社会でそれぞれが担う“役割”とは

 2012年8月20日、神奈川県横浜市のパシフィコ横浜で、ゲーム開発者向け会議“コンピュータエンターテインメントデベロッパーズカンファレンス2012”(CEDEC 2012)が開幕した。今年のテーマは“エンターテインメント・ダイバーシティ(Entertainment Diversity)”。ダイバーシティとは“多様性”を意味する単語だ。多様化するデジタルエンターテインメントの潮流の中で、ゲーム業界はどのように変化し、機能していくのか?

 開幕にあたってイベント冒頭では、主催するCESA(コンピュータエンターテインメント協会)の鵜之澤伸氏が挨拶を行った。鵜之澤氏は、CEDECがその多彩さと専門性から運営を外部に委託しづらく、各社からの絶大な支援で成り立っていると謝辞を述べた上で、今回のテーマに触れ、業界そのものが大きく変動し、ソーシャルゲームやF2P(フリー・トゥ・プレイ。基本プレイ料金無料)などゲームビジネスも多様化している中で、CEDECで情報共有をして発展に役立てて欲しいと語った。

「あなたはなぜゲームを作るのか?」桜井政博氏が語る自身のゲーム史とアイデアの源泉、そしてプロの役割【CEDEC2012】_01
「あなたはなぜゲームを作るのか?」桜井政博氏が語る自身のゲーム史とアイデアの源泉、そしてプロの役割【CEDEC2012】_03
「あなたはなぜゲームを作るのか?」桜井政博氏が語る自身のゲーム史とアイデアの源泉、そしてプロの役割【CEDEC2012】_02

 挨拶に引き続いて初日の基調講演を行ったのは、ソラの桜井政博氏。講演のテーマは“あなたはなぜゲームを作るのか”という根源的なもの。桜井氏はまず、“私はなぜゲーム業界に入ったのか”、“私の人生はコンピューターゲームの成長とともにある”として、1970年に生まれてからのゲームの歴史を追いながら解説を行った。

1970年代 『PONG』のようなゲーム(1973)/ブロックくずし(1976 ゲームが一人用になり、倒すべき相手が出てきた)/テレビゲーム15(1977 家でいくらでも遊べる据え置き型ゲーム)/スペースインベーダー(1978 ゲームの初めての社会現象)
1980年代前半 ゲーム&ウォッチ(1980 携帯ゲームの金字塔)、ウルティマ ウィザードリィ(1980 1981 コンピューターRPGの始祖にして雛形)/カセットビジョン(1981 日本のカートリッジ型据え置きゲーム)/各社のホームコンピュータ(1981-1982  FM-8、FM-7、PC-8801、PC-6001、IBM PC、ぴゅう太ほか)/ファミリーコンピュータ(1983)/ドアドア、ポートピア連続殺人事件、信長の野望(1983 PCゲームの台頭、ジャンルの拡充)/ナッツ&ミルク(1984 ファミコン初のサードパーティソフト)/ドルアーガの塔、ハイドライド、夢幻の心臓(1984 RPG的な攻略要素、成長などがあるゲーム)/ビデオ・ゲーム・ミュージック(1984 初のゲームミュージックアルバム)/ファミリーベーシック(1984 ファミコンでプログラムを作れるように)

 桜井氏は、その幼年時代、画面の中のものを操作できることに強烈な感動を覚えたという。『スペースインベーダー』でゲーム初の社会現象が起き、1980年代にさらにゲーム文化が花開く。“携帯ゲームの金字塔”と表現するゲーム&ウォッチなども1980年に発売され、桜井少年は据え置き機、アーケード、携帯ゲーム機でさまざまな作品に触れるようになっていく。そして1983年に発売されたファミリーコンピュータについては「圧倒的だった」と表現。アーケードで衝撃を味わった『ドンキーコング』と、かなり近いものが遊べることに驚いたのだとか。本格的な家庭用ゲーム機の時代の到来だ。桜井氏は、その年の内に貯金をはたいて、まだ四角ボタンの頃のファミコンを購入したそう。
 そしてゲームの世界はさらに広がっていく。PCゲームの台頭により新しいジャンルの代表作が出てきたり、ファミコンでサードパーティビジネスが始まりだしたり。そんな中で「自分の進路に大きく影響を与えるものが出た」、「これがなければ違う道に行ったのではないか」とするのが『ファミリーベーシック』だ。
 PCを買えなかった当時、ファミコンでプログラムの基礎が学べ、コントローラーでスプライト表示したキャラクターを動かせたことで、いかに設定すればどう魅力ある動きにできるか、表現を鍛錬することができたという。

