サイゲームスより配信中のiOS、Android、PC(DMM GAMES)対応ゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』で、2022年4月19日に新たな育成ウマ娘“★3ヤエノムテキ”が実装された。その能力や、ゲームの元ネタとなった競走馬としてのエピソードを紹介する。

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『ウマ娘』のヤエノムテキ

公式プロフィール

  • 声:日原あゆみ
  • 誕生日:4月11日
  • 身長:159センチ
  • 体重:増減なし
  • スリーサイズ:B78、W54、H81

拳で風を叩き、大地を蹴り、決して人を傷つけない武術――もとい、レースで日々己を磨くウマ娘。
礼節を重んじる頑固者、と見せかけて、たまに子供っぽい血気盛んな本質がチラリと見える。
祖父母を想う気持ちは人一倍、そんな彼女の夢は、実家の流派をさらに磨き上げることである。

出典:『ウマ娘』公式サイトより引用

ヤエノムテキの人となり

 栗東寮所属の剛毅朴訥武闘少女。トレセン学園ではオグリキャップやスーパークリーク、メジロアルダン、サクラチヨノオーらと同じクラスで、ふだんは仲よく交流しながらもレースに向けては火花を散らし合う、いい関係を築いている。その様子はコミック『ウマ娘 シンデレラグレイ』に詳しい。史実ではその4頭のほかバンブーメモリーも同い年。

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 愛想を振りまくようなタイプではないが、中央に転入してきたオグリキャップに初対面で握手を求めたり、マスコミ対応でも敬語を忘れないなど、とても礼儀正しい。ただ、やや古風が過ぎており、オグリキャップに対して果たし状を渡そうとしてディクタストライカに「古風だなぁ」と苦笑される場面も……。なお、果たし状はオグリが料理主任とのやり取りに夢中になっていて無視された。

 じつはかつては粗暴な性格だったらしい。史実では気性面が荒いことで知られていて、引退レースで本馬場入場直後に大暴れしたほど。また、幼駒時代に牝馬を追い回すクセがあったため、放牧場では1頭だけにされていたというエピソードがある。孤高な一面はここからきているのかも。

 勝負服は彼女の古風な性格からか、巫女装束をイメージさせるデザインとなっている。カラーリングは史実の“白、赤一本輪、黄袖青一本輪”がモチーフとなっているようで、胴の赤一本輪はそのまま胴とグローブに、袖の黄色は帯の結び目、青一本輪は両腕に結ばれた手ぬぐいに使われている。

 また、史実での短く切り揃えられたたてがみや額の流星は、栗毛のショートヘアと前髪の模様という形になっており、四白(すべての脚の先端が白いこと)という珍しい特徴も手袋の先端や足袋のカラーリングに反映されている。

競走馬のヤエノムテキ

ヤエノムテキの生い立ち

 1985年4月11日、北海道浦河町の宮村牧場で生まれる。父はヤマニンスキー、母はツルミスター。近親でほかに活躍馬はおらず、牝系図を眺めるとヤエノムテキの圧倒的な功績が光っている。

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 生まれつき大柄な馬格をしていた。デビュー時の馬体重は500キロちょうどで、引退するまであまり変わらなかった。中距離馬としてはちょっと大きめ、といったところか。

 グッドルッキング・ホースの象徴とも言われる“四白流星”という特徴を持っていた。すべての脚の先端が白く、かつ額に流星模様があるというもので、非常に見映えがするのである。ただし、「天は二物を与えず」的なやっかみからか、日本に限らず海外でも「四白流星は走らない」と長く言われていた。

 ちなみにそんなことはなく、ヤエノムテキのほかに天皇賞馬タイテエムやダービー馬メリーナイスなど、四白流星の活躍馬はそこそこ出ている。なお、見目麗しいとされるもうひとつの特徴に“尾花栗毛”があり、そちらにはゴールドシチーなどがいるのだが、四白流星と尾花栗毛、両方の特徴を備えたまさに“世紀の美男子”とも言える馬も存在する。後に東京競馬場の誘導馬となったトウショウファルコで、重賞2勝に終わったがファンの多い馬だった。

【MCターフィーのピックアップホースSHOW】トウショウファルコ~尾花栗毛の貴公子 | JRA公式

 ヤエノムテキは抜群の勝負根性と優れた瞬発力の持ち主で、終盤の競り合いに強かった。ただ気性が非常に荒く、引退レースの有馬記念で放馬してしまったり、それが原因で引退式が行われなくなったりしている。

