、そういうところのよさを生かしていけたら、もっといいのになと思います。
TikTokをずっと見ているのも人の性というか、そういうところがあるので、もっとじょうずにインタラクティブな要素を挟んでいけたらもっとおもしろいものになると思うんです。
山内溥と横井軍平
山内さんはまた別ですね。“独創”という言葉を僕が積極的に言うようになったのは、たぶん山内さんの影響だと思います。「お前らはケンカが弱いんやから、ケンカをするより、独自のことをやれ」というようなことをおっしゃっていた。まさに“独創”ということにつながる。そういうことを言われたのはすごく大きかったです。
任天堂以外では、糸井重里さんにも結構影響を受けています。「糸井教の信者じゃないか」と、よく言われるくらいで(笑)。
目の前にあるものをどう捉えてどう考えるかということについては、本当にいろんな勉強をさせてもらいました。流行の最先端を行っているようなポジションにいる人が、流行を追いかけるのではなく、自分のことをこつこつやっている。その姿やお話から、ものすごく学ばせてもらいました。
それから、この仕事のうえで直接の関係はないんですけど、もともとマンガ家を目指していたので、赤塚不二夫さんとか、手塚治虫さんには、本当にいろんなことを学んだと思います。
自分が新しいメディアの仕事をするようになってからは、マンガというメディアを生み出してきた人たちが、晩年、それをどんなふうに変えていったかということを考えます。最初に作った人が変えないと、後から入った人が変えるのは、なかなか勇気がいると思うので。
そういう意味では、僕もゲームを作り始めた世代なので、積極的に僕らが変えていかないと、後から入った人はやりにくいんじゃないかと思います。そういう学びがありました。
宮本茂氏が携わったおもな作品(一部)
『ドンキーコング』(1983年7月15日)ファミリーコンピュータ

『スーパーマリオブラザーズ』(1985年9月13日)ファミリーコンピュータ

『ゼルダの伝説』(1986年2月21日)ファミリーコンピュータ ディスクシステム

『スーパーマリオワールド』(1990年11月21日)スーパーファミコン

『スーパーマリオカート』(1992年8月27日)スーパーファミコン

『スターフォックス』(1993年2月21日)スーパーファミコン

『スーパーマリオ64』(1996年6月23日)NINTENDO 64

『ゼルダの伝説 時のオカリナ』(1998年11月21日)NINTENDO 64

『ピクミン』(2001年10月26日)ニンテンドー ゲームキューブ

『nintendogs』(2005年4月21日)ニンテンドーDS

『Wii Sports』(2006年12月2日)Wii

『Wii Fit』(2007年12月1日)Wii

『Super Mario Run』(2016年12月15日)スマートデバイス


『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』(2017年3月3日)Nintendo Switch / Wii U

『Pikmin Bloom』(2021年11月1日)スマートデバイス ※配信元:Scopely Explore


『ピクミン4』(2023年7月21日)Nintendo Switch

















