サイゲームスより配信中のiOS、Android、PC(DMM GAMES)対応ゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』で、2023年2月24日に新たな育成ウマ娘“星3[Clear Bliss]ミスターシービー”が実装された。その能力や、ゲームの元ネタとなった競走馬としてのエピソードを紹介する。

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『ウマ娘』のミスターシービー

公式プロフィール

  • 声:天海由梨奈
  • 誕生日:4月7日
  • 身長:166センチ
  • 体重:増減なし
  • スリーサイズ:B84、W55、H80

自由なレースの世界を愛するウマ娘。
彼女の醸す常識に縛られない雰囲気は、不思議なカリスマ性がある。
――と、一見気ままな自由人に見えるがそれは、納得出来ないことは絶対にしない、そんな頑固さがあるからで……?実は人一倍不器用なウマ娘なのかもしれない。

出典:『ウマ娘』公式サイトより引用

ミスターシービーの人となり

 トレセン学園が誇る“三冠ウマ娘”のひとりで、飾らない自由人。1コマではふだんからひょうひょうとしていて、「行きたかったから」雨のなか傘も差さずに散歩に出掛けシンボリルドルフに呆れられている様子も描かれている。

【ウマ娘・元ネタ解説】ミスターシービーは常識外れの三冠馬。父と母の運命的な出会いや雨が好きな由来など史実とゲームの元ネタを紹介

 そんなルドルフにとっては数少ない“先輩”であり、ライバル。また、ナリタブライアンやアドマイヤベガ、ナリタタイシンらがいる“屋上の常連たち”のひとりでもある。先輩組のマルゼンスキーとは仲よしで、よくいっしょに行動しているようだ。なお、マルゼンとミスターシービーは寮には入らず、ひとり暮らしをしているという共通項もある。

 エイシンフラッシュの育成イベントではルドルフに呼ばれて練習相手として登場し、その実力と心意気を見せつけていた。ともにモデル馬が驚異的な斬れ味を武器としていたという共通点があり、『ウマ娘』の世界で新たな物語が描かれるかもしれない。コミック『ウマ娘 シンデレラグレイ』では“永世三強編”から本格的に出番が増えてきており、強者オーラとともにちょっぴり不安な(単位が)学園生活が垣間見られる。

 笑みをたたえていることが多く穏やかそうな性格に見えるが、納得できないことは心にしまっておけずに正面からツッコんでしまう、不器用で頑固な一面も。サポカイベントでは、山道で出会った人(うさんくさい)が押しつけてくる“マナー”をハッキリと拒否し、怒らせていた。

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 一方で詩的な一面があり、サクラチヨノオーの育成シナリオでマルゼンスキーと語らう場面などでその片鱗が見られる。モデル馬と、その鞍上の吉永正人騎手をこよなく愛した詩人で劇作家の寺山修司氏のイメージを重ねているのかもしれない。なお、寺山氏は1983年、シービーの日本ダービーを目前に48歳の若さで亡くなっている。

 勝負服は、セーラー服を布面積大幅カットで大胆にアレンジしたトップスに、ベルボトムのパンツというスタイル。髪には“CB”のロゴが入ったミニハット(制服やジャージ姿のときも同じもの)をつけている。トップスのカラーリングは、モデル馬の勝負服のそれ(緑、黄山形一本輪、白袖)をモチーフにしているものと思われる。モデル馬は美しい容姿で有名だったが、それもあってウマ娘のミスターシービーもオシャレなのかもしれない。

競走馬のミスターシービー

ミスターシービーの生い立ち・血統

【ウマ娘・元ネタ解説】ミスターシービーは常識外れの三冠馬。父と母の運命的な出会いや雨が好きな由来など史実とゲームの元ネタを紹介

 1980年4月7日、北海道浦河町の千明牧場で生まれる。ミスターシービーの“シービー”は生産者である千明牧場の頭文字(Chigira Bokujo)で、“ミスター”は“牧場を代表する馬”になってほしいという期待からつけられたもの。いかにこの馬に対する期待が高かったかがわかる。