1980年代中盤 スターフォースの全国キャラバン(1985 ゲームで遊ぶこと自体がイベントに)/ハングオン、スペースハリアー(1985 大型体感筐体の時代)スーパーマリオブラザーズ(1985 ビデオゲームの代名詞)/ファミリーコンピュータMagazine ファミコン通信(1985 ゲーム専用雑誌の幕開け)/セガ・マークIII(1985 日本における次世代ハードの走り、後方互換)/NES(1985 日本のゲーム機が本格的に海外進出)/ファミリーコンピュータ ディスクシステム(1986 家庭用ゲーム機の大容量化、セーブ可能に)/ゼルダの伝説、メトロイド、悪魔城ドラキュラ(1986)/メガROM(1986 ディスクシステムを上回る大容量化)/バッテリーバックアップROM(1986 ROMカートリッジでゲームの中断、再開が可能に)/ドラゴンクエスト(1986 日本のRPGの代表作)

 8ビット時代の花が一気に開いた1980年代中盤、桜井氏は当時進路を考えるにあたって「人は人の仕事によって生かされている」とおぼろげに感じていたと語る桜井氏。服にしても、コンビニで買う昼食にしても、クルマにしても、我々はたくさんのプロフェッショナルな人々の仕事の集積に寄り添って生きている。その道のスペシャリストが世界を築いているのだという結論から「特化していくことが重要」と考えた桜井氏は、青年時代に至り「実践的なことを早くやるほど有利」と考え、できるだけ早く現場に出てエンジニアなりになるべく、5年制の高等専門学校へ進むことになる。

1980年代終盤以降 群雄割拠の時代(1987 アーケード、PC、家庭用ゲームが大充実した)/PCエンジン(1987 アーケードばりの能力を持つ家庭用ゲーム機)/ドラゴンクエストIII(1988 社会的現象)/メガドライブ(1988 ファミコン時代のさらなる次世代グラフィック)/PCエンジンCD-ROM2(1988 光ディスクによる大容量化とストリーミング再生)/ゲームボーイ(1989 持ち出せるようになったビデオゲーム)/NEO-GEO、MVS(1990 業務用と同じ物をそのまま購入、レンタル可能)/スーパーファミコン(1990 ファミコンの後継となる主力機種)……。

 メガROMの時代から一気に光ディスクへと成長していった時代。桜井氏は高専での学業に疑問を持つようになり、しだいに自分はゲーム作りへ興味がシフト。ポケコンを借りてゲームを作ったり(16進数でドット絵を打っていたとか)しながら、進路変更を決意し、普通高校に行く事を決めると同時に、ゲームの研究を開始する。その上で、“楽しさが生まれる感触を身体で覚えること”を重視し、とにかく遊び倒したそう。そしてゲームデザイナーを募集していたハル研究所に応募し、ついにゲーム業界に入る……。

 ここからはスタイルを変え、ディレクターとゲームデザイナーを務めた作品の紹介と解説が行われた。
 まず紹介されたのは、もちろん『星のカービィ』。本作では、ファミコンのゲームを遊んだ結果、まだビデオゲームを遊んでいない人が入ってくる間口がないと感じたことから、とにかく初心者のみのゲームを作ろうとしたのだという。一方で『星のカービィ 夢の泉の物語』では、「早く作りたい」という願望からファミコンを選んだものの、成熟しきったゲーマー層を持つファミコンでリリースするにあたって、逆に初心者向けのゲームをそのままリリースするのは得策ではないとして、コピー能力を導入し、初心者は初心者なりに、上級者は上級者なりに遊べるように工夫したそう。
 そして『星のカービィ スーパーデラックス』では、2人同時プレイを実現。これは、宮本茂氏らがマリオでは同時スクロールが難しかったのを、カービィでは導入できないかと話していたことがきっかけとなり、主役と脇役に役割分けを行い、主役キャラクターにカメラを合わせることで可能にしている。また本作ではオムニバス形式を取っているが、重厚でクリアーまでに時間が掛かるタイトルが増えてきたことを受け、どんどんクリアーしつつ、最終的に大きな目標に挑戦できるようにするためだと解説していた。
 『大乱闘スマッシュブラザーズ』では、蓄積ダメージシステムや、画面外に飛び出すとミスといったシステムを導入。当時格闘ゲームがマニア化していて、覚えたコンボをどれだけ再現するかというような初心者が遊びづらい進化をしていたのを受けて、「もっとゲームはアドリブ性がきいたほうがいい」という考えから、ダメージでリアクションが変わる(ダメージが蓄積すると吹っ飛びやすくなる)デザインを選んだという。この点は『星のカービィ』での発想にも通じているだろう。ちなみに、場外アウトは『星のカービィ』の初期企画書にも盛り込まれていたそうだ。桜井氏はその後、『大乱闘スマッシュブラザーズDX』、『カービィのエアライド』などを手掛けた後、フリーランスへ。『メテオス』、『そだてて!甲虫王者ムシキング』、『大乱闘スマッシュブラザーズX』、『新・光神話 パルテナの鏡』などを手掛けていく。新作として開発中の『大乱闘スマッシュブラザーズ』最新作については、ひと言のみ「新キャラの新技を作るのは楽しい」とコメントしていた。

