『バーチャファイター』の20年を振り返る

 2013年12月26日、エンタテインメント業界の各所で活躍してきた黒川文雄氏が主催するトークイベント“エンタテインメントの未来を考える会”(黒川塾)の第15回が開催された。

 今回のテーマは“バーチャファイター/20年後の未来”。世界初の3DCGの対戦格闘ゲーム『バーチャファイター』は1993年12月、セガから発売。全国のアーケードに導入されると、2D格闘ゲーム全盛の当時、その3DCGのリアルな動きにゲームファンは魅了され、『2』は社会現象になるほどの一大ブームとなった。その『バーチャファイター』シリーズもついに20周年。今回の黒川塾では、『バーチャファイター』のリアルイラストを描き起こしたイラストレーターの寺田克也氏、先日最終回を迎えたテレビドラマ『ノーコン・キッド ぼくらのゲーム史』で当時のムーブメントを取り上げている脚本家の佐藤大氏、取材記者のみならずプレイヤーとしても一世を風靡した“新宿ジャッキー”こと羽田隆之氏、そして『バーチャファイター』の産みの親である鈴木裕氏らがゲストに招かれ、『バーチャファイター』とは何か、ムーブメント足りえたものは何か、などを中心に語られた。

黒川塾(15)に鈴木裕氏も登場! 20周年を迎えた『バーチャファイター』を開発者とメディア、プレイヤーの視点から語る_08
黒川塾(15)に鈴木裕氏も登場! 20周年を迎えた『バーチャファイター』を開発者とメディア、プレイヤーの視点から語る_05
鈴木裕氏
1958年6月10日生まれ。1983年株式会社セガ入社。アーケードゲームとして『ハングオン』『スペースハリアー』『アウトラン』『アフターバーナー』『パワードリフト』『G-LOC』など、ゲームセンターにおいて“体感ゲーム”というジャンルを確立し、数々の歴史に残る大ヒット作品を生み出す。1992年には初の本格3DCG作品『バーチャレーシング』を発表。以降3DCGゲームのパイオニアとして世界的に影響を及ぼす。1993年には社会現象を巻き起こした大ヒット作『バーチャファイター』を発表。同作品はアメリカのスミソニアン博物館粕にビデオゲームとしては初となる永久展示作品となる。マイケル・ジャクソン、スティーブン・スピルバーグ、など海外の著名人が鈴木裕氏をリスペクトしたことはゲーム業界では有名な逸話である。2003年にはAIAS主催サミットにて滴all of Fame(栄誉賞)、2011年にはGDCアワード パイオニア賞を受賞するなど、ゲーム業界代表するクリエイターの一人。2008年11月 株式会社Ys Netを設立し現在同社代表取締役社長。
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黒川文雄氏
東京都生まれ。アポロン音楽工業を経て、ギャガコミュニケーションズ(現在のギャガ)にて映画配給宣伝、セガエンタープライゼス(現在のセガ)にてゲーム宣伝を革新的に進化させ、ゲーム内広告を世界で初めて展開。デジキューブにてゲームソフトのコンビニ流通を開拓、デックスエンタテイメントにてFLASHを用いた世界初のネット型対戦カードゲーム「アルテイル・ネット」を展開、ブシロードにて取締役副社長、製造管理、海外販売、オンラインゲーム開発。NHNJapanにては家庭用ゲームメーカーとの大型の共同タイトルを企画開発、運営まで。あらゆるエンタメジャンルに精通したメディアコンテンツ研究家であり、本イベント・キュレーター。
寺田克也氏
マンガ家、イラストレーター。 岡山県玉野市生まれ。マンガ、小説挿絵、ゲーム、アニメのキャラクターデザインなど「絵を描く事」を軸とした幅広い分野で営業中。メビウスを代表とするフレンチコミック(BD=バンドデシネ)の洗礼を10代で受け、同時にベースにあるアジアの「線」を意識した絵作りで国内外にて活動中。代表作に「西遊奇伝大猿王」、「ラクダが笑う」(以上マンガ)、「バーチャファイター」シリーズ、「BUSIN」(以上ゲームキャラクターデザイン)、「ヤッターマン」(キャラデザインリファイン)、「仮面ライダーW」(クリーチャーデザイン)などがある。この2013年には京都マンガミュージアムにて自身のひと区切りとなる展覧会「寺田克也ココ10年展」を開催した。近年は仕事を離れた絵の展示をアメリカで実験的定期的に挑戦中。
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佐藤大氏
脚本家 19歳の頃、主に放送構成・作詞の分野でキャリアをスタートさせる。その後、ゲーム業界、音楽業界での活動を経て、現在はアニメーションの脚本執筆を中心に、さまざまなメディアでの企画、脚本などを手がけている。2007年「ストーリーライダーズ株式会社」を代表取締役として設立。脚本代表作:TVアニメ『カウボーイビバップ』、『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』、『ウルフズレイン』、『サムライチャンプルー』、『交響詩篇エウレカセブン』、『エルゴプラクシー』、『FREEDOM』、『東のエデン』、『LUPIN the Third -峰不二子という女-』 3DCG映画『鉄拳 ブラッドベンジェンス』、3DCG『Halo Legends』(【The Package】脚本担当) Playstation ゲーム『エースコンバット3 エレクトロスフィア』、3DSゲーム『バイオハザード:リベレーションズ』、『エクストルーパーズ』 実写ドラマ『ノーコン・キッド ぼくらのゲーム史』など。
羽田隆之氏
1989年、隔週刊行時の"ファミコン通信"編集部に入部し、家庭用ゲーム記事を作る。その後、週刊誌となった"週刊ファミ通"で悶々としていたところへ『バーチャファイター』がリリースされたことをきっかけに、ファミ通誌上で猛烈な記事展開を続ける。その後、バーチャファイター2のブームが社会現象化するに伴い、"バーチャの鉄人"として、"100人組手イベント"を始め、各種メディアに露出。2004年セガに入社。『VF5』制作チームに所属し、現在に至る。