 じつはこの名を持つ競走馬は彼が2頭目で、1頭目は1934年に同じく千明牧場で生まれ、日本ダービー10着、中山大障碍(現・中山大障害)3着などの成績を収めている。ちなみに2007年に日本ダービーを勝ったウオッカも2頭目(1頭目は牡馬だった)である。

※なお、登録抹消から5年が経過していれば過去の馬と同じ馬名をつけられるようになるのだが、GIレースを勝利した馬と同じ馬名をつけることは禁止されているため、規則が変わらない限り、今後3代目ミスターシービーや3代目ウオッカが登場することはない。

 シービーは血統もすばらしい。父は“天馬”と呼ばれたスターホース、トウショウボーイ。ひとつ年下のマルゼンスキーとの対戦機会はなかったが、持って生まれたスピードを活かして皐月賞、宝塚記念、有馬記念を制し同世代のテンポイント、グリーングラスとともに“TTG”時代を築いた。彼の主戦騎手には、武邦彦(武豊騎手の父)や福永洋一(福永祐一元騎手の父)などがいる。

 母はトウショウボーイと同い年のシービークイン。毎日王冠を当時のレコードタイムで勝つなど、強烈な逃げを武器に重賞3勝を挙げた女傑である。じつはこの2頭、同じレースでデビューしており(じつはTTGの一角、グリーングラスもいた)、それが引退後巡り合ったのである。

 しかもシービークインは、とあるアクシデントによりシービー以外の仔を残せなかった。そういう意味でもトウショウボーイとシービークインは、まさに“運命の相手”だったのかもしれない。

 ただ、トウショウボーイとシービークインは、繁殖馬としては本来結ばれない関係だった。というのもトウショウボーイは日高軽種馬農協が所有しており、同農協の組合員以外には種付け権がなく、千明牧場は組合員ではなかったのである。

 しかし、種牡馬としてはまだ駆け出しで、1頭でも多くの一流牝馬と交配させたい日高軽種馬農協と、テスコボーイの血が欲しかった千明牧場との思惑が一致し、“掟破り”と呼ばれる一度限りの交配が実現した。もっとも、これは農協担当者の独断だったらしく、後で盛大に怒られたらしい……。

 かくして生まれたシービーは、その血統のよさと見た目の美しさで早くから注目を浴びていた。トウショウボーイ産駒は多くが腰まわりの骨や筋肉のつきかたが弱いことが多いのだが、シービーに関してはそういった欠点もなく、高い能力を見せていた。

 馬格は大柄な父には似ずやや細身ではあったが、豊かなスピードと一瞬の斬れ味を備え、両親とは異なる追込戦法を武器に戦うことになる。素質的にはマイル~2000メートルくらいまでが適距離だったと言われるシービーが菊花賞を勝てたのは、その戦法がハマったからだとも言われている。

 性格は一途なタイプで、マジメ過ぎてカッとなってしまうところがあったらしい。追込戦法はタッグを組んだ吉永正人騎手の得意戦法であると同時に、行きたがるシービーに落ち着いてレースをさせるための作戦でもあったのだ。もっとも、どうしても出遅れグセが直らずに毎回後ろからレースを進めざるを得なかった、という事情もあったのだが……。

 一方で蹄が弱く、とくに古馬(『ウマ娘』でのシニア級)になってからはつねに悩まされていたという。勝負事にたらればは禁物だが、シービーが古馬になっても万全の状態だったら、シンボリルドルフとの対決はまた違った結果になっていたのかもしれない。

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ミスターシービーの現役時代

※記事中では、年齢は現在の基準に合わせたもの、レース名は当時の名前をそれぞれ表記しています。

2歳(ジュニア級:1982年)

 2歳になったシービーは、美浦の松山康久厩舎に所属することになった。松山康久師の父松山吉三郎師は、シービーの母シービークインを管理していた名伯楽で、調教師としての通算勝利数1358は歴代3位である。そして子息の松山康久師は、1994年に全国リーディング1位を獲得。歴代14位となる通算1001勝を挙げ、2014年に引退した。

 さて、シービーは1982年11月16日、東京競馬場芝1600メートルの新馬戦でデビューする。鞍上は母の主戦でもあり、松山吉三郎厩舎所属でもあった吉永正人騎手。このタッグは、引退するまで一度も替わることがなかった。レースはシービーが先行してそのまま抜け出し、5馬身差をつけて余裕の勝利。素質の高さを見せつけた。

