“素人集団の発想”には大きなマーケットを作る可能性があった!?

 2014年7月24日、おなじみ黒川文雄氏による“黒川塾(二十) ”が、東京・御茶ノ水 デジタルハリウッド大学大学院 駿河台キャンパスにて開催された。

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▲ゲームの企画、プロデュースも手がける黒川文雄氏。

 黒川塾とは、“すべてのエンターテインメントの原点を見つめ直し、来るべき未来へのエンターテインメントのあるべき姿をポジティブに考える”というテーマのもと、各界の著名人を招いてトークを行う会。2012年6月に第1回が開かれ、今回で通算20回目の開催となった。前回(十九)では『ノーモア★ヒーローズ』 シリーズで知られるグラスホッパー・マニファクチュアのクリエイターである須田剛一氏が登壇するなど、ゲーム業界からも著名人が多数出席している。

 今回は、元ソニー・ミュージックエンタテインメント代表取締役社長 丸山茂雄氏、ソニー・コンピュータエンタテインメント創立メンバーのひとりであり内作タイトルの責任者でもあった佐藤明氏、そしてプレイステーション用ソフト『パラッパラッパー』の開発とプロデュースを手がけた松浦雅也氏がゲストとして参加した。

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▲左から、黒川文雄氏、丸山茂雄氏、佐藤明氏、松浦雅也氏。

 ここでは『パラッパラッパー』の開発経緯から、音楽をはじめとしたコンテンツのフォーマットの変革について、トークの内容をお伝えしよう。

■プレイステーションという新しい音楽を表現する場があってこそ、『パラッパラッパー』の開発の開発に着手した

 松浦氏がゲームを手がける前から考えていたのは「クリエイターは音楽だけを作っていくだけではいけない」ということだった。これは、元ソニーコンピュータ・エンタテインメント取締役業務部長であり、プレイステーションの立ち上げメンバーのひとりでもあった高橋裕二氏とともに仕事をしたときのエピソードも関係している。洋楽の仕事を担当していた高橋氏は、1980年代後半当時、駅にある公衆電話に音響カプラとノートパソコンをつなぎ、海外の音楽情報のサイトをダウンロードしていたそうだ。その最先端の技術を目の当たりにした松浦氏は、「僕が知っている音楽のイメージとは違う」と従来の音楽シーンからの変容を感じていたようだ。

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▲当時の『パラッパラッパー』の開発経緯を語る松浦雅也氏。

 松浦氏にとって1994年に登場した初代プレイステーションの衝撃は大きく、新しい音楽の表現をする場としてうってつけであると考え、音楽とゲームが融合した『パラッパラッパー』の制作を手がけることになった。松浦氏はゲーム開発の現場に立つことはこれが初めてで、当時の開発現場の苦労を、「オフィスに電源が足りず、エアコンの電源を流用したために夏にスタッフ全員上半身裸で作業することもあった」などと語った。丸山氏はゲームの開発について「音楽は企画は始まってからコンテンツが完結するまで大雑把に言って1年くらいの期間だけど、ゲームは3年かかっていて、それだけかかってしまうとミュージシャンとして埋没しちゃう危険もある」と、丸山氏は松浦氏がリスクを背負い、苦労していたことをねぎらっていた。

 結果的に『パラッパラッパー』は140万枚以上を売り上げ、その後に続々と音楽ゲームが生まれるきっかけとなった。佐藤氏によると、当時のゲームの売り上げは、日本のマーケットが全世界で80%のシェアを締めており、その状況でプレイステーションというプラットフォームでは、シミュレーションやアクションといったすでに枠が用意されているジャンルではなく、音楽を主にしたゲームを作りたいという発想があったそうだ。丸山氏は「先人がやっていることではなく、新しいフィールドで、隙間を狙うことは戦略のひとつ」と、のほかに類を見ないコンテンツだったからこそ、『パラッパラッパー』の成功があったことを語った。