『バーチャファイター』のキャラクターの原点は『バーチャレーシング』のピットクルーだった

 まず、最初の話題は『バーチャファイター』制作のキッカケとなった経緯について。当時、対戦格闘ゲームと言えば『ストリートファイターII』全盛の時代。アーケードゲームのヒット作を輩出していたセガだが、対戦格闘ゲームについては遅れをとっていた。当時のセガ社長の中山隼雄氏(現アミューズキャピタル代表取締役会長(CEO))はそのこと憂慮し、鈴木氏いわく、中山氏は何かにつけ『ストII』のことばかり言っていたとのこと(つまり、遠回しに「セガにも格闘ゲームを」というプレッシャーを開発陣にかけていたのだろう)。そのころ鈴木氏は3DCGのレースゲームという、意欲作『バーチャレーシング』を開発。次回作も、3DCGを使った作品を模索しており、『バーチャレーシング』に登場させたピットクルーを活用し、3DCGで“人”を表現したゲームを考えていたという。その題材としてラグビーやサッカーを考えていたが、当時の技術では、ポリゴンのキャラクターを2体表示するのがやっと、という時代。そこで鈴木氏は、2体のキャラクターだけで成り立ち、中山社長の意向も汲め、そして“いままでにない”3DCGの対戦格闘ゲーム『バーチャファイター』の開発を心に決める。

 開発当時、『ストII』のような対戦格闘ゲームは数多あったが、「それらすべてが『ストII』を越えられなかった。なので社内でも反対する意見は多くありましたね。ようやく企画が通っても、低予算で少人数。当時、スタッフは15人くらいだったかな(笑)」(鈴木氏)。だが、少人数であっても『バーチャレーシング』のピットクルー制作で培ったノウハウもあって、開発スタートからなんと約8ヵ月で『バーチャファイター』を形にしたという。

 ただ、開発は順調だったわけではなく、「もうダメかな」と思ったポイントも幾つかあったとのこと。たとえば、当時の基板の非力な能力で3DCGのキャラクターを動かすことが自体が困難、という技術的問題がそのひとつ。また、「誰がモーションデザインをするか、ということも開発当初は決まっていなかった」(鈴木)など、3DCGのキャラクターに動きをつけること自体にも多くの問題があったという。鈴木氏は華やかなグラフィックの2D格闘に勝るためには、“どれだけリアリティを出せるか”を重視していたと言い、リアリティを演出するためのモーションデザインは最重要課題として捉えていた。ただ、モーションデザイン担当者たちは格闘に関しては当然素人。「スタッフが格闘に素人のため、出来上がった動きも素人のものになるんですよね」(鈴木)。そこで鈴木氏がモーションデザイン担当たちに課したのは「パンチとキックの練習」だったのそうだ。マンガ『ゲームクリエイター列伝1』の“バーチャファイターを創った男達”のエピソードは本当だった!

