Galactic CafeによるPC用アドベンチャーゲーム『The Stanley Parable』を紹介する。
本作はDavey Wreden氏が2011年にリリースした『ハーフライフ2』のMOD(現在も公開されている)を、新要素などを加えてセルフリメイクしたもの。Steamで定価15ドルで販売されているほか、体験版も配信中。
本作の主人公スタンリーは、とあるビルで“従業員427番”として勤務し続けてきた。その業務内容は、スクリーンの指示に従って特定のキーを指定された時間押すというシンプルなもの。
彼は毎日、そして何年も、この業務を幸せとともに遂行してきたが、ある日、異変が起きる。指示がやってこないし、どうも同僚たちの姿が見えない。いったい何が起こったのか? スタンリーの新たな物語が始まる……。
『The Stanley Parable』は、公式サイトの言葉をそのまま借りれば「物語、ゲーム、そして選択についての探索」である。実験的小説がしばしば小説というフォーマットを解体しにかかるように、本作は(インタラクティブなストーリーメディアとしての)ゲームを解体しようと試みる実験的ゲームなのだ。
……というわけで突然ですが、その説明をするにあたって多少のネタバレがあるので、ここまでで何となく気になった人はもう、ここから先を読まずに、ソフト本編を買うなり、体験版を落としてみてはいかがだろうか? 実験的小説がいつも小説として面白いわけではないように、このゲームは人を選ぶと思うが、記事のタイトルと動画とここまでの説明で何となくピンと来た人なら、まぁ多分想像した通りの体験が出来るんじゃないかと思う。
ちなみに、ゲーム本編がゲームのフォーマットを解体しようとする作品である以上、体験版もよくある「本編の一部を遊べる」ようなものではまったくなく、体験版のフォーマットを解体しようとする独自の作品になっている。なのでサクッと本編を購入したとしても、そちらを遊ぶ前に一度体験版からスタートするのをオススメしたい。
限られた選択肢と、語り部VSスタンリーの攻防
さて、指定されたキーを押す人生を送ってきた虚構的人物スタンリーとはつまり、コントローラーなりマウス&キーボードを持った我々のことである。我々はゲームで遊びながら、「□ボタンで殴れ」、「Aボタンを押してジャンプしろ」、「左クリックで射撃」などなど、ゲームデザイナーが用意した行動を実行してきた。
画面上では、それらはゲームプレイの一環なりQTEなりとして、「激昂した主人公が思わず友人を殴る」とか、「崩れゆく床からギリギリジャンプして切り抜ける」とか、「危機一髪、テロの首謀者を射殺する」といった物語の一部として表現される。プレイヤーの選択したアクションによって、物語が進んだのだ。
しかし、そこに自由はあるだろうか? 複数の選択肢が用意されていることもあるが、それらは常に限定的で、インタラクティブな(双方向性)メディアとしては不完全だ。『The Stanley Parable』は、メタフィクションの手法をゲームのストーリーテリングに取り込むことで、この現実に向き合おうとする。
本作には「スタンリーはこうした」、「スタンリーはこう思った」とスタンリーの行動や心情をナレーションとして語る“語り部”がいるのだが、すべて彼の言葉通りに行動していく台本通りの“正しいStanley Parable”から外れた瞬間から、語り部はスタンリー=プレイヤーへとツッコミを入れたり、台本の存在をバラしたり、しまいには勝手に物語をスタート地点へリセットするようになる。
表層的な“正しいStanley Parable”の物語を体験させようとする語り部と、それに従ったり裏をかいたりするスタンリーの攻防こそが、真の『The Stanley Parable』の体験なのだ。
言うまでもなく、スタンリーがプレイヤーであるように、この語り部とはゲームデザイナーの化身である。もちろん、小説が想像してもいないことをほとんど表現できないように、ゲームもまた、ゲームデザイナーが想像してもいないことはほとんど表現できない。
例えば「スタンリーは左のドアを通った」というナレーションに反して右のドアを通ったスタンリーに語り部がツッコミを入れるようなシーンでは、そういった「想定外のことに直面した反応」は、ゲームデザイナーが「右のドアを通ることもある」と想定していたからこそ示せるのに他ならない。
“作り手が想像していないことは表現できない”という限界に対して、読者やプレイヤーの勝手な解釈や想像も表現の一部と考えることもできるが、それにも限界があるし、そもそもスタンリーの取れるアクション(プレイヤーの世界への介入手段)は限定的だ。前後左右の移動とボタンのクリックとしゃがむぐらいしか用意されておらず、例えば突如スタンリーが脱糞してこの作品を決定的に汚し、ゲームデザイナーに反逆するようなことはできない。
プレイヤーの行動に対する反応を古典的な分岐で処理している以上、結局その限界を超えることができず、ゲームデザイナーの手のひらの上で冒険するしかないというのは、このコンセプトからすると、決められたキーを押すスタンリーのループ仕事のようで切なくもある。
共犯となってループを破壊せよ
その代わりと言っちゃあナンだが、本作で努力しているのが、分岐をとにかく細かく取るということ。ぶっちゃけ、“正しいStanley Parable”を完走するのは恐ろしく簡単だし、定価に対して「うーん」と思うほど短い。しかしその短さに比して、“台本に反したスタンリーの選択”に対する物語のバリエーションは非常に多い。
基本的なアクションの種類を限定してあるだけに、マップの隙間を抜けて外に出てしまったスタンリー、ゲーム的な目的を無視して投身自殺を試みるスタンリー、右のドアを一瞬通るも語り部のツッコミを聞いてからやっぱり戻ってみるスタンリー、台が移動する途中で飛び降りないと行けない場所に進むスタンリーなんかに対しても、普通のゲームならノーリアクションだったりするところ、語り部はいちいち驚き、嘆き、次の対応に追われてくれる。
そうこうしている内に、進行に詰まった語り部が物語を強制リスタートしてくる場面が続くようにもなるのだが、スタンリーと語り部の攻防が続くに連れて、そのループも徐々に破綻していく。“正しいStanley Parable”の物語からどんどん外れるのは当然のこと、語り部すらも台本にあるナレーションを省略し始めたり(語り部としての職務放棄)、マップもゲームとして支離滅裂なものになったりする。
まぁ、それすらも意図されたものではあるけれども、まるでプレイヤーの反抗が『The Stanley Parable』の虚構世界にダメージを与えたかのように変化が起き、それに語り部が困り果てるのは、何とも愛おしくなってくる。
だってこの時、攻防とはいっても、実際のところは、プレイヤーはまさにゲームデザイナーの密かな期待に応えて反抗してみせ、ゲームデザイナーはそれに対してぶっ壊れた世界を報酬として提示し、お互いに共犯でループがぶっ壊れる方向に進んでみせたのだから。
そもそもこの物語は、スタンリーがループ人生から外れて出口を探す話である。“正しいStanley Parable”をただなぞるよりも、プレイヤーもループを繰り返しながら外側にそれていくほうが、ずっとStanley Parableらしいのである(となれば究極の形は進行不能バグということになりそうだが、エンディングのひとつは実際、物語のリスタートにすら失敗してどうにもならなくなる所で終わる)。
さて、『The Stanley Parable』の紹介は以上でおしまい。スタンリーが知らなかった世界の真実なんてどこにもないし、入れ子のタネ明かしをしてしまったら、記者が選んだ選択肢以外に残っているものが何もない。
……ところであなたのスタンリーはどんな選択をし、どんな結末を迎えるのだろうか?
(文・編集:ミル☆吉村)