「当時は宮本サンのことも知らなかった」
アメリカのネバダ州ラスベガスで、現地時間の12月6日から7日にかけて行われたイベント“PlayStation Experience”(PSX)。”It came to Japan! Working in the Japanese Game Industry”と題したパネルディスカッションには、海外からやってきてSCEなどの日本のゲーム企業で働いている人/働いていた人が集結し、自身の経験などを語った。
登壇者のひとり、ディラン・カスバート氏は、プログラマーとして在籍していたアルゴノート・ソフトウェアと任天堂との提携により当時18歳で来日するまで、日本のことはほとんど知らず、当初はディナーなどで宮本茂氏らを紹介されてもよくわかっていないような状態だったと笑いながら振り返る。
しかし、住んでいた北ロンドンと比較して「ディストピアからユートピアに来た」ような印象を受けた同氏は、後に任天堂で『スターフォックス』のプログラミングなどを手掛け、SCEA、SCEJを経て、現在も京都でキュー・ゲームスを率いてPixelJunkシリーズや『The Tomorrow Children』などを手掛けている。(ちなみに来日当時のエピソードは『スターフォックス64 3D』の開発をした際に掲載された任天堂公式サイトの“社長が訊く”で詳しく語られている。)
その他にも、「超オタクだったから」来日して一般企業に就職していたところ、友達の伝手でゲーム業界との思わぬ接点ができた人、もっと端的にプレイステーション時代になってから3Dゲームの勃興を目にして目指してきた人など、事情はさまざま。
Ubiモントリオールに在籍していたマッシモ・グアリーニ氏は、「日本に住んでゲーム会社で働いてみたい」という明確な動機で来日。グラスホッパー・マニファクチュアでディレクターとして『シャドウ オブ ザ ダムド』を手掛け、故郷イタリアに帰国後は自身のスタジオOVOSONICOを設立している。今年、スタジオの処女作となる『むらさきべいびー』をリリースしたグアリーニ氏は、自身のキャリアを通じて、ヨーロッパと北米と日本の3種類のスタイルを身につけてきたと語った。
となると気になるのが、その違い。あくまで自身が体験したものとしては、Ubiモントリオールではブレインストーミングに始まり、デザインコンセプトを共有して作り始めるのに対して、グラスホッパー在籍時は、同スタジオを率いる須田剛一氏ら、ディレクション側のビジョンが占める部分が大きいことが印象に残っているそう(なお『シャドウ オブ ザ ダムド』ではグアリーニ氏がディレクターで須田氏が共同プロデューサー)。
これにカスバート氏も、「ちゃぶ台返し」などの逸話の数々を持つ宮本茂氏らを例に挙げながら同意。となるとディレクション側とのコミュニケーションで必然的に困るのが、言語の問題だ。日本でのキャリアを通じて、日本語特有の表現や、言外の意味を含んでいることが多いことに悩まされたことも多いという。代表として挙げていたのが「メリハリ」。ちなみに、しっくりくるうまい言い換え表現がないらしく、集まった聴講者には「ローラーコースターのようにテンションに緩急があること」として説明していた。
一方でマッシモ氏は、当初は会議で話していて一語もわからないことがあったと苦笑。それで何とか乗り切ったのだから、それもまたスゴい話。言語について困った話は他にもいろいろあり、カスバート氏は日本の会話のノリに慣れてしまうと、帰国した際でも(英語で)「はい、はい、うん、あー」と、つい細かく合いの手を入れるのを奇妙に思われてしまうというエピソードを披露。
他の登壇者からは、アメリカで育ったのに突如日本に行くことになり、それまで「日本語学校に行きなさい」と言われていたのを「俺はゲームやりたいの!」とすっぽかしていた結果、中学時代に言葉がついていけず孤立してしまったというシビアな話も。「いや笑い事じゃないんだよホント……」と語っていたが、確かに思春期にそれはキツい。
東西の会社文化の違いにも話が及び、「配置転換が頻繁に行われる日本企業では、急なお願いをしてきたのがよく知らない同僚だからってイラッと来て変な対応をすると、しばらく後にその相手が隣の席になったりする(ので注意した方がいい)」というあるあるエピソードや、バレンタインデー/ホワイトデーの風習解説なども。純日本人からするとフツーのことでも、彼らからすると異国の文化。イベントの閉場間近で決して参加者が多くない中、それでもやってきた聴講者にとっては興味深い話となったようで、終了後も多くの人が残り、質問やネットワーク作りに励んでいた。