●自分の方法論を見つけて、頑固に押し通せ!
2011年9月6日〜8日の3日間、神奈川県のパシフィコ横浜・国際会議センターにて、ゲーム開発者の技術交流などを目的としたCEDEC(コンピュータエンターテインメントデベロッパーズカンファレンス) 2011が開催。最終日にあたる2011年9月8日には、高橋良輔氏による“『時代を超えるキャラクターと世界を創る』 〜ボトムズからのメッセージ〜』が行われた。
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高橋良輔氏と言えば、『装甲騎兵ボトムズ』の監督として、記者のような世代には特別な響きを持つ名前。記者も若き日に『装甲騎兵ボトムズ』に触れ、リアルなロボットアニメの世界観と、主人公キリコ・キュービィーのストイックなキャラクターにいかれてしまった口。いまでも、もっとも大好きなアニメのひとつとして、記者の心の中に燦然と君臨している。そんな高橋氏の講演が聴けるなんて、CEDECの取材に来てよかったな〜と思いつつ、記者は会場に足を運んだ。
で、肝心の高橋氏の講演はというと、講演名から想像されるような『装甲騎兵ボトムズ』の制作秘話を語る……というわけではじつはなくて、高橋氏のアニメ監督としての来歴を縦軸に、監督としての心構えを語るというもの。いちアニメファンとして、それはそれで楽しいセッションとなった。
高橋氏がアニメ監督としてのキャリアをスタートさせたのは、マンガの神様、手塚治虫が設立したアニメスタジオ、虫プロ。昭和39年にサラリーマンから転身して虫プロに入社した高橋氏は、当時とくにアニメが好きというわけでもなかったために、周囲との知識・意欲の差に大ショック。「同じことをしていては追いつけない……」との思いから、当時盛んになり始めたアングラ芝居や実写、CMの世界で腕を磨く日々を送る。その後アニメーションの世界に戻るわけだが、“監督・高橋良輔”としての基礎は、この時代に築かれたもののようだ。
そこで高橋氏は、“アニメ”と“アニメーション”の違いに触れる。日ごろ僕らはあまり自覚せずに“アニメ”もしくは“アニメーション”と呼称しているが、“アニメ”は単純に“アニメーション”を縮めたものではないというのだ。“アニメ”と“アニメーション”を分けるきっかけとなったのが、日本初の連続テレビアニメ『鉄腕アトム』。1963年1月からフジテレビで放送を開始した『鉄腕アトム』だが、当時作品を制作するときに手塚治虫から指示があった。それは作画枚数の削減だ。アニメーションと言えば、当時フルアニメーションが当たり前で、テレビシリーズ(21分〜23分)に換算すると、およそ2万枚が必要。ところが『鉄腕アトム』では10分の1の2000枚で描くことを求められた。理由は言うまでもなく、資金難によりコストを抑えるためだ。当然のように「これでは絵が動かない、アニメーションとは言えない」という反発と戸惑いがあったようだが、それに対して手塚治虫は「これはアニメーションではない、テレビアニメです。メーションをとって意識を変えてください」と、説得したという。2000枚では表現力が薄れる。本来アニメーションは絵が動くのが魅力であるべきなのに、動かない。果たして『鉄腕アトム』を見てもらえるのか、スタッフのあいだには不安が広がったようだが、手塚治虫は言った。「子どもは物語がおもしろければ、必ず見てくれます。絵ではなく、ドラマがおもしろければ見てくれる」と。その後、『鉄腕アトム』は大人気を博し、アニメ産業の礎を築いたのはご存じの通り。
さて、『鉄腕アトム』は5年間続き、約250話が作られた。一方、手塚治虫の原作エピソードは100話分くらい。あとの150話分はどうしたかというと、シナリオライターにストーリーが委ねられた。当時『鉄腕アトム』に参画したシナリオライターの多くは実写の世界から流れてきた人材。中には、後に名を成すSF作家もいた。彼らは、子ども向けとかマンガ的な発想は苦手で、勢い『鉄腕アトム』では、子ども向けマンガにはない、刺激的なテーマの物語が多くなった。従来の少年向けマンガではくくれないような広がりのあるモチーフやテーマが『鉄腕アトム』では扱われているのだ。ディズニーのような子どもを対象とするアニメーションは比較的毒がないのに対し、『鉄腕アトム』では、“毒”のある物語が描かれる。「そのテーマの広がりが、ジャパニメーションの発達に寄与するものがありました。『鉄腕アトム』がテーマとモチーフを開放したんです」(高橋)。『鉄腕アトム』は、「あんなことをテーマにしてもいいのか!?」ということで、作り手たちをも奮い立たせたという。
作画枚数の削減に話を戻そう。2万枚→2000枚にはどうしても欠乏がある。その欠乏を補うのはやはり演出上の工夫。止め絵をどうやって刺激的に見せるか、物語のクライマックスに演出上、どのように寄与させるのか? 当時虫プロでは真剣に議論されていたという。そして、止め絵と言えば、やはり出崎統監督の名を挙げないわけにはいかない。先日惜しまれつつも逝去した出崎統だが、当時虫プロでは高橋氏と同い年。「止め絵の演出では出崎さんが最高峰。彼は止め絵を印象的なシーンで使うだけでなく、早さの違いを取り入れたり、陰影をつけたりと映像にうまく取り入れました」(高橋)とのこと。