 1993年の12月に正式稼動した『バーチャファイター』だが、その年の8月にアーケードゲームの見本市“アミューズメント・エキスポ(AOU)”に初めて、お披露目されることになる。出展された『バーチャファイター』は、「まだダンボールをつなぎ合わせたような程度のキャラクター」(鈴木)だった。だが、それだけでも見た者に与えたインパクトは十分だったようで、羽田氏は「とにかく衝撃でした」。当時ライターをしていたという佐藤氏も「その動きのリアルさに衝撃を受けました。でも、動きがない写真ではその衝撃を伝えらない。どう読者に伝えたらいいか悩んだ記憶があります」、同じく寺田氏も「ダンボールのキャラクターが人の動きをしている!」と、それぞれの“衝撃体験”を語った。

何もかもが新しかった『バーチャファイター』

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▲あるときの全国大会前夜祭、羽田氏はセガ公認の“鉄人”に認定されるも、翌日の大会で一回戦負けを喫したことで、“鉄人”を返上。正式に“鉄人”だったのは一夜限りだったことなど、当時のエピソードを披露。

 正式稼動した『バーチャファイター』は、世のゲーマーたちだけではなく、さらに広い層にも衝撃を与え、『バーチャファイター2』の登場でさらにブームは拡大。プレイヤー層を広げ、一大ブームとなる。その当時、セガの宣伝担当をしていた黒川氏は「メディアや一般プレイヤーが一体となって『バーチャファイター』を盛り上げてくれたからこそ、あそこまでのブームになったと思います」と振り返る。新宿ジャッキーこと羽田氏は、当時週刊ファミ通で編集を担当し、“バーチャファイタートゥデイ”コーナーで『バーチャファイター』の魅力を発信しつつ、プレイヤーとしても100人組手などで活躍。佐藤氏も『バーチャファイター』の特集記事を企画するなど、当時はゲーム雑誌編集者&ライターの熱量もかなりのものだった。ちなみに、当時の『バーチャファイター』ファンとしての思い出として、佐藤氏は“ポリゴンジャンキー”(クラブイベント)のDJをしていたことや(『バーチャファイター2マニアックス』にも掲載されている)、寺田氏は『バーチャファイター2』の筐体を自宅に運び込もうとしたが、筐体のサイズがデカすぎで一度は断念したことなど、バーチャジャンキーなエピソードも披露された。

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 なぜ、みんなこれほど『バーチャファイター』にハマっていったのか。

 当時の格闘ゲームのコマンドは、一部の基本的なコマンドを除いて、(リリース直後は)その多くは公開されず、プレイヤーたちが口コミでコマンドが広がり、攻略本などでようやくその全貌が確認できる、といった流れがふつうだった。6つボタンの格闘ゲーム全盛の時代、3つボタンの『バーチャファイター』は、グラフィックとともに入力操作自体も異質だった。「コマンド体系も当時のほかのゲームとは違っていて、手探りでコマンドを探して発見する、といったこともおもしろかったですね」(羽田)

 佐藤氏自身は「自分が学習して強くなっていくというスポーツ的な要素が魅力だった」と語る。そういった奥深さがひとつのレバーと3つのボタンというシンプルな操作形態で実現していることもまた『バーチャファイター』の特徴のひとつだ。

 3DCGのキャラクターがリアルに動いている、という衝撃もさることながら、何もかもが新しく奥深さも備えていたのが、人気を博した大きな要因にひとつであることは間違いないだろう。

 入力ボタン数を(当時の格闘ゲームよりも)少なくしたのは、プレイヤーの間口を広げるためだが、開発初期、鈴木氏は逆にコンパネ一面がボタンで埋め尽くされるような、ボタンを多数つけることも考えていたという。その意図は、いまのスマートフォンのタッチ操作のように、直感的に、かつアバウトに入力しても意図した操作(またはそれに近い操作)ができるようにしたかった、ということらしい。そういった誰も思いつかない発想をする、というのが鈴木氏らしいところだ。それが現実に至らなかったのは、コストの問題がその理由のひとつだったとのこと。ちなみに、「ボタンがたくさんあったら、すぐにどこかのボタンの調子悪くなってメンテナンスもたいへんそうですね(笑)」(佐藤)との感想に、鈴木氏は「いや、ひとつやふたつ利きが悪いボタンがあっても、たくさんボタンがあるほうが、かえって気づかないかもしれない」(鈴木)と即座に反応。もしかしたら、本当に真剣に検討していたのかもしれない……。

これからの『バーチャファイター』は?