 しかし2戦目の黒松賞(現在の1勝クラス)から、出遅れ癖が出始める。このレースでは後方からひたすら前を追いかけて、最後は何とかアタマ差で差し切ったが、ヒヤヒヤものの勝利だった。

 そして3戦目のひいらぎ賞(現在の2勝クラス)ではスターティングゲートで大暴れした挙げ句、またしても出遅れる。今度は前をムリに追いかけず追込戦法に切り替えるも届かず。2着とはいえ初の敗戦を喫することになった。

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3歳(クラシック級:1983年)

 年が明けて初戦は重賞の共同通信杯4歳ステークス。グレード制が導入されるのは翌年の1984年からで、この年までは重賞に制度上の格付けはない(ただし賞金額は異なる)。ここでは最初から後方待機策を採用し、前走でクビ差負けてしまったウメノシンオーに競り勝って重賞初制覇を決めた。

 続いて出走したのは報知杯弥生賞。この年までは芝1800メートル戦で、翌年から芝2000メートルに距離が変更となったレースだ。シービーはスタートは五分で決めたものの、後方3番手あたりから進む作戦に。そして3コーナーから早めにスピードを上げて先頭に迫っていき、ポッカリと空いた最内から一気に進出。最後はきっちり差し切って優勝を果たし、皐月賞への優先出走権を手に入れた。

 三冠第1戦の皐月賞当日はあいにくの雨となり、ドロドロの不良馬場に。そんななかスタートは上手く決められずに出遅れるが、かえってわかりやすい展開となった。泥んこの馬場に周囲が苦戦するなか、今回も3コーナーあたりから外目を回ってスイスイと進出していく。そして、最後の直線に入るとあっさりと先頭に立ち、最後はメジロモンスニーの猛追をしのいで勝利。父トウショウボーイに続く皐月賞父子制覇を成し遂げた。シービーだけでなく、松山康師、吉永騎手もクラシック初勝利となった。

 このレースには、のちにGI級競走で活躍するカツラギエース(ジャパンカップ制覇、『ウマ娘』にも登場予定)やニホンピロウイナー(マイルチャンピオンシップ連覇)なども参戦していたが、それぞれ7着、20着と惨敗。この時点ではシービーの敵ではなかった。

 なお、一般的には差し、追込馬には不利とされる馬場だったが、シービーは母シービークイン同様に重馬場を苦にしない馬だった。また、シービーの引退式は雨の中で行われた。ウマ娘としてのシービーが雨でも平気で散歩をしたり、サポートカードの取得スキルに“雨の日○”があったりするのは、こういうエピソードから来ているのだろう。

 続いて臨んだ日本ダービーでも、シービーはスタートでつまづいて後方からのレースとなる。しかし残り1000メートルを切ったあたりから3~4番手まで進出してきて、最終コーナーを立ち上がるとアウトコースから怒濤のスパートを開始。そのまま一気に先頭まで突き抜けると、メジロモンスニー以下を寄せ付けずに二冠を達成した。

 じつは4コーナーの出口にかけて、それまで2番手を走っていたタケノヒエンがアウトコースにヨレてきていた。シービーは何とかそれをかわしたのだが、そこでさらに外を走っていたキクノフラッシュと衝突してしまう。並みの馬ならそこで気持ちが切れてしまうところだったが、シービーはそこから猛然と追い込んで勝ちきったのだ。気迫のほとばしりを感じるような、すさまじい末脚であった。

 毎回のように出遅れては後方から進みながら、3~4コーナーで一気にまくっていき最後の直線で突き放す、シービーの不器用ながらもド派手なレースぶりは、多くの競馬ファンに愛された。そしてTTG以来下火になりつつあった競馬人気が、彼の走りによって再燃しようとしていたのだ。

 さて、夏場は輸送をともなう放牧ではなく、美浦に残って休養することにしたシービー。ところが、これが裏目に出て体調を崩してしまう。そこからの立て直しがうまくいかず、秋初戦の京都新聞杯(当時は秋開催)に出走するも4着に敗れてしまう。勝ったのは皐月賞、日本ダービーでともにシービーの後塵を拝したカツラギエースだった。