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出崎統に限らず、欠乏から来る工夫は日本のアニメクリエイターがこぞって取り組んだ命題。お金がない=枚数がかけられないというのは当時のアニメの宿命だった。一方で、アニメファンは目が肥えはじめており、下手なものは世に出せない。「欠乏が日本のアニメをものすごく進化させた。日本には、制限下でこそすごい才能を発揮するというDNAがあるのではと思えるほどに、貧しいときに名作が生まれた」と高橋氏。その後日本のアニメ業界にはお金が入ってきたが、「それほど枚数をかけなくてもいいのでは? と思える作品がある時期にたくさん出て、それがそんなにおもしろくなかったりした」(高橋)というのは、微妙に皮肉な話だ。
引き続き高橋氏が取り上げたのが、監督としての心得とでも言うべきもの。「毎年自分の作品が出せるのは幸運だと思っている」と語る高橋氏だが、そのために努力していることは、つねに作りたいものを持っていることだという。そして、出会った人誰にでも「こんな企画があるんだ」と言い続けることにしているのだとか。それが唯一の商売のコツで、これにより「高橋がこんなものを作りたがっている」と聞きつけた制作者が声をかけてくる可能性が生じるのだとか。
「自分がモノを作るときは組織(サラリーマン)が味方」と高橋氏は断言する。サラリーマンは自分が直接物語を作るわけではなくて、管理したものが評価される。有能な人ほどコンテンツや人材を探しているというのだ。ただし、「有能なサラリーマンは有能なクリエイターを見つけるので、私のところにはなかなかこない(笑)」と高橋氏。目の付けどころは「人はいいのだが、仕事をしない人」か、「10年泣かず飛ばずの人」。サラリーマンは30年間何もせずに済めばいいが、さすがにそういうわけにもいかず、どこかで仕事をしないといけない。そのとき自分のことを小耳に挟む。高橋氏には過去に何回かはそういう出会いがあったという……というのは、あまりにざっくばらんな処世術にも近い実践方法と言えるが、要は作品を世に出すためには貪欲に取り組むべし……ということなのだろう。
ちなみに、「こんな企画があるんだ」と言い続けることには、ネックがひとつある。それは、アイデアが盗られる可能性があることだ。だが、それはそれでいいと高橋氏は断言する。企画は100本に1本実現すればいいくらいだし、そもそも同じプロット、同じ絵で作品を作っても、100人が100人とも違うものができあがる。「自分が作ればほかの人と違う作品になる」という言葉は、なかなかに興味深い。
さて、『機動戦士ガンダム』の成功により、ロボットアニメを作り始めた高橋氏だが、それまでロボットアニメを作りたいとは思わなかったという。『ガンダム』がロボットアニメにもたらしたものは、リアリティーだ。「『ガンダム』でロボットがなぜ出てくるかの説明がありました。戦争です。人物もアニメの世界で人生を背負っていた。苦さがありました。こういう作品が生まれる土壌があるんだということで、作ってみようかと思いました」と高橋氏。ところが、困ったことがあった。軍隊には陸軍、空軍、海軍とあるが、かっこいいのは空軍と海軍で、泥臭いイメージの陸軍はどこの国でも地味。すでに空軍と海軍は『機動戦士ガンダム』で扱われており、そこを超えるのは難しい……。「ならば、自分は陸軍でやろう!」と決意したというのだ。そこで高橋氏は、陸戦兵器のロボットのデザインをベースに、従来のロボットのディテールを外して、街中にある工事現場の重機や自身が好きな顕微鏡や精密機械、カメラのデザインなどを取り入れたという。そして顔。『ガンダム』ですら顔があったが、高橋氏はこれを変えたいと思ったという。従来は、主人公とロボットの顔をシンクロさせないといけないのだが、違う方法論を取り入れたというのだ。なるほど、『太陽の牙 ダグラム』のコンバットアーマーや『装甲騎兵ボトムズ』のアーマードトルーパーなどを思い浮かべると、納得される方も多いのでは。
「『ガンダム』ほどのヒットではなかったが、いまでも受け入れられているものを残せて幸せ」と高橋氏は率直に語る。2006年には戦場カメラマンを主人公に据えたインターネット配信の意欲作『FLAG』をリリースするなど、創作意欲は衰えを見せない。「あまりヒットとは言えないが、この作品が“つき”を呼んで、『FLAG』のタッチで作品を作ったらということになった。自分の方法論を見つけていって、頑固に押し通していくとチャンスは見つかります」と高橋氏は言う。
中国の古詩に「人生至る処に青山あり」という言葉があるが、高橋氏はこの“青山”を「いろいろなところに希望がある」という意味だと勘違いしていたという。実際のところ“青山”は墓地のことで、「人間ひとりくらいが収まる墓地はどこにでもある。故郷を出ても墓に困ることはないから、どこで死んでも大丈夫」という意味だという。これに対して高橋氏は、最初ずいぶん勘違いしていたと感じたが、けっきょくは同じことかと思い直したのだとか。どこかで挫折して死ぬかもしれないが、どこにもチャンスはある――「仕事が来るうちはアニメを作りたい」という高橋氏の言葉には、“表現者”としての凄みを感じさせた。