日本から世界へ広がった『ファイナルファンタジー』の歴史を振り返る

『FF』はどのように世界に広がっていったのか? 坂口博信氏と浜村弘一ファミ通グループ代表が“国際日本ゲーム研究カンファレンス”にて語る_01

 2015年5月23日、京都・立命館大学 衣笠キャンパスにて、ミストウォーカーコーポレーション代表の坂口博信氏と、KADOKAWA・DWANGO 浜村弘一ファミ通グループ代表による講演“ファミコンから世界へ~ 『ファイナルファンタジー創世記』に見るJRPGグローバル化の系譜”が行われた。

 この講演は、2015年5月21日~23日の期間、立命館大学にて実施された“国際日本ゲーム研究カンファレンス”の基調講演にあたる。同カンファレンスは今回が3回目の開催。2015年は、任天堂が欧米市場向けにファミリーコンピュータ(Nintendo Entertainment System)を発売して30周年を迎える年であることから、今回は“世界化する日本のポップカルチャーとその源流:Nintendo Entertainment System 世界進出の意味を問う”をテーマに、さまざまなセミナーが実施された。

 世界に広がったゲームコンテンツの中でも、とくに有名な『ファイナルファンタジー』シリーズ。その生みの親のひとりである坂口氏が語った講演の内容をリポートしていこう。

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▲講演は、浜村代表が聞き手となり、坂口氏が質問に答えていく形で進行した。

■『ファイナルファンタジー』の誕生

 坂口氏がゲームにハマったきっかけは、アップルのコンピュータ“Apple II”だった。『ウィザードリィ』や『ウルティマ』、『トランシルバニア』などにハマり、学友であった田中弘道氏とともにハードとソフトを研究していくうちに、「自分たちでも作れるかな」と考え、1983年、設立されたばかりのスクウェア(現スクウェア・エニックス)に入ったという。

 1983年はファミリーコンピュータ(以下、ファミコン)が発売された年でもあるが、『ファイナルファンタジー』第1作が発売されたのは、それから4年後の1987年。当時、同人作品のような感覚で作れたPCゲームに比べると、ファミコンのゲームを作ることの敷居は高かったという。また、RPGのような長時間遊ばせるゲームは、データを保存できなければ楽しめないし、ファミコンの容量では足りないとも思っていたそうだ。

 だが、その考えは『ドラゴンクエスト』によって打ち破られる。ならばスクウェアでもファミコンでRPGを作ろう、とプロジェクトが始まった。立ち上げ当初はスクウェア社内でも「RPGを作れるわけがない」と不人気なプロジェクトで、集まったメンバーは4人。だが、その中には天才的なプログラマーであるナーシャ・ジベリ氏がおり、難題と思われた数々の仕様を実現させた。また、新しい開発スタッフを採用したところ、河津秋敏氏、石井浩一氏という、後のスクウェアを支える名クリエイターが集まり、ついに『ファイナルファンタジー』が完成した。

 ちなみに、『ファイナルファンタジー』というタイトルは、“FF(エフエフ)”という、アルファベットで表記できる、かつ4音で発音できる略称で呼ぶことを前提に名づけられたもの。最初は“ファイティングファンタジー”というタイトルにするつもりだったが、同名のボードゲームがあったため、変更したという。世間では、「これが最後のプロジェクトという心づもりで作ったから“ファイナル”だ」という理由から名づけられたのだ、という説が広まっているが、坂口氏は「確かに当時は背水の陣だったけれど、Fで始まる単語ならなんでもよかった」と、その説を否定した。

 『ファイナルファンタジー』は、北米でも『Final Fantasy』として発売されたが、当時はゲームに詳しい翻訳家もおらず、英語の文がウィンドウに収まらないこともあって、北米版の開発では苦労したとのこと。また、ターン制のRPGは北米にはなかったため、北米のユーザーには“異文化”のものとして受け取られたのではないか、と坂口氏は語った。

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■海外での展開は手さぐりが続く

 『ファイナルファンタジー』の後、日本では『ファイナルファンタジーII』、『ファイナルファンタジーIII』が発売されるが、海外ではこの2作は発売されなかった。国内版を作るだけで精一杯で、海外向けにローカライズする余裕がなかったことや、“ターン制RPGが受け入れられるのか”という不安が依然としてあったからではないか、と坂口氏は振り返った。