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 活躍したのは芝の中距離戦。適性距離は2000メートルで、基本的に苦手な競馬場はなかったがとくに東京競馬場が得意と言われていた。勝利したGIはふたつとも東京2000メートル戦である(1988年の皐月賞は東京開催だった)。

ヤエノムテキの血統

ヤエノムテキ血統表

 父ヤマニンスキーは現役時代、日本で走って22戦5勝、条件馬のまま引退している。競走馬としての実績はないに等しかったが、血統面で注目されて種牡馬入りした。

 というのも、当時マルゼンスキーが種牡馬としても大旋風を巻き起こしていたのだが、種付けできる数には限りがあり、さらに種付け料も高騰していたため、代替種牡馬として父が同じニジンスキーで、母の父も同じバックパサーという血統のヤマニンスキーが注目されたのだ。そしてほかの有力馬を押しのけて馬産地でプチ人気を誇ることになる。

 ヤマニンスキーの代表産駒にはヤエノムテキのほか、1989年のオークスを制したライトカラーなどがいる。

 ちなみに、のちに父、母父、母母父(プリンスキロ)までがニジンスキーと同じというラシアンルーブルが輸入され、1991年のオークス馬イソノルーブルを輩出するなど、こちらも人気を集めた。とにかくマルゼンスキーが優秀で、みんなそれにあやかりたかったのだ。

 一方、母のツルミスターは未勝利馬。しかし、血統的な見どころの多さとそもそもの素質が買われ、生まれ故郷の宮村牧場で繁殖牝馬となることに。

 ツルミスターは母系をさかのぼると、小岩井農場が明治40年に輸入した“基礎輸入牝馬”20頭のうちの1頭であるキーンドラーにまで行き着くという、歴史ある血統。『ウマ娘』のヤエノムテキが古風な性格になったのは、これも由来のひとつかもしれない。

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 ツルミスターの子は、ヤエノムテキのほかには中央で活躍するような馬は生まれなかったが、孫世代以降も含めて地方で活躍する馬は何頭か出ている。

ヤエノムテキの現役時代(表記は現在のものに統一)

「東京の二千に咲いたムテキの舞」(JRA『ヒーロー列伝 31』より)

 ヤエノムテキは栗東の荻野光男厩舎に入った。荻野師は母のツルミスターも管理しており、彼女にヤマニンスキーを種付けさせることを進言するなど、ヤエノムテキの生まれに大きく関わっていた。

3歳(クラシック級:1988年)

 もともとは2歳夏にデビュー予定だったヤエノムテキだが、まだ体ができあがっていなかったために栗東トレセンで立て直すことになった。結果として、デビューは年明けまでずれ込むことになる。そして1988年2月27日、小雨がパラつく阪神競馬場のダート1700メートル新馬戦でようやく初陣を飾るのだった。

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 鞍上は1984年のジャパンカップでカツラギエースを駆ってシンボリルドルフを下したこともある名手、西浦勝一騎手(のちに調教師に転身し、カワカミプリンセスなどを手掛けた)。前目からレースを運び、直線に入って先頭に立つとそのまま7馬身差をつけて圧勝する。中2週を挟んで出走した沈丁花賞(中京競馬場ダート1700メートル)では2番手に大差をつけて連勝。

 あまりの強さに「デビューは遅れたが、クラシックも狙えるのではないか?」と感じた陣営は、急遽連闘でGIII毎日杯への出走を決める。皐月賞への優先出走権はないため、例年メンバーが手薄となるこのレース。2着以内に入って賞金を加算すれば、皐月賞への出走が大きく近付くはずだった。

 しかし、そこで立ちはだかったのが“怪物”オグリキャップだった。前走でGIIIペガサスステークスを制していたために他馬よりも2キロ重い斤量を背負っていたが、それでもなお楽勝で差し切ったのだ。ヤエノムテキは連闘というムリもたたってか4位に沈む。

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 しかしヤエノムテキ陣営はラッキーだった。規定によりクラシック競走への参戦を許されなかったオグリキャップのぶんも含めて、この年は2勝馬が皐月賞に出られる枠が3つも残されていたのだ。ヤエノムテキはそこで抽選を突破し、皐月賞へと歩を進めることとなる。

