「そしてスタンリーは左のドアを通った」

ゲームにおける“選択”そのものをメタフィクション的にゲーム化した『The Stanley Parable』は、なぜそんな選択をしたのか【GDC 2014】_13
▲左が本作の土台となったMOD版スタンリーを作ったDavey Wreden氏。右がリメイク/製品版のもうひとりのゲームデザイナーWilliam Pugh氏。

 本日アメリカのサンフランシスコで開幕した、ゲーム開発者の国際会議ゲーム・デベロッパーズ・カンファレンス(GDC)2014。Galactic CafeによるPC用アドベンチャーゲーム『The Stanley Parable』についての講演の模様をお届けする。

 詳細については、すでに掲載している紹介記事を参照してほしいが、あらためて簡単に説明しておくと、本作は一人称視点の探索ゲーム。2011年に『ハーフライフ2』のMODをリメイクした製品版が昨年秋にリリースされ、GDCアワードの本賞でも4部門にノミネートされている。

 そのテーマは、ズバリ“選択”。本作でゲームをスタートしてしばらくすると、ふたつの扉が目の前に現れ、ナレーターが「スタンリーは左のドアを通った」と語る。
 もちろん左側を通ってもいいのだが、右側に進むこともできる。しかし「台本」通りの展開ではなくなったことで、ナレーターはなんとか自分の知っている『The Stanley Parable』に引き戻そうと焦り、しまいにはスタンリーに語りかけ始める……。
 そう、本作はビデオゲームのインタラクティブ性の一部として欠かせない“選択”そのものを、メタフィクション的にゲーム化したものなのだ。

選択はチャレンジによって意味あるものとして成立している

 MOD版からのゲームデザイナーであるDavey Wreden氏は、ゲームにおける選択肢は一般的に、“目的を達成する、課題をクリアする、望ましい結果を得る”ために存在すると言う。
 例えばストラテジーゲームであれば“リソース収集”という結果を得るために、“すぐに結果が得られるけど効率はよくないA”、“すぐには結果が得られないけど長期的に見れば効率的なB”といった選択肢がある。
 つまり選択肢は、その選択に文脈を付加するチャレンジによって機能し、意味あるものとして存在できているのだと。

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選択だけの状態にしてしまったら何が残るのか?

 「では、その“選択を機能させているゲーム的なチャレンジ”を取り払い、選択だけにしてしまったら?」という挑戦をしたのが本作だ。それはまだゲームと呼べるのだろか、それともそうではなくなってしまうのか?
 だが、選択が外部的・ゲーム的な結果と結びつかなくとも、選択した主体であるプレイヤー自身には何かが起こっているはずだ。Wreden氏は、そこには依然として“意味ある自己との対話”、そして“選択を通じた自己表現”があると述べる。

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 では、どうやってそんな仕組みを作るのか? 「(何が正解か)自分達は全然わからない」と笑うWreden氏。
 “それでもいくつか言えそうなこと”として披露されたのも、選択は楽しいものであるか、または何を選択しているのかはっきりしたものであるべきで、さまざまな選択方法があった方がいいだろうといった程度。『The Stanley Parable』はあくまで、“選択をただの選択へと還元してみる”試みのひとつでしかないというのが同氏の考えだ。

 ここからはリメイク版をともに仕上げたWilliam Pugh氏に交代し、リメイク版での実例をもとに、どんな選択を用意したのかが明かされた。

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▲最初の選択。ナレーターという権威が「左のドアを通った」と言うのに従うか、あるいは反抗するのか?
▲電話を取るか取らないか? 時間制限とプレッシャー下でどう決断するかが迫られる。
▲階段を登って行った先で自殺できるシーン。ナレーターが途中で止めようと説得してくるが、決行するか? 1か0ではなく、時間経過に応じて選択が揺れ動くのを表現できたお気に入りのシーンとのこと。
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▲何周目かで、最初2つだった扉が増殖するシーン。突然選択肢がたくさん出てきてフリーズしてしまう人もいたとか。
▲同じく、大量の選択肢を用意したシーン。扉よりも、より直接的にたくさんの選択肢を見せている。
▲真っ暗になる死亡画面も選択のひとつ。リスタートするか、メニューに戻るか、それとも? 死亡画面はプレイヤーに「何かコンテンツ見逃したんじゃないか?」という恐れを抱かせる場でもある。
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▲銀行みたいに自分の番号が来るのを待たされるシーン。誰もいないし、待たなくてもいいんじゃないか?
▲「本作好きですか?」と問われる選択。「開発者が見てるんじゃ?」という自意識が絡んでくる難しいシーンだ。プレイヤー内部では、きちんと答えるか、ウソをつくかという選択でもある。
▲赤ちゃん(のボード)が火に向かっていくのを止めるかというシーン。時間制限を始めとしたさまざまな要素がつめ込まれた形。

確かに選択によって自分のある側面が浮き彫りにされていた

 自分のプレイを思い返してみても、ゲームデザイナー側が狙った通りの心理で選択に臨んでいたところが多々あり、確かに選択を重ねるに連れて、自分のある側面が浮き彫りにされたり、思いもよらなかった自分を発見することもあった。

 例えば「スタンリーは左のドアを通った」のシーンで、「左通ったっつうんだから左行こうぜ」という自分と、「右側通っちゃえよ、ゲームだし!」という自分のどちらを取るのか?
 記者は最初は「うーん、右も行けそうだけど、まぁそう言うなら左通るか」と従うお人好しぶりを発揮していたのだが、「従わない方が話がぶっ壊れるしナレーターが困ったフリしてかわいい」と気づいた瞬間から、2周目は徹底して予想もつかないことをやってやろうと変貌。喜んで右を通ったり、右を通ってから戻って左に行ったり、試しまくる。
 それでもきっちり“予想外の事態”にオロオロするナレーションが用意されている(つまりゲームデザイナーの予想内の選択)であるのが楽しくて、最後にはゲームデザイナーと一緒に遊んでいる気分にすらなっていた。
 これはまさに、規定されたルールは守るのに(彼方までクルマがいない深夜の短い横断歩道でも信号をかたくなに守ってみるとか)、ルールの穴を見つけた瞬間に全力で遊び始める記者のアレな性格をうまく炙りだしている。

 25分で実験的作品の背景を説明する忙しい講演ということもあり、これ以上の内容はなかったのだが、次に『The Stanley Parable』をプレイする時には、もう一度最後まで「自分はどうしたいか」に従って選んでみたいと思った次第だ。
 個人的には、本講演ではそれほど大きく語られなかったが、『The Stanley Parable』がゲームとして成立するには、スタンリーが何か選択するたびにオロオロと話し続けるハメになるナレーターの存在も大きいと感じているのだが。(文・写真・取材:ミル☆吉村)