 では桜井氏は、どのようにゲームのルールや企画を考えているのか? 『メテオス』のアイデア自体は、空中での二次点火や連結といった要素も含めて、原型は5分で考えついたものだという。実は桜井氏自身は落ち物パズルは苦手だそうだが、“リスクとリターン”を重要視してきたことが効いていると語った。
 リスクとリターンとは何か。桜井氏は『スペースインベーダー』を例に挙げた。スペースインベーダーと砲台の距離が離れていればリスクもリターンも少ないが、近づいて縦軸が合うと、撃たれるリスクが高まる代わりに自分がインベーダーを倒せるリターンの可能性も高まる。また、これは攻略というプレイヤー側のレイヤーにも関係してくる。インベーダーの攻撃範囲は移動方向と逆にずれているので、インベーダーを追うように動くと、インベーダーの弾に自分が当たるリスクが高い代わりにリターンは得にくい。一方でインベーダーを迎撃するように動くと逆にリターンは得やすくなる。“リターンを得るためにリスクを犯す”、これがゲームの本質であるというのが桜井氏の持論だ。
 これはアクションゲームでも同様で、“マリオと敵がいる”というシチュエーションを考えると、敵が遠ければリスクは小さいが、近づくとリスクが上がる代わりにジャンプして攻撃するチャンスが生まれる。「ゲーム性は必ずしもゲームの楽しみすべてではない」としつつも、駆け引きを生むルールの意味を考えるのが肝要であるとする桜井氏。最初から“人が剣を振るゲーム”として企画するよりも、剣の攻撃範囲がどれぐらいであれば適切なのか、範囲が狭ければ、それによってどういうゲーム性が生まれるかを先に考えた上で武器を選択した方がいいのではないか、と語った。『メテオス』においては、“積み上がるブロックはリスクである”という認識が先にあったからこそすぐに企画ができたのだという。

 さて、ここで話は本題に戻る。なぜゲームを作るのか? 「自分が楽しみたいだけであればもっとハードなものを作ります」と桜井氏。そのためには「自分の社会的な役割は何かということを考えるべき」だという。これは先述したように、桜井氏が青年時代に考えていたことでもあるが、大仰なものではない。なぜなら、たとえ世界一の才能でなくとも「ここにいる多くの人がすでにスペシャリスト」、「普通の人が出来ないことを可能にするスキルがある」(桜井氏)からだ。
 桜井氏自身のゲームを作る理由は、好きだから、喜ばせたいからということもあるものの、内実は“向いているから”、“得意であるから”という感覚に近いという。ゲームは生活に不可欠なものではない娯楽製品だが、人が欲しいもの、人が楽しいものを作ることで、社会から得ている多くの恩恵に報いる、そのために自分が人より得意とするものをもって応えているのだ。

 一方で、桜井氏はここで消費という観点に立ち、“同じものならより安いものを買う”、“同じ値段ならよりよいものを買う”、“同じ質のものなら、より信頼出来るメーカーのものを買う”という尺度を示した。
 製品には買われるものと買われないものがある。これはゲームも人材も同じだ。同じ事を出来る人が多ければ、おのずと競争が激しくなる。たとえば日本で働いていると、人件費の高さがネックとなり、海外にアウトソーシングされてしまうかもしれない。プロジェクトが失敗しても会社から給料が出ることで生存競争の厳しさがわかりづらくなっているかもしれないが、そこで“自分の作品がいかに喜ばれているか”を感じることが重要なのではないかと桜井氏。
 では、どうやったら生き残れるのか? 桜井氏は、“より安い”、つまり同一コストでより多くのことをこなせ、“よりよい”、つまり人に真似できない優れたことをこなしたり、人には浮かばない発想を持つこと、そして“より信頼出来る”、つまり信頼に出来る仕事をし、仲間を裏切らず、また組みたいと思わせることだと語る。そして、どんなに混沌とした時代でも、スゴい人は必ず頭角を現すと続けた。桜井氏は最後に聴講者に向けて、スペシャリストとして「“時代”と“得意”を考えて自らの役割を磨いていくこと」がいつの時代も求められてきたことで、これからもそれが社会を作っていくという点について考えるのが重要だと語り、講演をしめくくった。