 さらにこの年の皐月賞は東京競馬場での開催。東京芝2000メートルのコースでは内枠が有利とされていたが、ヤエノムテキは最内の1枠を抽選でゲットした。

 こうした好条件が整う中で好スタートを決めたヤエノムテキは、スムーズに好位で追走。消耗を最小限に抑えて最後の直線へと向かう。直線では、先に抜け出したサクラチヨノオーが恰好の目標になってくれて、それを捉えて先頭に躍り出る。まさに図ったような好展開で、わずかキャリア4戦目でのGI制覇を果たしたのだった。

1988年 皐月賞(GⅠ) | ヤエノムテキ | JRA公式

 毎日杯でオグリキャップに完敗した9番人気の馬が皐月賞を制したことで、世間は騒がしくなる。「オグリキャップが出ないダービーなんてタコが入っていないタコ焼きや!」などと言われたかどうかは定かではないが、第55回に日本ダービーは“笠松の怪物”抜きで、ややピリっとした空気の中開催されることとなった。

 レースは最後の直線、坂で激しい攻防がくり広げられる。そして栄光を掴んだのは、残り200メートルから脅威のド根性で差し返した皐月賞3着のサクラチヨノオーだった。ヤエノムテキは距離の壁に阻まれたか、最後伸びきれずに4着に終わる。

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 その後は7月頭のGIII、中日スポーツ賞4歳ステークス(2001年より“ファルコンステークス”に改称、距離も1800メートルから1200メートル、1400メートルと変更されている)に出走。ここでは春のクラシックで辛酸をなめたサッカーボーイ(『ウマ娘 シンデレラグレイ』に登場するディクタストライカのモデルと言われている)から半馬身差の2着に敗れる。

 短い休養を挟み、秋は9月のオープン特別UHB杯から始動。ここを横綱相撲で楽勝すると、菊花賞トライアルのGII京都新聞杯(当時は10月開催)では、上がり馬のスーパークリークらを一蹴して勝利。1番人気で本番を迎えるのだった。しかし、菊花賞ではいつもの勝ちパターンに持ち込むも最後の直線で失速。勝ったのはスーパークリークだった。

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 ダービーに続く敗戦で、「ヤエノムテキの適性は1800~2200メートルの中距離戦であり、2400メートル以上の長い距離は難しいのではないか」という見かたがファンのあいだに広がっていく。そんな中、次走に選ばれたのはジャパンカップでも有馬記念でもなく、当時2500メートルかつ12月に行われていたGII鳴尾記念だった。そして勝つには勝ったものの、格下相手にハナ差の辛勝だったため、長距離レースが向いていないという疑念は確信へと変わっていくのだった。

4歳(シニア級:1989年)

 年明けのGII日経新春杯(当時は2200メートル)で2着と好走すると、次走は4月のGII産経大阪杯(当時)に出走。ゴールドシチーらを退け、2着に3馬身半差をつける快勝だった。6月の宝塚記念では中距離向きの適性がハッキリしたことでファンの期待も高まり、1番人気に支持されるが直線で伸びずまさかの7着敗戦。勝ったイナリワンから1秒6もの大差をつけられる完敗だった。

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 休養を挟んで臨んだ秋競馬では、調整に失敗して前哨戦を使えず、天皇賞(秋)にぶっつけで挑むことになってしまう。そこで待ち受けていたのは、スーパークリーク、オグリキャップ、メジロアルダンという同期の好敵手たちとの、歴史に残る死闘だった。しかし、試合勘の差なのか最後ついていけずに4着に敗れる。なお、このレースは毎日杯以来、なかなかローテーションが交わることのなかったオグリキャップとの、1年半ぶり2度目の対決であった。

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 この年の年末には、再び長距離レースに参戦。有馬記念に臨んだ。レースではスタミナの消耗を避けてペースの上下が少ない後方にポジションを取るが、先団に追いつくにはいたらずに6着。勝ったのはイナリワンだった。

 この時期、ヤエノムテキにはショックな出来事があったと言われている。じつはヤエノムテキには片想いの相手がいた。同い年で、桜花賞とエリザベス女王杯で2着に入った牝馬シヨノロマンである。調教などトレセン内で彼女の近くを通るたびに、ヤエノムテキは彼女のほうをじっと見つめていたのだという。しかし当のシヨノロマンはそんなことはつゆ知らず、いつもつれない態度で、しかもこの年いっぱいで引退して繁殖牝馬として北海道へ帰ってしまう。そしてその後もう会うことはなかった。あわれヤエノムテキ……。

