地方の小さなゲーム会社の誕生秘話と10年間の歩み
CEDEC 2014にて、2014年9月4日に開催されたセッションから、“とある女性が、地方で、小規模な、ゲーム会社経営をしている、というお話”をリポートする。
“とある女性”というのは、講演を行った中村心氏本人のこと。“地方”とは札幌のことだ。“小規模な、ゲーム会社”というのは、中村氏が代表取締役を務めるゲームドゥを指す。スタッフ総数13名、売り上げは約6800万円という規模のゲーム開発会社だ。おもにスマートフォン用アプリや、ニンテンドー3DS用のゲームを開発している。このセッションでは、経営はまったくの未経験だったプランナーの中村氏がゲームドゥを設立するに至った経緯と、10年近くゲーム開発で生計を立ててきた同社の歩みが紹介された。
■ハドソンのプランナーとしてオリジナルゲームを企画
まずは、子供のころからゲームが大好きだったという福井県出身の中村氏が、北海道でゲームドゥを設立するまでの経緯が明かされた。
ゲームの仕事に就きたかった中村氏は、1993年に高校卒業後、ゲーム開発者を育成する専門学校である、ハドソンコンピュータデザイナーズスクール(HCDS)入学のため札幌へ。翌年、ハドソンにグラフィックデザイナーとして入社するも、HCDSでゲーム作りをひととおり学んだことで、「本当にやりたいのはデザイナーではなくプランナー」だと気付いたという。そこで、オリジナルの企画書を作成して企画の部署に売り込み、プランナーへのジョブチェンジに成功したそうだ。やがて、若手の同僚たちと一緒に提案した企画が採用され、1998年にNINTENDO64用『ゲッターラブ!!』として世に出るなど、プランナーとして充実の日々を送るように。
そんななか、社内結婚した夫が数人の同僚とともに退職し、自分たちで会社を設立。すると、妻の中村氏が残っていることを快く思わない声も聞こえてきて、「辞めなきゃいけないのか、もうゲームは作れないのか」と頭が真っ白になったという。このとき、ゲームを作り続けるためにはどうしたらいいかを考え、転職しようにも北海道にゲーム会社がいくつもあるワケでもなく、漠然と「自分で会社を作らなければ」という意識が生まれたのだそうだ。
結局は辞めずに済むことになったが、居づらい空気を感じてしまったとのこと。その後、ゲームボーイアドバンス用『ハテナサテナ』を企画するなど、意欲的に仕事に取り組んでいたが、会社の方針でしばらくオリジナルゲームを作らないと決まったこともあって、2002年ハドソンを退職することに。辞めるときは、その後のことはあまり考えていなかったそうだ。
■フリーランス経験後、元同僚と会社を設立
退職後はフリーランスとして、知人からPC向けゲームの開発や、企画書作成などの仕事を請け負うことになった中村氏。個人事業主として、会社員時代には無縁だった契約書を取り交わしたり、開発費を管理したりと、経営的なことの経験が増えていったという。
一方、自らのオリジナル企画も完成させ、ゲーム会社へ持ち込んでみたものの、いちフリーランスの企画が簡単に採用されるワケもなく、「個人よりは法人のほうがいいかもね」と言われたりもしたそうだ。だが、その後もPCゲームを自主制作するなど、オリジナルへの情熱は失わなかった。
そんな2003年、著名なゲームクリエイターであるカプコンの岡本吉起氏が、独立してwebサイトを開設したのを見た中村氏。いちファンとして応援のメールを送ったことをきっかけに、岡本氏の知人が新しくはじめたモバイルゲーム開発会社モブキャストを紹介してもらったという。そこでのアプリ開発の仕事を定期的に受注するようになり、プログラムなどを依頼する外注スタッフも増え、取り扱う金額も大きくなってきたことで、税理士に相談。その結果、法人化したほうがいいということになり、ゲームドゥ有限会社を設立するに至ったということだ。
ここで、同社取締役でプログラマーの近藤掲氏が登壇。近藤氏はハドソン時代の中村氏の同僚だったが、大きなゲームのいち部分しか作れないことを欲求不満に思って退職し、やはりフリーランスのプログラマーとして活動していた人物。だが、会社員時代は名刺交換の経験もなかったということで、慣れない契約や交渉に精神をすり減らし、体を壊してしまったのだそうだ。それを見かねたフリーランス時代の中村氏が声をかけ、契約や交渉は中村氏が、プログラムは近藤氏が担当する形で、モブキャストの案件を順調に受注。法人化に至ったというエピソードが披露された。会社設立には仲間の存在も大きかったというワケだ。
■リーマンショックによる資金繰りの悪化も乗り越えて
ということで、ゲームドゥは有限会社として2005年7月に設立。資本金は300万円、役員とアルバイト、4月から採用予定の学生インターンなど、計6名でスタートを切った。その後、学生が社員になるなどして、順調に推移していったという。3年目にもなると、開発タイトル数は移植を含めて60本以上を数えた。
営業活動はとくにすることもなかったが、自社のホームページに開発したゲームを掲載していたところ、それを見たゲーム会社から「こういうゲームを作っているなら、こんなゲームは作れないか」と問い合わせが来るようになり、営業の代わりとなっていたそうだ。ちなみに、中村氏は東京に営業に行ったこともあるそうだが、残念ながら成果は得られなかったという。地方でゲーム作りをする上でのヒントになりそうだ。
その後、リーマンショックのときには、資金繰りが悪化するほど仕事が減った経験も。当時、ちょうどiPhoneアプリの開発が注目されていたことから、このタイミングで自社アプリの開発に挑戦したというが、これが奏功した。その後、レベルファイブのポータルサイト『ROID』で、自社アプリを販売できないかとコンタクトを取ったことをきっかけに、『キャバ嬢っぴ』というモバイルゲームのリニューアルを受注。これをニンテンドー3DS用に『シンデレライフ』として移植し、家庭用ゲーム機のゲーム開発にも携わるようになって、現在へと至っている。
そして最後に、今年10年目を迎えたゲームドゥの新しい取り組みとして、来年札幌で“SAPPORO CEDEC”を開催、中村氏が実行委員を務めるという発表もあった。
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以上、中村氏がゲームを作りたい一心で会社を設立し、札幌にいながら10年近くゲーム開発をしてきた歴史を振り返ったセッションからは、地方でゲーム会社をやっていくためのノウハウや、ゲームを作って生きるという夢をかなえるためのヒントがちりばめられていた。