 その後体調は戻ったが、血統から見てもシービーは長距離戦は得意ではなさそうだという不安があった。父トウショウボーイの守備範囲は中距離まで、母シービークインもオークス3着の実績はあるが、長距離は走ったことがない。しかし前走の敗戦を受けてもなお、シービーの人気は揺るがずデビューから9戦連続で1番人気に支持されることになった。

 とは言え、いつもとやることは変わらない。スタートはまずまずだったが、スッと下げて後方から長い長い旅に挑む。

 一方で、先頭集団では異変が起こっていた。長距離を意識して抑え気味に進もうとする有力馬たちが、ことごとく行きたがり掛かっていたのだ。何とか落ち着きを取り戻したが、そのあいだペースは乱高下し、先頭集団にいた馬には少なくないダメージが刻まれた。後方で脚を温存したままマイペースで進んでいたシービーは、消耗戦に巻き込まれずレースの半分を乗り切ることに成功する。

 そして人々は、歴史を変える出来事を目の当たりにする。菊花賞でのセオリーは“淀の坂はゆっくり上り、ゆっくり下れ”というもの。ここで脚を消耗しては、最後までもたないというのだ。しかし、2周目の上り坂に入ったシービーは、みずから加速しだしたのである。相棒の吉永騎手もまた、シービーの行く気にまかせて押さえつけることはしなかった。

 出遅れ、大まくりまでは“持ち味”で済ませてきたが、ここまでの大立ち回りは前例がない。場内も思わずどよめいた。シービーはそのまま下り坂で先頭まで突き抜け、最終コーナーを立ち上がっていく。その勢いには、誰もついていけない。道中の半分以上を最後方でジッと我慢していたシービーは、3000メートルの菊花賞を実質ラスト1000メートルのレースにしてしまったのだ。

 それでも、これで終われないとライバルたちが最後の抵抗を見せて迫ってくる。だが、吉永騎手が左ムチを飛ばして最後に残していた脚に点火したところで勝負あり。ここにシンザン以来19年振りとなる史上3頭目のクラシック三冠馬が誕生したのであった。このレースで実況を務めた杉本清氏による「大地が弾んでミスターシービーだ」というセリフは、名調子としていまもファンの記憶に残っている。

4歳(シニア級:1984年)

 休養を取ったシービーは、年明けはAJCC(アメリカジョッキークラブカップ。『ウマ娘』ではアメリカJCC)から始動予定だった。しかし、雪で芝コースが使えずダートコースに変更される公算が高く(実際、この年はダート1800メートルで開催された)回避することになった。

 そこでつぎなる目標を中山記念に設定したが、今度は蹄の状態が悪化してしまい休養を余儀なくされる。

 シービーの4歳初戦は延びに延びて、秋の毎日王冠となった。久々ということで、これまでデビューから9戦守り続けてきた1番人気を譲り渡してしまったが(それでも差のない2番人気)、レースでは鋭い追込でカツラギエースからアタマ差の2着に入り健在ぶりを見せてくれた。

 次戦は、この年より3200メートルから2000メートルに距離が短縮された天皇賞(秋)である。序盤はハイペースで進み、いつものようにダッシュがつかないシービーは一時先頭と20馬身もの大差を空けられてしまう。しかしそこからがシービー劇場の始まり。3コーナーで進出を開始すると、観客席からは大きな歓声が上がる。

 そのまま先頭から7~8馬身ほどまで差を詰めて大外へ持ち出し、直線へ。最後の激坂で一気に先頭へ躍り出る姿はまさに千両役者だ。坂を上りきったところで大外からテュデナムキングが突っ込んでくるが、半馬身差まで。優勝タイムの1分59秒3は当時のコースレコード。シービーは2000メートル戦となった天皇賞(秋)の最初の王者となるとともに、四冠目を手にした。

 この翌週に行われた菊花賞で、シンボリルドルフがシービーに続くクラシック三冠馬となり、ジャパンカップでは史上初の三冠馬対決が実現する。しかし、天皇賞(秋)での激走はどこへ行ったのか、シービーは見せ場もなく10着に敗れた。