 これからの『バーチャファイター』に話が及ぶと、鈴木氏から「『バーチャファイター6』はどうなっているの?」と逆質問。会場に訪れたファンたちも前のめりになる質問だったが、現在、セガに在籍している羽田氏は「今日はプレイヤーの立場で参加していますので(笑)」と華麗にエスケープ。鈴木氏は改めて今後の『バーチャファイター』について「自分は操作が苦手なので、操作がおぼつかなくてよく負けるのですが、たとえば、アタマで考えたことがプレイに反映できれば、プレイヤーの“判断の勝負”になりますよね。思ったことが反映されるような、これまでの入力と違う入力方法が実現すれば、ゲームが変わると思う」と発言。さらに、「そろそろホログラムを使ったゲームもできるかもしれない。ホログラムを使った格闘ゲームもおもしろいかもしれない」など、“いままでにないゲームを”との思いで『バーチャファイター』を作った鈴木氏らしい、独創的な考えを次々と披露した。

20年が経ち、今後の20年について

 最後の話題はこれからの20年について。それぞれが以下のような所感を述べた。

羽田:ゲーセンのゲームは“特別感”がありましたけど、これからのゲーセンもそうであってほしい。ただ、最近はスマホのゲームなども人気で、ゲームとの距離感が難しい時代。ゲームとの付き合いかたが問われているような気がします。

佐藤:僕はいまFPSやTPSなどをよくプレイしています。昔以上にゲームをやっているかもしれません(笑)。(羽田氏から「瞬間的に楽しめるものにシフトしていませんか?」との問いに)ああ、それはそうかもしれない。あと、ネットワークで楽しめるものが増えて、“出会い頭”のおもしろさもありますね。一方でスマホのゲームも楽しんでいます。“スマホにシフトしていくから”ゲームが終わる、ということを言われることがありますが、“スマホだから”という枕詞は違うと思います。そういうことで言うと、『タイタンフォール』や『ウォッチドッグス』がなぜ日本から出ないのか残念に思いますね。乱暴な言いかたをすると『タイタンフォール』は『装甲騎兵ボトムス』、『ウォッチドッグス』は『攻殻機動隊』にFPS要素を足したような作品ですよね? ですから日本から出てもおかしくないんですよ。日本のゲームメーカーにはがんばってもらいたいですね。

寺田:ゲームでは『バーチャファイター2』以外にも、『探偵 神宮寺三郎』シリーズなどのイラストを描いてきましたが、昔の作品であってもいまだ覚えてくれている方がいらっしゃいます。もはや携わってきたゲームとは切り離させないものになっています。これからも、お呼びがかかるなら、ずっとゲームの仕事にも関わっていきたいですね。

鈴木:昔と違って、いまは音もよくなって、絵も映画的な表現ができるようになりました。それに加え、ゲームにはインタラクティブ性もあって、エンタテインメントの要素が全部あります。さらに、ネットワークの充実で、人と人をつなげることが家庭でもできるようになりました。つまり、ゲームセンターでしか体験できないことを提示することが難しくなってきていますよね。なので、新しく話題性のあることを派手にやる必要があるかもしれないです。たとえば、空をスクリーンにするとか……(笑)。

 
 『バーチャファイター』誕生から20年。黒川氏含め、ゲストの面々も当時と現在とでは所属や立場も変わり、改めて20年という時の流れを感じさせる。ゲーム業界を取り巻く環境も大きく変化し、『バーチャファイター』は今後どうなるのか。未来の『バーチャファイター』に期待しつつ、『2』、『3』にハマったことがキッカケで、ゲーム編集者となった筆者としては、現行機、もしくは新世代機向けにシリーズを移植してほしい、と思うのですがいかがでしょう?