 北米で『Final Fantasy II』として発売されたのは、スーパーファミコン(北米ではSuper Nintendo Entertainment System)で登場した『ファイナルファンタジーIV』だ。北米では攻略情報が出回っていないこともあり、国内版よりも難易度を下げて発売(後に、日本でも“イージータイプ”として発売される)。アクティブタイムバトルシステムが導入された初のタイトルであり、これならば以前のターン制の作品よりも北米のユーザーに受け入れられるのでは、という考えもあったそうだが、手応えはそこまではなかったとのこと。

 続く『ファイナルファンタジーV』は、またしても北米で発売されていない。本作はジョブチェンジシステムが特徴だが、「メニュー画面に滞在している時間が長いゲームは、北米のSuper Nintendo Entertainment Systemユーザーに対して売るのは難しいのでは」という考えられたためのようだ(当時、海外のコアゲーマーは、おもにPCゲームを遊んでいた)。

■『ファイナルファンタジーVII』で世代が変わった

 その後北米では、『ファイナルファンタジーVI』が、日本での発売から半年ほど後に『Final Fantasy III』として発売される。このときは、まだ大ヒットと呼べるほどではなかったが、続く『ファイナルファンタジーVII』で、状況は大きく変わる。北米と欧州で、600万本ほどを販売する大ヒットを記録したのだ(ナンバリングも、国内版と揃えて『Final Fantasy VII』に)。

 プレイステーションにプラットフォームを移した『ファイナルファンタジーVII』。カセットからCD-ROMに変わったことで、デモディスクを安価で用意できるようになったため、海外ではデモディスクを配布したりと、プロモーションにかなり力を入れたという。

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▲当時、週刊ファミ通編集部で『ファイナルファンタジーVII』の開発中の画面を見た浜村代表は、「世代が変わった」と感じたとのこと。

 『ファイナルファンタジーVI』が発売されたのは1994年、『ファイナルファンタジーVII』が発売されたのは1997年。これまでよりもかなり時間をかけ、研究しながら作られた。グラフィックを3DCG中心に移行し、数々の挑戦を取り入れた本作は、国内においても海外においても、『ファイナルファンタジー』のブランドを改めて確立させるタイトルだったのだろう。

■最新作『テラバトル』もまた、世界へ

 2015年3月に開催されたGDC(ゲーム・デベロッパーズ・カンファレンス)2015にて、坂口氏は生涯功労賞を受賞した(受賞時のコメントはこちら)。この賞は、坂口氏が『ファイナルファンタジー』シリーズなどを通じてRPGジャンルの拡大に貢献したことから贈られたもの。日本から世界に広がっていった『ファイナルファンタジー』シリーズが、ゲーム業界にとってどれほど意義のあるものだったかということを、この賞が示していると言えるだろう。

 坂口氏の最新作は、210万ダウンロードを超えたスマートフォン向けRPG『テラバトル』。ライトな雰囲気のゲームが多いスマートフォンアプリの中で、大人向けのテイストが際立っている作品だ。

 浜村代表は、その大人向けのテイストを最初に見たときに、「これがスマートフォンで受け入れられるのだろうか?」と驚いた、と語った。これを受けて、坂口氏は「改めて見ると、(『テラバトル』は)FFV、VIのころと似ている」とコメント。カジュアルなテイストのスーパーファミコンソフトが多い中、大人向けの描写を取り入れた『ファイナルファンタジー』シリーズ。スーパーファミコン時代の取り組みを、いま、スマートフォンでもう一度行っているということに、坂口氏自身も驚いていた。

 そして『テラバトル』もいま、『ファイナルファンタジー』シリーズが世界に広まっていったように、海外で展開されつつある。坂口氏は、「自分が作ったものが世界中に広まり、愛されるのは本当にありがたい」とコメント。そして、ファミコンから始まった、日本のゲームコンテンツの世界への伝搬に感謝している、自分だけではなく日本のクリエイターは皆そう思っていると語り、講演を締めくくった。