 だが、勝ったのはルドルフではなく、シービーの栄光の影で苦汁をなめ続けてきたカツラギエースだった。このレースで不屈の逃げを見せたカツラギエースは、“ジャパンカップで初めて勝利した日本馬”という歴史的な存在になったのである。なお、ルドルフは3着と健闘し、翌年は優勝を果たすことになる。

 シービーとルドルフの対決は引き続き有馬記念でも行われたが、シービーはいつものように3コーナーから大まくりを仕掛けようとしたところ前が塞がってしまい、抜け出すのに手間取ってスパートが間に合わないという思わぬ事態に。先に抜け出したルドルフが1着、逃げ粘っていたカツラギエースが2着となり、シービーは3着に終わった。

 じつはこのころ、シービーは蹄の状態がまた思わしくなくなっていて、それにともない闘志にも陰りが見えていたらしい。また、追込という戦法のデメリットも顕在化していた。多頭数のレースでは、いい状態のコースに多くの馬が集中する。そのため、先にコースを選べる先行馬は有利で、追込馬は最悪進路が塞がれてしまうのだ。

5歳(シニア級:1985年)

 この年はサンケイ大阪杯(当時はGII)から始動。またしても出遅れ、さらに前が詰まるという苦しい展開となるが、自力で抜け出し猛然と追い込む。しかし、勝ったステートジャガーとは3キロの斤量差が響いて最後に競り負け2着。

 そしてルドルフとの3回目の対決となる天皇賞(春)を迎える。スタートダッシュがつかずに最後方から追走を開始したシービーは、勝ちパターンである3コーナーからの大まくりを敢行する。しかし、先頭に出るどころか、いっしょに上がっていったスズカコバンにもついていけず、最終コーナーはルドルフと並んだ2番手で立ち上がることになる。

 ジャパンカップでも有馬記念でも見られなかった、2頭の競り合いが実現するか……と思われたが、すでにスタミナを使い果たしていたシービーに、ルドルフと戦う余力は残っていなかった。何とか掲示板を確保(5着)したものの、ルドルフからは10馬身以上離された大敗に終わった。

 その後は立て直しを図ったものの、脚部不安が再発、悪化したため8月に引退を発表。10月6日、雨中の東京競馬場で引退式が行われ、現役生活に別れを告げるのだった。

 通算成績は15戦8勝、重賞6勝(GI4勝)、通算獲得賞金は約3億9千万円。三冠馬なのに賞金額が少なく感じるかもしれないが、当時の優勝賞金は現在の半額からそれ以下なので、これでも破格の数字である。

 引退後は種牡馬シンジケートが組まれ、社台スタリオンステーションに繋養されることに。クラシック三冠馬として大きな期待がかけられた。

引退後のミスターシービー

 種牡馬としての初年度から多くの繁殖牝馬を集めたシービーは、新種牡馬ランキングで1位を獲得するなど上々の滑り出しを決める。しかし、トニービンやブライアンズタイム、サンデーサイレンスなど、海外から有力な種牡馬がつぎつぎと輸入されてくると、三冠馬という看板の功罪か種付け料が高額だったこともあって、シービーは徐々に活躍の場を奪われていく。

 1996年にレックススタッドに移動し、1999年には種牡馬を引退。その後シービーは、千葉県の千明牧場三里塚分場で功労馬として余生を過ごすことなるのだが、そこには実の母で繁殖牝馬を引退していたシービークインも繋養されており、約20年ぶりに母子の再会が実現した。

 翌2000年12月15日、蹄葉炎の悪化のため21歳で死亡。母はそれから約3年ほど生きて2004年1月10日に31歳で亡くなった。老衰だったという。

 その奇跡のような生い立ち、つねに目が離せない劇的すぎるレースぶり、種牡馬時代の苦難など、シービーが行くところにはつねにドラマがあった。ウマ娘としてのシービーは、いったいどんな感動を与えてくれるのだろうか。

【ウマ娘・元ネタ解説】ミスターシービーは常識外れの三冠馬。父と母の運命的な出会いや雨が好きな由来など史実とゲームの元ネタを紹介