内容をザッと言えば

DVD『ATARI GAME OVER』プロデューサー黒川氏に聞く、アタリショックのこと、DVDのこと、『E.T.』のこと_01
▲発掘された『E.T.』のカートリッジ。

 2015年9月16日に、『ATARI GAME OVER』というDVDが発売される。内容をザッと言えば、過去にアメリカでアタリショックと呼ばれるゲーム市場の崩壊があったときに、大量のゲーム機やゲームソフトがニューメキシコの廃棄場に埋められたという、半ば都市伝説として流布していた話があった。それが伝説ではないことを確かめるために、実際に掘り返そうとする人々の試み、そして当時の関係者の証言を集めたドキュメンタリームービーだ。

 先日9月5日には、このDVDの先行上映会が実施され、そこでもこのアタリショックについて解説がなされた。今回は、この日本語版のプロデューサーである黒川文雄氏を訪ね、アタリショックについて、DVDの見どころ、一連の事象のシンボルとなる『E.T. The Extra-Terrestrial』(以下、『E.T.』)というソフトについて尋ねた。

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ATARIの歴史

 DVDの内容や見どころを語る前に、少しアタリショック、いやATARIという会社について説明をしておこう。記者もかつて週刊ファミ通誌上で洋ゲーの連載を担当し、一度ATARIについていろいろと調べた過去がある。以下は、当時の資料や、黒川氏の解説、一般的に言われている事実などをザッとまとめたものだ。


 PDP-1と呼ばれるコンピューターが大きな大学の研究室などで稼動していた1960年代。スティーブ・ラッセルというマサチューセッツ工科大学の学生が『Space War!』というゲームを開発した。これは不特定多数のプレイヤーに遊ばれた初のビデオゲームとも言うべきもので、評判を呼び、同じPDP-1を使っている施設のあいだでコピー(メディアは穿孔紙!)され、拡散していった。

 ノーラン・ブッシュネルというユタ大学工学部の学生もその魅力に取り憑かれたひとりだった。彼は地元カリフォルニアで世界初のテープレコーダーなどを作っていたエレクトロニクス会社、アンペックスに就職してからも、『Space War!』を商品化する機を窺い、電子部品の値が下がると自宅を改造し、アーケード用となる『Computer Space』の開発を開始。テッド・ダブニーなど同僚を巻き込みながらナッチング・アソシエーツ社に転職し、1971年には発売にこぎつける。

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▲『Computer Space』。筐体が美しい。

 だが、この『Computer Space』は操作の難しさなどから人気が思うように出なかった。一方そのころ、マグナボックス社によって世界初となる家庭用ゲーム機“オデッセイ”のお披露目が行われ、これを視察したブッシュネルは刺激を受け、独立して新会社を設立。テッド・ダブニーとともに、カリフォルニア州サンタクララにATARIという会社を設立したのだ。これが1972年6月のこと。社名はブッシュネルの好きな囲碁用語から取られた。

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▲『ポン』筐体。

 アンペックスから後輩のアラン・アルコーンを引き抜いたブッシュネルは、彼にオデッセイで楽しめたピンポンゲームに似たものを作らせ、『ポン』という名のゲームが1972年11月にでき上がる。これが爆発的にヒット。1974年には『ポン』の家庭用ゲーム機『ホーム・ポン』を発売したり、その年に入社していたスティーブ・ジョブズが、スティーブ・ウォズニアックを関わらせて作った『ブレイクアウト』(ブロックくずし)を1976年に発売したりなど、ATARIは「いまでいうところのGoogleやFacebookなみに短期間で急成長を遂げ」(黒川氏)たのだ。

 そんななか、業務用ビデオゲーム機の制作・販売の拡張や、新しい家庭用ゲーム機の開発、そして資金繰りの安定化を想定し、ブッシュネルは株式の売却を考えた。結果、1976年10月にワーナー・コミュニケーションズが経営権を取得。このときにワーナー側から送り込まれた経営陣の中にレイ・カサールという人物がおり、後に経営方針やエンタテインメントに対する考えかたの違いから、ノーラン・ブッシュネルと犬猿の仲になっていく。

 経営がひとまず安定したもとで、カートリッジ差し替え式の家庭用ビデオゲーム機、アタリ ビデオコンピューターシステム(ATARI VCS)はそうして1977年に発売された。だがこの翌年となる1978年にブッシュネルは経営方針の違いで経営陣と衝突し、ATARIを去ることになる。

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 VCSはというと、発売当初こそさほど芳しくない売れ行きだったが、1980年に『スペースインベーダー』を移植すると、これが大ヒット。翌年には累計の販売台数が1000万台を突破する。ほかにも『Yars' Revenge』や『レイダース/失われた聖櫃(アーク)』など、100万本以上売れたソフトがいくつも誕生し、「当時は飛ぶ鳥を落とす勢い」(黒川氏)だったという。

 しかし発売から5年が経過した1982年に入ると、サードパーティの増加にともない、ソフトの過剰な供給、品質を省みない粗製濫造などいろいろな問題が歪みを大きくしていく。同年に発売された『パックマン』は『スペースインベーダー』に次ぐヒットとなったが、内容は劣悪であり、また受注に関する経営上の失策から、稼動している本体の数以上のソフトが製造されるなど、ATARIを圧迫していく。

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「おそらくそれはレイ・カサールをはじめとする、ワーナー・コミュニケーションズから送り込まれた役員たちの方針であったのだろうと思いますが、とくに『E.T.』という悲劇のゲームカートリッジは、クリスマス商戦に間に合わせるべく、わずか5週間で作られて世に出ることになります。諸説ありますが500万本ほど市中に売り出されたのですが、実際に売れたのは約100万本ほどでした。結果、残りの約400万本が返品されたことでATARIの資金繰りは急速に悪化。同時に、親会社であるワーナー・コミュニケーションズからの資金援助やキャッシュフロー援助がきびしくなり、結論から言うと1983年にワーナー・コミュニケーションズの株が大暴落したと言われています」(黒川氏)

 同時期に市場には、競合機となるコレコビジョンや、コモドール64などのホビーパソコンも現れており、こうした複合的な要素からATARIの経営は急速に悪化していく。これらの総体がいわゆる“Video Game Crash of 1983”と言われるもので、日本ではのちに“アタリショック”として呼ばれることになる状況だ。このクラッシュにより、ATARI VCS(1982年に互換性のない後継機ATARI 5200が登場してからはATARI 2600と呼ばれるようになっている)の寿命がほぼ終わると同時に、ATARI自身は経営不振に陥り、1985年には家庭用ゲームとパソコンを扱うATARI Corp.と、アーケードゲームを扱うATARI GAMESに会社分割せざるを得なくなる。同時にアメリカのビデオゲーム市場そのものも冷え込み、1985年に向かって下降線をたどることになる。

 以上が駆け足のATARIの歴史となるが、この過程で1983年に「売れ残った大量のゲーム機やカートリッジがニューメキシコ州の廃棄場に埋めたてられた」という話があり、虚実もはっきりしないまま、半ば都市伝説めいて広まっていた。今回のDVDはその埋められた品々を掘り返そうと試みる人々と当時の関係者に事情を尋ねたドキュメンタリーなのだ。