 このエピソードはトレセン内のウワサがいつしかファンのあいだにも広まったもので、オグリ世代の個性派としてヤエノムテキの知名度を上げるのにひと役買っていた。

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 ちなみに、シヨノロマンの5代母は“あの”シラオキ様である。つまり、マチカネフクキタルやスペシャルウィークらとも遠縁ということ。そしてシヨノロマンの交配相手にはナリタブライアンの名前もあるが、ヤエノムテキの名前は残念ながらどこにもない……。

5歳(シニア級:1990年)

 “失恋”の影響は関係ないだろうが、ヤエノムテキは年が明けてもピリッとしない。日経新春杯2着のあと、少し短いGIIマイラーズカップに参戦するも3着。4月の大阪杯も3着だった。

 この3レースは斤量が59~60キロとなっており、競走馬にとっては酷なものではあったのだが、それでも勝てていないのは事実。陣営はついに鞍上交代というカンフル剤を注入し、この年の5月からは岡部幸雄騎手を起用する。それでも安田記念はオグリキャップに、宝塚記念ではオグリに加えオサイチジョージにも敗れ、春は5戦して1勝もできずに終えてしまうのだった。

 秋は前年に続き、ぶっつけで天皇賞(秋)へ。もはやオグリキャップらの“ライバル”ではなく“引き立て役”、そんなポジションに収まりそうになっていたヤエノムテキだが、ここで名手岡部が圧巻の騎乗を見せる。

 4枠7番からスタートしたヤエノムテキは、先団がハイペースで飛ばす中、メジロアルダンやバンブーメモリーらとともに後方から進む作戦を採る。レース後半に入ると、ライバルたちは先行組をかわすために外に進路を取って前方進出を始めていく。しかし、ヤエノムテキだけはじっと最内に陣取って機をうかがい続けた。

 そしてチャンスは訪れる。最終コーナーから直線に入るところで、先行組が失速して外に膨れながら落ちてきたのだ。ポッカリと空いたインコース目掛けて、矢を放つように勢いよく突っ込んでいくヤエノムテキ。オグリキャップらライバルたちは、落ちてくる先行組を避けながら進まざるを得ず、若干のロスを余儀なくされる。そこでついた差が決定打となった。猛然と追い上げるメジロアルダン、バンブーメモリー、そしてオサイチジョージ。とくにメジロアルダンの末脚はすさまじかった。が、突き抜けるにはいたらず。1分58秒2、当時のレコードタイムでヤエノムテキが勝利を収めたのである。一分の隙もない、完璧な騎乗だった。

1990年 天皇賞(秋)(GⅠ) | ヤエノムテキ | JRA公式

 オグリキャップからの初勝利を獲得したこのときの激走を賞して、冒頭の“東京の二千に咲いたムテキの舞”というキャッチコピーが生まれたという。

 続くジャパンカップは外国馬たちの脅威の追込に敗れて6着。有馬記念は、本馬場入場直後に大観衆に驚いたのか岡部騎手を振り落として放馬してしまい、消耗した状態で出走したこともあって7着に敗れた。勝ったのは「終わった」と言われていたオグリキャップだった。

 ヤエノムテキはこのレースで引退。自身のライバルにして稀代のアイドルホースであるオグリキャップの、最後の“奇跡”を見届けた。

 なお、この放馬を“ヤエノムテキがみずから引退式を行った”パフォーマンスだというジョークもあった。個性派としての最後の舞台を勝利で飾ることは叶わなかったが、ファンの記憶に鮮明に残ったのは間違いない。

 通算成績は23戦8勝、重賞5勝(うちGI2勝、GII3勝)、総獲得賞金は約5億1千万円。最強オグリ世代の一角として、ライバルに恥じない好成績だった。

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ヤエノムテキの引退後

 種牡馬入りしたヤエノムテキだったが、産駒成績は振るわなかった。そこで将来を案じた有志たちが“ヤエノムテキ会”なる支援組織を結成。彼らの支援もあってか日高スタリオンステーションで種牡馬生活が続けられることになり、種牡馬引退後もそのまま功労馬として余生を送る。そして2014年3月、腸閉塞で死去。享年29歳(あと2週間で30歳だった!)の大往生だった。

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