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 佐藤氏はその後に登場したKONAMIの『ダンスダンスレボリューション』を知って、「ゲームのクリエイターは音楽をこのように料理するのだと驚いた、ソニー・コンピュータエンタテインメント以外からも、こういうものが出てきてほしい」と新たな音楽ゲームの登場に期待していたそうだ。ちなみに、松浦氏はHarmonix Music Systemsの『ギターヒーロー』を手がけた開発チームに、クリエイターとして助言をしたこともあったとのこと。それは優れた新しい作品に、多数のフォロワーが生まれた結果なのだろう。

■音楽を提供するフォーマットは絶えず変容し続けていた

 松浦氏はゲームを手がける前に、MD、CD、レーザーディスクなど、27のもフォーマットで作品を提供されていたそうだ。また、松浦氏はアナログで録音されたもの、コンピュータにデジタルで作られたものなど、全部ひっくるめたものが自身の作品であり、ひとつのフォーマットで記録されたものだけが世の中に出ることに疑問を感じていたとのこと。松浦氏は失敗したフォーマットの体験があったとしても、その“試行錯誤”は重要であり、自分のやりたいことを表現するために必要であったそうだ。

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 丸山氏は、当時はデジタルからアナログへの転換期で、映像媒体もVHSかベータかと、多くのソフトウェアの開発者が「つぎの主流はこれだ」と供給先を模索していた時代であり、「技術が変わると音楽の表現のしかたも変わる、そして音楽を技術が追いかけることもある」と技術と音楽が同時に進化し続けていたことも振り返っていた。

 松浦氏によると、映像技術や表現方法が進化し続けたために、音楽というエンターテインメントは“ひとくくりにならない”ようになってきたそうだ。そこに現れたプレイステーションという、音楽に大きな表現力を持たせることができるフォーマットが生まれたことは、革命的な進化でもあったのだろう。

■“素人集団の発想”の可能性とは

 黒川氏は、ソニー・コンピュータエンタテインメントの成功に“素人集団の発想”があったためだと分析し、「プロが作ると確かに完成度の高い作品が生まれる、しかし素人が作るとたまに大化けするマーケットが生まれる」と、その可能性について語った。

 佐藤氏は、「当時のソニー・コンピュータエンタテインメントには“怖いもの見たさ”があった」「比較の対象がないから、誰も参戦していない分野だからやりすかった」「経験値はないが、キャッチーなところを捕まえるのがうまく、立ち位置もわかっていた」「ブランド力を持って、大人を含めたマーケットを作ろうという目的がはっきりしていた」と分析。また、「最近のソーシャル・ゲームにしても、『サンシャイン牧場』など比較対象のない、前例のないゲームを立ち上げるのはおもしろいこと」とも語った。

 最近はクリエイターの名前が前面に出てこないことも話題について、佐藤氏はスマートフォン用ゲーム『モンスターストライク』を手がけた岡本吉起さんなど、もっと名前は出てきていいはずだと、クリエイターにブランド力があってほしいと願っているようだ。

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 丸山氏も「コンテンツを提供する場がつぎつぎと変わって来ていて、クリエイターはいろいろな技術を使い倒して開発している。それでも、つぎの技術が四方八方から出てくる。そして、また新しいクリエイターが出てくる。我々にとってそのクリエイターに巡りあうチャンスが減っているのが残念。だけど、またそうしたクリエイターと知り合いたい」と、絶えず変容していくコンテンツで活躍するクリエイターに期待を寄せていた。

 なお、トークでは丸山氏の著書『往生際』のことも話題にあがった。一同は著書の内容を振り返りながら、丸山氏の人物を「才能をある人をまわりに置いているのがいい」「会社のお金の使いかたがこれほどうまい人はいない」「これほど幸せな人いないではないか」と賞賛していた。『往生際』では丸山氏の音楽プロデューサーとしての活躍、自身が食道がんになったときの出来事などが綴られている。ぜひ一度、読んでみてはいかがだろうか。

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▲中央にあるのは、“黒川塾”2周年を記念したケーキ。

(取材・文:編集部/オスカー岡部)